教育カウンセラーの独り言

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戦友から受け継いだ軍艦旗 レイテ沖海戦を生き残り

2017年08月15日 20時46分36秒 | ニュース

 08:12

 

 

「利根」の軍艦旗を保管している荒谷磨治さん。「旗は棺おけの中に入れてもらう」と話す=7月、福井県坂井市

(福井新聞)

 1944年10月、日米の軍艦など約200隻が集結した「史上最大の海戦」とされるフィリピンのレイテ沖海戦。重巡洋艦「利根」の砲員として、敵戦闘機の銃弾を受けながらも生き抜いた荒谷磨治(あらたに・まはる)さん(92)=福井県坂井市=の手元には、利根の軍艦旗がある。この世を去った元乗組員たちから受け継いできたものだ。荒谷さんは「軍艦旗には戦没者の魂が入っている。戦友と呼べる人はもうおらず、軍艦旗は自分の棺おけの中に入れてもらうつもり」と話す。

 

 ■全軍突撃命令

 

 41年、15歳で海軍に入隊した。水雷艇「初雁」の乗組員を経て、43年2月に横須賀砲術学校を卒業。その後、高角砲の砲員80人のまとめ役として利根に乗り込んだ。

 

 米軍がレイテ島に上陸した44年10月20日、レイテ沖に向かう「全軍突撃」命令が下った。「口に出せないが、勝ち目はないと思った」と荒谷さん。艦船を守る戦闘機が圧倒的に不足していた。

 

 その日、砲員を集め「今度の出撃では絶対に帰れない。今夜は思う存分(酒を)飲め」と訓示した。赤紙で召集された兵隊たちの多くは顔色をなくし、泣きだし、家族の名前を叫んだ。存分に酒を飲んだ兵隊はいなかった。

 

 19歳で、妻子もいなかった荒谷さんは冷静だったという。「とにかく砲弾が出るよう発火装置をきちんと管理する。それしか考えていなかった」。死の恐怖、生への執着はみじんもなかった。

 

 ■若狭の看護師

同月23日からのレイテ沖海戦では、敵戦闘機が60度の急降下で攻撃を仕掛けてきた。水面ぎりぎりを飛ぶ7機編成の戦闘機は魚雷を放ってきた。「高角砲を使えるのは50度まで。手も足も出なかった」。世界最大級の戦艦武蔵は、なすすべなく沈没した。

  利根も6発の爆弾を受けたという。ドラム缶二つ分ほどの大きな爆弾が、荒谷さんの約5メートル後ろに落ちた。衝撃で4人が海に吹き飛ばされた。しかし爆弾は不発。「爆発していたら、利根は真っ二つに折れ沈没していた」

 荒谷さんは機銃弾を右太ももに受け、シンガポールの野戦病院に運ばれた。空襲のときは「若狭出身」という京都なまりの看護師が、おぶって逃げてくれた。寄港した商船で帰国しようとすると、「絶対ダメ」と言って引き留められた。多くの商船は、日本に着くまでに攻撃を受け、沈没していた。

  「もし今、あの看護師に再会しても、言葉は出てこない。頭を下げることしかできない」と涙ぐんだ。

 

 若狭の看護師、その当時は看護婦さん、本当にしっかりされた方でしたね。、

戦地は、優秀な日本赤十字の看護婦さんが多かったそうです。

亡き父弟も昭和20年7月25日にフィリピンレイテ島で戦死しました。遺骨はなしです。

旧大日本帝国陸軍砲兵隊の野戦重砲の砲手でした。二度目の召集の時、死ぬのが分っていたのか行きたくないと最期に言ったそうです。白木の箱に、ハクセンコウ一つで、遺骨無しです。50回忌まで回向させて貰いました。

戦死された英霊に捧げ右で、最敬礼です。に日本政府も野党もに日本の国の為に戦死した230ま万人の兵隊を戦後も大切にしていません。海外の戦地で、野ざらしになっている遺骨も放置されたままです。

 

 

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