教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

小5男児、踏切ではねられ死亡…自転車で通過中

2010年08月19日 17時39分05秒 | 受験・学校

「 19日午前7時頃、新潟県柏崎市橋場町のJR越後線の踏切を自転車で渡っていた同市原町、同市立槙原小5年川崎智博君(10)が、吉田発柏崎行きの普通列車(2両編成)にはねられ、全身を強く打ち、間もなく死亡した。 柏崎署やJR東日本新潟支社の発表によると、現場の踏切は幅1・3メートルで、警報機や遮断機はない。川崎君は夏休み中で、運動のため、自転車で近所を回っていたという。この事故で上下3本が最大71分遅れ、250人に影響した。読売新聞 08月19日10時42分

現場の踏切は幅1・3メートルで、警報機や遮断機もないのは、JR東日本JR東日本の安全管理責任が有るのでは有りませんか。JR越後線の安全な運行や鉄道会社としての地元住民の踏み切り事故を防ぐ責務貸せ有ると思います。今時警報機や遮断機も無い踏み切りがあると言うこと自体おかしいのでは有りませんか。、JR東日本新潟支社の踏切の安全対策と安全設備の充実を怠っているとしか言えません。常日頃から鉄道会社として鉄道事故を予見し、鉄道事故が起こらないように安全対策を立てて置くのが仕事では有りませんか。夏休み中の悲しい事故です。川崎智博君の御冥福を心からお祈り申し上げます。

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「ちんどんガールズ」街へ 群馬県立館林商工高6人デビュー  群馬

2010年08月19日 10時24分40秒 | 受験・学校

2010年8月16日

写真晴れ舞台を前に練習に励む群馬県立館林商工高校の「ちんどんガールズ」=前橋市本町2丁目

「 館林商工高校〒370-0701. 群馬県邑楽郡明和町南大島660番地. TEL0276-84-4731 FAX0276-84-5258 館林商工高校は県内唯一の「商業」と「工業」が一緒になった学校です。www.kansyoko-hs.gsn.ed.jp/next.htm )の女子生徒6人でつくる県内初の女子高生チンドン楽団「ちんどんガールズ」が誕生した。15日、前橋市中央児童遊園「るなぱあく」(同市大手町3丁目)でデビューする。月末には東京・銀座で、同高のオリジナル商品をPRする予定だ。 同高では起業学習の一環として、模擬会社「SHOKO G・F」を設け、オリジナル商品を開発している。24日から、東京・銀座にある県のアンテナショップ「ぐんまちゃん家(ち)」で、商品開発フェアを開く。  ガールズは同フェアを銀座の街頭でPRしようと、商業科の山口裕行教諭(59)が発案し、同科の3年高坂萌恵(もえ)さん(17)らクラスメート6人が応じた。生徒たちは、前橋市のアマチュア楽団「厩橋(うまやばし)CHINDON倶楽部(くらぶ)」(北原雄一郎理事長)から太鼓や鉦(かね)のリズムなどの指導を受けてきた。  楽器の購入は同窓会が補助、ちんどん太鼓の木枠や看板は卒業生や教諭らが手作りした。高坂さんは「私たちがガールズを盛り上げ、後輩につなげていきたい」と張り切っている。  15日の公演は午前11時と午後1時の2回(雨天の場合は閉園となるため中止)。 』アサヒコム

子供の頃市場の安売りや商店街の大売出し、催しもの宣伝為にちんどん屋さんが 、町内を練り歩いていた姿を懐かしく思います。庶民の生活と密接に関係していた広告手段でした。昔今のようにスーパーマーケットもコンビニも無く、今のような綺麗なカラーの多色刷りの広告チラシも新聞と一緒に沢山入っていなかったと思います。 各町に有った市場も無くなり、商店街もシャツター街化している今日、ちんどん屋さんが、宣伝に歩きチラシを配る光景も見かけなくなりました。庶民文化一端、宣伝請負業と言う表現より、昔は宣伝方法にも人間的な親しみや触れ合いや良い意味での面白さも合ったように思います。ちんどん屋さんは、戦後の今日のように各家庭にテレビも普及していなかった時代の広告宣伝活動の一翼を担っていたと思います。商いは、売り手と買い手、人と人の触れ合いと交流や信用が忘れられている今日の商いです。商いは、飽きないでは有りません。買い手が買うものを選ぶだけで、会話も話し合いも無い、今の商い、スーパーマケット方式に市場や商店街で買い物をした人達は、日常生活の中での人間疎外を感じると思います。商いも宣伝方法も人と人との話し合いや対話、コミュニケーションが無くなったように思います。県立館林商工高校の女子生徒6人でつくる初の女子高生チンドン楽団「ちんどんガールズ」の皆さん、商いの広告方法や宣伝 効果について実際に経験し学んで下さい。

チンドン屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チンドン屋

チンドン屋(ちんどんや)は、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らすなどして人目を集め、商品や店舗などの宣伝を行う日本の請負広告業である。

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概要

お祭り会場のちんどん屋(チンドン太鼓)

締太鼓鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓などの演奏、および諸芸や奇抜な衣装仮装によってを廻りながら、依頼者の指定した地域・店舗へ人を呼び込み、また集客した上で宣伝口上ビラ撒きなどで商品の購入を促す。関東では「ひろめや(披露目屋・広目屋)」、関西では「東西屋」という呼称も用いられる。最近では、存在そのものが珍しくなったため、自治体主催の祭り会場に呼び出されることも多い。

3人から5人ほどの編成が一般的で、チンドン太鼓、楽士、ゴロス(大太鼓)を中心に、旗持、ビラまきらが加わる。チンドン太鼓は、事業主である親方が担当することが多く、口上も兼任する。楽士は、クラリネットサックスなどの管楽器で旋律を演奏する。特定の親方と雇用関係を結ばず、フリーで活動する楽士も多い。旗持は、幟を持ち、先頭を歩く役割で、関西では幟ではなくプラカードを持つことが多い。「ビラまき」は、チラシティッシュなどを配布し、関西では「チラシ配り」と呼ばれる。各人が店名やサービス内容を書いた看板を背中に背負うことがあり、これを「背負いビラ」と呼ぶ。

店舗の近隣を巡る「街廻り」の仕事を基本とするが、大規模店舗や催し物の会場内を廻ることや、店の前やステージなどでの演奏を依頼されることもある。仕事の始めと終わりや、雨天時などに、留まって演奏することを「居付き」と言う。

積極的に宣伝行為をすること、派手な衣装で人目を引く行為・人物への比喩として「チンドン屋」が用いられることも多い。

語義・語源

当たり鉦と太鼓を組み合わせて一人で歩きながら演奏出来るようにした一種のドラムセットをチンドンまたはチンドン太鼓と呼び、チンドン太鼓を用いて路上で宣伝する職業を「チンドン屋」または単に「チンドン」と称する。

「チンドン」は、鉦の「チン」という音と胴太鼓の「ドン」という音を組み合わせた擬音から成立したと考えられるが、十分な用例が確認されておらず、語の成立過程は明らかではない。

「チンドン屋」という言葉は、1878年12月11日の「郵便報知新聞」見出し「チンドン屋よろしく大道飴売」や、1889年10月6日の『東京日日新聞』見出し「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」などに見られるように、明治初期から存在した。用例が少なく、その語が意味する対象は明らかではないが、賑やかな状況や弁が立つ者を指すと思われる。

現在のチンドン屋に繋がるものとして「チンドン屋」の呼称が普及しはじめたのは、大正末から昭和初期と考えられ、確認できる用例は、1930年頃からある。当初は、単独で華美な衣装を身につけ、口上を行うことに対して「チンドン屋」の呼称が用いられており、必ずしも三味線管楽器の演奏を伴わない形態であったと推察される。

チンドン屋を指して、関西では東西屋、関東では披露目屋・広目屋という表現が用いられることがある。東西屋は、大阪の勇亀(いさみかめ)が芝居の口上である「東西、東西(トザイ、トーザイ)」を流用して寄席の宣伝請負を行ったことから広まった。披露目屋は、やはり芝居の口上に由来するという説がある。広目屋は、広告宣伝、装飾、興行などを手掛けた秋田柳吉が起こした会社の名で、依頼に応じて楽隊を派遣したことで楽隊広告の代名詞として用いられるようになった。これらの呼称は明治期から用いられ、昭和初期にチンドン屋へと変化したと思われる。現在、これらの語を使い分ける場合は、東西屋は口上を主体とし、広目屋は楽隊の存在を重視する意味合いを含む。これらの歴史的経緯については、次節を参照のこと。

歴史

チンドン屋の起源については、諸説あるが、本稿では、街頭宣伝業である東西屋・広目屋の始まりから書き起こすこととする。

チンドン屋前史

江戸末期から明治初期:ルーツとしての飴売と大道芸

口上を述べたり楽器を用いたりして物を売り歩く職業としては、江戸中期より「飴売」という存在があり、文久年間には日本橋の薬店が緋ビロードの巾着を下げ、赤い頭巾をかぶって市中を歩き広告をしたという記録があるが、これは自身の売り物を宣伝するためであり、チンドン屋とは異なる。また、芝居小屋では鳴物囃子が客寄せのために使われていた。本稿では、東西屋の祖として「飴勝」という飴売と、大道芸の「紅かん」という江戸期の人物から始める。

飴勝は、大坂・千日前の法善寺を拠点として、弘化期に活動していた飴売で、その口上の見事さから寄席の宣伝を請け負うようになった。短い法被に大きな笠脚袢にわらじという出立で、竹製の鳴物、拍子木を用い、「今日は松屋町の何々亭…」と呼び込みを行ったとされる。飴勝の仕事を引き継いだ勇亀(いさみかめ)が、明治10年代に芝居の口上である「東西、東西(トザイ、トーザイ)」を用いて寄席の宣伝を行っていたことから、1880 - 81年頃に東西屋と呼ばれるようになった。やがて、東西屋は街頭宣伝業の一般名詞へと転じた。勇亀のほかには、豆友という東西屋が知られていた。豆友は1891年に他界、弟が跡を継いで二代目を名乗り、初代の長男と次女を伴って活動を始めるが、1893年に感電死した。

紅かんは、安政期から明治初期にかけて活動していた大道芸人で、仁輪加百眼を付け、大黒傘を背負い、「七輪の金網を打鉦に小太鼓を腰に柳のどう(胴)に竹の棹に天神はお玉という三味線」で演奏し、下町で人気を得ていたとされる。大正期にも通称、紅屋の勘ちゃんという男がいて、両手に三味線、腰に小さな太鼓をくくりつけて、撥で三味線と太鼓を一緒に鳴らして街を歩いたことがヒントとなってチンドンが作られたという。「紅かん」と「紅勘」の繋がりは明らかではないが、演奏芸の様態としては、チンドンの原型と言えるだろう]

東西屋と広目屋 明治20年代になると、大阪では、丹波屋九里丸(息子が漫談家で売った花月亭九里丸)、さつまやいも助が中心的な存在となり[8]、東京では秋田柳吉の広目屋が楽隊広告を始める。

丹波屋九里丸は、1887年頃から豆や栗を売りはじめ、売り声が評判となり、東西屋に転じた。九里丸は東西屋開業前から囃子方を加え、開業後は自身が拍子木、相棒に太鼓を叩かせて街を歩いた。柏屋開店の仕事の際に、松に羽衣をあしらった長襦袢を纏い、忠臣蔵になぞらえた音曲入りの口上が評判となり、人気を博したとされる。

他方、広目屋は、大阪出身の秋田柳吉が起こした会社の名前で、仮名垣魯文の命名による。広目屋は広告代理店、装飾宣伝業の先駆けとなるほか、新聞を発行したり、活動写真や川上音二郎の芝居など興行全般に手を広げたりした。その一環として、宣伝のための楽隊を組織し、楽隊を用いた路上広告を一般に広目屋と呼ぶようになった。

広目家の広告 鈴木春風(1851~1913)の写本『世渡風俗図会』から。大伏肇『資料が語る近代日本広告史』東京堂出版、1990からスキャン

西洋楽器による街頭演奏は、軍楽隊による行事・式典での演奏の他、1887年前後から民間にも興り、明治20年に結成された東京市中音楽隊が最初の民間吹奏楽団とされるが、1885年のチェリネ曲馬団の来日など外国の楽隊の宣伝演奏、1886年に喇叭を用いた用品店の広告などの例がある。楽隊は軍歌の流行や出征軍人を送る機会の増大のため日清戦争を境に流行し、以後、活動写真サーカスの巡業、煙草や歯磨きなどの大規模な楽隊広告が行われ、地方にも楽隊広告は広まっていった。

楽隊広告は、1889年、広目屋が大阪・中之島のホテル自由亭の宣伝を請け負い、音楽隊を派遣したのをきっかけに大阪でも取り入れられるようになる。明治23年には九里丸も「滑稽鳴り物入り路傍広告業」と称して古い着物を軍服風に仕立て直し、喇叭、太鼓、鉦などを用いて宣伝を行うようになった。九里丸は、日清戦争では「大日本大勝栗」と幟を立てて栗型のカンパンを売り、売上の一部を軍資金として寄付、1899年には半井桃水の新聞小説『根上がり松』を片岡我当が芝居化する際に、無償で宣伝するかわりに譲り受けた羽織を纏って10人の囃子を引き連れて仁輪加を演じるなどして評判を呼んだ。広目屋の秋田の誘いに応じて上京し、広告行列の中で忠臣蔵を披露したこともある。

広目屋の楽隊広告が大阪で鉦や太鼓の囃子を交えた編成となり東西屋に持ち込まれた。両者の交流が、現在のチンドン屋の楽器構成を生み出したと言えるだろう。九里丸が鳴物・楽隊の導入を進める一方で、先達となる勇亀は太鼓や楽隊には否定的であり、また九里丸と並び評されたさつま屋いも助も、三味線、太鼓を鳴らすにとどまり、口上を重んじる東西屋の流れも存在した。

チンドン屋成立以後

大正期の低迷と戦前・昭和期の繁栄

株の暴落、広告取締法の施行などで、大規模な広告楽隊・広告行列は明治40年代に入って衰退し、新聞・雑誌などの広告に取って代わられた。明治末から大正期にかけてを「暗黒期」とする意見もある。代表的な娯楽となった活動写真では、映画館が楽士を抱えてオーケストラや和洋合奏団を結成し、呼び込みのための楽隊を雇った。活動写真や芝居、サーカスの巡業では、楽隊が先頭を切って登場し、また宣伝のために街を廻った。

大正初め頃に囃子隊を結成して、寄席などで演奏しつつ、宣伝業を手掛ける者が現れ 、1917年には「一人で太鼓と鐘を叩いて背に広告の旗を立てて囃し立てて居る広告や」があったという記録がある。ひとりで複数の打楽器を演奏するためにチンドン太鼓が考案されたのは大正中期だとされる[12]。遅くとも1925年には鉦・太鼓・銅鑼を組み合わせ、花柄の衣装を纏った「東西屋」が存在したことが写真によって明らかとなっている。チンドン太鼓は、1937年頃に大阪にも登場した。

大正期のチンドン屋は口上を主体とし、寄席の芸人からの流入、また、その周辺に位置した三味線弾きによって形成され、震災後には物売業からの流入があったと推察される。この時期には、旗持が独特の踊りをしながら歩くこともあった。やや遅れて、衰退に向かったジンタの管楽器奏者を加えた形態が大正末頃から増え始め、トーキーの登場を機に失職した映画館楽士が流入し、管楽器入り編成が定着する。この他、紙芝居や村芝居などからの流入があり、前者はゴロス、後者は鬘などの導入に繋がったと思われる。

戦前の全盛期は1933年から38年頃とされ、当時の東京市内のチンドン屋人口は3000人、1936年2月26日には市会議員に立候補しようとしたテキ屋の親分の肝煎で帝都音楽囃子広告業組合という業界団体が発足したという[15]

1941年になると、チンドン屋および各種大道芸は禁止された。

戦後復興期の流行と高度経済成長期の衰退

戦後の復興の中で、チンドン屋は勢いを取り戻した。大規模な広告展開が困難な状況であった中で、少人数・小規模で小回りが利くチンドン屋の営業形態が時代に合っていたこと、陽気な音楽や派手な衣装が求められたことなどが理由として挙げられる。特に関東ではパチンコ店からの仕事が多かった。1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだとされる[16]。昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や、映画におされて芝居小屋が縮小したために俳優もチンドン屋業界に流入した。

チンドンのコンクールも開催されるようになった。東京の新橋で1950年に行われたのが最初で、昭和30年代には、東京都内、前橋、沼津、姫路、伊勢、函館、彦根など、全国各地でチンドンコンクールが開催された。多くのコンクールは継続しなかったが、1955年に始まった富山での「全国チンドンコンクール(1965年全日本チンドンコンクールに改称)」は、現在(2009年)まで継続して開催されている。前年に富山産業大博覧会を終え、一時的に消費が冷え込んだ地元商店街の活性化と、観光客を招くための富山の宣伝を企図して、富山市と富山商工会議所が主催の「桜まつり」の催しとして始まり、42のチンドン屋が参加、平日昼間に行われたパレードには8万人が集まった。

「全日本チンドンコンクール」の記録では、1955年の第1回に42団体が参加、以後団体数は50前後を推移するが1972年から下降を始め、1981年には18団体まで減少する。

1960年頃からは、テレビの普及などもあり、チンドン屋は「古くさい」ものとなってしまう。昭和40年頃から衰退を見せはじめ、1971年の石油ショック以後急激に数を減らし、数百人程度にまで落ち込んだが、仕事自体は減っていなかったという証言も多い。

大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』

1989年の昭和天皇崩御は、ほぼ1年間チンドン屋の営業を不可能にさせたという。しかし、1980年代後半から、「古くさいもの」「懐かしいもの」ではないチンドン屋へのアプローチがはじまった。

ちんどん通信社は、ニューオリンズジャズ経験者である林幸治郎が青空宣伝社で3年の修行の後、1984年に赤江真理子と開業したチンドン屋で、1995年には法人化して有限会社東西屋となったが、商号(?)としての「ちんどん通信社」はそのまま残っている。林はチンドン屋としての営業のみならず、チンドン史研究やチンドン稼業をしたためた著書を出版するな

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