写真は、娘が昔勤めていた銀行の皆さんの活き活きした踊り。
72年前の8月15日以前には、このような平和な姿は考えられなかった。
70回目の終戦の日のブログには、苦労した私の母のことをUPした。
今日は、私のことを回顧したい。
当時、旧制中学3年生で、市内の海岸通りにある鉄工所へ学徒動員で勤めていた。
当日も、山奥から木炭バスで市内の終点(栗林公園駅)まで行き、そこから、市役所と2.3のビルだけが焼け残っている焼け野原の中を3㌔ほど歩いて勤務地へ到着した。
途中、友達から、今日正午にラジオで大変なことが放送されるそうだと言われ、何だろう思っていて、昼、バラックの食堂前に集まった。
天皇の玉音放送の中味は聞き取れず、終わった後に前のほうの人から戦争に負けて降伏したのだと知らされた。
私は、まさかと思った。
小さい時から神風が吹くと教えられ、悪者で鬼畜だと知らされていた米国との戦争に勝つことだけを叩きこまれ、自分の考えを持つことは許されなかった。
そんな純粋ないや単純な私には、負けることなんか全く頭になく、どうしてと呆然とし、何も考えることができない状態だった。
周りの人の中には感情をあらわに出して、怒りまくって石を投げる人や号泣している人もいた。
先生から、学校に戻ることになるだろうが、連絡があるまで家で待機していろと伝えられ、午後からは普通の生徒に戻った。
数か月後、郊外の小学校の講堂を間借りし、新聞紙を折りたたんだ教科書を使っての授業が始まった。
しかし、授業には、熱心に取り組めなかった。それまで長期間働いていただけの生徒だったので、勉強についていけなかった。
勉強しなくてよいことが嬉しく、働くことが常態になっていたのだから当然だろう。
その後、同時期に父の戦死を告げられた私たち家族は、数年の間、どん底の生活を続けることになった。
" 戦争は、少年の成長をとどめ、家族を崩壊する "