「本作抜粋による粗筋」
第三話「姉妹」家出した姉とよく食べる妹の話 ―2/?ー
[妹・平井久美の死。過去に戻ることを決意する姉]
カランコロン
「こんにちは」
入って来たのは高竹である。
流が、「高竹さん」と言って、あわてて、「房木さんの奥様っ!」と言い直した。
そんなやり取りを微笑ましく見ていた数が、「休憩してくる」と言って、奥の部屋に姿を消した。流の代わりに、高竹が、「行っていらっしゃい」と言いながら手を振った。
コーヒーを持ってきた流に、高竹が、「……そう言えば」と言って、
「昨日と今日、平井さん……お店閉めっぱなしだよね? なにか聞いている?」と訊ねた。
平井は、この喫茶店から10mも離れていない場所でスナックを経営していた。
流は神妙な面持ちになって、ボソボソと口を開いた。
「妹さんが……交通事故で……それで、ご実家に……」
高竹も平井の妹・平井久美の事は知っていた。家出をした平井の元を訪れ、月に一度は必ず平井に会うために上京していたと聞いている。
三日前も、久美は、この喫茶店に来たばかりだった。事故にあったのは、その帰りである。(第二話の冒頭参照)
カランコロン
「いらっしゃいませ」
奥の部屋から、計がエプロン姿で現れた。
「マスター! 計ちゃん! 誰か! 塩持ってきて! 」
「平井さん?」
通夜、葬儀を終えたとしても、こんなに早く戻ってくるとは思わなかったのだろう、計は、大きな目をパチクリさせて流の顔を見た。
流も流で、高竹と平井の話題でしんみりしていたのに、平井のいつもと変わらぬ高いテンションに戸惑って、しばらく呆然としていた。
「あー疲れたー」と言って、入ってきて、喪服姿の平井は、「お水、一杯貰えるかしら?」と、計に声をかけた。
「このたびはご愁傷さまでした……」
平井があまりにあっけらんとしているので、流のお悔やみの挨拶は探り探りの言葉となった。
高竹も迷いながら頭だけは下げている。
(中略)
平井は、3人の顔を見渡すと、
「私さ、辛気臭いことって苦手なのよ」と、うんざりしたように吐き捨てた。
計は、それでも、まだ何か言いたそうな顔をしていたので、平井は、
「私、これでもちゃんと悲しんでるの……私には私の悲しみ方があるから……」
と言うと、すくっと立ち上がり、入り口に向かって歩き出した。
流は、平井に背を向けたまま、
「まっすぐ家に帰らず、なぜ、ここに?」と、問い詰めた。
「お見通しか……」と、平井は、さっきまで座っていた席に戻った。
計は、三日前、久美が置いていった手紙を平井に差し出した。
「ありがと……」と言って、平井は封筒から便箋を取り出した。
「あの子の顔も見ないで、こんなことになっちゃて……」
平井は、涕をすすりながら、
「あの子だけだった……私の事、何度も何度もあきらめずに迎えに来てくれたの……」
平井の目からは、一筋の涙がこぼれていた。
久美が初めて東京にいる平井を訪ねてきたのは、平井が24歳、久美が18歳のときだった。
まだその頃は、平井にとって久美は可愛い妹だったので、時々、両親に内緒で、連絡だけは取っていた。
久美は真面目で素直な妹だった。平井がいなくなった分、両親の期待を一身に受けて、20歳になる前には、老舗旅館の若女将としての顔になっていた。
久美が平井に、実家に戻るよう説得を始めたのはその頃である。
若女将としての久美は、多忙の中、二か月に一度、必ず平井に会うために上京してきた。当初は平井も、ちゃんと会って家業の話を聞いていたが、いつの頃からか面倒で、うっとうしく感じるようになった。ここ1,2年は、まともに会ったことはない。平井は久美から逃げるようになった。
最後は、この喫茶店で隠れて顔も見せず、手紙さえ読まずに捨ててしまおうとする有様だった。
平井は、久美からの手紙を封筒に収めると、
「わかっている。何やったって現実は変わらないって事は……よくわかっているからさ」
「……」
「あの日に戻らせて……お願い!」
平井は、真剣な表情で深く頭を下げた。
平井の言う「あの日」とは、久美がこの喫茶店を訪れた三日前、事故に会う直前の「あの日」の事である。
平井は、死んだ妹に会いに行かせてくれと言っているのだ。
計も、高竹も、息をするのも忘れて、流の答を待った。ワンピースの女だけだけが、何食わぬ顔で小説を読んでいた。
流が奥の部屋に向かって歩き出し、姿を消した。
奥の部屋で、数を呼ぶ流の声が、かすかに聞こえてきた。
平井が、ワンピースの女の前に歩み寄った。
「あの、そこに座らせてくれる? ねぇ、ひのとおり!」
手を合わせ、神仏でも拝むように頼む込んだ。
だが、ワンピースの女はピクリとも動かない。
奥の部屋から出てきた数は、店内の様子を理解したのだろう、すぐに、
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」と、ワンピースの女に声をかけた。
「お願いします」と女は答えた。
その後、8回、数は、同様に、
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」と、繰り返し、ワンピースの女もその都度、
「お願いします」と答えて、休み休み飲みほした。
数が、9杯目のお代わりを勧めたとき、ワンピースの女は、突然立ち上がって、
「トイレ」と、数の顔を見てつぶやいた。
「ありがと」と、平井は言って、ワンピースの女が座っていた席の前に行った。そして、ゆっくりと座って目を閉じた。
次の節に続く