ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

必ず室内にある

2016-09-29 21:05:58 | 日常
昨夜は職場から呼び戻されなかった。
午前0時のおむつ交換時にバイタル再検を指示してあったのを
こちらから電話で確認し、問題なかったので朝まで爆睡した。
途中着信は無かった。

6:00に覚醒し前日の行動記録を入力しようとしたらカロリズムが無い。
部屋中探し回って小1時間。

6:30に一度捜索を中断して職場に電話した。
早番勤務者に午前0時に介護職員から受けた報告を申し送った。

さて捜索再開。
紛失した物品そのものよりも、
自分一人しかいない室内で物を紛失した事自体が釈然としない。
24時間身に着けているものを就寝前に見て数値を確認したのが
何故朝になったら無くなっているのか。
就寝前に見た事は間違いないのだから必ず室内にある筈。

とりあえず予備のカロリズムを装着した。
最悪昨日のデータを落としてしまったとしても仕方がない。

こんな場合に備えて前のカロリズムを捨てずに保管しておいてよかった。
予備のカロリズムに新品のボタン電池を入れて初期設定し装着した瞬間、
背中から何かがコロリと音を発てて床に落ちた。


ぅがあカロリズム!

何ちゅう奴だ。
睡眠中ずっと私の背中に貼り付いていたらしい。
どおりで幾ら探しても見つからない筈だ。
朝っぱらから何度も逆様になってベッドの下を覗き、寝室、居間、トイレ、台所、玄関、浴室と
昨夜帰宅してからの自分の行動を遡って探し回ったのに出て来なかったのは当然だった。
出て来ない筈だよだって探す者の背中に貼り付いてんだもの。(笑
それにしてもよくトイレに落ちなかったものだ。
買うとなるとやはりそれなりに痛い。
昨日のデータを眠くてまだ記録していなかったし。

さて気を取り直して休日。
なめこを大量に買ってある。
めんつゆ、昆布醤油、味醂、酒で煮詰めて瓶詰にした。

大根おろしを添えてなめこおろし蕎麦にしたり
そのままご飯にかけて食べてもウマい。
煮焦がさないように気を付けるだけで簡単。
ぐつぐつ煮立っているのを熱いうちに瓶に詰めて密封すると冷蔵でも割と長持ちする。
先日母からホヤの酢ものやキュウリ揉みを貰ったのでこれを瓶に詰めてお返しする。

休日で雨こそ降らないが、
窓の外を見る気にもならないほどどんより暗い、湿った天候。

室内が寒いので珈琲を淹れた。
これまた久しぶりのモカ・シダモ。
夏の間ずっと珈琲を飲まなかったのと飲んでもブルンジ・ブルンディばかりだったためか、
全然違う風味を新鮮に感じる。
軽やかで爽快。

ケニー・ドーハムとユッタ・ヒップを交互に聴いている。
ジャズのCDはあまり持っていない。

・・・・・

天気が重苦しいので外出せず終日引き籠って断捨離に休日を費やす。
古雑誌が溜まっている。
これらを処分したら別のものがもっと余裕持って収納出来る。
元々雑誌は読み終えたらその場で廃棄するが、保管してあるからには
何かそれなりの理由があるのかも知れないと他人事のように考えて開いてみた。

『NHKきょうの料理』2003年年10月号「特集・新米でいろいろ秋ご飯」というのが出て来た。
2003年当時はまだ父の介護度が軽く、そんなに頻繁に様子を見に行かずともよかった頃で
父はまだエレベーターのない古マンションで独居しており私は救急病院の術場で働いていた。
多分職場の売店で見かけた雑誌をたまたま買ったのだったと思う。
見もしないテレビ番組の料理本を買いに書店までわざわざ出向くなどあり得ない。
料理番組も含めテレビなんか見る生活をしていないのは2003年当時も今現在も同じ。
しかし何でこの雑誌を捨てずにおいたのだろう。
元々米飯をあまり好きでないが、こんな雑誌を買ったのは
多分仕事休みの日に父か母に季節感ある炊き込み飯でも差し入れるつもりだったかも知れない。

記事を見ると多種多彩な炊き込み飯やおこわが写真入りで載っている。
食欲はあまりそそられないが彩り豊かである。
醤油味の大根飯の薄茶色、雑穀飯の赤紫色、豚肉と糸昆布の炊き込み飯、
茸飯、小豆の赤飯、赤飯の豆を白花豆に代えた紅白の赤飯、栗の入った五目おこわ、
蟹とグリーンアスパラガスのおこわ、炒飯各種、雑炊、混ぜご飯、寿司。
和食は味が不味くても見た目重視だから視覚的には彩り豊かで華やかだ。

断捨離を中断し古雑誌をぱらぱら捲っていると「お作法の恐怖」という記事が出て来た。
筆者は酒井順子さんという文筆家だった。
作家かなと思って検索してみたら
ひと昔前に流行した単語「負け犬」の出元となった『負け犬の遠吠え』の作者だった。
その本では年齢30歳以上、未婚、子供のいない女性を「負け犬」と呼んだ。
そういうものの考え方をするものなのか、それはさぞ生き難かろうと思っただけで
その著作自体は読んでいない。
ていうか私は殆ど今現在流通している本を買わないし読まない。
そんな時間的余裕のある生活を以前も今もしていない。

この古雑誌『NHKきょうの料理』2003年年10月号に掲載されている
「お作法の恐怖」という随筆は興味深い。
筆者はある時京都で友人に招かれて旧家の邸宅を訪ねる。
そこで友人から「母親がお茶をどうぞと言っている」と招かれ、通された部屋は茶室だった。
茶道の嗜みなど知らない人なら誰でも困惑するだろう。
自分は外国人の如く茶道の事を何も知らないと告白するが、
気軽に飲んで下さいと勧められ、筆者は緊張しながら友人の母親の点てた抹茶を頂いた。
抹茶も和菓子も美味だった。
茶を点てた母親が「もう一杯如何ですか?」という意味の事を言った。
そこで辞退しては失礼だろうと気遣って「頂きます」と返事すると隣に座っていた友人から
「そこは一応遠慮するのが決まりなの」と“申し訳なさそうに”指導された。
また、後に自分の母親からも調度品を何も褒めなかった事の失態を知らされる。
筆者は羞恥を味わいながら茶室に座っていた、という記事だった。

これを読んで思うに、実に酷い話ではないか。
人を招いておきながら客に飲み食いの仕方で独自の流儀や作法を守る事を要求し、
作法の出来不出来を指摘して恥をかかせ肩身の狭い思いを味わわせる。
それも湿った木造家屋の微生物の湧くような植物を編んだものの上で
来客に足の痺れる座り方をさせて流儀や作法を要求し、
抹茶はともかく暴力的に甘ったるい和菓子を差し出した上に調度品を褒める事までも期待する。
茶を点てる人は何の目的で客を招いたのだろう?
これが日本の伝統文化だと言われればそれまでだが、
気位だけは高く、品性卑しく心貧しいとしか言いようが無い。
しかしこれが茶の湯の流儀とされてているらしい。
客人の立場になってみれば、
足を痺れさせ舌に刺さり歯にしみるような甘い菓子を提供された上に
珍奇な作法を知らないというだけで屈辱を味わわされる、
二重三重の暴力を受けるも同然ではないか。
これが日本の伝統的な“おもてなし”か。

当時はまだ雑誌の連載記事だったが、
検索ではこの記事は『箸の上げ下ろし』という一冊の著作の中に収録されているらしい。
機会があったらいつか読んでみよう。

私自身は大叔母がまだ存命だった時、
事ある毎に茶の湯を習いに来いと勧められるのをとうとう大叔母が死ぬまで断り通した。
大叔母は茶道と華道と書道の師範であり短歌を書いて本を出していた。
私に茶道を勧める時に大叔母が必ず口にした言葉が
「恥をかかないように、今のうちに習得しておきなさい」
だった。
“恥をかかないために”という理由で何かを習得した事は未だかつて一度も無い。
おそらく今後も“恥をかかないために”という理由で何かを習得する事は無い。
習得する理由が“恥をかかないために”というのは、
何かを学び習得する動機としてこれ以上に卑しい動機は無いと思う。
抹茶の味自体は不味くないのに残念な事だ。

この古雑誌の記事を読んで筆者を自分に置き換えるなら、私はもっと不調法な客になる筈だ。
茶室で肩身狭い思いを味わいながら筆者は気を使ってお代わりを辞退するかどうか迷うが
私であればまず畳敷きの木造家屋という時点で足が痺れると言って辞退する。
抹茶は嫌いではないが2杯も飲んだら足が痺れて立てなくなるし、
そもそも茶の湯の作法など知らない、和菓子も甘過ぎる餡ものは苦手だと、
辞退の理由をはっきり口に出すであろう。
日本の伝統的礼儀作法を知らない不調法どころか原始人も同然。(笑

で、「恥」とは一体何だ?

・・・・・

知らない間に雨が降っていたらしい。
終日引き籠って熱量を消費しなかったので今夜も適当にゲル飲料飲んで寝る。
明日は多忙の予定。

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