ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

死者の月が来る

2016-10-29 19:22:18 | 日常
朝だ。
しかし寒くて寝起き悪い。
辛うじて弁当は詰めた。
茸飯おにぎりと白菜煮込みとプチトマト。
出勤途中母宅に寄って温めた白菜煮込みを差し入れた。
今日はヘルパーが来る日だと思う。

急ぎ出勤。
土曜日なので特別な事が無ければ決まった週間業務のみ。

・・・・・

昼休み。
白菜煮込みウマかった。
一味たくさんかけて、温まった。

食後外に出た。
一歩出ると顔を切られるような横殴りの風。


間もなく11月。
死者の月が来る。

昨日途中まで読んだ本の中の、押田成人師の語った事を反芻している。
奥底まで浸透する言葉は備忘録に書き留める必要が無い。
意図せずして焼き印のようにくっきりとそのまま残って目を逸らす事が出来ない。

昨日届いた本『思想としての死の準備 ―いのち・ホスピス・ことば―』(三輪書店1993年刊)は
山折哲雄が聞き手となって3人から話を聞いた対談録であり、
吉本隆明からは死の概念、河合隼雄からは死を間近にした人間の魂のケア(今で言う終末期ケア)、
そして押田成人からはヨーロッパ人の死生観と日本人の死生観との違いと
現代文明の中の生と死について聞き取りしている。
この本が発行された1993年より2年前に某大学病院で「安楽死」事件が起こった。
担当医に厳しい処分が下ったこの事件は一つの問題提起となった。
25年が経過した今、人の生き死にの在り方が当時とは随分違ってきている。
良いとも悪いとも言えない、言いようのない変わり方をした。

私自身も、25年前は医療現場にいながらまだ看護職ではなく無資格の看護助手だった。
信仰者としてはまだ出生していなかった。
受洗は25年前1991年の暮れで、聖書もろくに読まず祈りも殆ど自分のものではなかった。
当時の職場で4年働いてから1人の精神科医によって初めてキリスト教徒の死生観の何たるかを知った。
25年前はまだ私はここには移転していず、父親とも母親とも絶縁状態のまま10年以上過ぎていた。
発行当時に私がこの本を読んでも字面を追うだけで何一つ読む事が出来なかったであろう。
実に、絶縁状態から在宅介護で関わる事を始め、衝突し憎悪しうんざりし疲れ果て、
時間的にも経済的にも追い詰められ、最後の最後に間に合わず終わった15年間を経て初めて
自分のものとして読む事の出来る本である。

この本の3章で押田師は祈る存在として“אֱמֶת”(エメット)を尽くす事で
イスラム教徒の青年達と死生観を同じくする、存在と存在が響き合う体験をした事に言及している。
“אֱמֶת”を検索すると「真理」と日本語訳が出て来るが、押田師はここで「真、誠、誠実」と訳している。
祈る者の“אֱמֶת”を押田師は言い表している。

  自分の手のなかに自分の魂を掴んで、
  それを神にあげますと言わなければならないわけです。
  つまり、「死」という自覚がないと、この関わりはできないのです。
  それで響き合ったのです。
        『思想としての死の準備 ―いのち・ホスピス・ことば―』(三輪書店1993年刊)


響き合いは押田師とキリスト教徒同士の間では起こらずイスラム教徒の青年達との間に起こった。
同じ死生観を持っているという事。
押田師は祈りを「息に運ばれるもの」と言い表している。

  つまり人間存在の一番の深みから来る、その息吹に運ばれる思いです。
  憐れんでくださいとか、頭で考えることではないのです。
  息に運ばれるもの、息が言っているもの、これが祈りだと。
        『思想としての死の準備 ―いのち・ホスピス・ことば―』(三輪書店1993年刊)


信仰者となった時、洗礼を授けて下さった牧師先生から最初に教わった、
「祈りは霊の呼吸です」とはこの事であろうと思う。

  呼吸は一つの印です。
  息というのは、「生きる」ということのイキなのです。
  やはり「生きる」ということと「“אֱמֶת”誠」とはいつも一つです。
  ・・・私は、ターミナルケアということにも、核にそういうものがなければ、
  いっさい虚しいという感じがします。
        『思想としての死の準備 ―いのち・ホスピス・ことば―』(三輪書店1993年刊)


まだ少ししか読んでいない。
昨日からずっとその事を反芻している。
凍った風で顔を叩かれている。


・・・・・

何事も無く定時に仕事を終えた。
帰りのバスには余裕で間に合った。
車内は暖房が効いている。
眠気が来る。

途中下車した。
ナトリウム灯で街路樹が浮かび上がっている。

これは白樺だな。

スーパーに立ち寄った。
明日は予定通りの週休なので夜更かしするための何かおやつを買う。
揚げた銀杏、マカダミアナッツ、煮干し、もろこし、黄な粉捩じり。
店を出ようとしたら和菓子店のかぼちゃ大福があったので自分用と母用と二つ買った。
帰りに寄って母宅に届け今朝の白菜煮込みの容器を回収し、帰宅。

夕食に半額の刺身盛り合わせをつまんだ後、
熱い濃い緑茶と共に銀杏とマカダミアを齧ったら強烈な睡魔が来た。
するべき事や書き留めておきたい事があるけど目を開いていられない。
まだ19:30にもならないが少し横になる。
多分日付の変わる頃に起きると思う。
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