ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

福音書を読み返す

2017-09-03 21:00:45 | 日常
寒い。
明け方の気温が低過ぎたためかハイビスカスの赤花が開きかけたまま10:00を過ぎても開花しきれずにいる。
一度外に出して光に当ててみたが風が強過ぎる。
室内に乱気流が発生し物が飛び交う事態になったので屋内退避させた。


柿の種が止まらない。これから礼拝に行くと言うのに。
手ごわい妖怪だ・・・・ヘ(-"-;ヘ)))

袋の裏を読んで柿の種について学習中。
柿の種の誕生は偶然の産物だったらしい。

薄曇り。
太陽が暈を被っている。
微かに。


さて、教会に行く。


雲が薄くなってきた。


主日礼拝

黙祷
招詞 詩編92;1~4
讃美歌(21) 143 119
聖句唱和 詩編126;5~6
     涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
     種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。

詩編交読 詩編84;1~12
祈り
讃美歌(21) 171 5 129
聖書朗読 ヨハネ14;1~3
説教
讃美歌(21) 140
献金 讃美歌(21) 512
祈り
頌栄 讃美歌(21) 29
祝祷

ぽかぽかと暖かく明るくいい天気だ。
さっき教会に来た時、庭にモンシロチョウと似た白い蝶が大勢いた。
モンシロチョウは私の子供時代にはよく見かけたが今はそんなに多くは見かけない。
教会の庭にいたのは同じくらいの蝶で、少し黒い細い線模様が入っている。
集団でひらひらしていたが、礼拝が終わってもう一度見るといなくなっていた。
代わりにトンボがちらほら飛んでいる。
今飛んでいるトンボは赤くない。

礼拝の後はマルコを読む会があるので昼食調達のため求道者の方と共に近所の店に安い弁当を買いに行った。
手作り感ある弁当に目移りする。
易くてウマい。
午後には値引き、夕方には半額になる。

マルコを読む会、今日は取税人レビ(後の福音書記者マタイ)の召命の箇所だった。
イエスが二組の兄弟漁師達を弟子として招いた後、取税所にいたレビに「わたしに従いなさい」と言う。
レビは職を捨て、以後イエスと共に行動する。
この時代のイスラエルはローマの支配下にあった。
「取税人」は同胞から税を搾り取ってローマに上納するが相当にピンハネをして私腹を肥やす輩が多かったのか
当時のイスラエルでは裏切者の売国奴として軽蔑され忌み嫌われる、言わば差別される者だった。
イエスは先に招かれた二組の兄弟漁師達に続き取税人をお選びになった。
どんな理由で貧しい漁師達や社会で軽蔑される取税人が選ばれたのか、今の時代の我々にはわからない。
彼らが自ら願って弟子入りしたのではなくイエスの方から弟子をお選びになった事には違いない。
2000年後の今の時代に聖書を読めば、この時選ばれた弟子の一人である取税人レビの功績は計り知れないほど大きい。
イエスの説教をまとめ上げ、福音書として誰もが心の拠り所とする事の出来る説教集にしたのは
ここでイエスに選ばれた取税人レビ、後の福音書記者マタイであった。
何年も前に英隆一朗神父様が説教の中で触れていた。
マタイはずば抜けて優れた編集者である、と。
私自身、受洗前の求道者だった時にはマタイの福音書の山上の垂訓を読んでイエスの教えを知った。
おそらく取税人マタイの優れた能力は福音書の時代にはまだ隠されているが、
2000年後の今私達はその恩恵を受けている。
信者になるかならないかの時から何らかの形で私達信者はマタイの福音書を通してイエスの教えに触れ、
考えさせられて今に至る。
ここで小さな議論が起こった。
イエスが取税人レビを招いたのは彼に優れた編集能力があるからだったのだろうか。
色々意見が出たが、今日のマルコを読む会の参加者は私も含め、そうではないと考えている。
何故なら宣教のために説教を編集するという能力の利用価値だけなら他に幾らでもいたであろう。
何も被差別的立場であり同胞から恨まれる取税人でなくてもいい筈である。
私も大勢いる取税人の中から何故レビが選ばれたのかはわからないが、
ここでイエスに呼ばれた取税人レビの立場になってこの箇所を読むと視点が変わる。
その事に気づいて聖書通読帳に書き留めてから既に7年が経つ。

 (ぱんくず通読帳2010-07-10 17:28:41)

   「なぜ、あなたたちの先生は
    徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」

   「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。
    『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』
    とはどういう意味か、行って学びなさい。
    わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
                                (マタイ9;10~13)

  福音書記者マタイは
  自分がイエスと出会った感動や喜びの感情を言葉で書き残していない。
  マタイは自分の目で見たイエスがどんな人となりであったか、
  自分がイエスと接してどう感じたかを、
  ヨハネのように直接的な表現では描写していない。
  マタイはイエスの語った事柄を読者が整理して受け止めやすいように的確に整理し、まとめ、編集している。
  
  マタイの福音書のイエスの教えを通して見えてくるのは、
  当時のユダヤ社会における宗教的指導者達の傲慢さ、驕りと堕落である。
  ここには社会の底辺で辛うじて生き延びる人々を
  神への信仰という名を借りて心理的に縛り、抑圧し、搾取する傲慢な宗教的指導者達の姿と、
  抑圧されて救いを見失い、迷走、脱線してしまった人々が大勢登場する。
  神の本当の御心は罪を犯す人間を裁いて抑圧する事ではなく赦し、憐れみ、悔い改めに導いて癒し、
  救う事にあるのに、宗教的指導者達はそれを歪めてしまった。
  歪められてしまった神への信仰に焦点を当て、本来のあり方に軌道修正させようとするイエスの憤りと
  奮闘の姿がマタイの福音書では克明に描かれている。

  マタイ自身が抑圧され、蔑みを受ける立場にあった。
  直接的には書かれていないが
  マタイが生き延びるための生活の支えとして営んでいた徴税の仕事が
  当時のユダヤ社会で同じユダヤ人の同胞から「ローマの手先」として
  いかに敵対され忌み嫌われていたかが伺える。

  職業によって、或いはその生活の営み方によって軽蔑される、
  そんな立場に立たされた者にしか理解出来ないには違いないが、
  今現在の社会に当てはめてマタイと同様の立場に自分を置き、
  文字に書き残されていないマタイの味わった屈辱と痛みを黙想し共感する事を試みる事は可能だと思う。
  例えば今の社会でいうならマスコミを通じて非難されバッシングに遭う立場、犯罪加害者の家族、
  住所不定無職のホームレス、精神疾患を抱える人、
  周囲から疎んじられ家庭にも職場や学校にも居場所を見出せない大人や子供。
  自分が彼らの立場に立たされた事を黙想してみる。
  肩身の狭い立場で生きなければならない苦しみを自分に当てはめて想像すると、
  マタイがイエスに遭うまでどれほどの悩みと葛藤の中で生きていたか微かに読み取れる気がする。

  マタイの福音書の中のイエスは終始憤っている。
  神への信仰はこれではダメだ、今のままではダメだと告発する、
  まるで不機嫌な宗教改革者の姿のように描かれている。
  そんなイエスを見つめるマタイの視点に期待と喜びが込められている。

  喜び。
  マタイの福音書には喜びがある。
  蔑みと葛藤の中で混沌に落ちて神を見失った者が光を見出した喜び。
  福音書に登場する食事の光景はとても重要だ。

  イエスが誰かと一緒に食事をする。
  福音書の中で、食事は相手を仲間として認め、分かち合う行為である。
  世の中で蔑みを受け忌み嫌われていた自分を呼び、人として認め、同じ食卓に招いて一緒に食事してくれた。
  虐げられた者の目にイエスがどんなお方であったか、
  マタイの目を通したイエスがここにはっきり描かれている。
  イエスに受容された喜びの体験、それがマタイの信仰の原点に違いない。
                        http://blog.goo.ne.jp/t-i801025memo/e/835c156beef3a39ea01587560a7b2a9e
   

今日皆でこの箇所を読んでいる時にも誰かが言った。
「この、食事を一緒にしたというのが凄く大事なのではないか」
私もそう思う。
イエスは有能な編集者を求人募集していた訳ではないのだ。
神が何故その人を選ばれたかを推測し議論するよりも、
招かれ、受容された弱い人の喜びに共感してこの箇所を読み味わいたいと思う。

・・・・・

帰りのバスがちょうどよい時刻にあった。
宣教師と話しながら乗って帰宅した。
ここのモミジはまだ全然赤くならない。


朝、家を出る時にはなかなか開けずにいた赤花がカーテン越しの弱い光で開いていた。
鉢を窓の方角に向けた。




教会仲間が鶴居の人から貰ったと言う豆を軽い塩味に湯掻いてくれた。
少し味見させて頂いたら物凄く美味だった。
軽い塩味で豆の甘味が際立ち、しかもこの豆はサヤに硬い筋が無い。
柔らかくて食べ易い。
たくさん頂いたので母にも持って行くと、母は母で買い物に出たら活きの良いホヤがあったので
酢の物にしたと言ってくれた。
今夜は母製結び昆布とホヤ酢、教会仲間製の豆で夕食とする。

ウマいわー♪

昼間楽しんだ福音書を読み返す。
次回いつ出られるかな。

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