ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

夏の記憶

2017-06-14 22:23:45 | 日常
今朝もいい天気だ。

風はやはり冷たい。

風邪から副鼻腔炎になりかけているのか後鼻漏が気になる。
緑茶で鼻洗浄と含嗽している。
緑茶は粘膜にしみないし爽快感がある。
有給消化に入ったら一度耳鼻科に行ってみようか。

本日も日勤。
昼の弁当は葱チャーシュー丼。

・・・・・

昼休み。
午前中突発的に病院に連れて行く事案ありバタバタした。
弁当はウマかった。
惣菜のチャーシューを玉葱、長葱、しめじ、エノキタケと一緒に焼いて米飯に乗っけた。
めでたし、葱の旨味よ。

晴れて風冷たく職場では「秋晴れかよ」と呟く人複数あり。
食後眠いからちと外の空気吸いに出た。
頭上から誰かがこちらを見下ろしているような気がする。


風で枯れ草がざわざわ音を発てて揺れている。




・・・・・

仕事はほぼ定時に終わったが帰宅したらする事がいろいろあり脳みそがビジー状態。
あと一日頑張ろう。
明日一日頑張れば有給消化の休みに入り、人の生き血を啜る介護福祉現場での仕事と縁が切れる。

昼間、写真店から電話が来た。
先日依頼したスライドフィルムのプリントが出来上がったという。
早く見たいが閉店は18:00、バスだと間に合わないし明日も日勤で同じ時刻上がりだ、
タクシーで急ぐ。

・・・・・

写真屋で出来上がったプリントを受け取り、その足で百均に向かう。
台紙となる黒い紙とポケットファイルを購入した。

黒い台紙に1枚ずつ写真を貼る。
1枚は日付不詳。
団地の屋上で妹がボール遊びしている画像で、その背後は金網越しに長屋の列と当時の街並みが見える。

団地の窓からいつも見た眺め、今は全く面影も無い街並み。

その他の写真は父の字でスライドフィルムの枠に昭和43年8月3日と日付が書き込まれている。
夏休みに両親と妹と、母の姉妹達とその子供達と、皆で祖父母の家に集まった時のものだ。
当時母の姉妹の中では私達一家が祖父母から一番近い場所に住んでいたが、それでも汽車で約1時間かかった。
私達の乗った鉄道は今の電車ではなくまだSLが車両の先頭を走っていた記憶がある。
子供の眼には巨大な鉄の車輪が轟音を発てて回るのが恐怖でもあり面白くもあった。
線路は日光を浴びて黒く磨かれ光っていた。
枕木と砂利石は茶色く焼けていた。
車窓から見た河口や牧草地、何かよくわからない工場、小さい漁港と漁船の群れ、
粗末な造りの木造家屋が寄り集まった集落、トンネルを抜けると太平洋が間近に見えた。
同じ景色が季節ごとに色合いを変えた。
山の中の信号所で一時停車、窓から針葉樹の匂いがした。
太陽の光の角度が少しずつ変わるごとに海面は鈍色から黄金色、灰緑色から空と同じ青色へと色相を変えた。

母の実家は小さい木造家屋だ。

母は週末になるとよく私と妹を連れてこの実家を訪ね、土曜の夜は祖父母宅に泊まり翌日の日曜日に帰宅した。
母と妹と私と、3人の時が多かったがたまに父も土曜の夜に後から合流した。
両親は自宅では決して円満ではなかったが、母方の祖父母の家では和やかにしていた。
生来親というものに恵まれなかった父は母の両親を尊敬していた。
父は母のいない所でこの祖父が如何に何でも知っており何でも出来る人かを話していた。
私が10歳になるまで週末の一泊旅行は続いた。
11歳になる前、祖父母が相次いで尿毒症と肺炎で世を去るまで。

裏手の大きな家は当時人に貸しておりその庭でオオデマリの白い花の塊が咲いたのを
当時まだ独身だった末の叔母が切り取って活けていたのを憶えている。
この写真の時には既に無くなっているが、もっと前には玄関に向かって右に祖父が手作りで建てた小屋があった。
自前の風呂場だった。
ドラム缶に丸板を沈めて入浴していた。
この写真の頃には近所の銭湯に行くようになって祖父は小屋を取り壊し、何か植えていた。
玄関前の大きな櫟の樹が懐かしい。
私達は櫟を「オンコの木」と呼んでいた。
赤い小さなねっとりした甘い実が成った。
向かって左の窓辺近くのシャクナゲは淡いピンク色で花は大きく、一つの塊が人間の子供の頭よりも大きかった。
今は田舎の町も変わってしまってこの景観は無い。

祖父母の家の暖房は薪ストーブで、祖父が一人で薪割りして蓄えていた。
町は針葉樹が多く、私は祖父が割った薪の香りを憶えている。

薪ストーブの上に網を置いて餅やイカ、畑で採れたとうきびを焼き、祖母が乗せた鍋で煮物が自然と完成した。

祖父は農家の生まれと聞いた。
手先が器用で、必要なものを何でも自分の手で工夫して作った。
がっしりした木の枠のビニールハウスを自分の手で組み立てたり、鳥籠なども自分で作っていた。
瓢箪を育てて中を刳り貫き、乾燥させて中に酒を入れる事の出来る、実用可能なものにしていた。


祖父母の家に泊まった夜は薄暗がりで木製の梟時計が気になってなかなか寝付けなかった。
梟が振り子の代わりに目玉を右、左と規則的に睨みを利かせ、渋い音で時を知らせた。
鉄道から道路を2本程度入った場所だったため夜間走る汽車の車輪のガタゴトや汽笛のピーが聞こえた。
朝は日の出と共にけたたましいカナリアの声で起こされた。
祖父は鳥が大好きで、戦時中の食料の乏しい時にはスズメなんかも捕まえて来て
工夫して食べられる料理にしていたと母が言う。
祖父の飼っていたカナリアは鮮やかな濃い橙色で、随分たくさんいた記憶がある。
とにかく朝寝坊などしていられないほどやかましく鳴いた。

何十年も昔の記憶であり子供の眼で見たから凄い畑に見えただけだとずっと思っていた。
しかし今写真を見ると本当に凄い畑だ。
祖父が全部一人で一から作り、あらゆる野菜を育てた畑だ。
この写真の時は苺を収穫した。
ザルを持って畑に行って各自ザル一杯の苺を集めた。


 


野菜を買った事はなかったと母は言う。
今これらの写真を見ただけでもわかる。
苺は私達孫を楽しませようと植えてくれたが、日々の糧としてはこの狭い畑一杯に
大根、人参、馬鈴薯、キャベツ、白菜、ほうれん草、ニラ、長葱、ラッキョウ、茄子、トマト、ピーマン、キュウリ、
カボチャ、きぬさや、巨大カリフラワー、あと何だろう「菜っ葉」と呼んでいた葉物野菜、インゲン、唐辛子、
とうきび(トウモロコシ)、写真では茂みにグスベリーも見える。
野菜はどれも市販よりも二回りも大きく香り強く、特に甘味が強かった。
 

祖母が大根の葉を塩揉みして刻んだのを納豆に混ぜてくれた。
カリカリに焼いた油揚げに祖父の畑の大根をおろして添え、醤油を垂らして食べた。
味噌汁には半熟の卵と大根ときぬさやが入っていた。
最近祖父母の家の朝の食卓をよく思い出す。

トウモロコシは今のような甘ったるい水っぽいのではなく、
「餅きび」と呼ばれた列の少ない粘り気のある品種で所々黒い粒が混じっていた。
種を収穫し、天井高くに干してあった。
毎年収穫した種の一部を翌年植えていたのだろう。
あの香ばしくて歯に粘り付くとうきびを食べたいと思う。
今の時代にはもう栽培されていないため手に入らない。
甘い品種に押されて絶滅したらしい。

母も私も、この祖父の手で育てられた味の濃い香りの強い野菜や果物を食べて育ったために、
野菜や果物は祖父の畑の採りたての農産物が味の基準になっている。
それで今の時代の果物や野菜は何を食べても匂いも味も無く不味い。
苺は値段の吊り上がった見た目立派な肥大苺を買うと母はこんな不味いもので値段が高いと怒る。
たまに小粒でしっかり酸味のある苺が安値で売っているとそれは喜んで食べる。
昔祖父の畑で食べた苺の味に近いからだ。

祖父母の小さな家の西側には「お寺さん」があり、時々坊さんがやって来て読経の後は世間話して帰って行った。
仏壇には2歳頃に亡くなったと言う母の上から2番目の姉が祭られていた。
近所に町役場があり、正午と17時には学校みたいなチャイムが町内に響いた。


私は両親から得られない何かを祖父母から得ていた。
写真で見る祖父は68歳、祖母は65歳、しかし今現在80歳過ぎた母よりも10も20も年老いて見える。
祖父母の顔の皴は深い。
今の時代の人には無い皮膚に深く刻まれた無数の皴のある日焼けした精悍な顔を、私は美しいと思う。
昭和40年代当時こんな精悍な顔の年寄りは大勢、当たり前にいた。
長い年月の労苦と生活の知恵と工夫が刻まれた顔。
生活の全ての窮乏を一つ一つ自分の手で工夫して乗り越えて生きていた明治生まれの祖父の世代の68歳と、
のっぺりと皮膚の表面だけてらてら磨いた今の時代の68歳とは違う。

ああ、これは畑にあったすももの木だ。

これだけはどう手入れしても甘くならなかったらしい。
実が成っているのを指差すと祖父が「あれはダメだ、酸っぱくて食われん」と言ったのを憶えている。

息子達娘達がいずれも結婚して遠方に住まうようになってから祖母は孫達が帰って行くと急に寂しくなるのか
駅のホームで見送りに出て来ては涙を流していた。
また来週来るから、と言って私達は窓から顔を出した。
毎週のように母が私と妹を連れてこの実家に戻っていたのはやせ細り弱っていた祖母が寂しがるのと
少しでも家事を手伝って負担を軽減させたい思いがあったらしい。
物心ついた頃から私の中では祖父は生活の創意工夫と知恵ある人、
祖母は弱々しくて寂しがるのでいつも労わったり手伝ったりしてあげなければならない人として刷り込まれていた。
寂しがらせてはいけないと子供なりに思っていた。

今の時代、電車はこの小さな町を一瞬のうちに通過する。
無人駅となったホームに見送りに来た祖母が今も立っている気がする。
地味な青銅色の和服を着た祖母が眼に涙を溜めてぽつんと立っているのが見える気がする。
ほんの一瞬だけ。

・・・・・

写真を全て黒い台紙に貼り終えポケットファイルに綴じた。
これを母に届ける。
先日の靴だけでなくこちらが母の誕生日に贈りたかったものだ。

これらの写真は当時スライドフィルムの映写機を購入した父が夜部屋の明かりを落とし、
白い壁にスクリーンを張って上映したのを見た憶えがあった。
それから20年近く経って両親が離婚した後、これらの写真は行方不明になっていたのが
3年前父が亡くなった後の遺品整理で膨大なフィルムの中から見つかったのだった。

私にとって子供時代の郷愁を呼び起こす写真画像である。
母にとっては殆ど残っていない両親と実家の写真。
小学生だった私は何処に行くにも大事そうにカメラを持ち歩き
何かと言えばカメラを構える父を疎ましいと思っていた。
何十年も経った今になって、画像として記録を残す事の意味を知らされた気がする。
母はこれらを見て何を思い何と言うだろう。

・・・・・

母宅に写真を届けて来た。
詳しい話はせず、ただ手渡して来た。
自宅に戻って間もなく電話が来た。
予想外に母は懐かしがり喜んだ。
しかし昭和43年の夏に姉妹達が皆子連れで祖父母宅に集まった事は憶えていないと言う。
ただ写真の中の畑や祖父手作りのビニールハウスや苺を一つ一つ懐かしいと言った。

見つけたフィルムを現像してよかった。
母が衰え過ぎる前に。

・・・・・

今日出勤する時、何だかやたらカバンが重かった。
弁当がこんなに重たい筈はないし何だろうと思って中を確かめて我ながら呆れた。
昨夜スーパーに立ち寄った時に缶詰の「みつ豆」を見かけて、あの中の寒天が食べたくて買ったのだった。
夕食後のデザートにするつもりだった・・・のを忘れてカバンの中に入ったままになっていた。
では昼休みに開けて食べようかと思ったが缶切りが無いと食べられない旧式の缶詰だった。
管理栄養士に缶切り貸してと頼んだらどうぞと言ってくれたが午後から緊急の受診が入ってすっかり忘れていた。
写真を触っている間、2時間ほど冷蔵庫で冷やしていた。
これにポッカレモンを少々かけて食べるのが子供の時から好きだ。

めでたし、寒天。

明日も日勤。
最後の実働である。
ロッカー内の私物で回収するものは回収し廃棄するものは廃棄しないと。
夜間の呼び出しの際に使った医務室の鍵も返却忘れず返却する。

最後の日が安静でありますように。

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