「なかなか死なないねえ」
こんな言葉がでよく語られてしまう作家。それがここ数年の赤塚不二夫だ。不謹慎かもしれないが所謂トキワ荘一派が次々と冥土に旅立っている今、癌患者であることを、アル中であることを公言している作家に対してその言葉を与えてしまうのは、とても自然なことではないのか。
そんな赤塚の単行本が出た。『大先生を読む』(光進社)だ。実はこの作品、15年前に小学館のビックコミックオリジナルで連載されていたものだが今回が初単行本化。今まで本としてまとまらなかった理由はわかる。何しろこの作品、あんまり面白くないのだ。
雑誌掲載当時から私は見ていたのだが(たまたま父親がオリジナルを買っていたわけだ)、当時から「ちょっとこれはなあ・・・」とまだ中学生とかだったが思っていた。今回改めて読み返してみたがその感想はさほど変わらず。やはり他の赤塚の傑作と比べれば数段落ちる。
大先生、と呼ばれる小説家(最初はただそういう風に呼ばれているだけかと思ったら実は名前だった。何だそれ)と担当者によるコントのような短編がほとんどだ。哲学用語であるとか文学用語を散りばめたギャグが大半を占める。それらもちょっと未消化に思えてならない。
意気込みは買うが以前の赤塚の何も考えず笑えたギャグと比べれば・・・。
それはこの単行本の編者たちも薄々(いやかなり明確に、か?)感づいているようで、帯には『幻の迷作』とか『貧困な時期に描き綴った倒錯的ギャグ』などという文字が堂々と記されている。
この作品だけを見てしまったら、それはただの駄作かもしれない。しかし赤塚という作家史を考えたら、この作品はかなり重要な位置付けのものなのだ。
この時期の赤塚は正直なところ、一線を完全に退いていた。すでに時代は江口寿史や鴨川つばめ、田村信らの80 年代の新人たちが大物になっていた。
86年から89年の『大先生』連載期間中には相原コージや吉田戦車、中川いさみなどがデビュー。ガロ系では泉昌之やしりあがり寿らがメジャーシーンを活動の場にしていた。とり・みきもすっかり有名マンガ家だったし唐沢なをきがデビューしたのもこの時期だった。
すでに時代は赤塚を必要としていなかった。
マンガ家は実力主義の世界、キャリアなんて実はそれほど意味を持っていない。
この作品の主人公である大先生と赤塚本人が重なってくる。劇中で登場する担当編集者のセリフ、
「大先生がデビューの頃は、切れ味のするどい作品が多かったけどここんとこちょっと・・・」
これはまさにこの当時の赤塚本人がいわれていた言葉だった。現物を持っていないので引用はできないが、当時タモリを推していた赤塚に対してビートたけしは自著で「今の赤塚不二夫がマンガ家としてどれほどのものなのか。所詮はテレビで三流芸人扱いで出てくるだけではないか」という意味合いのことをいっていた。実際そうだった。
当時バラエティ番組にときたま出てくる赤塚は大抵女装姿(主にセーラー服)で酒の席でやるような一発芸をやっていた。その芸もスネをまくって子持ちシシャモとか。もう本当に面白くなかった。しかも酔っぱらってテレビに出ることもいつも。
80年代に零落してしまった天才の代表は赤塚と横山やすしだろう。どちらも酒によって滅んでいった。
横山は死んでしまったが、赤塚は未だに元気だ。酔っぱらっていながら結局破滅した姿が芸になってしまった。
もはや瘋癲老人の領域に達している。実はまだそんな年でもないのに。
この作品の頃、赤塚は悩んでいたのだろう。明らかに枯れてくる才能、必要とされなくなってきている自分自身。それを実は冷静に見ていた。そして足掻いていた。その結果がこの作品だ。
現在の赤塚は、この悪足掻きを経過したからこそ神々しい。ページの隙間から破滅願望も垣間見える。本の中に大量に挿入されている赤塚の写真は、酒による自殺を試みているようにしか見えない。
(ガロ掲載。00年頃。多分)
こんな言葉がでよく語られてしまう作家。それがここ数年の赤塚不二夫だ。不謹慎かもしれないが所謂トキワ荘一派が次々と冥土に旅立っている今、癌患者であることを、アル中であることを公言している作家に対してその言葉を与えてしまうのは、とても自然なことではないのか。
そんな赤塚の単行本が出た。『大先生を読む』(光進社)だ。実はこの作品、15年前に小学館のビックコミックオリジナルで連載されていたものだが今回が初単行本化。今まで本としてまとまらなかった理由はわかる。何しろこの作品、あんまり面白くないのだ。
雑誌掲載当時から私は見ていたのだが(たまたま父親がオリジナルを買っていたわけだ)、当時から「ちょっとこれはなあ・・・」とまだ中学生とかだったが思っていた。今回改めて読み返してみたがその感想はさほど変わらず。やはり他の赤塚の傑作と比べれば数段落ちる。
大先生、と呼ばれる小説家(最初はただそういう風に呼ばれているだけかと思ったら実は名前だった。何だそれ)と担当者によるコントのような短編がほとんどだ。哲学用語であるとか文学用語を散りばめたギャグが大半を占める。それらもちょっと未消化に思えてならない。
意気込みは買うが以前の赤塚の何も考えず笑えたギャグと比べれば・・・。
それはこの単行本の編者たちも薄々(いやかなり明確に、か?)感づいているようで、帯には『幻の迷作』とか『貧困な時期に描き綴った倒錯的ギャグ』などという文字が堂々と記されている。
この作品だけを見てしまったら、それはただの駄作かもしれない。しかし赤塚という作家史を考えたら、この作品はかなり重要な位置付けのものなのだ。
この時期の赤塚は正直なところ、一線を完全に退いていた。すでに時代は江口寿史や鴨川つばめ、田村信らの80 年代の新人たちが大物になっていた。
86年から89年の『大先生』連載期間中には相原コージや吉田戦車、中川いさみなどがデビュー。ガロ系では泉昌之やしりあがり寿らがメジャーシーンを活動の場にしていた。とり・みきもすっかり有名マンガ家だったし唐沢なをきがデビューしたのもこの時期だった。
すでに時代は赤塚を必要としていなかった。
マンガ家は実力主義の世界、キャリアなんて実はそれほど意味を持っていない。
この作品の主人公である大先生と赤塚本人が重なってくる。劇中で登場する担当編集者のセリフ、
「大先生がデビューの頃は、切れ味のするどい作品が多かったけどここんとこちょっと・・・」
これはまさにこの当時の赤塚本人がいわれていた言葉だった。現物を持っていないので引用はできないが、当時タモリを推していた赤塚に対してビートたけしは自著で「今の赤塚不二夫がマンガ家としてどれほどのものなのか。所詮はテレビで三流芸人扱いで出てくるだけではないか」という意味合いのことをいっていた。実際そうだった。
当時バラエティ番組にときたま出てくる赤塚は大抵女装姿(主にセーラー服)で酒の席でやるような一発芸をやっていた。その芸もスネをまくって子持ちシシャモとか。もう本当に面白くなかった。しかも酔っぱらってテレビに出ることもいつも。
80年代に零落してしまった天才の代表は赤塚と横山やすしだろう。どちらも酒によって滅んでいった。
横山は死んでしまったが、赤塚は未だに元気だ。酔っぱらっていながら結局破滅した姿が芸になってしまった。
もはや瘋癲老人の領域に達している。実はまだそんな年でもないのに。
この作品の頃、赤塚は悩んでいたのだろう。明らかに枯れてくる才能、必要とされなくなってきている自分自身。それを実は冷静に見ていた。そして足掻いていた。その結果がこの作品だ。
現在の赤塚は、この悪足掻きを経過したからこそ神々しい。ページの隙間から破滅願望も垣間見える。本の中に大量に挿入されている赤塚の写真は、酒による自殺を試みているようにしか見えない。
(ガロ掲載。00年頃。多分)
この作品は、日大病院でアルコール中毒治療中
担当医が三島市の日赤病院院長に就任したので
赤塚も転院したときに描かれたものです。
したがって、ぼくもそのたびに三島へ新幹線で行き
アイデア会議をやり、それをネーム化したものを
あとで奥さんかお手伝いさん(この二人が病室に
付き添っていた)が、スタジオに届け、作画した
作品です。
なぜ、そんな最悪の状況で描いたかというと、
他社の連載が無くなってしまった赤塚の状況を
みた、かつてトキワ荘で、石ノ森アシストをやって
後に小学館の編集者となった林君が、編集長!
になっていて、先生に仕事をしてもらいたいと
連載ページを空けたという<美談??>が
あるんですよ。
赤塚は、この病院でも、看護婦さんの
監視を知りながら、近所の寿司屋へ
飲みに行っていた。
奥さんが、あらかじめ頼んで薄めた酒を
ホンモノと思って飲んでいあたのです。
ぼくも同行したものです。
健康過ぎることが、いつまでも酒を飲んでも
胃潰瘍などにならぬことから、アル中に
なってしまった感じです。
内気な本性が、酒でしかひっくり返せなかった
んだと、ぼくは思います。哀しいですが…、
それでしか彼の創作は発展しなかったと
いうことでしょうか。
ぼくの『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版)に
そんなことを少し書きましたが…、年末、
マンガによる赤塚伝が、マガジンハウスから
刊行の予定です。
これでは、主にフジオ・プロでの仕事の面白さが
中心になっています。文字で書けなかったことを
描いてみました。
レスというよりももはや歴史的資料のようなことを書き込んでいただき恐縮至極です。
自分のなかではあの時代の赤塚は本当に謎の存在でした。
その謎が少し見えてきた気がします。
有難うございます。