本日は奈良女子大三回目、最終回。
「依存的なあり様から主体的なあり様へ!」をワークショップにした「主体的マップ」です。
主体的な人のイメージと依存的な人のイメージを出して、言葉に意味を込めていくところまでは従来と同じです。
そこからワークシートに自分自身の依存的、主体的を見つけ出し、1Dマップに自分の位置をマーキングします。
なかなか興味深いものになりましたね。
依存的・主体的のキーワードを出してもらっていて気づいたのですが、
キーワードをつないでいって完成する「依存的ストーリー」「主体的ストーリー」というワークショップ、
機会があれば一度チャレンジしてみます。
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最後の自分を評価する試みで、私は「新しいことに一人でも飛び込んでいける」ことを自分の主体的な部分として挙げました。一方、「飛び込むことを決める時に、人に意見を求めがちである」ことを依存的な面として挙げました。やりたいことというのは、例えばアルバイトやTOEICのように、必ずしもやる義務はないが、私が自分に必要だと思うことです。しかし、人の意見を求めるのは、後押しをして欲しいからではありません。大抵は、寧ろ反対されたいのです。経験上、反対されてもやりたいことは結局やるのですが、誰かに「止めておきなよ」と言われることで、免罪符が得られると考えているのだと、改めて自分と対話した結果、判断しました。要するに、私は止めても良い逃げ道が欲しいのです。駄目だった時に「やっぱり駄目だった」と諦める、その「やっぱり」を、他人任せにしています。このような、進退を人に任せてしまうような一面は、とても依存的であると思います。つまり、私の場合、主体的だと思う行動をとる決意が、依存的な行動に因っているということです。これでは「新しいことに飛び込んでいける」こと自体、主体的とは言えません。私は、自分で思っていたよりもかなり依存的な人間でした。
ワークショップの最後に、グループで意見を共有した時、怒りを依存的な人間の攻撃的側面の現れだと捉えた人がいました。私は、この意見に深く納得しました。私自身、日々ちょっとしたことでイライラすることは、よくあります。振り返ってみると、それは大概、「自分が悪いことをしていないのに状況が好ましくない」からです。しかし、現実で自分が置かれている状況に、自分の責任が全くないことは、とても少ないと思います。柔軟な思考と臨機応変さが身に付いていたら、状況に流されて他人の所為にし、イライラする前に、何とか事態を好転させようと自ら行動するのではないかと思いました。
今回、自分の中と対話して、自分はまだまだ主体的には程遠い人間だと思いました。しかし、そう自覚した今後は、今日より少し、主体性を意識した人間になれるのではないかと思います。自分の行動や感じ方との対話を、忘れない人間でいたいです。』
不登校や、ひきこもりを引き起こす乖離は、内面を押し殺した結果であると知り衝撃を受けました。人は誰しも、協調性と相反して内面を押し殺す経験が、一度くらいはあるのではないでしょうか。心の内面を確かめながら自分を大事にすることが、いかに重要であるか理解できました。理解できるとともに、今現在の自分は、ちゃんと心の内面を確かめられているのだろうか、客観的に判断できているのかという不安もありますが今回の授業では、自分の内面を再確認する良い機会となりました。
また、いじめの起きる構図は、いかに今まできちんと理解していなかったのかを痛感いたしました。受身的だけでなく、主体的である人も攻撃対象になる事。このことは、今日の授業で始めて気づきました。自分がいかに、受身的な人だけが攻撃対象になるとしか考えていなかったか、一方的な考えしか持って居なかったかを痛感しました。私はスクールカウンセラーを目指しているので、今回の授業では今後の自分の将来に続く大きな気づきとなりましたこと、心より感謝申し上げます。
本日も素晴らしい講義をありがとうございました。
「主体的と依存的」の話の中で、「100%主体的な人はいないが、自分の中に主体的の割合を増やしていくことが大切である」ということに気づかされました。主体的マップを実際に描いてみると、自分はまだまだ依存的部分が多いということが分かり、自己理解を深めることが出来ました。これからの人生の中で、主体的の割合を増やしていきたいです。
人間の成長にはコミュニケーションが大切であるということは分かってはいましたが、最優先のコミュニケーションの相手が「自己」であるという考え方に触れ、自分の頭の中に閃光が走りました。確かにそうであるな!と痛感しました。中学生の不登校を例に、「わたし」と「わたしの内面」の乖離で問題が生じるということもよく分かりました。
全3回の講義で学んだことを、これからの生活に生かしていきたいと思っております。
ありがとうございました。
先日は貴重な機会をいただきありがとうございました。
「主体的」から連想されるキーワードを見ていて,主体的な人は,自分も他者も大切にできているんだろうなと気づきがありました。周囲にいる主体的な人を思い返してみると,どこか余裕があり,視野も広く,そのため周り(他者)の変化によく気が付くところがあると感じました。たくさん出ていた「主体的」キーワードも原点は自分と他者を大切にするという所にあるのだと思います。そのためには,自分の内面と対話をすることが重要であると知り,日々の生活で実践していこうと思います。
自分自身と対話することで,今の自分に足りないものに向き合うことができ,主体的な自分をもっと育てていこうと思いました。
支援職を目指す私たちにとっては、自分のあるべき姿、そしてこれから様々な相手の支援をしていくときに目標にすべき姿を知ることができたのかなと思います。
授業は、概念的なものが多くて掴みづらかったのですが、逆に言えば、頭の中で必死に考えながら聞くことができ、濃密で充実した時間でした。
話は大きく変わりますが、少し疑問に思っていることがあります。最後の振り返りの時に、それまでの授業を受けてもなお「依存的」が必要という意見が出てきたのが心に残っていて、その発言の意を考えていたら浮かんだものです。
主体的な人間は相手の意見を尊重しつつ自分の意見をしっかりと主張できることそして人はなるべく完全に主体的な人間になることを目指すべきであるというのは理解しました。でも現実として、社会には依存的な人間がいますよね。支援職についたとしたら、依存的な人とも向き合うことはあると思います。その時に、相手との結びつきを失わずに、最終的には相手が主体的な人間を目指せるように支援を続けていくことが必要です。
授業の中で、主体的な人間は自分の意見を適切に主張するが、依存的な人間からは、そのことが「自分勝手」とか、「文句言い」に見えることがあるという内容が出てきました。
主体的な人間は正しい主張をしているのに、依存的な人間によって曲がった解釈がされてしまう、と言い換えることも出来ると思います。これはもちろん、主体的な人間が悪いわけではなく、依存的な人間側が変わらなければならないことです。しかし、支援者とその相手、となると、単純にそうとも言っていられない場合があるのではと思いました。もし支援している相手に、それが間違った解釈だとしても、支援者は「文句言い」だと思われ、結びつきを切られてしまったら、それは非常にまずいと思います。そのために、どうにかして依存的な人間に対しての理解を深め、受容し、依存的な人間から見た時に「文句言い」を思われないようなかかわり方を学ぶ必要があるのではないでしょうか。
もちろん、それが行き過ぎて、主体的な支援者が「依存的」に染まってしまうとしたら本末転倒ですが。多分、最後の振り返りで「依存的」な面の必要性を主張した彼女たちは、このようなことを考え、最終的に、依存的な人を理解し、結びつきを失わずに関わっていくには、支援者も依存的な面を持っていなければいけないと思ったのではないか、と思います。また、「依存的」の「協調性」を依存的な人間に支援者が寄っていく、という意味で捉えたのではないか、と思います。
最終的に、お聞きしたい事を2点にまとめました。
主体的な人間が依存的な人間と向き合うときには、どのような点に留意すべきでしょうか。
そして依存的な人間との結びつきを失わずに関わっていくには、どうすればよいでしょうか。
長文失礼しました。お答えいただければ幸いです。
まず、「依存的が必要」と感じるということは、実は「頼る」という言葉には二つの面があるということです。主体的な人の特徴は「頼ることができる」のですが、依存的な方は「頼る」というより「もたれかかる」ということになります。「もたれかかる」人から「頼る」人に成長していくことが主体的になるということになりますね。
「主体的な人間は正しい主張をしているのに、依存的な人間によって曲がった解釈がされてしまう」と感じておられますが、主体的な人の主張とは主にフィードバックを多く含んだものになりますので、攻撃性が低い「わたしメッセージ」(支援プラン集p84)を使っています。それでも、相手側から攻撃されていると感じられることがありますので、わたしたちがよく使う表現としては「責めていませんよ。」と前置きをして警戒感を下げる場合がよくあります。子どもにたいして「怒ってないからね」と前置きするのと同じです。『依存的な人間から見た時に「文句言い」を思われないようなかかわり方を学ぶ』ということは、実は支援者が主体的な人になるように「修行する」ことが最短の方法なのです。そして「修行する」とは「認知→行動→評価」の思考を実践し、こころのなかで自分自身とつねに対話できる人になることなのです。簡単なことですが一朝一夕に実現できることではありません。日々の習慣、積み重ねが大事になります。
ひとつめのご質問に対してです。
主体的な人が依存的な人に対しての留意点ということですが、主体的な人は依存的な人に対しても何も困ることはない、ということです。依存的な人どうしの関係に難しさが生じるのです。なので、わたくしがよくお返しするフィードバックには、いろいろお話をお聴きしたのちに、「あなたは、その方と同類ですね」とお返しすることが多々あります。しっかりとお話をお聴きしたうえでお返ししているので、ほどんどの場合、受け容れていただけますし、予想外にこの返しに「うけて」もらえることもあります。
二つ目です。依存的は「悪」で主体的は「善」というものではないということですね。単なる成長の度合い(「主体的マップ」でマーキングした位置)ですので、主体的な人は相談者に対して「主体的になりなさいよ」などという操作的な返しはしません。相談者が「主体的になりたい」と感じるようなフィードバックを返します。そしてそれは、相談者が「依存的」であることを「受け容れる」「認める」ことからスタートします。支援者はそのことを可能にするようなフィードバックを返すということなのですね。人と人との信頼というものは、「傾聴する」ということからスタートし、「フィードバックを返す」ということの積み重ねで構築することができます。安心安全が基本ですね。