川柳の仲間 旬のブログ

長野県伊那市を中心にした川柳の仲間です。ややガラパゴス気味。

「旬」207号ひとり句評会(その1)

2016-11-20 11:09:57 | 川柳鑑賞
 こんばんは、ラッシャー木村です。噓です。
 挨拶は大事なので言ってみました。しょうもない噓ですみません。
 しょうもないついでに、またもしょうもない妄言です。
 もう同人誌「川柳の仲間 旬」208号が出来ているというのに、まだ207号の感想を書いていませんでした。
 この前と同じように、「例会(句評会)に出られない人」向けの感想を書いていこうと思います。
 あ、しょうもないのは私の拙い評で、みなさんの句はどれも輝いていますよ。
「どんな句であれ、それが存在してしまった時点で、それはかけがえのない価値がある」
をモットーに、読んで行けたらいいな。うまく行くかどうかはわからないけれど。

  終点でバスをおりないおばあさん  池上とき子

 これ、何か怖いです。
 何が怖いと言ったら、この句を詠んでいる人は「どこにいるのか」わからない点です。
 終点でおばあさんがバスをおりない。
 それだと、車内には「おばあさん」と運転手の二人しかいない状況ですよね。
 では、この状況を視ている人はどこにいるのか。
 もうひとり、うっかりさんとしてバスに乗っているという解釈もあるでしょうが、それならただの滑稽句になってしまう。
 この句に張りつめた緊張感は、滑稽とは違います(注。滑稽を軽んじているわけではありません)。
 ここで仮に、句の詠み手を透明人間としておきます。
 そしてさらに仮に、「おばあさん」を作者本人としておきます。「おばあさん」が失礼な言葉だとは思いません。崇高な存在だと思っています。
 それはともかく、なぜ、たとえば「終点でバスをおりないわたしです」などにしなかったのか。
 そこにこの句の迫力の鍵があると思います。
 「私」を「私」として書かない。
 私を客体化してみる、と言えば簡単ですが、そんな簡素な行為ではない思いが、この句には込められています。
「おりないおばあさん」という「お」の連続。
 もっと言えば、「終点」から、「終わり」の「お」を連想させることもできるかもしれません。
「おばあさん」は計算されて置かれています。 
 つまり、「私」が作品化されているのです。
 どろどろに煮立った鍋の中に「私」を投入すると言ってもいいかもしれない。
 だからこそ、「私」を「わたしです」などと書けなかったのでしょう。
 いや、話は逆で「わたしです」と書かなかった時点で、どうしようもない「私」の噴出が、作品として昇華されたのではないかと思います。
 透明人間の怖さは、ここにあります。
 怖さと言うより、やはり迫力と言ったほうがいいのかな。
 自分を作品化した時に、自分を詠む亡霊のようなものが作られてしまう。
 それが「終点のバス」に乗っているというのは、作品を作るわれわれすべてにとって、他人事ではない切迫した状況です。
 だからこそ、この句は私の胸に迫って来たのだと思います。
 もちろん、句を作らない人にとっても、迫ってくる句です。

 なお、この句に関しては、「旬」208号にて、竹内美千代さんが素晴らしい鑑賞をされています。
 併せてお読み頂ければ、よりこの句の深さがお解りかと思います。
 207号、208号ともに(あるいは、片方だけでも)読みたいという方は、コメント欄か、16mon.k.dai*gmail.com まで(*を@にしてお送り下さい)、お気軽にどうぞ。
 一冊¥500です。
 最後は宣伝になってしまいました。まあ、これで商売しているわけではありませんので。
 では、また。
 来週お会いしましょう。
(川合大祐)

 
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