川柳の仲間 旬のブログ

長野県伊那市を中心にした川柳の仲間です。ややガラパゴス気味。

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「旬」210号(2017年3月号)より

2017-03-13 20:53:09 | 川柳あれこれ
 更新期間が空いてしまいました。
 すみません。
 決して御嶽海が鶴竜に惜敗したからでも、WBCのオランダ×日本戦の中継が長引いて後続の「プロレス総選挙」がいつ始まるか気が気じゃなくて、結局深夜の0時13分まで起きていたからでもありません。私の怠惰な心が招いた結果であります。
 と、いうわけで気分を一新して(反省しない人間)、「川柳の仲間 旬」210号(2017年3月号)が出来ました!
 例によって、ダイジェストでお送りします。
 
 自由句から。

   「日」 川合大祐
  歯一本弥勒菩薩をまだ噛める
  綿菓子を独我論者が買わない日

   「冬の日」 桑沢ひろみ
  路地裏で鬼たたっ斬る主婦だもの
  三差路に立つ一秒を生きている

   「油の瓶」 柳本々々
  亜おじさんに限定された動物園
  毛深い記憶こわがる記憶

   「笑う」 池上とき子
  三日前切った爪だがのびている
  玄関を開ければすべて出る家風

   「行方」 小池孝一
  哭き方も吠えかたも知り滝凍る
  凍るごと求心力はなおも青

   「冬の庭」 竹内美千代
  花屋より寒い職場よ多く在れ
  芋切干焼いたら傍に亡父が居る!

   「あやふや」 大川博幸
  あやふやなものがあって確かめたらあやふやだった
  煙出てから煙突が出来た

   「お開き」 樹萄らき
  金子みすゞあたしは含まれているか
  ひんやりと臓器が笑う花いちもんめ

   「梅日和」 千春
  目を開けると土手が転がってきた
  荷作りをする日に霧をなぜ吸った

   「錯覚」 丸山健三
  関白な椅子に座っている達磨
  裏口にまだ母が居てバスに乗る

 ……みんな、飛ばしていますね。

 課題句「誤」採点発表より。

  誤作動がこわいので動かしっぱなし  博幸/9点
  天気雨なんの誤りだったろう  博幸/6点
  幸せに見える孤独なさつまいも  ひろみ/5点
  雨の途中ばらばら降ってくる誤字  々々/5点

 博幸さん、強し! 今回は得点がばらけました。

 前号(209号)の鑑賞を、元会員の畑美樹さんがして下さっています。鑑賞って、こうあるものだなあ、と勉強になります。ありがたい。

 博幸さんの「ひろゆきの川柳8コマまんが道」は〈式場はわれんばかりのまばたきだ  千春〉より。『宇宙人東京に現る』好きな人なら必読です(そんな人いるのか? いるよね、きっと)。
 その他に、大祐の相撲観戦駄文・「スは相撲のス」、おなじみ健三さんの「旬のコーヒータイム」など。
 全人類必読の同人誌(あるのか、そんなもん)ではないけれど、はまる人にははまる「川柳の仲間 旬」。全人類の1兆分の1くらいは読んでほしいです。
 
 さて、御嶽海勝ったし、録画しておいた「プロレス総選挙」観よう(あくまで反省しない人間)。
(川合大祐)

 
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宴の始末・2017年新年会

2017-02-12 05:58:50 | 川柳日記
 たまには評論じゃなくて、日記を。
 2月4日(土)、「旬」の新年会がありました。
 私、一応幹事をつとめさせてもらいました。
 出席者は5名(健三さん、孝一さん、らきさん、千春さん、大祐)。
 場所は伊那市の某飲み屋。
 開会は18:00から。
 今日どんなご馳走かな、と考えながら職場の片付けをしていると、17時ごろ、健三さんから電話が。
「あー、もしもし、会場に大祐くん来とらんけど、このあいだの例会で、17時からって決めてなかったかね」
 血の気がさあっと引きました。
 こう言う時こそ、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせて、とりあえず職場の戸締まりをして、孝一さんに電話。
 なかなか電話が繋がらず、これはもう会場で待ちくたびれているかな、などと焦っていると、らきさんが出て、
「孝一さんなら、風呂入ってるよ」
「風呂、っすか」
「風呂」
「ってことは、今日の宴会、17時からではない?」
「うん」
 健三さんの勘違いと、私の妄想が暴走したようです。
 らきさん曰く、「凄い切羽詰まった声してた」そうです。
 テンパり易いのです。
 でも、何やかんやで手間取って、会場到着が18時ぎりぎり。みんな揃ってました。ごめんなさい。
 健三さんにも、僕がきちんと確認取れていなかったようです。健三さんの責ではありません。至らない幹事で、再びごめんなさい。
 健三さんと孝一さんは熱燗。らきさんはカクテル。千春さんは何だっけ。私は酒を飲みたくなかったので、コーラ。
 運ばれてきたコーラが、うまい。いやただのコーラなんだけれど、五臓六腑にしみわたる。生きていてよかったとおもいました。いや本気で。
 メインは鍋。
 肉とか野菜をつっつきながら、話は川柳のことになりました。川柳の会なんだから、それはそうなんだけれど。
 私は「旬」に入って16年になりますが、会は発足してから20年以上。
「いろいろあったなあ」
 とは、誰が言ったのか。何か重味を感じる言葉でした。
「俺たちが若いころは、仲間のやってた喫茶店に押しかけて、いつまでも川柳談義してたなあ」
 とは、孝一さん。
「おかげで、喫茶店の奥さんには迷惑がられてたけど」
 いや、でも、その熱気はうらやましい。
 そういう談義の中で、五七五のリズムというのは、農耕民族の動作に由来するものではないか? という仮説が立てられたそうです。
 これは非常に面白そうなテーマなので、また孝一さんに会ったら聞いてみよう。
 らきさんも今日は体調が良さそうです。
「らきさん、そろそろ句集、作りましょうよ」
 と水を向けたら、
「作ってくれ」
 と返されました。
 でもなあ、らきさんはもちろん、「旬」のメンバーの句、何とかしてまとめられないものだろうか、と考えている内に、肉も魚も野菜も終わりかけています。
 千春さんはずっと静かになにか飲んでいました。彼女も所属してから13年。
「(見た目が)変わらんなー」
「そんなことないですよー。口紅塗りました」
 それは変わったことになるのだろうか。
 ふと、健三さんと孝一さんの間を見ると、お銚子が結構な数。これは真似できない。
 締めのラーメンを食べて、デザート。
「これ、凍ってて食いづらい」
 とらきさん。
「いや、これはこういうもんなんだ」
 と孝一さん。
 ちなみに孝一さんは酒も甘いものも行ける二刀流なのです。
 外に出ると、伊那の寒気は痛烈です。
 でも、どこか体の奥が燃えている感じがしました。
 食い過ぎとも言いますが。
 川柳は作らなかったけれど、「川柳を作りたい!」と思わせる会でした。この拙文では伝わりませんが。
 夜気に白い息を吐いて、みんなそれぞれの家に帰ってゆきました。
 で、私は次の日からひどい風邪で二日間寝込みました。
 鍋、自分の箸は入れてないよな、うつしてないよな。
 業務連絡。皆さん風邪大丈夫でしたか?
 困った幹事もいたものです。やれやれ。
(川合大祐)

 
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「旬」」207号ひとり句評会(その5)

2017-01-22 06:41:48 | 川柳鑑賞
 こんにちは。
 どうも最近、毎週更新できなくてすみません。
 何だかすっかり、文章の書き方を忘れてしまいました。
 それもこれも、両国まで御嶽海観に行って来たりするから……。ってそれは別の話に。
 
 今回も「句評会に出られない人のための句評」です。

  ムーミンのトートバッグは知っている  桑沢ひろみ

 いっけんして、「ムーミンのトートバッグ」が主体として、何かを「知っている」ようにも読めます。
 (宮部みゆきの小説にそういうのありましたね。あれは財布か)
 しかし、ここはもう一つの読み方として、「ムーミンのトートバッグ」を、目的語として「知っている」という解釈もしてみたい。
 この世界で、知っているものは何もない。
 ただ、ムーミンのトートバッグだけを知っている。
 そちらのほうが、わくわくするような気がするのですが、皆さんいかがでしょう。
 この時、「ムーミンのトートバッグ」は、まっさらな地平線に屹立する山として、せつないくらいの存在感を放っていると思います。

 ただ、どちらの読み方にせよ、共通して困難にぶつかります。
「知っている」とは何か。
「ムーミンのトートバッグ」が「知っている」にせよ、何を「知っている」のか。
「ムーミンのトートバッグ」について「知っている」にせよ、いったいどんなことを知っているというのか。
 おそらく、答えは出ないと思うのです。
 というより、答えを出さないところに、この川柳の肝がある。
 僕たちが普段「知っている」と思うこと。
 それはすべて、本当に知っていることなのか?
 という問いをこの句は投げかけていると思うのですよ。
 で、それって、「川柳」という文芸の持つ本質的なところに関わってくるのではないかと。
 五七五という短詩型では、いろんな事を省略しなければなりません。
 その省略の過程で、逆に無限の広さを持った世界を展開させることができる/できてしまうのです。
 この句の場合は、「知っている」という〈知〉への本質的な問いかけですね。
「お前は何を知っている?」と、読者は揺すぶられるのです。

 さて、〈省略〉と書きましたが、この句においては「ムーミンのトートバッグ」と、これは具体的に書かれている。
 これは省略してないんじゃないか? と思われるかもしれません。
 しかし、たとえばこれが「ぼろぼろのトートバッグ」だったりしたら、この句の孤高性は失われてしまうような気がするのです。
「ムーミンのトートバッグ」という、大量生産される固有名詞の入った商品名だからこそ、〈書かないことによって書く〉という行為が可能になったのではないか、と。
 つまり、「ムーミンのトートバッグ」は〈省略〉なんですね。
 省略は、字数と関係ない。
 省略したほうが、字数が多くなってしまうこともあると、僕は考えます。

 さて、「旬」207号からの「句評会に出られない人のための句評」もこれで終わりです。
 207号って言ったら去年の9月号。あわわわわ。
 このペースで行くと、確実に「旬」の発刊ペースから遅れてゆきますね。
 すこし考えなければ。
 とりあえず、お付き合いいただき、ありがとうございました。
 あくまで、大祐個人の感想ですので、あんまり真に受けないでくださいね。

 それでは、また。
(川合大祐)
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「旬」207号ひとり句評会(その4)

2017-01-08 07:51:53 | 川柳鑑賞
 あけましておめでとうございます。
 すっかり更新滞ってしまいましたが、今年もよろしくお願いします。

 と、言うわけで昨年から続く「例会に出られない人のための句評」です。
  
  ジュラ紀から叩くコンビニエンスストアの木の扉  柳本々々

 この句がずっと気になっていたんですね。
 で、それは何でかって考えていたら、これは〈まっとうな川柳〉だということに気づいたのです。
「どこが? 五七五にもなっていないし」「ジュラ紀とか意味がわからない」という声もあるかもしれませんが、まあ私見を聞いてください。

 この句、構造を見ると「XXからXXするXXのXX」になっているのですね。
 その点から見ると、非常にすっきりした句の作りになっている。
 王道の川柳、と言っても過言ではない。
 でも、たぶんこの句は、そんな「王道」なんて拒否するでしょう。
 何故なのか。
 おそらくなのですが、〈意味〉が交錯しているところにあると思います。
 「叩く」「木の扉」というのは、大変ストレートな行為であります。
 そこに、「ジュラ紀から」、「コンビニエンスストア」が入ってくることによって、読者は幻惑されるわけです。
 いや、幻惑という言葉を使っていいものかどうか。
 言い直すなら、「叩く木の扉」という縦の糸がまずあります。
 そこに「ジュラ紀から、コンビニエンスストアの」という横の糸があります。
 この二つが交錯することにより、ひとつの織物が織りなされるのだと思うのです。
 もし川柳を〈線〉として考えるなら、この句は〈面〉になっている。
 一見王道な句が、実は王道を拒否しているというのも、この点にあります。
 どちらが良いとか悪いとかではなく(線より面のほうが上なんて考える人はいないと思いますが)、形態が違っているのです。
 王道の、「道」とは線か面かという問題もありますが、これはまあ冗談です。

 付言すれば、五七五について。
 この句は五七五になっていません。
 しかし、自由律とも違います。
 前から思っているのですが、この作者ほど〈定型〉を守る人もいないのではないかと思うのですよ。
 守る、ということはその中に沈潜することではありません。
 むしろ、その〈外〉へ出てしまうことが、守ることになると言う場合もあると思うのです。
 たとえばこの「ジュラ紀」の句の字数は五七五ではありません。
 しかし、字数がさほど問題だとは、私には思えないのです。
 五七五、を突き抜けることによって、この句は定型を守っているのです。
 私事になりますが、私の句は五七五が主ですが、それは五七五に〈守られている〉という受け身の姿勢です。
 逆にこの作者は定型を〈守る〉という能動的な姿勢を持っています。
 たとえるなら、定型を、戦いの荒野の中で、自らを守る固い鎧にするか、己が守るべき他者の命にするかの違いです。
 うまいたとえではありませんね。すいません。
 しかし、この作者は、〈定型〉に関して、闘う勇者だと思うのです。
 それがラスボスに辿り着かないクエストであったとしても、その〈勇気〉に、私は感動を覚えるのです。

 ということで、2017年はいいスタートが切れました。
 こんな感じで今年もやって行きたいと思います。
 お付き合いくださいませ。
(川合大祐)

 
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「旬」207号ひとり句評会(その3)

2016-12-12 13:59:28 | 川柳鑑賞
 こんにちは。
 やや遅れましたが、今週も「川柳の仲間 旬」207号より、「句会に出られない人のための句評」です。

  最善の選択だったあの時は!  竹内美千代

 先週、大川博幸さんの「、」の句についてお話ししましたが、この句も「!」が付いています。
 この「!」をどう判断するかは意見が別れるところだと思います。
 川柳に記号を入れるのが是か非か、それはとりあえず置いておきましょう。
 この句を、最初から読んで行きたいと思います。
「最善の」とはじめに言っています。
 この言葉を読んだだけで、多くの読者が、(ああ、最善ではなかったんだな)と思うでしょう。
 それくらい、「最善」という固い、よそよそしい言葉から、何か作者の思いを尽くせなかった、無念さがにじみます。
 それを受けて「選択」。
 ここにも、〈自分で選んだわけではない〉という、〈押しつけられた言葉〉が選ばれています。
「最善」にせよ「選択」にせよ、これらの漢語は、あまりに一般的に流布されすぎている言葉です。
 ならばこの句はありふれた、つまらない句なのか?
 もちろん違います。
 続けて句を読みましょう。
「だったあの時は」。
 ここではじめて、作者の生の言葉が出て来ます。
 過去を悔いるということ。
「最善の選択」を悔いるということ。
 そして、ここで「最善の選択」が生きてくるのです。
「最善の選択」という言葉は、まず、〈最善の選択をした〉という意味を伝えます。
 その上に、「だったあの時は」という悔いがかぶせられたとき、「最善の選択」という、〈押しつけられた〉言葉そのものへの距離感(抵抗、と言ってもいい)が立ち現れるのです。
 つまり、この「最善の選択」は二重の役割を果たしていることになります。
 そう考えたとき、「!」をもう一度見てみましょう。
 この「!」も二重の役割を果たしていることになりませんか。
 感嘆としての「!」。
 そして、〈これは記号である〉こと自体への言及である「!」。
 すなわち、「最善の選択」が〈記号である〉ことへの指標として、「!」はあるのだと。
 そう考えると、この句にとって「!」は必然性のある「!」ということになります。
 これはまさに、〈最善の選択〉だったのではないでしょうか。
 もうひとつ、「!」の役割として、句を直立させる棒のようなものだったかもしれません!

 それでは、また来週。
 今年中に終わるかな、このペースで。
(川合大祐)
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「旬」207号ひとり句評会(その2)

2016-12-04 05:46:09 | 川柳鑑賞
 こんにちは。
 前回「また来週」と言っておきながら、二週間ぶりのブログ更新になります。すみません。腰痛がひどかったもので。富樫義博かっ。
 というセルフ突っ込みは置いておいて、今回も「句会に出られない人のための句評」です。

  もう夏の匂いはしない、ただの夏  大川博幸

 これ、結構問題提起している句だと思うのですよ。
 ポイントは読点「、」にあると思います。
 たとえば、「、」抜きで書いてみたらどうなるでしょうか。

  もう夏の匂いはしないただの夏  (改悪例)

 これ、普通の川柳になってしまいますね。
 では、「、」を付けることによって何が違ってくるのか。
 たぶんなんですが、強引に「切れ」ができるのではないか、と。
 俳句で言う「切れ」とは微妙に異なります。
 「もう夏の匂いはしない」と「ただの夏」の間は意味が連続している。
 そこを作者はあえて切断した。
 何のために? と考えるたとき、「、」以前/以後をそれぞれ強調するためではないかと思われます。
 「もう夏の匂いはしない」で切れると、言葉の持つエネルギーが「、」に塞がれて、溜まります。
 そこで「もう夏の匂いはしない」という言葉が、何やら不穏な空気をもった、ひとつの黒雲として立ち現れてくるように見えます。
 そうやって溜められたエネルギーが、「、」を越え「ただの夏」に至ることで、一気に解放される。
 この時、「もう夏の匂いはしない」と「ただの夏」は、はじめて等価になるのだと思います。
 改悪例をもう一度見てください。
 これでは、「AはBである」という、いわゆる普通の川柳的な問答体になってしまっています。
 問答体とは、一見AとBが等価のように見えながら、実はAの意味をBに規定する、あるいはその逆でもあるかもしれない、ひとつの権力構造でしょう。
 言葉が、意味の鎖に縛られている。
 すべての問答体がそうだと言うのではなく、またそもそも問答体の是非については意見の別れるところでしょう。
 ただ、この句における「、」は、川柳の構造について、問題提起をしていると思うのです。
 それは、「もう夏の匂いはしない」と「ただの夏」が拮抗することによって、ひらかれてゆく世界が示していると考えます。
 ここにおいて、は。よりも、であることによって句に瞬発力を与えているのだと思います(すみません筒井康隆「句点と読点」ごっこがしたかっただけです)

 なんだかひとりよがりな句評になってしまいました。
 今回はいろいろな意味ですみません。
 少なくとも、また来週、もう少しまとまな句評でお会いできることを、心がけたいと思います。

 あ、言うまでもないことですが、博幸さんの句は良句だと思いますよ。
(川合大祐)
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「旬」207号ひとり句評会(その1)

2016-11-20 11:09:57 | 川柳鑑賞
 こんばんは、ラッシャー木村です。噓です。
 挨拶は大事なので言ってみました。しょうもない噓ですみません。
 しょうもないついでに、またもしょうもない妄言です。
 もう同人誌「川柳の仲間 旬」208号が出来ているというのに、まだ207号の感想を書いていませんでした。
 この前と同じように、「例会(句評会)に出られない人」向けの感想を書いていこうと思います。
 あ、しょうもないのは私の拙い評で、みなさんの句はどれも輝いていますよ。
「どんな句であれ、それが存在してしまった時点で、それはかけがえのない価値がある」
をモットーに、読んで行けたらいいな。うまく行くかどうかはわからないけれど。

  終点でバスをおりないおばあさん  池上とき子

 これ、何か怖いです。
 何が怖いと言ったら、この句を詠んでいる人は「どこにいるのか」わからない点です。
 終点でおばあさんがバスをおりない。
 それだと、車内には「おばあさん」と運転手の二人しかいない状況ですよね。
 では、この状況を視ている人はどこにいるのか。
 もうひとり、うっかりさんとしてバスに乗っているという解釈もあるでしょうが、それならただの滑稽句になってしまう。
 この句に張りつめた緊張感は、滑稽とは違います(注。滑稽を軽んじているわけではありません)。
 ここで仮に、句の詠み手を透明人間としておきます。
 そしてさらに仮に、「おばあさん」を作者本人としておきます。「おばあさん」が失礼な言葉だとは思いません。崇高な存在だと思っています。
 それはともかく、なぜ、たとえば「終点でバスをおりないわたしです」などにしなかったのか。
 そこにこの句の迫力の鍵があると思います。
 「私」を「私」として書かない。
 私を客体化してみる、と言えば簡単ですが、そんな簡素な行為ではない思いが、この句には込められています。
「おりないおばあさん」という「お」の連続。
 もっと言えば、「終点」から、「終わり」の「お」を連想させることもできるかもしれません。
「おばあさん」は計算されて置かれています。 
 つまり、「私」が作品化されているのです。
 どろどろに煮立った鍋の中に「私」を投入すると言ってもいいかもしれない。
 だからこそ、「私」を「わたしです」などと書けなかったのでしょう。
 いや、話は逆で「わたしです」と書かなかった時点で、どうしようもない「私」の噴出が、作品として昇華されたのではないかと思います。
 透明人間の怖さは、ここにあります。
 怖さと言うより、やはり迫力と言ったほうがいいのかな。
 自分を作品化した時に、自分を詠む亡霊のようなものが作られてしまう。
 それが「終点のバス」に乗っているというのは、作品を作るわれわれすべてにとって、他人事ではない切迫した状況です。
 だからこそ、この句は私の胸に迫って来たのだと思います。
 もちろん、句を作らない人にとっても、迫ってくる句です。

 なお、この句に関しては、「旬」208号にて、竹内美千代さんが素晴らしい鑑賞をされています。
 併せてお読み頂ければ、よりこの句の深さがお解りかと思います。
 207号、208号ともに(あるいは、片方だけでも)読みたいという方は、コメント欄か、16mon.k.dai*gmail.com まで(*を@にしてお送り下さい)、お気軽にどうぞ。
 一冊¥500です。
 最後は宣伝になってしまいました。まあ、これで商売しているわけではありませんので。
 では、また。
 来週お会いしましょう。
(川合大祐)

 
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「旬」208号(2016年11月号)より

2016-11-06 05:45:13 | 川柳あれこれ
同人誌「旬」の最新号ができました!
今日はダイジェストでお送りします。

ちなみに、「旬」の会員自由句はひとり十句。
その中から二句をつまみ出すのも乱暴な話ですが、興味がありましたら、ぜひ本体を手に取ってみてください。

 「ゴジラ忌」 柳本々々
新宿紀伊國屋書店本店に大量に浮くブラウン管
高品質なぼんやりを買う

 「洗濯」 竹内美千代
健康人高熱ごときで死後想う
風呂鏡ごぼうが二本 腕だった

 「勝つ事」 池上とき子
隣の花を見るため窓をふく
幸を逃した指の爪のばす

 「また明日」 樹萄らき
引き出しに折り鶴を飼うばかげていよう
角度にも弱さはあって三角定規

 「昭和九十一年・夏」 川合大祐
西瓜持つ少女持たれている西瓜
夏だった地球が二つあるように

 「道」 小池孝一
野の花の一生懸命死んでいる
秋をつつく長い手紙を書けぬまま

 「コップ酒」 桑沢ひろみ
両ひじが無防備なまま月を見る
ハワイアン聞いて旅立つ父の息

 「まんじゃらけ」 千春
副作用で出た乳を夫に含ませる
魂を宿してしまう ばかやろう

 「名月」 大川博幸
月の石のとなり地球の石を置く
名月や地球でも着る宇宙服

 「落ち葉」 丸山健三
バラード 空から降ってくる楽器
ふれてみる落ち葉の中の水たまり



まだ各自のこりの八句、いいのが揃っています。
ほ〜ら、読みたくなったでしょ〜。(脅迫)

今号は短歌・詩・小説・ラジオドラマ制作と多岐にわたって活躍されているミカヅキカゲリさんが、「旬」の感想を書いてくれました。ミカヅキさんありがとうございます。

博幸さん、らきさんのエッセイ、健三さんの旬名物「コーヒータイム」と、40頁ながら盛りだくさんの内容です。

いま、ホットな川柳をあなたに!(80年代風に)
では、お後がよろしいようで(80年代風に)。
(川合大祐)

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第38回伊那公民館文化祭

2016-10-31 19:38:14 | 川柳日記
いつも使わせてもらっている、伊那公民館の文化祭に参加します。

今日は、飾り付けに行って来ました。


入り口近くが旬のコーナーです。
 

全員の句。


丸山健三さんの作品。
 

小池孝一さんの作品。


樹萄らきさんの作品。このところ体調悪いなか、頑張りました。


千春さんの作品。本人は絶対映すなと脅されました。


大川博幸さんの川柳マンガ。生原稿です。


大祐の作品。


柳本々々さんの川柳絵。大祐の句に絵をつけてもらいました。たぶん、世界で一番こわいドラえもん。


ちなみに、公民館に入ると、かめくんが出迎えてくれます。


文化祭は11月1日〜3日まで。
お気軽にどうぞ。
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仰臥漫録、というほどのものでもない

2016-10-30 06:58:16 | 川柳あれこれ
 風邪で寝ているので、思いついた譫言(うわごと)をいくつか。
 ほんとうに譫言なので、適当に読み飛ばして下さい。なお、わたし個人の考えであり、「川柳の仲間 旬」を代表した意見ではありません。「それは違う!」と思われた方は、コメント欄にお願いします。

・川柳は自由ではない。川柳は「自由であれ」という強制からも自由である。つまり、何か川柳を定義したとき、そこからどんどんはみだしていくのが川柳であるということ。と、いう定義すら川柳はすり抜けてゆく。

・川柳は人間賛歌ではない。そもそも歌ではないし。何かを賛成したとき、川柳はその生命力を失う。どだい人間は音痴である。

・川柳は五七五ではない。たとえどんなに整った十七音字・五七五の句であっても、そこにはその構造自体を自解させる爆弾がひそんでいる。五七五の破壊が川柳である。5+7+5=17という計算が出来ないのだった。

・川柳は穿ちではない。少なくとも、穿ったときの「自分」はどこにいるのか、都合よく忘れてしまう「穿ち」ではない。穿つなら、まずおのれを穿つべきである。そのとき、穿つことの不可能性を知るだろう。

・川柳は「こと」を描くものではない。「こと」の深奥にある実存自体を描くものである。そもそも「もの」と言っている。

・川柳は人情の機微を描くものではない。「機微」などという言葉に納まるほど、人情は単純ではない。ものを食わなければ腹が減るのは生理現象であって、人情ではないが、人情もまた生理現象のひとつである。

・以上の川柳の定義は、どんな川柳にもあてはまらない。何故なら川柳を詠む=読むたびに、新しい定義が更新されるからである。

・そして仮に、以上の定義をすべて満たす川柳が存在したとして、それが「良い句」だとは限らない。

 以上の定義集は五分で考えましたが、十五年考えてもおなじことを言ったかもしれません。五秒でも同じだと思います。
(文責・川合大祐)

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