Programmer'sEye

1エンジニアとして、これから先のコンピューターと人との付き合い方を考えてみたい。

技術と人-世代についての考察

2004年05月27日 03時21分38秒 | 人とコンピューター
世代についての話は面白かった。
しかし、梅田氏が書いている視点に関して、2分化した状態で後の論議が進んでおり、なおかつ、各人がそれを認識できているのかどうか側から無い状態なので、ひとつまとめてみたい。
っと、こんなことを書いたが、私もはじめにまとまっていなかったのだが。

まず、「不特定膨大多数への信頼」というものが、何についてであるかだが、

1.私たちの画面の後ろにいる、「その先」の多くの人々

2.インターネットに接続された膨大な数のコンピューター

3.接続されたコンピューターに蓄えられた、「その先」の人々が作成したドキュメント

の3つがあることを、はっきりとさせておく。
そして、この世代論議では、「1と3」と、「2」という二つが分かれた状態で論議が進んでいるようにおもわれる。

注)「1と3」となるのは、インターネット上のドキュメントを通して私たちは、それを作った人々のことをおもうわけであり、「チャット」や「メッセンジャー」を通して、「人」そのものとやり取りを行うことはまれであり、この2つはどうかして考えるべきだからである。

さて、まず「2」を考えるが、「2」についての世代というものは、はっきり言って存在しないのではないかとおもう。
梅田氏の考えとしては、「Googleの提供するサービスを考え出せる世代、考え出せない世代があるのではないか」ということで、分かれているとされている。
しかし、技術者としての立場からすれば、「ある特定の技術」については、「あちら」も「こちら」も無く、梅田氏が「2」の点について「PC世代」と考える人においても、分散コンピューティングやグリッドコンピューティングがどのようなものであり、どのようなときに用い、どのような発展をしていくのかを創造できない、というようなことは無いとおもわれる。

インターネットという膨大な数のコンピューターがぶら下がったネットワーク上で、グリッドコンピューティングを用いて何ができるとおもいますか?
という問いかけをすれば、「2」における「PC世代」も「ネット世代」も、同じような答えを返すであろう。

ではなぜそのような会見がもたらされたのかを考えると、きっとGoogleの提供しているサービスを考えたのが、マーケッターやイノベーターであり、エンジニアではない、からだとおもわれる。
「2」でいうところの「PC世代」「ネット世代」とは、それぞれ、「エンジニア」「マーケッター・イノベーター」と置き換えることができるようにおもう。

純粋に技術のみを対象としている人々は、それがネットワーク上を前提として動くのか、それとも単体のコンピューターの上で動くのか、などということは気にしない人が多いとおもわれる。
ある程度の人であれば、別にどっちでも動かせるのだから。

ただ、ネットワーク上で動かす再には、「そこに相互運用性を求めるならば」いろいろな取り決めが必要であり、多くの場合、そのような取り決めを考えることを技術者は嫌う。
そのため、進んでそのようなものを見ようとはしないだろう。
それが表面に現れれば現れるほど、単体のコンピューターのみを対象として考えているように見えるのではないか。
それが、「PC世代」として写るのではないかと、考える。

写るだけのものは、世代の違い、といえるものではナだろうというところから、「2」については、世代というものは存在しないと考えるわけである。

つぎに、「1と2」であるが、まず注意しなければいけないのは、「世代」という認識をしている以上、その違いは個々の人々の考え方の特色をさす言葉ではなく、その分けられた人々全体の特色を指さねばならない。

その点で、「情報の趣旨選択能力」や「処理能力」というものは省かれてしまうため、F's eyesさんにて書かれている、「ネットリテラシー」(ネット社会の常識)というのが、適切であろうかとおもわれる。

ただ、言ってしまえば「ネット世代を分けるものが何であるか」を考えるのは、「何がネット社会の常識なのか?」というお題であって、「ネットリテラシー」自体は回答にならない気もする。

「不特定膨大多数への信頼」は、「信用」ではない。
だからこそ、よりよくネット世代をあらわしているとおもうのだが、「だからどうしたのだ?」というといに、答えられていない。
現実の世界でも行われていることなのだ。
そして、きっとそれは「ネット世代」の前提でしかない。
梅田氏は、「説明がちゃんとできないところで感ずるところを書いているので」とかかれており、きっと、そういうことなのだろう。

ネット世代をあらわす特色。
ネットリテラシーとは何なのか?

いくつか考えてみよう。

「情報に対する信頼」「情報の趣旨選択」等、「情報」をどうするかが判断基準のひとつとなると考えている人は多い。
しかし、情報には生産者と消費者がある。
趣旨選択、信頼ともに、消費者側の言葉であるから、消費者側について考えてみる。
さて、書店で売っている本を、皆さんは信頼できるか?
または、書店で売っている本を趣旨選択することは無いか?

多分、信頼し、趣旨選択もするだろう。
だとすれば、インターネット上の情報についても同じこと。
これは、ネット世代の特色ではない。
だとすれば、「インターネットの上にあるものを」信頼し、趣旨選択するから「ネット世代」であるということになる。

ある意味、これが結論になるのだろうか。
でも、それだけなら、初めてインターネットに触れた人でもすることだろう。
現に、本屋でもしていることを、そのままするだけである。
信頼は初めてのものを見たときからあるものではないから、はじめは信頼できないだろう。
しかし、インターネット世代においても、はじめてみるWebページやBlogを信頼するか、といえば、ここのページに書かれているものをある程度読んだところで、判断するはずである。

もう、なんら現実と変わりないことを言っている。

では、何が特色になる?

私がおもうところは、昨日のBlog「表現の道具」にも書いたが、「表現」を当たり前のようにできるようになること、だと思っている。

人の表現を受け、それにより自分の表現を行えるようになる。
そして、より素直に、「自分」というものの表し方を知り、より「表現」するようになる。
「表現」できるということ。
情報の生産者になること。
これこそが、インターネット世代の特色ではないかと、考えている。

私たちの多くは、「現実社会」の中で「物理的な物」を作って生活をしている。
「情報」を生産している人はそれほどいない。
それが、「ネット世代」では、「情報」を生産している人が当たり前になる。
しばらく前の、「インターネットを生活の場にできるか?」に書いたことだ。

それほど、難しい概念ではないと思うのだが、そこが、ネット世代とPC世代を分けてしまうのだろうか。




ちなみに、携帯電話でメールの交換をしている女の子たちは、ネット世代ではないだろう。
あの子達は、「携帯」という「パーソナルスペース」をいつでもどこでも持ち歩いていて、その中で生活しているだけである。
あの子達にとってのネットワークは、ただ言葉を伝えるための糸電話の糸に過ぎない。

新しい世代が、より狭い世界に閉じこもっているというのは、悩ましいことである。

また、音楽やコンテンツはネットワークでまかなっていますという、情報消費者も、ネット世代ではないだろう。
利便性が良いからネットワークを使うだけで、使えなくなればまたCDを買い、本を買う。
世代、というのは、それほど簡単に元に戻れるような違いを指すものでは、無いはずである。