はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 小鍋峠

2012-06-17 11:55:03 | ウォーキング
天城越え3-2

慈眼寺~小鍋峠~箕作

 ハリスの泊まったという慈眼寺は期待外れだった。ハリスの湯ヶ島の宿泊地だった弘道寺では思わぬ物を見る事ができたが、ここの寺は日帰り温泉を併設してあり、寺より温泉に力を注いでいるようだ。狭い境内は更に温泉施設を作るのか基礎工事をしていた。サー次にに行こうと早々に退散した。

 先程の道標まで戻り今度は擁壁側には上らずに、下りの道を行くと橋の手前に石仏が何体かあった。これなら街道に間違いないだろうと橋を渡れば、そこには新しい標識が「至 湯ヶ野1.1km」となっていた。
湯ヶ野の国道は何度となく通ったが、まだ一度も寄った事はないのでホッとした。
理由は言わずと知れた伊豆の踊子の中の文章に「ほの暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった」とある。
その踊子が入ったのが共同風呂を見てみたい。そしてあわよくば-------が見れるかも------。
と馬鹿な考えが頭の中をよぎっていた。

 一方島崎藤村の伊豆の旅では、藤村は湯ヶ島から馬車で湯ヶ野まできて、ここで下田行の馬車に乗り換えている。その乗換の合間に河津川の見える宿の温泉には入っているが共同風呂の話は出てこない。

 河津川の向こう岸の上に、国道のガードレールや慈眼寺と隣の温泉の建物が見えるが、その大きさは寺に倍するくらいだ。
標識に「小鍋神社」の表示がある。慈眼寺の手前で道を聞いたときも小鍋の名前が出てきたのだが、実は下田街道を調べたとき小鍋峠の事が幾つかのHPに載っていた。それらによるとこの小鍋峠は下田街道では天城峠気に次いで難所だったとあり、現在でも湯ヶ野側は道が不明な個所があり道なき道だとか、峠を越した河津側はこんな表現をしてあるHPもあった。
「小鍋峠の先に行きかけて、驚いた。すぐ前は絶壁、右に回り込むと、道のようで道ではないような急坂になっている。とにかく下りればいいのだろうと、急坂を滑り落ちるように下りて行った。その際、左の絶壁を避けて、できるだけ右を通るようにした」
そんな訳で小鍋峠は若干の不安と共に頭の中に残っている。その小鍋峠がいよいよ近づいたのだ。では峠での無事を祈って小鍋神社にお参りしていこう。
立ち寄った神社には面白い話が残っていた。「昔、文覚上人が伊豆の源頼朝に父義朝の髑髏を見せ、「疾く、疾く、謀反を起こし、平家を討ち亡ぼして、父の恥をぞ清め、又、国の主とぞなりたまへ」と激励したと「源平盛衰記」に見え、またのちにこの地に義朝の髑髏を埋め弔ったと伝えられている。 文覚が髑髏を葬った場所は、神社の南側にある四抱ばかりの樫の巨木の根本であると伝えられ、この木を髑髏樹と呼んでいる」と境内にある案内板に書いてある。
 
 中々面白い話だったので先ず文覚(もんがく)上人について調べてみた。すると間違いなく文覚上人は伊豆の奈古屋に流罪になり、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得ている。
だが何故文覚が頼朝の父親義朝の髑髏を持っていたのか分からないし、まして蛭ヶ小島と離れたここに義朝の髑髏を埋葬したのか見当がつかない。だいたい頼朝が父親の髑髏を見せられ、そのままにするのが不自然で、普通なら近くに手厚く埋葬するだろう。所詮は他愛のない作り話なのだろうか。
境内の案内板には他にも小鍋の謂れも説明してあった。
「後に頼朝は父義朝の霊を弔うため、二十人ほどの家来を連れてこの地を訪れたのである。当時ではこんな大勢の人の料理を作る大きな鍋が無く、探し求めた結果、漸く大小の鍋を入手した。この時差し出された鍋の大小によって、現在の大鍋・小鍋の名が誕生したという」
百歩譲って文覚上人がこの地に義朝の髑髏を埋め、頼朝がお参りに来たとするなら。当然頼朝はこの神社に領地とか下賜品などを与えたはずだがその事は書いてない。
それどころか地元では参拝に来た頼朝一行に料理を振舞うため鍋を準備している。そしてその時の鍋の大きさで地名を付けたとなると大鍋は良いが、小鍋は気持ちはどうだろう、末代までの恥と感じてしまうのではないか。
下賜品も与えないでいて侮蔑的な地名まで付けるなんて、何と浅はかな男なのだ頼朝という奴は。
頼朝が名付けたのではないって? それなら小鍋が自分たちを卑下して名付けたというのだろうか? それも理解しづらい。
矢張りこれは地名の大鍋・小鍋は頼朝に関係なく他の理由でついたのだろう。よってこの神社に義朝の髑髏が埋まっている事は無い。

   
  河津川越しに慈眼寺が                       小鍋神社の髑髏樹?

 小鍋神社の不気味な伝説とは裏腹に、神社の横は棚田になっていて明るい感じの所だった。
神社から小鍋のを通り川を渡った所に新しい標識が建っていた。そしてその先の道の法面には地図入りの案内板があった。さっき慈眼寺の下の標識に「湯ヶ野1.1km」とあったので、そろそろ湯ヶ野温泉に着く頃だと地図を見ると、アレーこの地図では湯ヶ野には行かないようになっている。
なんか変だなー 下田街道を歩いた川端康成も島崎藤村も湯ヶ野では温泉に入っている。なのにこの地図は下田街道が湯ヶ野を通っていない。でも道は川沿いについているので、きっと湯ヶ野には寄るだろう。と自分に言い聞かせるようにして歩き出した。
するとどうだ、案内板の先の分岐では川側でなく山側に向かう道の方に「小鍋峠」の標識が張ってある。エッ!今ここで山に入っては完全に湯ヶ野には行けなくなってしまう。慌てて案内板に戻り地図を確認した。


  小鍋神社横の棚田         小鍋集落の標識           案内板先の分岐

 改めて見ても分かりにくい地図だった。現在地の所の分岐がはっきりしない。しかしよく見るといたずら書きのように黒い線が湯ヶ野温泉に延びている。分かりにくいので誰かが後で追加したのだろう。
もうこうなると湯ヶ野温泉は諦めるしかない。わざわざ温泉まで行って、またここまで戻るのも馬鹿らしい。この先には難所の小鍋峠が控えているのだから我慢しよう。湯ヶ野ならまた来ることもできるのだから。

 最初の分岐を山側に登って行くと、更に3ケ所ほど悩みたくなるような分岐があった。だがそのいずれの分岐にも標識がありスムースに通過できた。道はいよいよ山道に入り小鍋峠へと向かう。期待と若干の不安を胸に抱きながら歩いていくが、道ははっきりしっかりしていて、今のところ何の心配も無い。

 おや道の先に顔のないお地蔵さんがある。どれどれ顔に丁度良い石がないかと辺りを見回すと、細長いが底が安定している石を見付けた。その石を地蔵さんの上に載せてみると。オッ!カッコいい!まるで鞍馬天狗が覆面をしているように見える。いやいやよく見ればイースター島のモアイ像の顔のようでもある。自分が乗せた地蔵の顔にすっかり満足して延命十句観音経を唱えた。風と鳥の鳴き声だけの中では、私の下手な経もいつもよりマシに聞こえた。

 今度は道標が建っている。左の面に「従是普門院参道」右の面に「従是下田道」となっている。先ほど見た地図入りの案内図に普門院の紹介があり「普門院は鎌倉公方足利持氏が開基とされる曹洞宗の寺院。応時は末寺49寺を有していた。峠道の途中にある下田街道と普門院へ通じる分岐点には、元文2年(1737)年に建てられた道標が残る」とあった。その道標がこれなのだろう。
今から275年前の道標にしては文字がはっきりしていて、一見しただけで読み取る事ができた。石材が良いのか、それとも森の中なので陽射しや風雨が弱いので劣化速度が遅くなるのだろうか。

 でもチョット待った(また始まった)この道標には「下田道」と書いてあるが、川合野バス停手前にあった道標は「天城街道」とあったが、その違いは何だ!
これは簡単に推理できた。川合野の道標は明治に入り完成した馬車道を案内したもので、こちらは徳川時代の道標だ。という事は天城街道という呼称は明治に入ってからのもので、それまでは下田街道と呼んでいたのだと思う。
ついでに言うと江戸時代の天城越えの峠だった「二本杉峠」だが、何故天城峠と呼ばなかったのだろう。東海道の難所箱根は箱根峠、鈴鹿は鈴鹿峠と地域全体の地名を峠名にしていて、峠名を聞いただけで場所が分かるようになっている。なら下田街道最大の難所なら下田峠か天城峠が妥当と思うが、ここでは何処の境か分からない二本杉峠という名前だ。何故だろう?

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  案内図拡大         首無地蔵にモアイの首を       普門院道標

 それにしても街道は道なき道にはならず、標識もあり何の不安も無く順調に続いている。この先がそうなのかと思いながら歩くのだが途中には営林署の治山工事の使用前、使用後のような写真入りの看板もあり、道なき道になりそうな気配はなかった。
最近登山道の整備でもしたのだろうかなどと考えているうちに上の方が明るくなり峠に着いてしまった。
地図入り案内板の分岐から40分、山道に入って30分であっけなく峠に到着。

  
  小鍋峠(小鍋側)                      小鍋峠の歌碑

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