はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

塩の道&秋葉道Ⅱ(掛川-森1)

2012-11-05 15:11:32 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅱ(掛川~森1)                   歩行月日2012/10/2

歩行時間:3時間30分 休憩時間:0時間20分 延時間:3時間50分
出発時間:7時30分   到着時間:11時20分
歩数:20、160歩  GPS距離:16.2km

行程表
 掛川駅 1:55> 若一王子神社 0:30> 長福寺 1:05> 戸綿駅

 
   掛川城大手門                     掛川城天守閣

観歩記
掛川駅から前回離脱した塩町南の交差点に向かう。当時は塩問屋があった所だが今は何の面影もない。
道は旧東海道と合流して掛川宿に入る。途中再建された掛川城の大手門を潜り、天守閣を見てまた街道に戻る。
掛川と森の間は今まで何度もも歩いているが塩の道を通しで歩いた事はなかった。ただ過去に歩いた部分を
繋ぎ合わせれば殆ど塩の道は歩き終わっている。それでも何か新しい発見があるといいのだが。

電柱に「十九首(じゅうくしゅ)」と不気味な地名が出てきた。
ここは東海道を歩いた時に寄り、首塚の数が19個も無いのではと後で疑問を感じていたので、今日はその首塚の
数を数えるために寄ってみた。
「十九首塚」とは、平将門と家臣19名の首塚のことで、関東で討ち取られた将門一行の首をこの地で検分をし
埋葬した所で、家臣18名の慰霊塔が将門の首塚の周りを囲んで状態にしてある。
その家臣の慰霊塔の数が写真では17本しか見えなかったので疑問を感じたに過ぎないのだが。
そして当然の事だが慰霊塔は18本あった。

  
   十九首塚                       秋葉山遥拝所

安藤広重の浮世絵の掛川宿は、二瀬川に架かる大池橋を描いてある。その大池橋を渡った所で塩の道は
旧東海道と別れ北に向かう。
その分岐点に秋葉山遥拝所があるのだが「秋葉道・塩の道」の道標は、その遥拝所の後ろを通り
遥拝所には寄らない。でも道標に秋葉道と表示してあるのだから矢張り寄るべきだろう。で私は寄ってみた。

新しくできたばかりの祠は新しすぎて少々軽い感じで何の感応も湧かない。
昔はここに唐銅大鳥居や常夜燈、また「右あきは・・・大池村」と刻まれた自然石の道標があり、東海道を
旅する人を秋葉詣に誘っていたという。資料によっては伊勢参りで東海道歩く旅人の8割は秋葉山詣でをした
と書いてある。その多く人は、ここから北に向かい秋葉神社の表参道を登って行ったのだろう。
その表看板である大鳥居が今は無いのは如何とも淋しい感じがする。浜松にあった秋葉神社の大鳥居は
青銅製のため先の大戦で供出されたらしいが、ここの大鳥居もそうだったのか?

ところで遥拝所と聞くと私のイメージは、その目的物が遠くに見える所だと思っていた。
だがこの遥拝所から秋葉神社のある秋葉山らしき山は見えない。東の方角に532mの粟ヶ岳は見えているが、
秋葉山の方角の北には885mある秋葉山は見えなかった。
でも考えてみれば遥拝とは、戦時中「皇居遥拝」といって皇居がある方角に向かい礼拝をさせていたのだから
見えなくてもいいのだろう。
遥拝を辞書で見れば「遠くへだたった所から、神仏などをはるかに拝むこと」となっていた。

新しい祠の前には、これも新しい「正一位秋葉神社道」と彫られた石碑が建っている。
その横を通って塩の道の道標がある道に戻る。

  
   常夜燈(秋葉路)         鉄製常夜燈           鞘堂          

遥拝所を過ぎてから常夜灯の数が増えてきたようだ。最初に見た常夜灯はコンクリ製の立派な常夜灯だったが、
よく見ると銘板の最後に「日本鋪道」と書いてある。どうやらこれはこの先にあるニュータウン秋葉路の宣伝用
らしい。次の常夜灯は一風変わっていて、下はベニヤで覆い、灯りの部分は鉄製でガラスが入っている。
雰囲気的には昭和前期の物か。灯りは後の鉄柱から配線してあり電球を灯すようだ。
これなら目印だけでなく足元を照らすくらい明るいだろう。

鞘堂に入った常夜灯は、この辺りではよく目にする物だが、この中に常夜灯を入れて火を灯しても明るさは如何とも
しがたい。以前森町の蓮華寺前の鞘堂で火を灯してある鞘堂を見たが、照らすというより目印と言った感じだった。
それでも暗い夜道では立派に目印としての役目は果たしていた。でも秋葉詣での人達は夜も歩いたのかしら? 
それともこの常夜灯は村人の為の物だったのか? はたまたお祭り用だったのか?


森町との境に近い掛川市本郷の長福寺に10時に到着。この分ではゴールの戸綿駅には昼前には着いてしまいそうだ。
この長福寺には一昨年遠州33観音巡りで訪れているが休憩を兼ねて境内を一回りしてみた。
先ずこの寺の経歴だが、開創は行基で真言宗の寺として栄えた。途中で天台宗に改宗して、、一時は遠江国を二分する
勢力を有したという。その後今川の遠州侵攻の戦火により伽藍を焼失して衰退したが、遠州太守の寄進により寺は
曹洞宗に改宗され現在に至っている。
真言宗や天台宗の寺が曹洞宗に改宗するのは静岡県では珍しくないが、真言宗から天台宗に改宗した例は余り聞かない。
以前比叡山の僧兵(天台宗)が遠州の鴨江寺(真言宗)に押し寄せてきて乱を起こした事があるが、そんな事が影響して
いるのだろうか?

またこの寺には空を飛んだ釣鐘の「幻の釣鐘」の伝説が伝わっている。
「むかし、掛川の長福寺に旅の僧が立ち寄り言いました。「大和の国まで行くのだが、少しお金を恵んでくだされ」
丁度そのとき碁を打っていた和尚は、自慢の大鐘を指差して「金ならあそこに吊してある。あれでよければ持っていけ」
と、からかいました。旅の僧は、釣鐘堂にあがると鐘を軽々と下におろし、ふわりと肩にかつぎあげて、
「和尚、もらっていくぞ!」と叫び西の空に飛んでいってしまいました。
和尚も噂を聞いて集まった村人も、おろおろするばかりでどうしようもありません
その夜のこと、役の行者尊を祀った大和の国の大峰山では、ひどい嵐が吹き荒れました。翌朝、村人が外に出てみると、
険しい岩山の松に大きなつり鐘がかかっています。不思議がりながら、やっとの思いで近づいてみると、その鐘には
「遠江国佐野郡原田郷長福寺鐘天慶七年六月二日」と彫ってありました。
旅の僧が役の行者尊の化身だったと気づいた村人たちは、長福寺の裏山にお堂を建立して、行者尊をまつりました。
けれどそれ以来、何度つり鐘をつくっても、その音が寺の外には聞こえなかったそうです


似たような話だが少し変化した
「長福寺の門番をしていた山伏が、寺の老僧のお陰で毎年大峯山へ参詣していました。その老僧が亡くなり後任の和尚に
頼んでみたが「この貧乏寺でカネと名のつくのはあの鐘楼の釣鐘ぐらいなものだ。あれでも良ければ持っていけ」
相手にしてくれません。 
翌朝、釣鐘が突然鐘楼から外れ、うなりをあげながら大和の大峯山を目指し空を飛んで行ってしまいました。
和尚は驚き山伏の案内で釣鐘の後を追っていくと、大峯山の鐘掛岩絶壁にかかっていました。そのご長福寺では 
釣鐘に変わる物として行者太鼓が造られ、毎年8月に役行者尊の祭典で奉納演奏を行うようになりました」

されどちらの話の方が面白いですか。更にこんな記述もあった。
「昔話の銘文が刻まれた鐘は現在、奈良吉野の大峰山頂の大峰山寺に置かれ、国の重要文化財に指定されている。
歴史的にみると、時代は北朝と南朝に分裂していた頃で、後醍醐天皇の皇子を奉じて、京都を目指していた南朝軍が
鐘を略奪して南朝後醍醐天皇の重要な拠点の一つだった大峰山に運んだ説が有力だ」

マーそんなところだろうが、国の重要文化財に指定されているのは、鐘に美術的・工芸的価値があっての事なのか、
それとも鐘が辿った歴史的過程によるものなのか?どちらだろう。

  
   曽我兄弟の墓            六地蔵             長福寺本堂   

長福寺の境内にはもう一つ首を傾げたくなる物があった。
それは「曽我兄弟の墓」でなぜこんな場所にあるのだろう? 駿河や伊豆、そして相模にあるのなら理解
できるが遠江国佐野郡原田郷長福寺にある理由が分からない。
調べてみると唯一出てきた説は少々眉唾だが紹介しておきます。

「平安時代から室町時代にかけて原田郷を支配していた原氏は、藤原氏の流れをくむ一族だった。
その原氏の領地を曽我兄弟の父や祖父が奪ってしう。それを同族の工藤祐経が咎め、兄弟の父親の
河津祐泰を処刑してしまった。幼かった兄弟は母親の再婚相手の姓を名乗り、長じて曽我十郎・五郎として
祐泰を討ち取り親の仇をとった」

なんだか私の知っている曽我兄弟の仇討とは大分違うが、本当だろうか。
しかも原氏には、河津祐泰は恩人で曽我兄弟は領地を掠め取った敵の子供に当たる。それなのに墓を
建て菩提を弔うなんて??
これが工藤祐泰が原氏の領地を侵略し、それを咎めた兄弟の父親を殺してしまい、兄弟が敵を討ったなら
スコンと頭に入るのだが。、
私の解釈が間違っているのかもしれないな。ご存知の方がいたら教えてください。

  
   モニュメントと道標        秋葉道道標拡大      鞘堂

ただ、今回調べて以前疑問に感じていたことが一つ解決した。
それはこの辺りは山間地なのに「原谷、原田、原泉、原川」など、やたらに原の付いた地名が目に付いた。
その時の私は得意の妄想的歴史観で、この辺りは山間地多く、少しでも開けた場所は、憧れも兼ねて
「原」を付けた地名にした。と解釈してしまった。それが今回調べていて「原」と付いた理由は、
原氏がこの地を支配していたので、その名をとった事が分かった。

そうそうここにある曽我兄弟の墓は弟の五郎の墓だけで、兄十郎の墓は少し離れた茶畑の中にある
「宗塔庵」にあるのだそうだ。
また、先に話をした「幻の釣鐘が長福寺の本堂に吊るしてある」と紹介してあるHPもある。
次回は長福寺に来た時は、住職に是非これらの事を聞いてみたい。
(小心者の私に果たして聞く事が出来るかどうか-----)

著福寺の門前には正面に「ひだりあきは道」側面に「為父母報恩」と刻まれた道標がある。
その横にはお馴染みになった塩の道のモニュメントが。少し入った境内には常夜灯の鞘堂も。
昔の旅人もここで休みながら、空を飛んだ鐘や曽我兄弟の話に花を咲かせながら休んだ事だろう。

 
      新東名森IC                      IC近くの看板

新東名の工事中は歩きにくかった場所も開通してしまった今は、すっきりして道が分かりやすくなっていた。
街道の横が丁度森ICの所で、車が出入りしているのが見える。しかしIC近くの丘の上にはゴルフ場や
レストランの看板が乱立していて少々違和感を感じた。

  
     常夜燈         祭りの準備           天浜線戸綿駅

神社のある高台には常夜灯があり、その下の広場では地区の若者が祭りの準備に忙しく動いていた。
「南陽社」とか「北陽社」と書かれた雪洞が吊るされていて、会社名なのかと思い尋ねると「地区の名前」
答えてくれた。ただ私が「エッ!」と言うと「神輿の名前」と言い直した。祭りの講の名前なのか?

天竜浜名湖線の戸綿駅に11時20分に到着。




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1 コメント

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こんにちは。 (城ケ崎孤高)
2012-11-18 22:13:51
トラックバックさせていただきました。よろしくです。
曽我兄弟の墓は各地にあり、それぞれ色々な伝承があるようですね。

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