はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

静岡県の東海道4-5

2011-04-05 09:22:20 | ウォーキング
駅からウォーク 「静岡の東海道」4回目-5  2011/3/2

藤枝駅 ― 島田宿 ― 大井川 ― 金谷宿 ― 菊川間の宿 ― 小夜の中山 ―
 6:50      8:25     9:10     10:00      11:00       11:30
         8.9k     12.5k     16.4k      19.4k        20.8k
 
日坂宿 ― 事任神社 ― 掛川宿 ― 妙日寺 ― 袋井宿 ― 袋井駅
 12:05     12:20      14:05    16:05     16:50    17:22
 23.8k     24.6k      32.8k    42.1k     45.3k    46.0k

                       掛川宿へ(平将門)



日坂宿を出て旧国道と合流するところに遠州一宮の一つ、事任(コトノママ)神社がある。
この神社は歴史が古く、平安時代には、この神社の話が都にまで伝わっていて、清少納言の
枕草子の中に「ことのまま明神いとたのもし」と書かれた項があるという。
事任の神は「願い事をことのままにかなえてくださる神」として都にも伝わっていたようだ。
私も何か願い事をして叶えてもらわなければ------さて何を頼もうか。
事任神社の境内には大きなクスの木があった。

日本橋から53里目の伊達方の一里塚跡がる。(ただ案内板には57里目と表示してあった)
伊達の名称に興味を持って調べてみたら。伊達は伊達でも東北の伊達政宗とは関係なく、
遠江の伊達家の所領地だった。なんだ。



柵で厳重に囲まれた道標があった。説明によると大頭龍大権現と福天大権現への参道標と
ある。確かに太く深く彫られた道標の字はそのように見える。
更にここは遠州灘の川崎湊(現静波)と結ぶ、川崎街道の起点だったとも書いてある。
塩や海産物を海から運んでくる街道だったのだろう。
そういえば、この先の掛川宿は川崎湊の隣村の相良湊から、信州塩尻に向かう塩の道の経路に
なっている。東海道のように東西の街道だけでなく、海岸部と山間部を結ぶ南北の街道も
何本かあったのだろう。

日本橋から54里目の葛川一里塚跡の碑がある。
掛川は葛の産地で、葛を利用した葛布や葛粉の葛湯・葛切り・葛餅・葛根(かっこん)などの
生産を行っている。ここの地名も葛川(くずかわ)なので葛の根でも取れたのだろう。
更にこの近くには葛ヶ丘と書いて「かづらがおか」と言う地名もある。くずになったりかずら
になったり日本語は難しい。

一里塚の隣に変わった常夜灯があった。灯篭の下に神棚が付いているので秋葉山の御札を
この中に掲げてあるのだろう。



日坂と掛川の間の道は正直余り面白くなかった。面白くないと疲れが増してくろ。
今30kmを越えたが、まだ先は長い。掛川、袋井を越え磐田まではあと何kmあるのだろうか。
果たして磐田まで行けるのか不安になってきた。

掛川の城下に入ると新川の七曲りがあった。これは枡形が連続した道で確かにクネクネとした
道になっている。この道なら敵が攻めてきても、その勢いを殺す事ができるだろう。そして
七曲の家の屋根から矢を打ち込めば、強力な防御システムになったと思える。
現在の七曲り跡は道の数が増えてしまい、どこを曲るのか分らなくなっている。せめて曲り角
に小さな案内板でもあると七曲りを実感できるのだが。

私は街道マップを持っていたので迷わず歩く事が出来たので、参考までにそのルート書くと
兼子酒店(左折)→予備校(右折)→常夜灯(左)→突当たり(右)→酒屋の先(右)→七曲解説板(左)
→塩沢機械(左)→ヤマザキ(右)→鰻屋(左) フー疲れた。

右側に城の門が見えた。近づいて見ると掛川城大手門となっていた。この門を潜って行けば
城に行けるのかも知れないが、今は先ず本陣跡を探さなければならない。と道を引き返す。
おかしいな?本陣跡の案内が見つからない。右往左往したが結局分らず城の近くの案内所で
聞くことにした。



案内所で聞いてやっと辿り着いた本陣跡は なんだー この程度か。

街道沿いにあった銀行が両替商の建物を再現していた。壁の絵は掛川城の城主の山内一豊と
妻千代。そして千代が買ったといわれる愛馬だろう。だがこの話は一豊が掛川城主になるズート
前の話だ。



電柱の所在地名に「十九首」なる不気味な名前がある。何と読むのかカナを振ってないので
読めなかったが「十九首塚入口の」案内板もあったので行ってみる事にした。
案内板によると「十九首塚(じゅうくしゅつか)は関東で討ち取られた平将門の首を、この地で
検分をしたあと、将門をはじめ一門家臣十九名の首頭を別々に埋葬し懇に供養しました」
とあった。
平将門の首というと、京都で晒し首になった将門の首は、関東を目指して飛び去ったとも
云われていて、その首が途中で落ちた所が、それぞれ首塚になっているらしい。
中でも有名なのが江戸の首塚で、その首塚を移転しようとすると事故が起こるとされていて
今でも同じ場所にあり、畏敬の念を集めているという。
それに比べこの首塚には、そんなオカルトめいた伝説はないが、逆にそれれが真実味を増し
こここそ本物の将門の首塚だと思いたくなる。

ところで当日写してきた写真を見てみると石碑の数が合わない。中央の将門の首塚の周り
には18個の石碑がなければならないのに16個しか見えない。
若しかしてこれは呪いなのか! 首塚の写真は写してはいけなかったのか!

マーそんな事はない、石碑が重なっいるだけだろうが、次回行った時は実物を数えてこよう。
そうそう「十九首」の地名も「じゅうくしゅ」と読むようだ。



広重の掛川の絵は、二瀬川に架かる大池橋と火防で知られる秋葉山を描いている。
橋の袂にある常夜灯は秋葉山に続く街道の入口を示しているそうだが、でも何か変。
常夜灯はここまでにも何ヶ所もあったが、古い石造りで大きく立派な常夜灯が多かった。
それが本家に続く道の入口にある常夜灯が木製のチャチな常夜灯とは納得できない。
仮にそうであっても広重の浮世絵なら、きっと大きな石造りの常夜灯になっていただろう。
橋の向こうに描かれた急峻な秋葉山のように。
絵の構図上、大きな常夜灯ではバランスを欠いてしまうからなのだろか?

現在の大池橋はコンクリート製の何の趣もない橋に変わっていた。そしてバックの山は
有るのか無いのか分らないくらいの山並みだった。

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