はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

天城越え 修善寺

2012-05-17 15:47:19 | 低山歩き
天城越え1-7

大仁橋~修善寺橋
 広瀬神社を出ると大仁の中心街なのか狭い道の割には車の量が多く歩きづらかった。そんな道の横に案内板と庚申塔が並んでいる。
東海道で相模の国を歩いていて、庚申塔に「三猿」が彫られているのを見てから、必ず庚申塔の台座も見ろようにしている。だが今日はここまで歩いてきて庚申塔は幾つか見たが、そのどの塔にも三猿は無かった。伊豆地方は三猿を掘る習慣は無かったのか? 案内板には
「庚申さんは、猿田彦と結びついており、十二支の中の申を動物の猿になぞらえてもので、さらに猿田彦を刻む庚申塔が道祖神・賽の神として発展した」と書いてある。
これで庚申が猿に関係していることは分かるが「庚申塔に猿田彦を刻む」とはどういう事なのだろう。庚申塔に刻まれているのは、手が何本もあり、その手に仏具等を持った「青面金剛」だと勉強した。だがここには猿田彦が彫られているとある。
猿田彦は鼻が高く、祭りの行列の先頭を歩く天狗が猿田彦なのだから、伊豆の庚申塔は天狗が彫られているのだろうか。それなら興味深いのだが。
だが案内板の横に並ぶ庚申塔は、文字が刻まれているだけで天狗も青面金剛も彫られていなかった。

猿田彦を後で調べてみると、こんな表記もあった。
「天孫降臨の際に道案内をしたことから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が猿田彦神として祀られている。さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられた」となると庚申塔に鼻の高い姿の仏が刻まれていても、あながちおかしい事ではなさそうだ。

 車が多くせせっこましい道路には似合わない物があった。それには「霧時雨 富士を見ぬ日ぞ おもしろき」と彫られている。
そう芭蕉の句碑です。この句は東海道箱根の西坂を下ってきた所にも立っていたので覚えていたのだが、こんな場所にもあるなんて少々ビックリした。
箱根では富士山を望む場所に建っていたので、富士山が霧で見えなかった事に「おもしろき」なんて負け惜しみを言っている芭蕉にニヤリとしてしまったが、この街中ではそんな感興は起きてこない。そのせいか句碑も汚れて文字もはっきりしていなかった。

  
  大仁の庚申塔                          芭蕉の句碑

 道が右に曲がった踏切の先に赤いアーチの大仁橋が見えてきた。下田街道はここで狩野川を渡り左岸を遡るようになるのだが少し違和感を覚えた。今まで歩いてきた右岸の先には支障となるような山は無く、線路も道路も平坦のまま先に伸びている。なら何もここで狩野川を渡らなくても、そのまま右岸を遡れば楽だったと思うのだが? ただ橋の袂にはとんがり帽子の様な山(水晶山)があるのが気にはなるが。

 大仁橋の袂には幾つかの案内板があり、その中の「大仁の歴史」の中にこんな記述があった。
「明治33年 伊豆長岡~大仁間の豆相線開通。大正8年 駿豆鉄道全線電化 三島~大仁間 大正13年 大仁~修善寺間開通」となると大仁から修善寺までの間は、大仁に駅が出来てから25年も後の事になる。となれば大仁・修善寺間に線路を敷設するのに何か不具合があったとしか考えられない。とするとそれは狩野川が邪魔をして鉄橋を架ける事が出来なかったからに違いない。
では何故鉄橋が必要か、それは川の縁にある水晶山と、現在北側に続いている山とが繋がっていたからだと思う。そのためトンネルを掘るか橋を架けるにしても金がかかるので、25年もの間修善寺には線路が伸びなかったのだろう。とまたまた妄想的歴史観が働いた。
それにしても線路の所が山だったとは今見るととても考えられないが。

 案内板の記述にまた引っかかった。それはこの鉄道が開通当初は「豆相線」と呼んだことだ。豆は伊豆、相は相模の略だから伊豆と相模を結んでいることになる。しかし三島は伊豆で相模に行くには箱根を越えなければならない。では何故豆相線と呼んだのだろうか? これは調べたが分からなかった。 ただ妄想的歴史観は、鉄道敷設当初は伊豆と小田原まで結ぶ構想があったといっている。

 更に大正8年の全線電化時は「豆相線」「駿豆鉄道」に変わっている。これは明治39年に沼津停車場前~三島広小路間を駿豆鉄道が開業し、その駿豆鉄道が豆相鉄道を買収したからのようだ。これで駿河の沼津と接続して線路の名称としては違和感は無くなった。
ただ現在は修善寺と三島だけで沼津には伸びていない。だから正確には伊豆線か三修線と呼ぶべきだろう。

 現在大仁橋が架けられている水晶山は、江戸時代は渡し船の乗り場として賑わっていただけでなく、材木の集積場としても賑わっていたようです。
狩野川の上流の天城山中から切り出された木材は、原木のまま狩野川に流され、この水晶山の麓で集めて筏に組み、ここからは筏師により下流の沼津まで運んでいたようです。その筏を岩につないだ穴が今でもあるそうですが、残念ながら表示が無いので分からなかった。

 そうだ水運となると韮山の反射炉で鋳造した、使い物にならなかった大砲は、どうやって品川のお台場まで運んだのだろう。調べてみるとやはり狩野川を利用して沼津まで運んでいたことが分かりました。

   
  踏切の先に大仁橋が                         水晶山の慰霊碑

 大仁橋から狩野川を眺めると釣り人の姿が見えるが何を釣っているのだろう。鮎にしては早すぎる気もするが、鮎の試し釣りなのかもしれれないな。川の流れの穏やかな時はのどかに見えるこの光景も、台風ともなると一変して地獄図になってしまうのだろう。特に橋の所は橋桁に上流からの流出物が溜まり、ダムのようになってしまうようだ。それにより左右の堤防を越えて水がを襲い、さらに増えた水は橋を押し流して、溜まっていた大量の水を土砂と共に一気に下流に押し出してしまう。
先ほど見た大仁橋の案内板には、流された大仁橋の写真もあった。きっと狩野川台風の被害はこの辺りでも出たのだろうが、まだその慰霊塔は見ていない。水晶山の慰霊碑は大正時代の慰霊碑だった。

 狩野川を渡った正面の高台に「大仁金山」の看板が見える。あの金山は「天正年間に発見され、金山奉行大久保長安により開発され、最盛期は慶長年間でだったが後に休山」と先程の案内板に書いてあった。でも以前にここを車で通った時は、金山の看板と同時に建物も有った記憶がある。さらに金山が潰れて後は「帝産??」とかいって遊園地をやっていたと思う。
案内板の「その後休山は」昭和の事か? それとも江戸時代の事なのか??

 大久保長安の名前が出てきたので、またここでチョット脱線する。
大久保長安は初め甲斐の武田家の家臣だったが、長篠の戦で武田が敗れた後、徳川家康の家臣となった。東海道を歩いていて一里塚の看板に何度かこの長安の名前が出てきたが、長安は鉱山開発だけでなく一里塚などの交通網の整備もしたらしい。佐渡金山をはじめ石見銀山、土肥金山、大仁金山などを手掛けた長安は家康に気に入られ、その権力は巨大なものになっていた。
だが全国鉱山からの金銀採掘量の低下すると家康の寵愛を失い、役職を次々と罷免されてしまった。そして失意のうち慶長18年卒中のために69才で死去した。
この後が面白い。長安の死後、生前に不正蓄財をしていたという理由で、長安の男児は全員処刑されてしまった。さらに家康は長安の墓を暴き半ば腐敗していた遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で晒し首にしたといわれているている。
これぞまさに盛者必衰の見本のようなものだ。

 私は権力などいらないが、ほんの少しでも金は欲しい。昔の金山は砂金があった事で見つけたようだが、最初に砂金を見付けた人は何故内緒にしなかったのだろう。私なら決して口外せずに砂金を貯めこんで、離れた場所で少しづつ使うのに------
静岡県はこの大仁金山や土肥金山、それに安倍奥の日影沢金山などの金山があるので金が多いのかもしれない。こうして静岡県内をあちこち歩いているのだから、たまには嬉しい事にぶつからないかしら。
エッ!それには街道歩きや低山歩きでは駄目で沢登りをやらなきゃダメだって。そうなんですよね、でもこの齢で沢登りはさすがきつすぎます。

 街道を離れて金山跡の下まで行ってみたが、中には入れそうもないので、また街道に戻りました。

  
  大仁橋から狩野川                          大仁金山跡

 立派な「南無阿弥陀仏」の石碑が建っているが、これもどうやら唯念名号塔らしい。この名号塔は彫がはっきりしていて「天下泰平 国土安穏」とか「元治元年」とか読み取れた。横には行くもの石仏があったが、こちらは名号塔より古い感じがした。
 更に街道を進むと黒塗りの長屋門があった。いつの時代の長屋門なのか分からないが、案内板がない所を見ると最近の物なのかもしれない。だが石垣の上にのった長屋門は中々見ごたえがあり、昔の金山に関係していた邸かとも思ってしまった。
 
    
  唯念名号塔              瓜生野の石仏 

 静かな雰囲気だった街道が国道と合流すると俄かに喧しくなった。修善寺の横瀬の交差点が渋滞しているのか、伊豆に向かう車が長い列を作っている。昔はこの信号が渋滞のネックだったが、最近は修善寺道路が開通したので、渋滞は解消したと思っていたがそうでもないようだ。たった5km程度走るだけで200円は高いと感じる人がいるのだろう。これを100円にすれば大概の車は修善寺道路を通ると思うが。

 横瀬の信号の川寄りに笠を被りカラフルな毛糸のケープを掛けた大きなお地蔵さんが建っていて、その下には緑色の毛糸の帽子を被り桃色の涎掛けを掛けた小さなお地蔵さんが六体もある。またその地蔵の横には「南無阿弥陀仏 天下泰平 国土安穏」と刻まれた唯念名号塔と思しきものも建っていた。
その塚の外に「鎌倉二代将軍源頼家公尊像 愛童将軍地蔵再建記念」の石塔がある。ならこの大きな笠を被った地蔵は源頼家なのだろうか、地蔵の横に案内板があるが、小さな字で一杯書いてあるので読んでいられない。で家に帰りデジカメで写した案内を読んでみたので、地蔵に関する所だけ概略を紹介します。
「横瀬愛童将軍地蔵
鬼よりも残酷な鎌倉執権時政は、孫の頼家将軍を伊豆修善寺の山の寺に出家させた。子煩悩な頼家公は鎌倉に残してきた愛児のことを忘れられず、里の童を集めて遊んでいた。元久元年七月、頼家公は鎌倉の討手により捕えられ、裸のまま縛られて23才で無残な最期を遂げた。
 如何に武運が尽きたとしても将軍を斬り刻んだ姿は誰が見ても哀れだった。里人これを聞き、怒りを含んで浄財を集め、石の地蔵尊を狩野川の月見ヶ丘に安置した」
という事だそうです。

ネットにはこんな事も書いてあった。「修善寺橋たもとの西側にある小山を月見ケ丘といい、頼家が修善寺で幽閉された折り、この丘に登り身の不運をなげき、月見をしたといわれている。この小山の中腹に、頭に石をのせた地蔵があり、笠冠地蔵といったが、今は移され、愛童将軍地蔵として橋のたもとにまつられている。高さ2メートル近い大きさの地蔵像である」
笠冠地蔵か、その名前の方がピッタリくる感じだ。

  
  瓜生野の長屋門                          横瀬愛童将軍地蔵

 横瀬の交差点は修善寺駅と修善寺温泉の分岐点で、ここを左折して修善寺橋を渡れば修善寺駅に行く。
今時間は15時10分で時間的には余裕があるが、ここから温泉まで4km以上なら今日は温泉に行くのは止めようと思っていた。
4kmだと行に1時間、帰りに1時間そして見学とかで30分以上かかるだろうから、駅に着くのが6時ごろになってしまうからだ。
だが本当は今日はダラダラ歩いたせいか少し疲れてきていて、歩く気は無くなっていた。しかし道路標識を見ると修善寺温泉までは2kmとなっていた。
残念!それでは温泉まで歩かなければならない。萎えた気分を振り払い温泉に向かって歩き出した。

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