忘却への扉

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偽り憎み平和を愛す

2016-11-04 | 平和を

 【 地 軸 】 2016/10/29 地方紙1面下段コラムより

[ 終戦を決した昭和天皇に、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍相が戦争継続を上奏する。天皇は「阿南よ、もうよい」と退ける。昨年公開され、ポツダム宣言受諾までの政府の動きを描いた映画「日本でいちばん長い日」の一場面だ。
 ▲映画にはないが、史実には前段がある。阿南は天皇の末弟、三笠宮さまを訪ね、天皇に翻意促すよう訴えた。三笠宮さまは「陸軍は満州事変以来、大御心(天皇の考え)に沿わない行動ばかりしてきた」とはねつけた。
 ▲厳しい言葉が出たのは戦地での体験があったからだ。陸軍大学で学び、参謀として中国戦線に赴き、悲惨な状況を目の当たりにした。「今もなお良心の呵責(かしゃく)にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです」。自著での回顧は波紋を呼んだが、意に介さなかった。
 ▲戦後は皇室と国民の距離を縮めようと努めた。「皇族に対しても批判がなければ『菊のカーテン』の中に神格化されて閉じ込められる」と新聞に投書。皇室の在り方を世の中に問い、天皇の生前退位を認めるよう主張もした。
 ▲平和を目指すには民族の歴史を理解するのが不可欠だと、古代オリエント史を専攻し、大学では教壇に立った。電車で通い、焼き鳥屋にも足を運んだ。飾らない人柄は「大殿下」と慕われた。
 ▲三笠宮さまが逝去された。時代を鋭いまなざしで捉えた率直な批評はもう聞けない。先の大戦に向き合い、平和の大切さを訴え続けた良心を受け継ぎたい。]

 ( 忘却への扉 ) 100歳の長寿で逝去された三笠宮さま。皇族の中でも自分を持っている人だとは、これまでも取り上げられていたが、その数々の逸話を地方紙紙面で知ることができた。
 ■ 三笠宮さま語録 ■ からの1つに93・1「最近、南京大虐殺が問題になています。新聞を見ていると何万人殺したとか、いや殺していないとかいう話が載っていますけれども、これは数の問題ではなくて、1人であっても虐殺は虐殺なんです」 (雑誌「東方学」の座談会)
 「偽りを述べるものが愛国者とたたえられ、真実を語るものが売国奴とののしられた世の中を、私は体験してきた」。陸軍軍人として直面した「聖戦」の実像を記し、古代オリエント研究に没頭した100歳の障害は、偽りのない平和への思いに貫かれていた。
 1943年1月、中国・南京の総司令部に赴任。皇族としてのお印が「若杉」だったことから「若杉参謀」と呼ばれた。軍部への批判的な姿勢は戦中から見られた。南京での講和で満州事変を「現地軍の独断」とし、「現在日本人、特に軍人に欠如しているものは『内省』と『謙譲』」と断じた。陸軍の横暴を批判する文書は危険文書として当局に破棄されたが、戦後に見つかった。
 戦後の著書でも、開戦時の陸軍の作戦を「馬にあべこべにまたがって尻ならぬ肩の方をひっぱたいて走ろうとしたもの」とやゆした。
 「学者殿下」となった三笠宮さまがこだわったのが、紀元節問題だった。紀元節は「初代天皇」の神武天皇が即位したとされる日で、終戦で祝日は廃止されたが、66年に同じ日が「建国記念の日」になった。
 三笠宮さまは、遺跡の発掘成果や日本書紀の記述を基に、学術的根拠がないと指摘。再び国が祝日とすることに「学問の自由を脅かし、やがては戦争につながる」と反対した。宮邸に右翼が押し掛けたが、事実と神話は厳しく区別する歴史観を貫いた。
 「残念ながら、歴史を回顧すると、平和とは戦争の休止期間にほかならなかったとさえいえる。それでも、われわれは何としても、その平和の期間を1年でも長く保つように、最大限の努力を尽くさなければならないと思う」。最後の著書となった2008年の「わが歴史研究の七十年」には平和への思いをこう記した。
 終戦から間もなく、「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)として、1946年11月3日付の文書には、女性天皇については法の下の平等という観点からは認めなければならないと主張。譲位については「天皇に『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法の精神に反しないか」と述べ、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」とする新憲法の18条を挙げ、生前の退位を認めるよう迫った。] 安倍晋三首相らを支援する日本会議の考えとは全く異なり、見習うべきだと思う。
 

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