忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

女性の先生から びんたも当たり前

2017-01-12 | 平和を

 【 厳しかった戦時下での教育 】 松山市 男性( 82・無職 )

 ◇私は昭和一桁の9年の生まれで、昭和の激動期を歩んだ。太平洋戦争が始まった年である昭和16年の4月、私たちは尋常小学校から改名された国民学校(現在の小学校)へ入学した。
 ◇当時は軍国主義真っ盛りで、女性の先生からびんた(ほおの平手打ち)を受けるのも当たり前だった。教室には皇居の二重橋の写真が掲げられていた。教室で騒ぐと「天皇陛下の前で騒ぐとは」といって木刀で頭をたたかれ、こぶができたのを鮮明に覚えている。寒いので手をズボンのポケットに入れていると、これも「兵隊さんが寒い所で戦っているんだから」といって縫いつぶされた。これは一例で、何かにつけて厳しかった。今では考えられない。戦争という2文字は胸の内にしまっておこう。
 ◇省は22年に教育制度が変わり、新制の中学や高校が誕生した。私たち9年生まれは節目節目の学び舎で1期生として学んできた。八十路(やそじ)坂を上り始めた今は妻や子供、地域の方に支えられながら余生を送っていきたいと思っている。]
                                    《 こだま 読者の広場 》 地方紙「投稿欄」より

 ( 忘却への扉 ) 尋常小学校から国民学校と改名され、大戦の敗北後昭和27年に現在の小学校になった。私より年上の人たちの多くは、古い学校名で戦中体験を話し、よく聞いていた。
 戦時中から70年以上が経つというのに、現政権は再び戦争法で権力を悪用し、人権侵害の軍国主義の夢を現実に甦(よみがえ)らそうと懸命だ。従軍慰安婦(慰安所)や南京大虐殺など侵略戦争さえも、無かった過去にしようとするのも、あの戦争はあくまで神国日本が決起した聖戦だったと反省しないため。
 戦後の小学校に通った私だが、女性の先生は殴らなかったが、男の先生には平気で暴力をふるう人がいた。本気でびんただけでなく、図表や黒板の文字などを指す竹の根で作った細い棒(児童生徒が山から掘ってきた)で力いっぱい叩かれる子もいた。
 「戦争という字を胸の内にしまって」おけない時代に、安倍政権はすでに踏み込んでいる。体験を伝え平和を、子や孫やひ孫たちのためにも、余生を生かしてほしい。

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