小楢の現象学~行為的直観と全人的自然生活から

進化したものと発生現象の根底にある運動体~植物的自然観察から生物学の哲学的考察へ

ソメイヨシノ④~自然と人工の狭間から浮かび上がるもの

2017-05-18 | 植物論考

ヒラドツツジの花もほぼ終わった。一昨日、結実しているかどうか確認したが、していない。まったく実なるものができている様子は見られない。真ん中をめくってみても、葉芽のようなものがあるだけである。ツツジは、生垣などにもっとも多く使用されている。やたらめったらそこら中にある。いま白い花を咲かせているシャリンバイやトベラ、まだ花は咲いていないがハナゾノツクバネウツギ(アベリア)など、街路樹に多く植えられている低木は、花が終わればどうにも地味であるが、なぜそれらが多いのかは不明である。排気ガスでも吸ってくれるのだろうか?ツツジだらけの街路樹というのも、ないこともないが、低木ではあちこちに植えられている。うちの庭にもある。

ヒラドツツジは、複数のツツジをかけあわせた園芸品種である。地名がつくその他多くのツツジも、園芸種である。例によって、人工的にいじくりまわしているので、生殖機能がおかしくなり、果実も種子もできない。本来の目的を達せないまま、「人間のために」花を咲かせて、あっさり散ってゆく。タネができないので、接ぎ木や挿し木で増やす。むしろ、タネができない植物が、やたらめったらあちこちに植えられているのは、タネを植えて増やすより、接ぎ木などで増やしたほうが楽だから、ということでそのような結果が生じていると考えられるだろう。樹木を種子から育てるのは何年も何十年もかかり、平均寿命が短い人間にとっては、大変な作業である。

ソメイヨシノという桜が終わったかと思えば、ツツジが咲きだすが、そのツツジの中の多くもソメイヨシノに代表されるサクラ類と類似している。ようするに、私たちが目にして「花が咲いた、○○の時期だ、見頃だ」といっているものは、目立つ花なのであり、目立つように人工的に人間が作っているのである。ちなみにヒラドツツジは稀にタネができるらしい。(ヒラドツツジはソメイヨシノ同様八重ではない。キリシマツツジはガクと花びらが同じような形態をしている。雄しべを花びらにしたのではなく、ガクを花びらにしたということだそうが、勉強不足でいまいち詳細は不明であるが、八重でド派手という感じはない。)

こういうことばかりを考えていると、皆、人工的につくったものをみて、花の時期が来たといって、楽しんで、四季折々の自然に触れて、癒されていると思っているが、どうにも奇妙である。まさかツツジの傍で、食事をして酒を飲み、雑談するひとはいないであろうが、花が終わればこれもまた無視されるのだろうか。

技術をつかって、簡単に増やせるから、見かけるものは園芸栽培品種であることが多い。しかも、人間が楽しめるように、大きくて色鮮やかな花をつけるように操作しているから、みなそれらばかりをみてしまう。ある種、人間世界において人間が人間に騙されている、というのは、大げさな表現だろうか?


別に騙されても、本人が楽しんで癒されていればいいという見解もあろう。それはそれでいいともいえる。コンクリートとアスファルトに囲まれた都会に、人工的につくった「半自然」なるものをみて、少し自然に近づき、四季を感じる、そういう植物との接し方も、全面否定はできない。現代人が何かに圧迫されて疲れている、ということの表れでもあるし、そういう人達や文化や風習や歴史を責めることはできない。

いまさら縄文時代の原始人に戻るわけにもいかないし、現代文明や科学技術が悪というわけではない。また、森に住んでいた我々の祖先が、わたしたち現代人より幸福であったかというと、いちがいにはいえない。ソローというひとは、森に住んだそうだが、じゃあ明日から森林に住んでみろ、といわれても、わたしなら拒否する。そもそも、生きてゆく自信がないし、夜になれば、一刻も早く明かりがあり科学技術に囲まれた我が家に戻りたいと思うだろう。

私たちは、自然とどう向き合うべきなのだろうか?

ソメイヨシノやツツジやアジサイやバラのように人工的なるものを増産して、それらを観賞して自然を利用するのがいいのだろうか。山に登ったり森林や河川敷を歩き、樹木や草花が放出している物質を取り入れて、五感で体感すべきなのだろうか。

こういう問題は、そのひとが常日頃どんな環境に囲まれて生きているかということによって違ってくるだろう。また、ある種の思想にかかわることでもあり、イデオロギー的な主義主張をするひともある、そういう事がらでもあるが、生物学の知見を参考にしながら、最終的には現象学的に考えてみる必要がある、ということを述べておきたい。

そのために、あえて、人工物の代表といえるソメイヨシノなる樹木について取り上げている次第である。植物が色とりどりの美しい花をさかせるのは、人間のためではなく、子孫を残すためであることは、何度も述べていることであるが、それはあくまで生物学的・植物学的な観点からの結論である。別に、人間のために咲いている、といってもよいのあり、ある種の見地からはそういえるのだ。

わたし自身は、植物学的な観点を、約2年ほど前までは全くもってはいなかった。だから、かつての自分と同じように植物に接している人達を批判したりすることはできない。生物学や植物学といっても、科学の一部分であり、科学が万能で絶対というわけではない。科学そのものは、ものごとを考えるひとつの手段にすぎない。実際、科学者が、日常生活のすべてにおいて科学的立場でものごとを考えて行動して生きているか、というとそんなことはありえない。

科学という学問から科学技術が発展進歩してきたが、植物を人工的にいじくって栽培するのは、どちらかというと技術的な問題なのかもしれない。技術が発展したので、飛躍的にいろんなことができるようになった。一方で、学問的な立場からは、自然については、わからないことばかりである。だからこそ、自然科学には、終わりというものがない。これですべてを解明したという着地点はない。


どうも話が脱線してまとまっていない気がするが、とりあえずは、植物学的な知見をとりいれて、どこに人工的な技術が入りこんでいるのか、ということを見分けることで、いままで知らなかった地平が開けてくることがある、と思われる。そのためには、人工物ではない、自然本来の在り方というものを知る必要がある。「雑草」と呼称されてひたすら邪魔扱いされる野草や、樹木についてよくよく観察する作業が大事になってくる。それと、「私自身」との関係性については現象学的な立場から、論考し論述することができるであろう。わたしの作業は、最終的には、そこにあることを、あらかじめ断っておきたい。

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さて、問題のソメイヨシノであるが、実ができない、ということなので、本当にそうなのか、ということを花が終わって観察していた。ソメイヨシノの花が満開のときは、どうも拒絶反応が強すぎて、近寄りがたくほぼ無視していたし(後述するが、別の桜をひたすら観賞していた。)その他の樹木の花がいっせいに咲いていたので、そちらを観察・観賞するのに大変で、少しは見たが、ほとんどソメイヨシノは観察してはいない。しかし、樹木は花がおわっても、自然災害でも発生しない限り、いつもの場所に存在している。わたし自身が元気なときは、いつでも「見頃」をみることができる。

というわけで、実が出来ないかどうか、さっそくソメイヨシノをみてまわった。驚くべきことに、ほとんどのソメイヨシノに実がついている。数こそ少ないが、一本の木にゼロの実というものを見つけることが難しいほどである。ひとつやふたつは必ずある。

すべての個体のDNAが同じで、自家受粉ができない自家不和合性をもつソメイヨシノに実(すなわちサクランボ)ができている。これは、一体、どういうことなのか?

桜前線が通過し、満開のあと風と雨で一気に散っていったと同時に、飲食と景観破壊と騒がしい人の群れも、すっかり桜の周りにはなく、雲散霧消している。わたしのソメイヨシノ観察と論考と混乱は、ここから始まったのである。観察と論考と調査は、いつも孤独な作業である。孤独であるが、楽しいものだ。「東京砂漠」という歌があるが、むしろ人が多いほど人間存在の本質的な孤独を深く感じるものである。


~つづく


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