小楢の現象学~行為的直観と全人的自然生活から

進化したものと発生現象の根底にある運動体~植物的自然観察から生物学の哲学的考察へ

自然と人工の矛盾~バラ科サクラ属ソメイヨシノ③

2017-05-17 | 植物、木、花、草、森林、自然 


全個体の遺伝子が同じ。条件がそろうと一斉に開花するが、果実はできないし、とうぜん種子もつくれない。自らの力で子孫を残すことができないから、人工的に増やされる。あちこちに植えられて、みんなが主に開花時期のみに注目する。注目するといっても、その下で、わいわいがやがやと騒いで飲んで食べて話して、自然破壊して、環境景観をぶち壊す。

日本の各都道府や市町村には、その自治体の木(花、つまるところ植物のこと)なるものが指定されていることが多い。47都道府県で、桜を自らの県の樹木に指定しているところはどこだろうか。実に興味深い結果が出てくる。ちなみに、大阪市はイチョウであり、東京都もこの頃の都知事の会見を見る限りどうもイチョウのようである。

イチョウは裸子植物で、特異的な樹木といえるが、日本列島の森林変遷にとって重要な樹木である、スダジイなどをその県の木に指定している自治体は見当たらない。ちなみに、いまスダジイは満開であり、西日本の山々など電車や車にのって車窓から眺めてみた時、全体が緑の中に、フジやトチノキの紫に、ニセアカシアの白などが目立つが、中に黄色い色がちらほらとみつけることができる。遠目でもぱっとそれとわかる。それがスダジイであり、満開の花で、すさまじい芳香を放って、甲虫などの虫を集めているのであるが、あまり知られてはいない。イチョウやスダジイについては、機会があれば述べるとして、ソメイヨシノに戻ろう。

大型で目立ち原始的な花をつけるモクレンやコブシについて言及したあと、人々は、いよいよ桜という体制になる。そこで、桜前線なるものが登場して、人々は、花見に備える。その間、ケヤキやエノキ、ムクノキやハルニレ、コナラやクヌギ、イロハモミジにトウカエデ、ヤナギ類、針葉樹のスギ・マツ・ヒノキと、次々と開花してゆき、結実してゆく。これらの花々もあっという間の命である。

にもかかわらず、桜のみが、風が吹けば一気に散ってしまう儚き代名詞とされて称賛されているのは、まことに、目立つものしか見ない、植物や自然について鈍感であることの、何よりの証左であろう。

サクラが終われば、ツツジという。ボタンにシャクヤク、チューリップ、そしてそれらが終われば、アジサイにバラ。次から次へと人々が言及しているところの樹木や草本の花々は、そのほとんどが、園芸品種である。日本でもっとも生垣に使用されているといわれているツツジも、その多くが人工的につくられた栽培品種であり、交雑種である。花が目立ち、緑と区別がつき、そうだと探さなくても自然と目に入ってくる。ボタンやシャクヤクはやたらと大きく、ド派手である。園芸愛好家が盛んに丹精込めて品種を改良して育てる。バラにいたっては、日本の自生種は、ノイバラとハマナスの二つである。にもかかわらず、何百、何千という種類の栽培品種が存在する。

菊は古来より、紋章などに使われ、日本の国の花の代表のように思われているが、日本には国の花は存在しない。韓国の国花は、ムクゲだそうだ。そのキクひとつとりあげてみても、どうだろうか。園芸店や花屋にいかずとも、スーパーにいけばキクの切り花が売っている。自然界に八重咲きの花は存在しないと前回述べたが、流通しているキクやバラで、一重であるものはどれくらいあるだろうか? 雌しべや雄しべはなくなり、生殖機能を失って、みな消費されてゆく。もちろん、切り花は、消費するためのものであるから、それはそれなりの用途があり、用途にかなった使い方をされているという点では、何も問題はない。

しかし、八重咲きの派手なバラや大輪のキク、どでかいツバキやサザンカ、ボタンやシャクヤクが重宝され、高値で売買される。一方で、園芸品種のお花畑をつくるために、自然に生えている、野草は「雑草」として引っこ抜かれる始末。そもそも、雑草といっている人々が、それらの雑草がいったいどんな花を咲かせるのか、認識しているのだろうか。花の色も形も知らず、単なる邪魔な草として、生えてきたものを引っこ抜く。作物栽培に邪魔だから、虫がよってくるから、景観が悪いから…。作物栽培は別として、雑草と呼ばれてしまっている種々の野草を引っこ抜いてまで、園芸品種を植えて、それらの花が満開になったところで、いったい何が楽しいというのだろうか?それで、草花を観賞したといえるのだろうか?

一方で「雑草魂」などといいようにいわれているが、コンクリートの隙間に追いやられてしまった野草らは、踏まれても踏まれても強く生きる、などと形容するべきものではない。別に形容してもよいが、では、園芸品種のように、それらの「雑草」という野草を、庭やベランダなどで育ててみるがいい。案外、難しいものである。

外来種を含めた様々な野草を引っこ抜いて、芝いちめんにする。都市公園には、コンクリートと固い土。せっかく植えた落葉樹の葉も、掃き集められて、土壌は一向に豊かにならないから、雑草すらもあまり生えてこない。生えてきても、にかよった同じものばかり。そして、夏になり草が生い茂ると、一気に機械で刈り取る。

緑を求めながら、緑を駆逐してゆく。街路樹はぐちゃぐちゃに剪定され、丸太に近い骸骨となって冬には不気味な姿となる。強制剪定された街路樹から、休眠芽を出して、枝を伸ばして、葉を広げる。一方で、サクラは大繁盛、園芸品種はあちこちに植えられ、売られる。いったい、どういう意図で、どういうつもりで、私たちは自然や緑や花を、眺めて接しているのだろうか?


抜いても抜いても生えてくるのが雑草、なのではない。
コンクリートの隙間から踏まれも力強く生えてくるのが雑草、でもない。

一体ぜんたい、抜いているのは誰なのか?
抜いているから生えてくるという野草の当たり前の生態が完全に抜け落ちている。
土地をことごとくコンクリートで固めて土をなくし、生きる場所をそのコンクリートの隙間に追いやったのは、誰なのか?

上述したことは直接は、ソメイヨシノとは関係がないが、つながるところは大いにある。人工物だらけの都市において緑をもとめながら、その求めている緑や花は、人工物だらけ、という矛盾に、無自覚無頓着な現代人の姿が浮かび上がってくる。自生地を知らず、原種を無視し、ただ綺麗で派手なものを追い求める。美的価値観は、相対的なものであり、各人によって異なるから、いちがいにはいえいし、

「テーブルに飾られたバラより、野に咲くレンゲソウのほうがいい」という歌もある。


ソメイヨシノは、八重咲きではないが、「八重桜」と我々が呼称していえるところのサクラも、園芸品種である。サクラのみならず、ウメもモモも、八重咲きのものだらけである。花びらがないと花ではないのだろうか、花びらが少ないと寂しいのだろうか。そうしないと、現代人の孤独はいやされないのだろうか?

~つづく
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