小楢の現象学~行為的直観と全人的自然生活から

進化したものと発生現象の根底にある運動体~植物的自然観察から生物学の哲学的考察へ

日本人こだわりの花~桜 ソメイヨシノ①

2017-05-16 | 植物論考

バラ科サクラ属については、いままでさほど関心はなかった。むしろ、植物の観賞から観察への2年前の転換点があってよりずっと以前から、サクラが咲くころには、公園などでバーベキューをする群像が大量に発生することを、嫌っていた。せっかくの花が台無しで、焦げ臭い煙と、酒を飲んで騒ぎ、自然の光景風景を破壊している、といつもの私が感じているようなことを思っていた。

ところが、観賞から観察への転換があってから、ソメイヨシノは、わたしにとって大きな存在となった。この、ソメイヨシノを代表とするサクラ属の樹木の花によって、他の多くの樹木の花や、草花(雑草)の開花が見逃されている事実を感じざるをえなかったからである。単に、肉を食べて酒を飲んで景観をぶち壊すということではなく、もっと奥にある、日本人は、自然や四季折々の草花が好きだといっているが、実態はどうなのか、実はまったく知らない、知らないどころか、自然を無視し黙殺し、あるときは破壊しながら、そのことに無自覚であることが、浮かび上がってきたのである。

まずは、ソメイヨシノがテレビやラジオや新聞のニュースや日常話題や、主に気象情報で取り上げられる時期になると、違和感を感じる。同時に話題になるのは、花粉症である。スギ花粉に続く、ヒノキ花粉。花粉に注意、そのあとサクラの開花予想や開花宣言。

そもそも、なぜ気象台は、開花予想や開花前線などを伝えるのだろうか。そして、ニュースでそれが全国に伝えられ、やれ花見だの、やれ晴れだの雨だの、見頃だのといわれるのだろうか?

ここでいうサクラとは、バラ科サクラ属の園芸品種ソメイヨシノであることを、まずは確認する必要がある。

サクラ属には、日本に自生する9の原種と、それら自生種が交雑してできた、雑種・亜種・変種、そして演劇的につくられた園芸・栽培品種である。

ソメイヨシノは、江戸時代に、染井職人が、エドヒガンとオオシマザクラという原種を掛け合わせた栽培品種で、自分のおしべの花粉がめしべについて受粉して果実・種子ができるという自家受粉ができない、自家不和合性、という性質をもっている。故に、種子ができないのだから、子孫を残せない。子孫を残せないのに、なぜ日本中に、ソメイヨシノがあるのかというと、主に、接ぎ木で増やしているからである。接ぎ木以外にも、取り木や挿し木などがあるが、ソメイヨシノはオオシマザクラを台木とした接ぎ木で増やされているといわれる。

ソメイヨシノ韓国由来説や、自然に交雑してできた自生種という説もあるが、いまは否定的である。

さて、接ぎ木でふやしているのだから、DNAは皆同じである。植えられた場所の条件によって個体個体の生長や形は違うであろうが、もって生まれた性質はかわらない。だから、別の個体の花粉がついても、もちろん、同じ雄の生殖遺伝子細胞となるから、ソメイヨシノを何万本植えても、タネはできないことになる。
こう考えると、一斉に咲き誇り、一斉に散ってしまう、はかなくも美しい日本人が愛してやまないソメイヨシノも、生物学的にみると、なんだか不気味な人工物に思えてくる。

植物の究極の目的は、子孫を残すことである。花は、人間に見られるために咲いているわけではない。植物自体は、ある花は綺麗な色形をしているのは、花粉を媒介してもらう昆虫や、種子を散布してもらう鳥などのために、そのような生態を選んで進化してきた。花の形や色には、すべてなんらかの意味があるが、そこに人間の理性や感情などが入る余地はあまりない。人間が愛でるは勝手であるが、あくまでも種子植物は、種子を残すために、花を咲かせ、種子を運んでもらうために果実を実らせる。そのために、葉で光合成をしてエネルギーをつくり、根が水分と養分を吸収し、茎がそれを運ぶ。植物には、植物の意味があるのだ。

それらを無視して、もっとも大切な、子孫を残す為の機能を奪い去る行為を、人間は平気で行うのである。自らが楽しむためであれば、遺伝子を操作して、色や形を変えて、主に派手に大きくして、そして経済という世界に広げて乗せて、流通させて、金銭でやりとりをするのである。

考えてもみよう。同じ遺伝子の生物ばかりが何万、何十万、何百万匹いたら、どうだろうか。あるいは、人間でもいい。同じ遺伝子の人間ばかりがいるだけの世界。しかし、ソメイヨシノという品種にかぎっては、事実、そうなのである。

遺伝子が同じだから、同じ条件で、開花する。よって、気象台は、予想ができる。温度がある一定のレベルに達すると一斉に開花する。前線が南から北へとあがっていくのだ。それで、私たちは、気象情報とともに、ソメイヨシノというサクラの開花情報を見聞している。

さて、同時期に流れる、花粉症、すなわちスギ・ヒノキの花粉の飛散の情報であるが、これは生物学的には、スギの雄花が咲いており、その雄花のおしべが雌しべめがけて受粉するために、風で飛ばされている状況といえる。

ここから何が分かるかといえば、スギの花が満開である、ということだ。

ところが、花粉症がつらい云々という話はあちこちでなされるが、スギの花が満開だ、という話題はまったく聞かない。皆無である。スギもサクラも同じ植物であり、樹木である。そして、スギは日本人の文化・生活にとって重要な樹木でもある。なのに、花粉症とサクラ前線のニュースが同時に流れても、スギの花がどうこうというという話題がなされないことに、違和感をいだくひとがまったくいないことに、わたしは強烈な違和感を抱くのである。

もっといえば、スギ花粉も、植林された山の、人工林から飛んでくるものであり、きわめて人工的な樹木である。古来、日本には、原始林であふれていた。弥生時代になって、農耕がおこなわれるようになり、日本文化が構築された。同時に、田畑をつくるために、原始林が斬られた。焼畑農業である。この、焼畑農業は、いまなお、世界の熱帯雨林地区などで行われている。そして始めは、樹齢何千年というヒノキの巨木を、切り倒して、皇族・貴族や、寺院などに使われた。奈良時代、平安時代の建物をつくるため、近畿の原始林は、切りつくされ、中国・四国地方の材木までもが斬られて運ばれた。かくして、原始からの林は、日本には、ほぼなくなってしまった。

農耕により文化を築いてきた日本人は、次に、植林ということを始める。斬ってばかりいては、消滅する一方である。炭という燃料としての材木を利用することを考えた。かくして、ヒノキなどの高級材木は建物に、他の樹木は、燃料として斬られるようになる。焼畑農業は、3年ほどすると、農地があれてしまい、それ以上使用することができない。だから、いったん農耕が終わると、そこに後々、材木として使われる樹木を植える、そしてまた森林の樹木を伐採して、そこで米や野菜をつくる田畑を切り開く。

時代が下り、近代になり、戦争に突入すると、材木が不足し、日本人は、スギという樹木に注目するようになる。燃料としても、建築材としても用途があるスギは重宝され、もともとあった多様な種類の樹木を伐採し、スギの人工林一色にした。かくして、日本のあちこちに、スギの人工林ができた。

ところが、石炭・石油の化石燃料が発見されると、燃料としての樹木は、たいして着目されることはなくなった。そして、日本は近代化の発展をとげて、高度経済成長を果たし、海外の樹木の価格が安くなると、自らの植林したスギ林をほったらかして、輸入しまくる。結果的に、アメリカ・中国に続く、世界の熱帯雨林・森林を破壊している、森林輸入大国になってしまった。

まことに、自分勝手であり、人間本位である。

そんな自分勝手なことをしていると、つらい花粉症と言う現代病がやってくるのは、当然の帰結である。スギ林は、原則として間伐しなければならない。しかし、間伐するにも、管理するにも、お金がかかる。日本の林業はすたる一方で、スギ林は荒れ放題。スギ林が荒れると、スギが伸び放題になってしまう。人工林は、あくまでひとが管理しなければならないのである。適度に間伐して、ギャップをつくり、間伐した樹網を利用して、そして間伐した切り株からはまた芽がでてきて再生する。林業は何十年という単位でやらねばならないのに、植えるだけ植えて、手間がかかるとほったらかしにする。追いつけ追い越せの頭は、近視眼的な思考しかもてない。

これは、近年盛んにいわれている、雑木林・二次林の里山保全・保護とつながるところもある。(里山については、いまは省略する)

そして、環境は知らないうちに徐々に悪化し破壊されて、生態系は狂い、花粉症という現代病はその一端ともいえよう。

ところが、わたしたちは、普段、樹木について考えることは全くない。やれ花がきれいだ、見頃だ、といっては、出かけてゆく。すでに述べたように、花が咲いているのは、種子をつくるためなのだが、そんなことは、つゆとも思いをはせようとせず、ただ美しい花を求めて歩き回る。いや、歩くならまだましだが、「見頃」の時期に、車で「スポット」なるものに、出かけてゆき、満開だけを楽しんで、あとはほったらかし。

あるいは、自然界に手を加えて、生殖機能を失った、もはや植物にとっての本来の意味をなくした、色や形の園芸品種をつくりまくって、それらを植えまくる。そして、色とりどりになったものを眺めながら、四季や自然を感じたつもりになる。まったく、それらの原種が何で、自生地がどこなのか、どんな生態をしているのかは、眼中にない。ただ綺麗、大きい、派手、ということだけで、自然本来の厳しさや環境とのかかわり、土地や地域、地質学的なことについては、知ろうとはしない。歴史的な進化も知らなければ、ある個体が誕生してから死ぬまでの、発生学的な変化(見頃)にも関心を示さない。

これは、わたしの過剰な反応だろうか?

いや、そうではない。そうでないことを、多くのひとに知ってもらいたい。スギやソメイヨシノだけでもいい。花が咲く、あるいは花粉が山から大量にやってくるまでに、それらは、どのようにして、種子から生れ、生長し、大人になり、花を咲かせ、種子を残し、そして死んでゆくのか。個体の一生と、個体がたどってきた進化の過程。それを知ることは、地球を知ることであり、環境すなわち生態を把握することである。そこには、種々の驚きと発見、自然の美しさと同時に厳しさ不気味さもある。

まずは日本人がもっともうるさく言及するソメイヨシノについて、少しつっこんで考えてみよう。ここまでとりあげられるからには、わたしもなんらかのソメイヨシノに対する態度を所持しておく必要があり、それがわたしなりのソメイヨシノに対する敬意だから、である。


~続く

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