逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

正直ものが叩かれる不幸と、「絆」の連呼

2011年12月11日 | 政治

『一川防衛相の問責決議を可決』

12月9日自公両党は、1995年沖縄で起きたアメリカ軍兵士による12歳少女に対する集団暴行事件について『詳細には知らない』と発言した一川防衛大臣に対し、『自覚と資質が欠如している』として問責決議を提出、参議院本会議で賛成多数で可決される。
沖縄防衛局の田中聡局長は11月28日夜、報道陣との非公式懇談会の席で、米軍普天間飛行場代替施設建設の環境影響評価(アセスメント)の『評価書』の提出時期について、『これから犯しますよ、と言いますか。』と述べたことを地元琉球新報が29日報道、他のマスコミも追従する。このメディアの動きに対して政府の対応は早く『不適切発言』として、その日のうちに局長を更迭している。
9日この田中聡前沖縄防衛局長にも停職40日の懲戒処分が決まった。

『正直ものが叩かれる不幸』

何やら、マスコミが問題の本質を間違った方向に誘導している風に見えますね。
一川防衛大臣が軍事に対し、『自覚と資質が欠如している』ことは周りの全員が知っている。
本人が、その正しい事実(軍事には素人)を自分から口に出して今回問責されたが、それなら専門家中の専門家の現職の軍人が大臣を務める決まりの帝国憲法下の政治が良かったのか。
今のように『軍』の内輪の論理とはまったく無関係の、軍事問題では素人の政治家がトップに立つのがシビリアンコントロールの原則で一番大切なことではないのか。
66年前の悲惨な日本の敗戦も3・11でのレベル7の原発過酷事故も、狭い『内輪の論理』が優先して仕舞い、大事な第三者のチェック機能が喪失していたことが、未曾有の悲劇の最大の原因であったのではないか。
本当の事を言った人物を、『けしからん』と処分する。これ以上の不幸はない。
沖縄防衛局の田中聡局長発言ですが恥ずかしく腹立たしい話ではあるが、これ以上に適切な『例え』は無い。
客観的な事実関係でいえば、少しも間違っていない。
科学的な正しい真実を(今までのように隠さずに)正しく発言した。
そもそも軍隊とは、そのようなもので、局長の表現が下品で愚劣なので聞くほうが不愉快なだけである。
発言内容には、少しの『間違い』も含まれていないのですよ。
発言は、沖縄が反対する県内移設に向けた措置を女性への性的暴行に例えたものですが、毎日社説では『言語道断』と切り捨てるが、大間違い。
これ以上に正しい『例え』を口に出した官僚が今までいなかっただけ。
この人物ですが同期の出世頭で防衛省の広報課長だったので普天間問題の事実上の広報の最高責任者なのです。
基本的原理として防衛省(軍隊)の持つ暴力的側面の下品で下劣な本質部分が出ただけ。
旧軍では慰安婦にみならず、一般の婦女子ですら平気で犯したが防衛省には脈々として帝国軍隊の体質が温存されている何よりの証拠である。
今回沖縄で怒りが爆発した原因は『局長発言』が間違いだったからではなくて、16年前の3人の米兵による12歳の小女が集団強姦された客観的事実を思い出したからですよ。
悲惨な『事実がある』ことを良く知っているから、沖縄では本土以上に大問題なのです。

『敵味方の過酷な峻別』

今回ですが、『正しい事実』だが醜い悲惨な真実を口に出して、マスコミ総がかりで叩くさまは、鉢呂大臣の『死の町』との正直な発言を、『被災者の気持ちを傷つけた』とバッシングしたのと同じ現象であり嘆かわしい。
正しい客観的事実は、醜かろうか汚かろうが『事実である。』と認めるしかないのですよ。
真実を語ったものを叩く様は見苦しい。
味方の敗戦の事実を知らせた兵士が『利敵行為である』として殺される、国家滅亡時の悲劇的な間違いと同じであろう。
敵味方ですが、これが一番大切な最重要な要素なのですが、実はこの正しい敵味方の判断(認識)が最も困難なのです。
例えば、昔戦争に反対したとして共産党を非国民(敵である)と認定して徹底的に弾圧したが、共産党の言い分の方が正しくて少しでも耳を傾けていれば日本は国家崩壊には至らなかった。
この場合に、国家(日本)自身にとっては味方の関東軍参謀の方が敵(獅子身中の虫)であり、敵と思っていた共産党が(結果的に見れば)味方だった。
同じような例では敵であると忌み嫌って徹底的に村八分にして『口封じ』したが、京大の小出助教の言葉を少しでも聞いて注意していれば未曾有の原発の過酷事故は防げていて、日本では今でも50基以上の原発が何事も無く平穏に動いていた。
原発でも原発安全村が敵だと認定していた方が味方であり、実は味方だと思っていた方が最悪の敵だったのです。
この敵味方の正しい判断とは他の政治や経済全ての問題でも当て嵌まり、最も困難な難事中の難事なのです。
正しいことを正しいと認識するのは、実はとんでもなく難しいし、とんでもなく大事なのです。

『客観的事実を「事実である」として認める大事さ、難しさ』

今回、マスコミはまったく問題としていないが、この田中沖縄防衛局長発言には前半部分があり、彼はとんでもない事実とは正反対の暴言を吐いている。
『沖縄戦では軍隊がいたが、被害がでた。400年前には沖縄に武力が無かったから薩摩に侵略された。』と現実離れした妄想を言っている。
軍は原発と同じで、とんでもないパワーがある存在で、暴走した時には誰にも止められない恐ろしいものだとの認識が無い。
持っている『力』が他と比較出来ないほど膨大なので、暴走した時に制御不能の軍や原発の管理運営では、誰よりも科学的な客観的事実を正しく認識していないと『危ない』のですよ。
沖縄戦に限らず日本軍が駐留していた所では在留日本人にとんでもない被害がでて、軍がいない地域では対象的に被害は出ていない。日本軍駐留の有無と住民の生命の安全とは直結していた。
(この事実を良く知っていた栗林中将は事前に硫黄島の全住民を本土に疎開させ被害を未然に防いでいる)
薩摩の琉球侵攻を沖縄側が防げなかった原因ですが、別に琉球に武力が無かったからではなくて、薩摩は九州全域を占領出来るだけの強大な軍だが沖縄側は本島を占領出来る程度の武力だったので彼我の力関係の差にすぎない。軍隊の有無とは無関係。
原発や軍を扱うものが少しでも事実とは違う妄想を抱くなどは、沢山の乗客の命を預かる旅客機のパイロットが泥酔して正常な判断力を失っているのと同じで、これ以上に怖いことはありません。

『個別であるべき「気持ちの持ちよう」が普遍的な科学的正誤に優先する』

この国の、何処まで続く泥濘か。今度は、『農家の気持ちを傷付けた』と処分するとは絶句。
被災した視聴者の『気持ちを考えて』3月12日に福島第一原発の爆発映像の放映を自粛した福島中央テレビの腹立たしい話では、目の前の放射性物質の現実的な危険性よりも、形の無い『心の持ちよう』が優先された。
今回、東電原発事故で拡散した放射性物質の濃度をわかりやすく図示した『放射能汚染地図』を作成している早川由紀夫群馬大教授が、『福島県内でセシウムに汚染された米や牛を育てる行為は、サリンを製造したオウム信者と同じ』とツイッターで呟く。
群馬大学の高田邦昭学長は7日、ツイッター上で東京電力福島第一原発事故に関連する発言を続ける同大学教育学部の早川由紀夫教授に対して『不適切な発言をすることがないように』と訓告を行った。
同大学広報部の担当者は8日、『早川氏の発言は福島県の農家らを傷つけるもの。』
『繰り返し注意を行ったが、改まらないため、訓告に踏み切った。』と語る。
我が国では、客観的な科学的事実の正誤の問題ではなくて『当事者の気持ち』(内心)が大学という科学探求の場でも優先されるまでに、科学的思考が究極に劣化して仕舞っているのですから恐ろしい話である。
精神世界が現実世界よりも大事なのか。到底日本国の現実の話とは思えない。
唯一普遍的である客観的な科学的事実の正誤が問題とされず、プライベートな個別に違うことが当たり前の『心の持ち様』が大問題であると大騒ぎする昨今の日本の風潮ですが、これではパブリックな存在である国家や社会や大学ではなくて、その正反対の何かの宗教団体に近い心象風景である。
ジャック・モノーは『偶然と必然』で、
『人間にとってどんなに不安で絶望的なことであろうとも、それが科学的で客観的な知識であるならば無条件で受け容れるべき』。
『人間はそれが科学的で客観的な知識であるならば、最終的には受け容れるしかない。
その為には現在の自己を超克・超越して理想に投企してゆかねばならない』と、繰り返し強調している。

『時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環』毎日新聞 2011年12月11日(要約)

3月の震災以降、しきりに連呼されるようになった言葉『絆』。今年の流行語大賞にも入賞を果たした。
昨年の流行語『無縁社会』だったが、被災経験を通じ『絆』の大切さを思い知らされた。
人々は震災が『絆』を取り戻すきっかけ、と希望的に考えてみたくもなる。
しかし『絆』の意味とは、
(1)馬・犬・鷹など動物をつなぎとめる綱。
(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛。
語源は(1)で、そこから(2)の意味が派生したので『絆』の読みである『ほだし』の意味は『人の身体の自由を束縛するもの』となる。
家族や友人や家やお墓や慣れ親しんだ風景を失って、それでもなお去りがたい思いによって人を故郷に繋ぎ止める『愛おしい束縛』こそ『絆』で、これ以上大切な言葉もない。
しかし大声で連呼される『絆を深めよう』には違和感がある。
絆は『がんばって』強めたり深めたりできるものではない。
絆は『気がついたら結ばれ深まっていた』と、常に後から気付かれる。
絆は優しく温かい利害や対立を越えて人々を包み込むが、『しがらみ』としての絆は『わずらわしく』『うっとうしい』、個人を束縛し支配し副作用として、ひきこもりや家庭内暴力を引き起こす。
絆は基本的にプライベートな『人』や『場所』などとの関係性で、パブリックな関係では無い。
絆では『世間』は見えても『社会』は見え難くなる。(認知バイアスあるいは絆バイアス)
絆バイアスのもとで、人々はいっそう自助努力に励むだろう。
たとえ社会やシステムに不満があっても、『社会とはそういうものだ』という諦観が、絆をいっそう深めてくれる。
絆という言葉が『どうしようもない社会』を前提とした自衛ネットワークである。
社会やシステムに対して異議申し立てをしようという声は、絆の中で抑え込まれてしまう。
対抗運動のための連帯は、そこからは生まれようがない。
最大の問題は『弱者保護』である。
絆という言葉にもっとも危惧を感じるとすれば、本来は政府の仕事である弱者救済までもが『家族の絆』に摩り替えられる。
人々が絆によって結ばれる状況は新自由主義的な改革とたいへん相性が良い。
政府が公的サービスを民営化にゆだね、あらゆる領域で自由競争を強化し、弱者保護を顧みようとしない時、人々は絆によっておとなしく助け合い、絆バイアスのもとで問題は透明化され、対抗運動は吸収される。
もはやこれ以上の絆の連呼はいらない。
本当は絆など、とうにばらばらになってしまっていたという現実を受け入れるべきなのだ。
しがらみや束縛としての『絆』から解放された、自由な個人の『連帯』にこそ未来はある。

『絆の連呼と「心を傷つけた」は同じ現象』

絆は幾ら大切でも基本的に個人(あるいは小さな集団)的なものであり、社会の共通項とはなり得ない。
『絆』が声高に強調される社会の危険性を指摘する斎藤環氏ですが、この『絆の連呼』の行動原理と、『心を傷つけた』とバッシングするマスコミの論理構造は同じである。
全員に共通のパブリックな大きな社会を優先するのではなくて、そもそも別々であるべきプライベートな小さな村社会(世間)の、それも人々の『気持ちの持ち様』が優先されているとの、このブログ記事とも共通する発想であるのです。
個人個人の思いやりや心配り、連帯感、親切心は大事であるが基本的にはあくまでプライベートな話であり、決して大災害時の救助体制や復興のパブリックな責任を免れるものでも代用出来るものでもない。
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日本共産党の退潮を憂う… (青い鳥)
2011-12-10 21:09:53
>…例えば、昔戦争に反対したとして共産党を非国民(敵である
・・・・・)と認定して徹底的に弾圧したが、共産党の言い分の方が正しくて少しでも耳を傾けていれば日本は国家崩壊には至らなかった。…

前から宗純さんに伺いたかったのですが、機を逸してしまいました…。わたしは、日本共産党シンパです。選挙権を得てから現在まで棄権することなく、全ての選挙で日本共産党に投票して来ました。が、1980年代中頃からの退潮ぶりを見るや、目を覆わんばかり…。1970年代に衆議院で、40議席程獲得したのをピークにじり貧が続き、今や9議席…。今の格差社会…、国民の大部分が貧困に喘いでいるにも関わらず、受け皿たりえていない現状…。『確かな野党』は、聞き飽きた。宮本顕治が元気なりし頃は、社共共闘なるものが実り、『太平洋革新ベルト地帯』と呼ばれ、東京、神奈川、名古屋市、大阪、京都…革新首長で占めていた。いまや惨憺たる状況…。
わたしは、日本共産党は日和っていると考えます。本当に政権奪取する気があるのか否か、甚だ疑問…。左翼・前衛政党たりえていない。社会主義その先の共産主義のビジョンを明確に示せば、強欲資本主義(新自由主義・市場原理主義)に痛めつけられ、疲弊仕切っている民衆は信頼を寄せると考えるのですが…。宗純さんの、『日本共産党論』『日本共産党評』なるもの…是非ともお聞かせ願いたく…。この記事と全く無関係であることを平に謝ります。
日本共産党に未来は有りや無しや…?。 「魚は清流には棲まず…」の譬え通り日本共産党は『正し過ぎる…』のだろうか?。宗純様のご高察賜われば、幸甚と存じます。
左翼革新政党としての共産党 (宗純)
2011-12-11 15:41:57
青い鳥さん、コメント有難うございます。

3・11から早9ヶ月。
今日の赤旗には大震災の共産党が呼びかけたボランティアと募金が其々3万人を超え2億円を超えた事実が誇らしげに書いてある。
青い鳥さんは昔からの共産党の支持者なら、この赤旗記事に違和感を感じませんでしたか。
20年以上前の躍進していた時代の共産党は、絶対にこんなボランティアや募金の呼びかけなどをする政党では無いのです。
確かに自分自身(共産党)に対するカンパは呼びかけていたが、これはいわゆる善意の『募金』としての性格よりも、小額ではあるが政党への個人献金であり、性質がまったく逆の発想のれっきとした政治活動なのです。
困っている人に対するボランティアや募金ですが、『個人の善意』自体は悪ではないが使い方次第では危険が一杯で、決して政治活動と混同することは厳に慎むべき行為ですよ。
共産党が『党』として呼びかけるなど、これは科学的社会主義を標榜する政党としては自殺行為ですよ。
今回紹介した斉藤環氏の、『絆を連呼する』危険性として挙げている項目ですが、まったく同じことが個人による善意のボランティアや募金にも当て嵌まる。
絆の言葉の代わりに、『個人の善意』と言い換えて、まったく違和感無く斉藤環の指摘は当て嵌まる。
共産党の本来の活動とは正反対の運動なのです。だから以前の昔の共産党は被災地の党組織が行うことはあっても全国組織が呼びかけるなど、決して無いのです。
違って来たのは16年前の1995年の阪神大震災の時からですね。
それ以降では2004年の新潟県中越地震など普通にボランティアや募金が赤旗紙面で呼びかけられるようになって仕舞ったのですが、赤旗の変節は嘆かわしい有様ですよ。
御巣鷹山の日航機墜落事件で赤旗は26年前と今年では全く別の紙面になっているのです。
忘れられた御巣鷹の惨劇と深まる謎 日本航空123便
2011年08月12日 | 社会・歴史
今の赤旗ですが商業新聞と同じことしか書きません。政府が困ることは書かないのです。
負けて当たり前で、これで共産党が勝てたら、その方が奇跡ですね。
共産党に付いては別のカテゴリー『共産党』設けて専門的に論じています。
多分他では絶対に見当たらない当ブログ独自の新しい視点から、共産党を論じていると自負しているので、これらの古い記事へのコメントでも当方は大歓迎します。

『民主集中制』の党規約の意味
2010年10月30日 | 共産党
民主集中制と共産党の不思議な話
2010年09月22日 | 共産党
一神教的世界観と共産党
2010年08月31日 | 共産党
宗教と共産主義と科学との不思議な関係
2010年08月26日 | 共産党
共産党の歴史的敗北を分析する(1)
2010年08月02日 | 共産党
(続)共産党のテサロニケ的党名変更問題
2010年07月28日 | 共産党
最後の共産党政治家、宮本顕治
2010年07月18日 | 共産党
盛り上がらなかった参議院選挙と日本共産党結党以来の危機
2010年07月15日 | 共産党
「偶然と必然」を読んで
2009年11月08日 | 共産党
筆坂 秀世セクハラ問題『謝罪と責任の文化論』
2008年06月15日 | 共産党

共産党問題ですが、今までの一般的な視点とは別の新しい判断が出来る判断材料を提供していると、考えています。
これ等のブログ記事の文章と類似の見解ですが、残念ながら今のところは他では絶対に見当たりません。
これ等の記事ですが、読者のご要望があれば新しく書き加えて再投稿し様とも考えています。
宗純様… (青い鳥)
2011-12-11 17:52:49
ご丁寧なご返答ありがとうごさいます。今後、ひとつひとつ勉強させて頂きます…。
青い鳥さん、コメント有難う御座います (宗純)
2011-12-12 16:06:46
共産党の持つ問題点というか不思議と言うかの内容ですが。
実はこの記事に書いた『鉢呂死の町』叩きであるとか、『絆連呼の違和感』であるとかと連動している一連の同じ種類の話でもあるのですね。
3・11以後は原発での政府や東電の悪質極まる世論誘導や印象操作のプロパガンダの連続で、これ等を書くことで忙しくて共産党の問題点は書くことが出来ないでいるのですが、日本にとって大事な話であり、何とか続きを書いてみたいと考えています。
小泉フィーバーにしても2年前の民主党フィーバーにしても今回の大阪の橋下撤のインチキ臭い大阪都構想フィーバーにしても、原因は同じで一般庶民が感じている閉塞感であり、『何とか、今の状態を変えて欲しい』との切実な願いの表れです。
政治の下地としては共産党が大躍進していた当時よりも、今の方が本当の共産党の躍進には条件が完璧に揃っている。
これで共産党が負けるなど、本当は何かの大間違いですよ。
今の共産党の停滞原因ですが、それなら、これは今世間で大流行の『自己責任』で間違いないのですね。
「絆」連呼に違和感への違和感 (愚樵)
2011-12-13 07:01:01
宗純さん、おはようございます。

この精神科医の分析ですが、真っ当な見解とは思いながらも違和感が拭えませんね。

というのも「絆」の連呼に皆が違和感を抱いていないとは思えないから。たとえば自民党です。「絆」というスローガンの急遽掲げた。それに違和感を私は感じます。おそらく、その感じを共有する人は多いはず。マスメディアが連呼する「がんばろう、日本」も同じ。

今、日本人は、こうしたスローガンを「誰が言うか」に極めて敏感なのではないか。特に若い世代は。ハシゲを支持するような人たちは別として。

「絆」は大切だが、それはプライベートな問題である。今、問題になっていて整理がついていないのは、絆がプライベートかパブリックかという問題ではないでしょう。絆がプライベートなのはみんなわかっている。大切なのはプライベートかパブリックか。パブリックがプライベートを侵害してきたときに、それを許容すべきか否か。

明治維新以降の日本は、プライベートよりもパブリックを優先すべきだと国民を教育してきた。「忠孝一如」ですね。戦後もそのマインドはあまり変わらなかった。右翼も左翼も、奉じる「忠」は違えども、忠孝一如に変わりはなかった。共産党はその左翼に位置したわけです。

今の日本はこの忠孝一如が崩れだしている。忠より孝。そして日本的な「孝」は中国とは逆で「親より子ども」なんです。原発事故を機にでここが復活してきている。

というわけで、

>今の方が本当の共産党の躍進には条件が完璧に揃っている。

という見解には不同意。民主・自民のオウンゴールで共産は一時的には票を伸ばすでしょうが、基本的には共産党はもはや出る幕無しです。
Unknown (kappa)
2011-12-13 14:09:50
>民主・自民のオウンゴールで共産は一時的には票を伸ばすでしょうが、基本的には共産党はもはや出る幕無しです
....
賛同いたします。
彼らはやっぱり国を背負う気概も覚悟も無いのだと思う。

なんでも反対の赤い旗を掲げた案山子が国会議事堂の屋根に寝転んでいるがごとく。
愚樵風の手品ですね (宗純)
2011-12-13 15:26:41
愚樵さん、コメント有難う御座います。

それは駄目ですよ。
何時もの悪い癖ですが、見ていて少しも面白くありません。
勿論原発安全村のやらせの可能性も無きにしも非ずですが、自民党が『絆』に悪乗りするのは今それが世間の流行りものだからですよ。
勝ち馬というか多数派に同調しようとする日和見ですね。
絆ですが二番手を大きく引き離しての第一番なのです。だから誰も彼もがあやかりたいのです。
余り赤ペン先生はやりたくないのだが仕方がない。

>『「絆」連呼に違和感への違和感・・・この精神科医の分析ですが、真っ当な見解とは思いながらも違和感が拭えませんね。』
とは面妖な。
科学的な分析に対して→真っ当な見解であるとは理解している。
ところが『違和感を感じる』と続けて書いてある。
科学的に正しいものは、誰が不愉快でも事実は事実ですよ。
それ、事実よりも個人の内心を大切にする昨今のマスコミ論調とか、歴史的正誤よりも先祖の名誉が何よりも大事と考えているらしい『作る会』の発想と同じですよ。
好き嫌いは其々ですが、私は無関係な個人の『内心』には何の興味もありません。(自分の連れ合いとか子供は仕方ないが)
どれ程大事に思おうと所詮心とは移ろいやすいもので、普遍性とは無縁です。
興味があるのは客観的な確実な事実の正誤です。
最近の愚樵遇論では何とかして『科学』の鼻をあかしたいとの観念論的な禅問答が延々と語られているのですが、私には何の興味もありません。

>『今、日本人は、こうしたスローガンを「誰が言うか」に極めて敏感なのではないか。特に若い世代は。ハシゲを支持するような人たちは別として。』
これも手品ですね。
何で橋下撤現象だけを除くのですか。
あれこそ今の最新流行の一番判りやすい世間の風俗ですよ。
確かに格差社会では若者が割りを食い、一番苦しんでいるのですが、それ以外の多くの人も同じ状態であり、それ程大きな違いはありません。
『別にして』ではなくて、その『代表例である』と考えるべきでしょう。
橋下現象が代表例なら、今回の愚樵論の根拠が総崩れになるので、
確かに別にしたい心情は理解できますが、それはインチキですよ。

>『「絆」は大切だが、それはプライベートな問題である。今、問題になっていて整理がついていないのは、絆がプライベートかパブリックかという問題ではないでしょう。絆がプライベートなのはみんなわかっている。大切なのはプライベートかパブリックか。パブリックがプライベートを侵害してきたときに、それを許容すべきか否か』
またまた手品です。
それでは、悪戯が過ぎるでしょう。
話が巧妙に客観的事実と正反対になっていますよ。
此処で論じられているのは『公が大事か、それとも私が大事か』など公と私の対立の話ではなくて、本来の公が無い事実ですよ。
公の無策とか責任放棄とかが、今の日本の大問題なのです。
もう一度斉藤氏のコラムの全文を読んでください。
絆が強調される原因とは、
『絆』などの私的な繋がりの大事さは否定していない。
今のような私的な範囲が目立ちすぎると、その分自己責任とか自助努力が強調され、結果的には公的な責任放棄を見逃す危険性を指摘しているのですよ。
斉藤氏も、
『絆バイアスのもとで、人々はいっそう自助努力に励むだろう。
たとえ社会やシステムに不満があっても、『社会とはそういうものだ』という諦観が、絆をいっそう深めてくれる。
絆という言葉が『どうしようもない社会』を前提とした自衛ネットワークである。』
と明確に指摘しています。
この絆を強調する動きは、アメリカの草の根保守の茶会運動とも共通する右翼的な後ろ向きの危険な動きなのです。
宗純さん。 (東西南北)
2011-12-13 16:09:13
 やはり、宗純さんは東西とは社会科学の認識が違いますが、良識がある。マスコミや自民党公明党などが流す絆のプロパガンダの本質は、国家による公的な生活保障の削減であり、自助、共助の拡大、村社会の復活にあると見ぬいています。素晴らしい。

 国民の生活をまっさきに保障しなければならないのは公としての国家なのですよ。国民相互の絆などではない。例えば、介護の社会化、保育の社会化などの社会保障は、まさに、自助、共助の閉塞から人間を自由にすることなのですよ。

 国家の市場原理主義と自助、共助の絆のプロパガンダが自民党、公明党、財界、マスコミから流れてくるわけで、良識あるリテラシーがあれば、極めて胡散臭い「がんばろう日本」の号令であると理解できる。

 憲法改正を叫んで自衛隊の海外での武力行使、さらには、自衛隊への入隊訓練などを否定しない勢力が「がんばろう日本」と呼びかける厚顔無恥。

 日本共産党のような福祉・平和国家権力を目指す議会政党こそ「がんばろう日本」とよびかけ、募金を呼びかけるなら素直にうなずけるのだが。
それではもう、歴史の偽造に近い (宗純)
2011-12-13 16:13:50
>『明治維新以降の日本は、プライベートよりもパブリックを優先すべきだと国民を教育してきた。「忠孝一如」ですね。戦後もそのマインドはあまり変わらなかった。右翼も左翼も、奉じる「忠」は違えども、忠孝一如に変わりはなかった。共産党はその左翼に位置したわけです。』
またまたまた、これも手品ですね。
明治憲法の主権者は天皇ただ一人ですよ。
ですから、この憲法下の『公』の意味とは天皇個人を指しているのですよ。
これは今の公明党の選挙ポスターにある『みんなの為に』の『みんな』の意味が池田大作一人を指しているのと同じ原理ですね。
あるいは、大き目の特殊に過ぎないアメリカンスタンダードを、普遍的な世界基準(グローバル・スタンダードであると詐称して世界の人々に強制した悪しき例の類似行為です。
『公』どころは、私も私。全くのインチキのパブリック(公)だったのです。
そもそも日本では公が無かったのです。
右翼はニセモノの『公』を本物だと信じて守ろうといるらしいが、
左翼は正反対にインチキの公モドキを倒して新しい本物の公的な『パブリック』な構造(社会)を打ち立てるとの発想です。
評論家的な、『どちらも同じ』など無責任にも程があるでしょう。

>『今の日本はこの忠孝一如が崩れだしている。忠より孝。そして日本的な「孝」は中国とは逆で「親より子ども」なんです。原発事故を機にでここが復活してきている』
これでは手品にもなっていない。
そもそも忠孝一如など、『崩れだしている』のではなくて最初から無いのですよ。
明治時代も無いし、勿論今の世の中はもっと無い。
武士の世の中ではもっと無い。
『忠孝一如が崩れだしている』とは昔は存在したことが前提ですが、それは神話であり現実世界は正反対ですよ。

>『忠より孝。そして日本的な「孝」は中国とは逆で「親より子ども」なんです。』
これも間違い。
親が死んだら3年間の喪に服すとか本場の儒教ではそもそもが忠より孝が上であり、今の日本で『親より子』なのは親の方に余裕があり子供が親世代にパラサイトしている現状から必然的に生まれているに過ぎない逆転現象で、それほどの意味はありません。本の数十年前には逆だったのですよ。

>『というわけで、>今の方が本当の共産党の躍進には条件が完璧に揃っている。
という見解には不同意。民主・自民のオウンゴールで共産は一時的には票を伸ばすでしょうが、基本的には共産党はもはや出る幕無しです。』
不正確であるだけでなく不真面目です。
『民主・自民のオウンゴールで共産は一時的には票を伸ばすでしょう』などと、現実離れにも程がある。
共産党ですが、『民主・自民のオウンゴール』で、
一時的に票を伸ばすどころか歴史的な大敗北を喫しているのですよ。
何を寝ぼけたことを言っているのですか。
現実の厳しい評価を見えていないのです。
『民主・自民のオウンゴール』で、共産党は致命的な大敗北で、
一時的には票を伸ばしたのは新自由主義の毒を隠したみんなの党とか橋下撤のインチキパフォーマンスでの、『何かを変えてくれるかも知れない』との庶民の儚い願望ですね。
これは少し前には小泉純一郎のお粗末ワンフレーズのフィーバー現象と同じ原理です。
一般庶民は何でも良いから『変えて欲しい』のですよ。
>『基本的には共産党はもはや出る幕無しです。』
の結果になった原因とは、『変えてくれる』との確実なメッセージを発信出来なかったからですね。
共産党ですが十年一日どころか100年一日で代わり映えしないと思われたのでしょう。
それは事実ではなくて宣伝です (宗純)
2011-12-13 16:30:35
kappaさん、当ブログでは読者の皆さんに良好な環境を提供する目的とブログ管理の必要上、タイトルや名前の無いコメントは不掲載とするローカルルールを設けています。
御面倒でしょうが次回のコメント投稿時には忘れずに御記入を御願い致します。

愚樵さんにも指摘したのですが、それは現実離れした妄想程度であり、不正確であるだけでなく不真面目で感心しません。
まして『なんでも反対の赤い旗を掲げた』など事実と違いすぎるので今では自民党でも言いませんよ。
困ったことに今の共産党ですが物分りが良すぎて昔のようには反対しないのですよ。
時間が止まっているのではありませんか、それでは知性を疑われますよ。
ならば「絆」ではなく「結」 (愚樵)
2011-12-15 06:51:20
・宗純さん、おはようございます。

タイトルのエントリーをTBしておきました。宗純さんの反論に対する反論になっています。

記事のなかで斉藤氏は「内発性」が見えていないと記しましたが、それは宗純さんも同じですね。

ブログ名を「逝きし世の面影」と名乗るんでしたら、もっと遡って日本人の精神史を勉強された方がいいですよ。

宗純さんの日本人像は、せいぜいこの100年のものでしかありませんから、私の議論についていけません。それを「赤ペン」だなんて、笑止ですよ。
東西南北症候群ですよ (宗純)
2011-12-15 15:27:23
愚樵さん、TB記事ですが、水準が低すぎて到底論評の限りでない。

お粗末過ぎる現状認識であり妄想に近いでしょう、というしかない。現実世界とは違いすぎる。
また、御自分が今まで記事やコメントで語っていた内容とも一致しません。
斉藤環氏の主張の、極一部分だけを抜き出して、我田引水で批判するなどルール違反であるばかりでなく不真面目すぎます。
それでは知恵足らずのネットウョと五十歩百歩で阿呆臭すぎてコメントする気も起こさないゴミです。
馬鹿馬鹿しい。
斉藤環氏ですが『絆』については、
『これ程大切な言葉も無い。』とはっきり言っているのですよ。
相手の発言や客観的事実を、自説に都合の悪い部分を完全に無視するなど、今ではネットウョ状態の南北さんと同じです。
南北さんですが、私がコメントで書いた、
『20年以上前の躍進していた時代の共産党は、絶対にこんなボランティアや募金の呼びかけなどをする政党では無いのです』
に対して、
『日本共産党のような福祉・平和国家権力を目指す議会政党こそ「がんばろう日本」とよびかけ、募金を呼びかけるなら素直にうなずけるのだが。』と、平気で書く。
この馬鹿者が。
コメントを正確に読め。
それでは歴史の偽造であり現実離れした妄想です。
事実は私の指摘のとおりであり、20年以上前の躍進していた時代の共産党は募金やボランティアを呼びかける様な政党ではなかったのですよ。
事実かどうかは、昔の赤旗を調べれば判るのですが、現在から過去を勝手に類推するから間違いを犯すのです。

日本の村に昔『結』があった理由は極簡単で、これは今の日本で絆が連呼される理由と同一ですよ。
それは斉藤氏も明確に指摘しているように、
『絆という言葉が『どうしようもない社会』を前提とした自衛ネットワークである。』
のですよ。
当時の、江戸幕府に福祉や厚生が期待出来ないから、当時の人は仕方なく『結』などですよ。
今の政府や自治体に期待できないから、それで『絆』が大事なのです。
愚樵さんも、いい加減に歴史の偽造は止めないと駄目ですよ。
明治と江戸とは、連続していて『地続き』なのですよ。
私の場合は、両親が明治生まれなので知識というよりも直接聞いた経験に近い話なのですね。彼等の両親や祖父母は江戸の人間なのですよ。
渡辺京二の『逝きし世の面影』の記述と、自分が両親から聞いた話が完全に一致しているので、これを根拠にして『正しいだろう』と判断しているのです。
それにしても、それでは能天気な『人生の楽園』ですね。
結やら絆やらがそれ程人々に大切なら、何故人々が少しは残っている田舎から出て都会を目指すのですか。
田舎が良いなら人口が減って限界集落なんかにはなりませんよ。
都会人は『無いものねだり』で憧れるが、元々田舎に住んでいるものには、これ以上に鬱陶しく煩わしいものは無いのですよ。
それでも職場に出る男は、都会でも同じ問題があるので、比較的まだましだが、女性には鬱陶しさが丸々押し寄せる。
負担が女性側に押し付けられる結果、男以上に若い女が流出するので田舎では男女に比率が圧倒的に不均衡になる(男が多い)ので嫁不足が起きているのですよ。
東西南北症候群とは(笑) (愚樵)
2011-12-16 13:44:31
・宗純さん

東西南北症候群とはまた奇抜な。大笑いしましたよ。

>当時の、江戸幕府に福祉や厚生が期待出来ないから、当時の人は仕方なく『結』などですよ。
>今の政府や自治体に期待できないから、それで『絆』が大事なのです。

宗純さんは本当に文意を読みとるのが下手ですよね。

だから。そこへ回帰しつつある、回帰するしかないと言っているわけです。なぜ人間が田舎から都会へ出て行ったのか。そちらの方が「よく見えた」からでしょう。

宗純さんはこういった場合に、「よく見えた」ということは考慮に入れませんね。都市人口が増えたという事実に着目して「都市が良かった」と結論づける。東西さんが賞賛するわけです(笑)

私は「よく見えた」というところを見る。観念論ですね。そうみると「よく見えても、抜けられない」という事実も見えてくる。たとえば現在の福島県ですね。「頑張ろう」とか「絆」とかは仰るとおり自衛ネットワークです。他がよく見えても抜けられないから、頑張るしかないから頑張ろう。絆です。呪縛です。

これは過疎地でも同じです。私も体験したことですが、現代においては田舎は「よく見える」んですよ。少なくとも宗純さんの時代よりは。でも、よく見えてもそこで暮らすのは大変なわけです。過疎地ではシステムが崩壊していますからら。昔は都会は「よく見えて」、移住するハードルは低かった。今は「よく見えて」もハードルが高いんです。だから現実には移住できない。そこを宗純さんの見方だと「田舎は良くない」になる。

>田舎が良いなら人口が減って限界集落なんかにはなりませんよ。

ね。そういうことでしょう。そして「よく見え」ていることを見落とすんです。

私が言っているのは「絆」はよく見えているという事実。そしてもうひとつ、これは宗純さんにも見えているはずですが、日本国のシステムがここ20年余りで極端に劣化しているということ。だから自衛するしかなくなっている。システムつまりパブリックは相互扶助の昨日よりもむしろ重荷になってしまっているということです。

ここから出てくるのが「絆」を重視して、プライベートな相互扶助へと還ろうという気運。斉藤氏はその「絆」の言葉の訓詁学的な意味をを捉まえて否定的に批判したので、それならば「結」と言い換えようと言ったまで。

>斉藤環氏の主張の、極一部分だけを抜き出して、我田引水で批判するなどルール違反であるばかりでなく不真面目すぎます。

これも文章をよんでいませんねぇ。リンクも貼らず他人の文章をあたかも自分の文章のように流用する宗純さんと違い、私はちゃんとリンクを貼ってあるし、一部を引用というのはマナーです。私は斉藤氏を「優秀であるがゆえに適応が深く見えないところがある」と全面的に批判した。この批判の責任は全面的に私にあるわけで、氏の主張の一部を都合良く自説に合わせたわけではない。それを「我田引水」とは、言葉の意味を知らないといわれてもしかたがない。

>負担が女性側に押し付けられる結果、男以上に若い女が流出するので田舎では男女に比率が圧倒的に不均衡になる(男が多い)ので嫁不足が起きているのですよ。

事実に反していますね。少なくとも私の知っている事実とは。嫁不足は事実。しかし若い女性も比率としては沢山いる。嫁になる女性が少ないだけ。
書き忘れ (愚樵)
2011-12-16 14:54:42
>明治と江戸とは、連続していて『地続き』なのですよ。

これこそ歴史改竄の典型例。

それをいうなら敗戦前後の日本だって地続き。当たり前の話じゃないですか。でも、歴史はここに節目を見る。

江戸と明治の間にだって節目はあったんですよ。それは何も大政奉還といった制度史だけの話ではない。「文明開化」が持て生やされたのは事実。江戸時代の大衆文化が忘れ去られていったのは事実。現在、欧米の博物館に大量に収拾されている江戸時代の芸術品は何を物語っているのか。そこには「断絶」があったということでしょう。

こういった事実の一面だけを強調して事実の全体像を隠蔽するのは、権力者が頻繁に用いる悪質な手口です。宗純さんもそこに対しては批判的なはずなんですが、でも、自分では無自覚でやってしまうんですね。いやはや。
益々南北さんに似てきています (宗純)
2011-12-16 16:58:35
愚樵さん、今では違いを探す方が難しい程、似ていますよ。
一見辻褄が合っているようで全く意味がずれている。
南北さんの方はご自分で心底信じているのと能力の限界が原因しているのです。
しかしこれは愚樵さんには当て嵌まらない。
愚樵さんはわざと間違えている風を装って嫌がらせをしているのでしょうか。
なんとも不思議で理解出来ません。

先ず長すぎる。
他人のブログのコメント欄である事を失念しているのではありませんか。
勿論、内容さえあれば長ければ長いほど歓迎するが、南北さんと同じで意味無く長い。
短ければ私もこれほど腹も立たない。
意味不明の駄文の長い長いのを無理やり読まされる相手の身にもなってください。
意味が正しい文章は、1回読むだけで理解出来るので簡単に済むのです。
ところが、南北風の文章では『何が書いてあるか』『何を目的として書いたのか』が支離滅裂で意味不明。
その為に、何回も何回も何回も、判るまで読み返す必要が生まれる。
これが、たいへんな手間と時間なのですよ。
だから南北風の客観的な事実と遊離した長文コメントには腹がたつのです。
今回は、完璧な東西南北コメントになっていますよ。
長い癖に内容が無く、客観的事実に反している。
それは科学的事実とは無関係な、単なる愚樵さんの内心です。
私が何遍も指摘しているのですが他人の内心には何の興味も関心もない。
自分の連れ合いや子供なら責任上仕方がないので我慢しているだけなのです。
愚樵さんが何を考えようが私としては、他人の内心には、煩わしく鬱陶しいので触れたくは無いのですよ。
ただ自分のブログに間違いを記載されたままで済ますのも無責任だと思うから、削除しない代わりに、今回のように返事を書いているだけなのです。
そりょう~あ。いくら田舎でも若い女の一人や2人はいるが、嫁不足の原因は絶対的な員数の不足ですよ。
愚樵さん。
一番の原因である、女性の絶対数が不足している事実を無視するなどとは、それでは、まるっきりのネズミ講とかマルチ商法の言い分とそっくり同じ悪質な騙しの手口ですよ。
南北症候群と言ったのは、角が立たないように穏便に言った心算なのですが、もっと正確にいえば客観的事実よりも脳内妄想を優先するネットウョですよ。
南北さんはネットウョ相手に今まで長い間論争している内に、ご自分でも同じ風な思考回路になっている。
そもそも、ネットウョと論争しようなど普通は考えません。
何故なら不愉快なだけで、実りが無いからですね。
私もネットウョとの論争の経験があるが、これは相手から名指しされて嫌々行っただけ。
自分からではない。
普通の常識があれば、日本人は自分と根本的に考えが違う相手に論争は挑まないのですよ。
ところが愚樵さんは、南北さんが『違う』との理由で自分から論争を吹っかけるネットウョ的な行動を行う。
こん回も同じ態度であり、何とかしてこの記事の主張を否定したい。
それ、困ったことに、漫画中毒のネットウョのお馬鹿な子供と五十歩百歩の態度ですよ。
愚樵さんの、『リンクも貼らず他人の文章をあたかも自分の文章のように流用する宗純さんと違い私はちゃんとリンクを貼ってあるし、一部を引用というのはマナーです。』との発想は丸っきりネットウョですよ。
情けない。
そんなことは常識ある大人は誰も行わないし言わないのです。
自分が今まで長年考えていた発想とか主張と同じ文章を他所で見つけたら、滅多に無いのでこれ以上に嬉しいことは無い。
飛び上がらんばかりに喜ぶ。
『正しい』なら、他と言葉遣いとか文章の一部が同じであることは、何ら問題とはならないが、他の主張を正反対に描くなどは悪質な印象操作であると言っているのですよ。
正しいものは場所や人物が違っていても同じでもそれは当然なのです。
それあ、根本的な勘違いですよ。
間違いは別々ですが、科学的に『正しい』ものは、基本的に同じで普遍的なのです。
例えば今回の愚樵さんの『だから自衛するしかなくなっている。』との判断は正しいし、それは斉藤氏の主張とも同じ、勿論私とも『同じ』です。
違いは無い。
しかし続く『システムつまりパブリックは相互扶助の昨日よりもむしろ重荷になってしまっているということです。』は愚樵風の手品か空中大回転であり斎藤氏の判断とは正反対。
勿論客観的な科学的事実とも正反対の暴論であり、それでは9月の都議会での石原慎太郎の発言とそっくり同じで瓜二つなのです。

人は社会性の動物で単独では生きていけないのですが、しかし人と人との親密すぎる関係性は非常に負担を感じるものなのです。
絆は大事だと誰でも判っているが、維持するためには精神的な負担が大きいのですよ。
今UR(旧住宅公団)では毎日毎日、何処かで数人の孤独死が出るのですが、この原因は高齢者の単身者が増えたのが原因です。
古い公団などでは半数近くが高齢者の単身居住なんて、殆ど山間僻地の限界集落並のところも出ているのですが、山村と違い今流行りのマンションなどは、鉄のドア一つで完璧に外界と遮断出来るのです。
死んでから何週間も経過してから異臭がするとか新聞が郵便受けから溢れて、発見されるのが殆どなのですから凄まじい話ですよ。
学識者が、都市の住宅事情の悪さで親子同居が出来ないからと説明するが大嘘ですよ。
終戦直後には、都市全体が丸焼けで今とは大違いでとんでもない住宅難で、我が家など6畳一間の間借りで家族10人が居住していたのですが、今考えるとこの狭さで如何して全員が寝れたか不思議なくらいなのですよ。
単身者の増加の第一番目の原因とは、人付き合いの鬱陶しさ、煩わしさなのですよ。
自分の大事な親しい家族でも鬱陶しいのですから、ましてや赤の他人との結いや絆など、もっと鬱陶しいのです。
昔繁盛していた商店街とか市場が廃れて、今スーパーとかコンビにとかが流行る原因も同じ原因で、個人商店での買い物では一言も口を聞かない訳には行かない。
その点、スーパーなら完全黙秘でも十分買い物が可能なのです。
絆は美しいかもしれないが、同時に精神的な負担にもなり鬱陶しくてたまらない。
圧倒的に多くの人々はその負担に、我慢がならないのです。
『都会が良い』とは、経済上の理由もあるが濃密な人間関係から生まれる、この精神的な負担が少ないとの意味ですね。
これは日本人の圧倒的多数が感じている普遍的な事柄で、都会を捨ててまで、わざわざ樵をしようと誰も思わない原因なのですよ。
普通とは正反対の愚樵さんには、到底判らない心理だと思いますが、これが普通の人々ですよ。

時代の区分ですが、1945年8月15日で正反対に分けるのは政治制度的なに限定して考えるべきで、これを今の人は大きく勘違いしています。
1945年で変ったは、実は大きな勘違いで庶民生活や文化では1960年代の高度経済成長の前と後で大きく日本が変化した。
確かに、敗戦で爆弾が落ちてこないとかの変化は有ったが、実は戦争の悲惨が人々が実感したのは敗戦後数年経ってからのことなのです。
野坂昭如の『火垂るの墓』の主人公の少年が餓死するのは敗戦後の平和が日本に訪れた後の話ですね。我が家は餓死者は出ていないが隣の家では1名が死亡しているのです。
何故戦争中に餓死が出ていないかは日本軍が中国とかビルマなど東南アジアから略奪していたからですね。その分ベトナムとかインドとか沢山の餓死者が出ていた。
今NHKで司馬遼太郎の『坂の上の雲』が描かれているが、主人公たちは全員が江戸時代の教育とか道徳とかで育っている。
明治の明治の教育勅語だけの世代が軍や政治を動かしたら最後は、『坂の上のキノコ雲』になってしまったのです。
よく言うよなぁ (愚樵)
2011-12-17 18:45:14
・宗純さん

それぞれの記事の内容については、もういいでしょう。どうせ宗純さんは理解しないでしょうし。

ここでは、宗純さんが私に対して行なった誹謗に対して反論するとともに、宗純さんの非常識ぶりをあきらかにしておきましょう。

まず、コメントが長いという指摘について。

私のコメントは普段は他の人と比べても端的で短いはずです。先のコメントが長くなったのは、反論の反論の反論だから。長くなるのは当然。

だいたいですね。私のところへ寄こしてくる宗純さんのコメントは、大抵標準より長い。

これ、客観的事実です。

つぎ、東西さんとの論争について。

いったい何時の話をしているのでしょう? こちらでいくらか論争らしきことをしましたけれども、宗純さんの言い方だと、私がそういった人たちとの論争を中心にネットで活動しているようにも受け取れる。客観的事実はさにあらず。

次。

>ところが愚樵さんは、南北さんが『違う』との理由で自分から論争を吹っかけるネットウョ的な行動を行う。

もとより私と宗純さんとは意見が合わないことが多い。宗純さんもそれは承知のはず。にもかかわらず、TBを送ってくる。ならばそれに意見したところで、なんら咎められる謂われはないはず。

つぎ。

>愚樵さんの、『リンクも貼らず他人の~』との発想は丸っきりネットウョですよ。

引用と盗用の違いもご存知でないらしい。

>自分が今まで長年考えていた発想とか主張と同じ文章を他所で見つけたら

「自分の文章」を勝手に盗用されていたら不愉快になりますって。

「悲しみの森」木と共存した女系文化だった日本とブータン(逝きし世の面影)
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/0c8ba31dabc4e8d6491ca1bcf34fff75
「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ(愚樵空論)
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-566.html

前者はどう見ても私の記事の無断盗用の部分がある。前者だけをみればあたかも宗純さんが書いたように見えるが、さにあらず。このことは、コメント欄で宗純さん本人も認めている。

この時点では私も大人の対応を取り、コメントとTBで対応したが、

>斉藤環氏の主張の、極一部分だけを抜き出して、我田引水で批判するなどルール違反であるばかり

の記述をみて、こうした批判をする資格が宗純さんにはないことを明らかにしておく必要があると感じたわけですね。
(それでも一回、間を置いたのですがねぇ)

>そんなことは常識ある大人は誰も行わないし言わないのです。

よく言うよ。呆れ果てますな。

こちらが常識的な態度をとっていればつけあがって、ゴミ呼ばわりする。そんな人間に「常識」とか言われてもねぇ。まあ、そういった輩ほど「常識」を振り回すのは、世の習いではあるのだが。

いい加減にしておきなさい。
客観的事実の間違いを指摘されて怒るとは (宗純)
2011-12-18 12:10:01
愚樵さん、
私の赤ペン先生がいたく気に入らない、不愉快な様ですが、具体的な客観的な科学的事実は、誰であれ否定の仕様がないのですよ。
事実、ご自分の最初のコメントに対する私の、
愚樵風の手品ですね (宗純)
2011-12-13 15:26:41
コメントの続きの、
それではもう、歴史の偽造に近い (宗純)
2011-12-13 16:13:50
や次回の、
東西南北症候群ですよ (宗純)
2011-12-15 15:27:23
については愚樵さんは一言も反論出来ていません。
当方が問題としているのは普遍的である科学的な事実の正誤です。
間違った記述が自分のブログにそのまま残ることは、無責任なのでやりたくも無いが仕方なく反論しているのですよ。
事実と違う『真っ赤な嘘』とか『妄想』をコメント欄とは言え、そのまま自分のブログの中に残すのはブログ管理者として忍びないからですね。
事実でない部分は、『不掲載』とするか正しく間違いを『修正』しているだけですよ。
幾ら不愉快であろうとも、皆さんは科学的な客観的事実は認めるしかないのですよ。
こればかりは致し方ない話ですね。
事実、私のコメントは具体的な客観的事例を提示して、愚樵さんの間違いを指摘した。
対して愚樵さんは反論出来ないので沈黙している。
御自分でも私の指摘したことが、それが『真実』であると知っているが、それを認める勇気が無いだけではありませんか。

愚樵さん、それでは言い訳にもなっていない。
南北さんが悪質なネットウョに付きまとわれて危険な状態であり、まともな会話が出来ないので、『それは絶対にやってはいけない』と何度も私は注意したはずなのですよ。
事実、1年以上前までの愚樵さんなら私に注意されるまでも無く、そんな実りの無いアホ臭いことは御自分が絶対にやらなかったのですよ。
突然態度を180度翻したのは私ではなくて愚樵さんの方なのです。
だから困惑しているのです。
私の態度は昔のままですが。
そして、そのこと(自分の変化)は、ご自分でも『思えば遠くに来たものだ』と感じているので、良く知っている。
ゴミとの表記がけしからんとの愚樵さんの言い分はもっともで、これは間違いでした。
私としては、精一杯努力して、なるべく曖昧表現にしようとしたのですよ。
TBされた愚樵空論の記事ですが、ゴミと書いたのは不正確な表現で正しくは『毒』ですね。
私の、
『違っているから面白い
愚樵さん、何か勘違いがあるようですね。
確かに最近の愚樵さんの、世の中で唯一の普遍的存在である科学を『大きな特殊に過ぎない』と無理やり否定したいと『抵抗』をしている様は『何とも、困ったものだ』と感じているのは事実ですが、
同じものを見ても、その人の立ち居地や見る角度が違えば当然違って見えるのです。』
に対して、
愚樵さんは、
『科学が唯一の普遍?
・宗純さん、おはようございます。
そうですね。違っているから面白い、ですよね。が、面白いと感じることができるのは、確立した自己があってのこと。自己が揺るがないから面白いと感じていられる。私が申し上げているのも、そのことで。
指摘されているとおり、私は科学が唯一の普遍だなんて思ってませんし、そこは宗純さんの違いでしょう。
でもって、そこは「困ったこと」でもなんでもないんです。私にとっては。
だから、宗純さんの前コメントのように「困ったことに」なんていわれても、「困っているのは宗純さんでしょ」くらいにしか思わない。』
と平気で言ってしまう。
唯一の普遍的な存在としての『科学の否定』は無理だと何遍言っても聞き入れない。
考えが違っていても会話が出来るのは、双方に同じ基準となる『物差し』が存在するからで、それは『普遍的なもの』ではなくてはならない 。
物差しがバラバラだと全員が困るのです。
そしてその普遍的な物差しとは『科学』以外には無いのですよ。
『自立した個人』など色々だから自立している個人なのですよ。
同じだから基準になるが別々なら何の基準にもなりません。
その主張が無茶です。
ところが愚樵さんとしては何としても『科学の間違い』を指摘して普遍性を否定したい。
しかし科学以外の普遍性のある存在は、この世には無いのですよ。
これを認めたく無いので、色々な無茶苦茶が論理が出てくるのですね。
まあ愚樵さんとしても『そりゃ、科学の法則性を否定するのであれば困ったことでしょうけど』と一応は付け加えているが、その態度とは正に最新科学技術を駆使したオウム真理教信者の一流大学の大学院で科学を学んだが修行して空を飛べると信じていたらしい、高偏差値の秀才と同じ態度です。

愚樵さんは、愚樵空論の読者と当方の読者層が被っている事実を御存知無いのでしょうか。
ですから、「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ(愚樵空論)の続きの発展形というか関連記事として
「悲しみの森」木と共存した女系文化だった日本とブータン(逝きし世の面影)
が書かれているのですよ。
ですから一部の言葉が重複しているのは当然であり、そんなことは愚樵さんが指摘するまでも無く、読者のほとんどは承知している話ですよ。この事実は説明するまでも無く、題名一つ見ても明確なのです。
読者の中には同じ趣旨の記事を書いているの信じられているのですよ。
ですから正反対の意見の記事でも、この先入観から『同意見である』との間違いまで生まれています。
まさか愚樵さんの記事の一部が、『科学を否定する』目的で書いてあるなど、誰一人気が付かないのですね。
愚樵さんの言い分の正当性ですが、『ソースを示せ』とはネットウョさんが盛んに言う台詞なのですが、反戦塾のましまさんも『ソースソースと食堂でもあるまいし』と笑っていますよ。
『間違い』は色々と雑多で違っているが、
その反対に、客観的事実に合致した正しい意見や判断は、基本的に『同じ』であり『普遍的』なのですよ。
だから『科学』だけが唯一『普遍』たりえるのです。
そして愚樵さんの「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ(愚樵空論)の主張ですが、この意見には何ら愚樵さん一人の意見ではない。
その逆で、良識ある多くの人が共有する正しい共通認識に非常に近い、普遍的な意見ではないでしょうか。
だから多くの人が共感したのですよ。
科学者は自説をなるべく多くの人々に誰にでも引用して欲しいものですが、これとは違いコックは世界一の一流シェフでも自分の創作したレシピはマル秘にする。
これはマスコミでも同じで、ソースは秘匿するのが原則らしいですよ。
今回の愚樵さんの主張ですが、全く科学的でない。余りにも不真面目です。
「なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?」(愚樵空論)
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-541.html
の愚樵さんご自身のコメントでも、
『思えば遠くへきたもんだ、と』2011-10-27 | 愚樵
『 >極最近変ったといえば愚樵さんにも言えて、

それは何度か言われましたね。言われなくても自覚していますとも。

『別に反論はしません。どう思われようがそれは宗純さんの勝手です。でも、そんなことを言われたって何も?』

『これは直観よりももっと強固な確信の問題なんです。思索を積み重ねて変化していった。そのことを自身でも自覚している。それは当人にとっては成長であり進歩です。誰になんと言われようがね。その確信なくして何の益もないブログの更新を重ねたり出来るわけがない』

愚樵さんの、辿るついたその答えが霊とかプライベートとかの霊的存在の一連の記事ですが、それは出口の無い迷宮ですよ。
科学の持つ普遍性の否定の先には、破壊的カルト宗教紛いのものしかないのですよ。
死後明らかにされたスティーブ・ジョブズの自伝によると若い時分にはマリファナやLSDを毎日やってラリッていた事実を明かし『LSDはすごい体験だった。人生でトップクラスというほど重要な体験だった。LSDを使うとコインには裏側がある、物事には別の見方があるとわかる。
・・・ おかげで、重要なことが確認できた。金儲けではなくすごいものを作れること、自分にできるかぎり、いろいろなものを歴史という流れに戻すということ、人の意識という流れに戻すということ。そうわかったのはLSDのおかげだ』
と語るが、『よく言うよ。呆れ果てますな。』であり、『いい加減にしておきなさい。』と言いたいですね。

赤ペン先生はやりたくないのだが (宗純)
2011-12-18 16:36:48
愚樵さん、
タイトルが『よく言うよなぁ』とのネットウョ的な挑発的な書き込みなので、もう一度だけ特別にやってみましょう。
>『それぞれの記事の内容については、もういいでしょう。どうせ宗純さんは理解しないでしょうし。』
当方は最初から最後まで、その『どうでもよい』記事の内容、客観的な正誤の問題しか話題としていません。
愚樵さんの、最初のコメントからして全部が全部真実の欠片も無い間違いコメントであることが証明され、恥をかいたと思って逆切れしているのですよ。
少しは恥ずかしい、大人気ない不真面目な行為だと気が付いてください。
>『ここでは、宗純さんが私に対して行なった誹謗に対して反論するとともに、宗純さんの非常識ぶりをあきらかにしておきましょう。
まず、コメントが長いという指摘について。
私のコメントは普段は他の人と比べても端的で短いはずです。先のコメントが長くなったのは、反論の反論の反論だから。長くなるのは当然。』

冗談も休み休みにしてください。『長い』とは一番最初のご自分のコメントの事を指している事実に気が付かないのですか。
しかも長い事が問題では無いと、最初から明確に指摘しているのですよ。
南北さんと同じで内容が無い、間違っているから問題なのですよ。
しかも、今回も本当に南北さんと同じで相手の話を完璧に無視していますね。
1行も理解出来ないと情けない。
当方は、
最初に『内容さえあれば長ければ長いほど歓迎する』
とはっきり書いてあるはずです。
何故長いと困るかもはっきりと書いてある。

理解出来ないようなのでもう一度示しましょうか。
『南北さんと同じで意味無く長い。
短ければ私もこれほど腹も立たない。
意味不明の駄文の長い長いのを無理やり読まされる相手の身にもなってください。
意味が正しい文章は、1回読むだけで理解出来るので簡単に済むのです。
ところが、南北風の文章では『何が書いてあるか』『何を目的として書いたのか』が支離滅裂で意味不明。
その為に、何回も何回も何回も、判るまで読み返す必要が生まれる。
これが、たいへんな手間と時間なのですよ。
だから南北風の客観的な事実と遊離した長文コメントには腹がたつのです。
今回は、完璧な東西南北コメントになっていますよ。
長い癖に内容が無く、客観的事実に反している。
それは科学的事実とは無関係な、単なる愚樵さんの内心です。
私が何遍も指摘しているのですが他人の内心には何の興味も関心もない。
自分の連れ合いや子供なら責任上仕方がないので我慢しているだけなのです。
愚樵さんが何を考えようが私としては、他人の内心には、煩わしく鬱陶しいので触れたくは無いのですよ。』

一番大事なことは、『長い、長くない』ではない事は、普通の読解力があれば誰にでも理解出来るはずなのです。
それをわざと間違えているのですね。
この態度は斉藤環氏の論に対する態度でも共通する。
愚樵さんは、斉藤氏の論が『絆を否定している』と曲解して非難しているが、
斎藤氏は、絆が最後のよりどころであり一番大事だと指摘しているのですよ。
それを正反対に描いて、自分が作った虚像を攻撃する態度は、感心しません。
事実とも違い、不必要で不毛の論議ですよ。
私の『事実と違う』との指摘には反論できないので、『それぞれの記事の内容については、もういいでしょう。どうせ宗純さんは理解しないでしょうし。』と逃げまくる。
逆切れしているだけではありませんか。
>『だいたいですね。私のところへ寄こしてくる宗純さんのコメントは、大抵標準より長い。
これ、客観的事実です。』
それ、御自分で主張していて恥ずかしくありませんか。
相手の主張の一部分だけを切取って反論したつもりになられて白けるばかりです。
>『つぎ、東西さんとの論争について。
いったい何時の話をしているのでしょう? こちらでいくらか論争らしきことをしましたけれども、宗純さんの言い方だと、私がそういった人たちとの論争を中心にネットで活動しているようにも受け取れる。客観的事実はさにあらず。』
愚樵さん、
私は事実だけを指摘しているのですよ。
>『宗純さんの言い方だと、私がそういった人たちとの論争を中心にネットで活動しているようにも受け取れる』とは、
それは愚樵さんが勝手に思ってるだけですね。
被害妄想ですね。
愚樵さんが普段何を為さっているかは全部私が承知している筈が無い。とは思わないのですか。
この『逝きし世の面影』のブログ内のことが問題にしているのですよ。
話はこのブログ限定で、それ以外のことに言及していないぐらいの事は、わざわざ説明しなくとも誰にでも判ると思いますよ。

>『もとより私と宗純さんとは意見が合わないことが多い。宗純さんもそれは承知のはず。にもかかわらず、TBを送ってくる。ならばそれに意見したところで、なんら咎められる謂われはないはず。』
それが根本的な問題なのですよ。
そんな不思議なことを考えているのは今の愚樵さんだけであるのですよ。
多くの読者の皆さんは思っていない。勿論私も思っていない。
そして客観的な事実としても、論争しているかに見える今でも、違いは小さくて共通点方が遥かに多い。
これはある意味では南北さんにも言えるのです。南北さんが延々とコメントしてきて心底腹が立った原因も同じで、両者の間の相違点よりも同一点が圧倒的に多いので、南北さんの『間違い』は自動的に左翼全体とか自分自身や護憲派全体にも影響する。
だから何とか損害を小さくする政治的な目的で、止めさしたいのです。
そもそも、此処は政治ブログであり政治的な価値観を最優先しているのですよ。




「意見が合わない」ではなくて事実に合わない (宗純)
2011-12-18 18:06:45
愚樵さん、
避難中傷でな無くて、客観的な事実と、愚樵さんの当ブログでのコメントとの事実が合わないことを指摘しているのですよ。
これはブログ管理者としては当たり前だと思わないのですか。
TB記事ですが、余程のことが無い限り『間違い』があっても、当方では何も問題にはしません。
最近は愚樵空論には不思議な記事が出ることがあるのですが、わざわざ出かけて赤ペン先生など誰も行わないのです。
このブログ内だけの限定的な話と、一般論とを混同されても・・それではため息しか出てきません。

>『>愚樵さんの、『リンクも貼らず他人の~』と・・・・
・・・よく言うよ。呆れ果てますな。
こちらが常識的な態度をとっていればつけあがって、ゴミ呼ばわりする。そんな人間に「常識」とか言われてもねぇ。まあ、そういった輩ほど「常識」を振り回すのは、世の習いではあるのだが。
いい加減にしておきなさい。』<

この部分は先の、
客観的事実の間違いを指摘されて怒るとは (宗純)
2011-12-18 12:10:01
に書いたので一部重複するが、自説の具体的な間違いを指摘されて話をそらして、問題点を他に移すのは典型的なネットウョの常套手段ですよ。
本当のご自分の問題点には触れたくないので、他に戦線を拡大して泥仕合に持ち込みたいのですが、それは今までのご自分の主張の間違いを認めたのとほとんど同じ姑息な行為ですよ。

愚樵さんですが根本的な『勘違い』をしているのです。
この私の記事ですが愚樵空論と無関係ではなくて、そもそも、最初からそのように出来ているのですよ。
愚樵さんは、愚樵空論の読者と当方の読者層が被っている事実を御存知無いのでしょうか。
同じ範囲の、同一読者層なのですよ。
ですから、「悲しみの森」と言ってしまう哀しさ(愚樵空論)http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-566.html
の続きの発展形というか関連記事として
(コメントの転用など)「悲しみの森」木と共存した女系文化だった日本とブータン(逝きし世の面影)http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/0c8ba31dabc4e8d6491ca1bcf34fff75
が、そもそも書かれている事実は皆さんが知っているのですよ。
ですから一部の言葉が重複しているのは当然であり、そんなことは愚樵さんが指摘するまでも無。
読者のほとんど皆さん全員は愚樵さん以上に良く承知している話で秘密でもなんでもない。
それはこの記事内で、コメントのやり取りそしているのですから愚樵さん自身が一番良く知っている。
この事実は説明するまでも無く、そもそも私の記事の題名一つ見ても続きである事実は、明確なのです。
読者の中には同じ政治的な趣旨の記事を書いているの信じられているのですよ。
突然大問題にする理由とは何かと、ご自分の胸に手を当てて少しは正直になって下さい。
まあ、確かに歌詞とか小説などのパーソナリティが尊重される著作物では他人の盗用は著作権の侵害であるので、権利者が怒るのは当然なのです。
これは当たり前で、『其々の違い』(他との差異)こそが生命であり財産なのですね。
これらの世界では、『同じ』である事は、何の値打ちも無くて、『違い』こそが一番大切な価値観なのです。
ですが、正反対に政治や経済、科学の世界では自説と同じ主張を他人がしてくれる事は大歓迎される。
何故なら、科学の価値観とは『普遍性』であり他と『同じ』でないと普遍的ではない。
この世界では他のと違いは逆にマイナスであり、何の価値観も無い。『同じである』事が正しさの証明であり、事実少し前までは愚樵さん自身もご自分の発言なり主張なりが他で使われる事に誇りを感じていた筈なのですよ。
間違ったものは無視されるが、正しいものは誰から無く全員が利用するのですよ。
客観的に正しい科学的真実は普遍的であり、同一なのですね。私の文章が誰かに使われていても政治的主張が『認められた』と喜ぶ事はあっても『勝手に使った』と怒るなどのことは無い。
政治家などは自分が言った言葉がどれだけ多く使われるかで勝敗が決まるのです。
愚樵さんのところにあった、「どうしようもなく政治的な存在『天皇』』との素晴らしい表現では、当方のブログ記事の転用は愚樵さんは当然ですが、政治ブログなら大歓迎だったのですよ。
それともあれは嘘とか虚勢だったのでしょうか。
ところが何時の間にか、誰も気が付かないうちに愚樵空論は政治ブログとは別のジャンルになったと言う事でしょうか。
なんとも残念な話ですね。
そういえば最近の愚樵空論ではパーソナリティの話が出ていましたが、その事が影響しているのでしょうか。不思議な話ですね。

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