逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

「日本人とは何か」加藤周一、周回遅れの吉本隆明

2012年03月21日 | 文化・歴史

加藤周一1919年~2008年(大正8年~平成20年)

日本人を『一言』で説明すれば、『国学』の本居宣長以来『日本人とは何か』との問いを、しきりに発して倦むことがない特異な国民であるといえる。
わが国で『日本人とは何か』という問いが繰り返されるのは、実は日本人であることが、何を意味するかが、はっきりしないところが原因している。
なぜはっきりしないのか。
日本人は、例えばイギリス人にとってのフランス人のような自分を相対化出来る他者を持つことが歴史的に一度も無かった。
日本人は、基本的に自分自身を客観視することが出来ないで、今まで来てしまったので『日本人とはなにか』がよく分からない。
『自分を客観視する』とは、『他者の目で自分自身を見つめなおす』ことに他ならないのである。
この、『他者の目』が日本では圧倒的に不足していた。
英仏や独仏の国民は、お互いに相手を見ている。
欧州人は相手を観察するだけではなく、相手の目の中に映った『自分自身の姿』を観察することに歴史的に慣れている。
他人の目はこの場合に、『自分自身が何であるか』を知るための鏡だ。
国境を接する他国民を観察し、その結果と比較することによって、自分自身の定義が容易になるだろうという程度の話ではない。
それ以前に、もしも他人目の中に『自分を写す鏡』を見出すことが出来ないなら、何処に自分自身の姿を客観視する手法があるだろうか。
他人を観察するのと同じようには人は『私』(自分自身)を観察することは理論上不可能なのだ。
他人の目で中で『私』自身が客観化されていなければならないのだ。
しかし不幸にも、日本人は一度も他国民の目の中に自己の姿を読むことが出来なかった。
今までは、いかなる他国民も日本を客観的には見ていなかったからである。
一般的欧米人で日本の位置が正確に答えれるものは少ない。今でも多くの欧米人たちは韓国と日本とを世界地図の上で正確に区別出来ない。
西洋人の目に映った日本とは今ならソニーやホンダ・トヨタ、戦の時は神風特攻隊の操縦者、過去に遡ってはたかだか江戸時代の版画の巧妙な素描家にすぎなかったということである
ところが日本側でも相手を見ていなければ問題は簡単で、その場合には今のように『日本人とは何か』との問い自体が生まれない。
問題点の大きさ深刻さは、実は日本人は必死になって絶えず『外を見ていた』が、外からは見られていなかったという一方的な関係によるとことに尽きる。
中国と日本の関係は数千年(記録が残っているものだけでも1500年)の長い歴史があるにもかかわらず(国交回復した1970年代以降の期間を含めて)長い期間、独仏のように相互作用を含むものではなかった。西洋と日本の関係も同じである。
日本が必死になって異常な関心を集中して先進的な『外側』(古代中国や近代の西洋)を見つめていたときに、当の相手は(独仏がお互いを見つめているようには)日本を見つめてはいなかったのである。
西欧に対する強い関心と相手の無関心は必然的に『日本とは何か』との問いを呼び覚まさずにはおかない。すなわち反省がはじまるのである。
しかし、反省では『日本人とは何か』の決定的な答えは得られない。
『得られない』以上、同じ反省は時代毎に繰り返されるほか無かったのである。
しかも『日本人とは何か』という問いの核心は、実は我々自身とは何か』という問いであり、この『われわれ自身とは何か』との問いの核心は、『われわれは何を欲するのか』という意思の問題である。
しかしこの場合、過去の日本人にはこのような特徴があったとの答えは、『日本人とは何か』の答えにはならないのである。
何故なら、過去の日本人は、現在はもういない。
同じ意味で未来の日本人も何処にもいないので、『日本人とは何か』の核心は、今現実の日本に存在している『自分自身とは何か』という意味の『問い』だった。
その意味では本居宣長の(今までの、あるいは大昔の)『日本とは何か』との国学の発想は根本的な不思議(勘違い?)な存在であると言わざるを得ない。

『もののあわれと国学』

『日本とは何か』との答えとしての『国学』の誕生は、ひたすら『日本的なもの』を捜し求めた結果であるが、本居宣長が苦労して辿り着いた結論である『もののあわれ』などは、実は過去の日本に無かったし、もちろん現在にも無い。
多分将来の日本にも無いと予想される。
それなら宣長の完成させた思想体系である(戦前戦中において『国学』は天皇制と結びつくことで超国家主義の一翼を担った)『国学』の核心部分で、日本精神の真髄的な『もののあわれ』は、矮小で歪な偏見の一種程度である。
何故なら、そもそも日本の特徴とは、宣長が探し求めた純粋な『日本的なもの』の中には無い。逆に外国由来の雑種的なものの中にこそ『日本的なもの』が見つかるからなのです。
他と違う日本の最も際立った特徴とは、実は『雑種文化』である。外から入ったものを変質させ日本的に作り変えるところにあり、純粋な『日本的なもの』には無い。
今まで外から入ってきて、その『本質』を日本的に変質しなかったものは何も無いのである。
本来対立する性質である内と外とか個人と集団、経験と理論など論理上反対の性質のものが対立・闘争すること無く、並立・共存して仕舞っても、日本では何の問題も起こらない。
全ての外から入ってきた超越性は日本では通俗に変化し、深刻な根本的な対立点も曖昧になる。
日本では、全ての外国からの思想も文化も日本的に変容してしまうので中国伝来の儒教や仏教、西洋のキリスト教も日本では独自に変化して、最後には『日本化』して本来の超越性を失い相対化するのです。
それらの外から入ってきたものを『日本的で無い』との理由で排斥した本居宣長の『国学』が唯一見つけた外国由来でない『日本的なもの』はその性質上、矮小化、奇形化するしか道は無い。
本居宣長の『国学』に『もののあわれ』しか内容的に残らなかった真相であるが、外国起源のものを全て除けば、自動的に(仕方なしに)それしか残らないのは必然である。
所謂中世文学の代表例として方丈記や徒然草をとるなら『もののあわれ』といい『無常』といい、いわゆる『日本的なもの』の典型が中世文学を特徴づけているように見えるが、これらの中には哲学が無く倫理的な感情の深さも無い。
これらには、感受性の異常に鋭い思春期の少年文学の趣があるだけである。
しかしこの原因は中世文学の精神を代表する作品として方丈記や徒然草を取るからで、浄土真宗の歎異抄や曹洞宗の正法眼蔵隋聞記をとれば事情は一変する。
本居宣長など当時の国学者が僧侶の作品を文学としなかったことには、そもそも党派的な偏見があり、この手法には普遍性も国際性も最初から考慮されなかった。国学的な視点には科学性や客観性がまったく無い。
ドイツの散文はルーテルの聖書に始まりフランスの散文はパスカルの護教論に始まる。何処の国でも坊主と修道院の作品を排して文学、思想史を語ることは出来ないのである。

『敗戦と天皇制、日本人とは何か』

日本人にとっての長年の最大関心ごとだった『日本人とは何か』の問いの意味が、1945年の第二次世界大戦での日本の敗戦が『大きく影響した』のは疑いない。
このときに日本人にとっての世界とは、『変え得るもの』では無く『変わり得るもの』と経験的に認識した(あるいは強制された)ことを、全国民的に確認したことに尽きるだろう。
日本人にとっての『世界』とは、欧米一神教世界や中国のように『改造』するためにあるのではなくて『解釈』するためにある。
『変えれ得る』と考えたのは例外的に極少数の共産党員程度で一般の日本人は誰も変えようとは望まなかったし、また変え得ようとは考えなかった。
一般の多くの日本人にとっては『変えれ得る』ではなく、自分が学校で学んだ教育勅語の『古今に通じてあやまらず』だったのである。
天皇家は万世一系で未来においても千代に八千代に弥栄えるはずでその権威は永久的なものであると信じられていた。あるいは永久的だと仮定されていた。
ところが無条件降伏で万事が変わってしまう。
アメリカ占領軍は、これまで『永久不変である』と信じらられていたもの(天皇の権威を頂点とする社会や精神の構造や国家体形)を根底からいとも容易く破壊してしまう。
しかもそれに代わるべき民主主義の構築には決して熱心ではなく第二次世界大戦終了直後から、すぐさま今までの同盟国ソ連に対する新たな戦争(冷戦)を開始して仕舞った。
アメリカは自分に歯向かった日本軍国主義の陸海軍は解体したが、天皇の権威を頂点とする官僚組織は解体される事は無く丸々温存した。
官僚組織はトップの首の挿げ替えだけでお茶を濁して、そのまま自分(アメリカ)の(天皇の変わりにGHQを最高権威とする)統治機構に鞍替えさせ現在に至っている。
有名な敗戦直後の米軍用従軍慰安婦や教科書の墨塗りの話も、決して占領軍の指示ではなくて日本側官僚組織の新しい主人に対する忖度(過剰適応)の結果だった。
日本の官僚組織は世界一優秀なので命令されれば即座に実行し、命令されなくても最高権威(アメリカ)に対しては忖度して(先回りして)実行する。
今の日本の官僚組織が、対米従属命で売国的なのは本質的な問題点であるが、このように敗戦時に自分の主人を絶対天皇制からアメリカに乗り換えてしぶとく生き残った歴史的な必然だったのです。
ところが日本占領時のアメリカは一筋縄ではいかず、気前はよかったが曖昧な日本人以上に曖昧で複雑だったのである。
実利一点張りのプラグマティズムの権化のような好戦的で貪欲な帝国主義(世界最強のアメリカ軍)と、それとは正反対の崇高な理想主義(文民統制、基本的人権、民主主義、政教分離)の深刻な二重構造だった。
これをアメリカの本音と建前との分離と解釈するか、それとも二つの拮抗する勢力の内部分裂や抗争と見るかは判断が難しい。
しかし、このアメリカの日本に与えた影響は絶大であり、それまでの日本人の精神構造に対して、決定的な根本的変更を否応無くもたらして今現在に至っている。

『あらゆる権威全般が失墜してしまった世界、日本の悲劇』

今まで心から信じていた永久不変の絶対天皇制が『外』(アメリカ)によって脆くも崩壊する現実を目の前で見た日本人は、『永遠であるものなど何も無い』ことを、
『人間以外の何かが我々の世界を保証しているのではない』ということを、
したがって『全ての文明は滅びる』ものであり、いわんや極東の島国の秩序は何時でも、『変わり得るものに過ぎない』ということを、
変われば前の世界で通用していたものは後の世界ではまったく通用しなくなると言うことを、
『理論』としてではなく、『経験』として理解する。
要するに、自分たちの永遠だと信じてい世界は相対的であると理解する必要があったのである。
しかもこの場合に一番決定的で問題だったのは、世界は(自分たちによって)『変えられる。』ものではなく、世界は(誰かによって)『変わる。』ものだった経験であろう。
敗戦による一種の革命は外部から突然きて起きた変化として受け止められたのであるから、それなら本居宣長の『もののあわれ』や『無常観』が『再確認?された』ことにもなる。
日本以外の他の国々では、歴史的意識は一つの世界をその内側から壊して別の世界を築きあげる経験の蓄積でしか獲得されない。そのときには古い現在の権威は、来るべき新しい権威によって否定される。
しかし1945年の日本の状況は、そうではなかった。
来るべき新しい権威だった筈の『近代民主主義』は不完全にしか構築されなかったが、(永遠と信じられていた)旧来の秩序や生活の基盤となる権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。
このときに大多数の国民の意識の中で失われたのは『天皇の絶対的権威』ではなくて全般的な『権威そのもの』だった。
日本人の間に、民主主義の歴史相対主義ではなくて、目の前にある『どういう価値も信じない』という末世的な現象が起きるのは当然の成り行きだった。
日本の権威一般に対する国民の不信感は深刻で、今の新しい最高権威である戦後『民主主義』自体にも向けられたのは当然な成り行きであった。
敗戦後に日本国でも一応は民主主義が根づいたが、それは一面的表層的現象にとどまり不幸にも、それ以前の社会の天皇の権威に代わる、『あらゆる価値を支える原理』としてでは無かった。
天皇を中心とした世界の崩壊により生まれた(民主主義原理を含む)権威一般に対する拭いがたい不信感(権威一般が信頼されない)虚無的な現在の危機的状況の克服には、日の丸君が代の強制や極右政治家安部晋三の復古主義(レジーム・チェンジ)などの、はるか昔に崩壊してしまったもの(天皇の権威)の復活によっては絶対に解決出来ないのは自明の理である。
歴史の過ちは、単純には絶対に繰り返さないのである。

『知識人の戦争協力と、国学(神ながらの道)』

日本の戦前の一般的な知識人においては『実生活』と頭の中の外来(おおむね西欧)の『思想』とは一致しておらず乖離していて、基本的に無関係に近い薄い間柄だった。
そのため外来の思想は、危機的な場合には、実生活の側からの要求に簡単に屈服してしまう。
その実生活とは、直接には小集団の内側の束縛(いわゆる絆?)を意味していたし、間接には一切の価値を超越し科学的な分析の対象であることをやめた国家・日本の精神的束縛(国家の絆?)を内容とするものであった。
実生活と離れた知識人の思想は、実生活に対して超越的な価値概念も、真理概念も作り出すには至らなかった。
先進的な外来思想は頭だけで理解されていたので、心情や生活感覚とは無縁の二本立て構造だったので当時の民族の伝統的文化とは切り離され、当時の知識人と一般大衆とを切りはなしていた。

『かんながらの道と古事記』

本来キリスト教の一神教世界(西洋思想)はプラトン的な観念論世界であり、そこでは価値や真理とは歴史的に超越的なものとして成立している。
ところが日本では古事記の昔から日本の精神的構造の中に超越的な動機は含まれていなかった。
その後の日本の歴史に外から超越的な儒教や仏教が入ってきたが、日本的な超越的でない『かんながらの道』の伝統を、やはり根本的に変えることは無かった。
逆に儒教や仏教の方がその超越的な本質部分を変えて、物事を『ありのままにそのまま受け入れる』という日本的な『かんながらの道』に変質しているのです。
その意味で戦時中の知識人も、はるか昔の『かんながらの道』につながっていて、千年以上も実生活を超越することが出来なかった外国由来の『思想』や『哲学』『宗教』が、超越性を獲得できないのは当然だった。
『国学』において日本を代表するものとしての『かんながらの道』は知識人の戦争協力のみならず、日本の近代思想を内側を解くかぎであり、本居宣長の国学の純粋な『日本的なもの』は、『その意味』では正しかった。

『超国家主義と日本の知識人、日本浪漫派と京都学派』

日本の凶暴なファシズムと無謀な戦争の積極的な協力者(社会層)とは、小工業主、小地主、学校教員、下級官僚、郵便局長や町内会長、消防団長、僧侶や神官、米穀店や酒屋の店主など、いわゆる中間層であった。
これ以外の、中間層のもう一方のグループである都市サラリーマン層、文化人やジャーナリスト、教授や弁護士、一部学生などのインテリ層であるが、この層が敗戦後に主張したのが有名な『一億総ざんげ』である。
戦争以前(たぶん、戦争後も)には知識層と一般大衆の精神的なみぞは深い。
知識人の責任を、1億人に埋没させて考えるのは明らかな誤魔化しである。
『国民はだまされていた。』とか『国民は何も知らなかった。』は国民の大多数には通用しても知識層には通用しない。
大衆は知ることが出来なかったかもしれないが、知識人は『知ること』が出来た。
後者の場合本当に何も知らなかったのなら、それは意識的に『知ろうとしなかった。』のである。
知ろうと思いさえすれば、満州事変以後のファシズムの暴走と天皇神格化の時代錯誤はわずかばかりの注意力さえあれば誰の目にも明らかであり、それなら知識人の『知らされていなかった。』はまったくの誤魔化しである。
知識人にとっては知る材料は、見事に、完全に、日常茶飯、目の前に遺憾なく出揃っていた。
だから『知らされていなかった』は責任逃れの誤魔化しで真実ではない。
武者小路実篤は敗戦後に『私は騙されていた』といった。
そうかも知れない。
しかし同じ情報からでも『だまされなかった』少数の人たちがいた。
『だまされていた』のは、『だまされていたい』と自ら望んだからである。
我々の問題は、誰かが『だまされていた』ことでは無くて、日本の知識人がなぜ自ら『だまされたい』と望んだかということ(原因となったA級戦犯の思想や哲学)である。
日本を破滅の戦争に誘導した知識人の精神的な本当の主張(戦争責任)とは何か。
戦争反対を主張出来なかったことは事実であっても、それが直ちに『戦争賛美しか出来なかった』ことにはならない。
特別な場合の除けば『沈黙すること』は最後まで出来たのである。
しかし永井荷風など少数の例外を除けば、日本の知識層は戦争を喜び勇んで積極的に賛美していたのである。

『きけわだちみのこえと近代の超克』

きけわだつみの声の手記を書いた若年インテリ層が、愚かな戦の中での避けがたい『自分自身の死』に対して、何とかして意味を与えようとした時に『より所』とせざるをえなかったのは、『大東亜戦争』を賛美し神聖化した日本浪漫派と京都学派である。
狂信的国粋主義者や官立大学の御用学者や翼賛的なジャーナリズムが2・26事件以来のファシズム『新体制』を正当化し、中国侵略戦争と太平洋戦争に理論的な支持を与えたのは明確であるが、戦場に追い立てられた『きけわわだつみのこえ』の知的な若者層にとって一番深い影響を与えたのは、今では忘れ去られて誰も知らない日本浪漫派と京都学派であった。
この時、日本浪漫派は読者の情念に訴えた。
内容的には『近代の超克』『悲願』『慟哭』『憧憬』『勤皇の心』『悠久のロマンチシズム』『民族という血で書かれた歴史の原始に遡る概念』などの小難しい言い回しで何の変哲もない『言葉』を有難そうにする安直な仕掛け以外には中身はなにも無い。
この日本浪漫派『方言』のペテンに簡単に引っかかった側にも大いに責任があろう。
西田幾太郎の『絶対矛盾の自己同一』で有名な京都学派は、外来の論理の何にでも適用出来る便利さを積極的に利用して、たちまち『世界史の哲学』『近代の超克』でっち上げた。
これこそ日本の知識人に多かれ少なかれ伴われていた『思想の外来性』を極端に戯画化してみせているものは無い。
京都学派では生活や経験、伝統と完全に遊離した外来思想の持つ特徴が、議論が具体的な現実に触れる時の徹底的に荒唐無稽な出鱈目ぶりと、それとは対照的な論理そのもののもっともらしさに、まったく鮮やかに現れている。
体制と権力が議会制民主主義を組織的に破壊していく過程のなかで、『近代の超克』を標榜して日本浪漫派は自由民権以前の世界へ戻ることを夢み、京都学派は西洋で『行き詰まった』議会制民主主義の先に出ることを夢み、つまるところ両者は言葉をもてあそんでファシズム権力の正当化に手を貸したのである。
本当の思想は体験や生活意識から出発するが日本浪漫派も京都学派も、両者とも外来の先進思想は頭の中だけで『建前』に過ぎなく(生活に浸透していない)て、二つが乖離して対立した場合には必然的に生活意識(その個人が属する小集団の家族的意識)が優先した。
何故なら『思想』の生み出す価値観は、実生活上の便宜、習慣、感情(意識)に由来するもの(すべての物事に対する思索を放棄、ありのまま受け入れる所謂「かんながらの道」?)で、つまるところ『超越しない。』
これらの日本人知識人の個人の『意識』や『思想』は、あらゆる意味で何ものも超越しないし、そもそも超越出来ない。
何故なら日本では初めから(古事記の昔から近代まで)超越的なものは存在していなかった。
美的価値観も、『思想』の生み出す価値観も、(いな価値観ばかりでなく)科学的真理さえも、普遍的な超越的価値感・真理概念を、日本のいわゆる近代は、生んでいなかった。
したがってこれらの(身についていない)『思想』や科学は、時と場合によっては捨て去るのに何の未練も無いものだったということである。

『国学と日本浪漫派と京都学派と吉本隆明と』

歴史は残酷である。その時にどれほど正しく正当に見えていても時間の判定は厳格で少しの誤りも見逃さない。
200年前の本居宣長の国学だけでなく半世紀前の加藤周一の随筆も思想もその良し悪しが全てあからさまになるのですから恐ろしい。
今、宣長の『国学』を自分の思想哲学であると主張するものは現実離れした歴史認識の『作る会』系極右学者でも一人もいないし、阿呆臭い子供じみたネットウヨにも一人もいないだろう。
しかし67年以前には逆に日本人の生きた行動指針であり帝国の国家方針だったのである。
一時代を築いた『国学』の延長線上にあったのが、敗戦までの日本浪漫派であり京都学派であるが、その敗戦後の崩壊した延長線上に新左翼のカリスマ(極左の教祖)として吉本隆明が孤独なピエロとして存在するから哀れである。
日本の知識人においては実生活は、思想とは分離していて上位にあり、危機的な場合には『思想』は実生活に簡単に屈服した。
その実生活とは直接には小集団での内側での束縛、間接には、一切の価値に超越し、科学的な分析の対象であることを止めた国家・日本の精神的束縛を内容とするものであった。
日本で唯一超越的なものは『日本そのもの』(かんながらの道??)だったが、これこそ知識人の戦争協力の内側の精神構造だった。

『そもそも意味を持っていない。日本語の枕詞?』

吉本 隆明1924年~2012年(大正13年~平成24年)
今年3月16日に没した吉本 隆明は、一部には『戦後思想界の巨人』と呼ばれているが、その実体は加藤周一が『日本人とは何か』で口をきわめて非難している(戦争を賛美し理論的主柱だった)時代錯誤の日本浪漫派や京都学派の悪しき変形で、半世紀も遅くれて出てきた『時代錯誤』に過ぎない。
二重否定が肯定であるように時代錯誤の二乗?で、新左翼にとってはマイナスの二乗でプラスに変化した。
日本浪漫派や京都学派の流れを汲む、吉本隆明の最も遅れた恥ずかしい右翼的『発想』が逆転して『最新の革新思想』に見えたのだろう。
吉本 隆明が賢そうに見えたとすれば、自分が日本浪漫派や京都学派に騙された『きけわだつみのこえ』の動員学徒程度の(純真だったが)非論理的でお粗末な社会認識しか出来ていないことの証明でもある。
『戦後最大の「思想家」とマスコミが喧伝した吉本隆明氏』という話は、少し前の安倍晋三首相の、『国民的人気の政治家安倍晋三』と同じ意味である。
『戦後最大の思想家』とか『国民的人気』は、日本語の『まくらことば』であり言葉自体には何の意味も無い。
吉本某ですが、私には戦後最大の思想家どころか薄汚い二流のペテン師にしか見えません。
吉本ばななの父親だった元軍国少年で、お気楽な極左の成れの果て。
日本浪漫派や京都学派とまったく同じ仕掛けで、吉本隆明は『抽象的な役に立たない水準の語りで煙に巻いている。』だけなので、何か途中で難解な哲学用語?を駆使して中身が無い『本体』を隠して読者を騙しているだけである。

『グロテスクな毒キノコが魅力的に見えた?』

吉本隆明は、たとえば『指示表出と自己表出を構造とする言語の全体を、自己表出によって意識からしぼり出したものとしてみるところに、言語の価値はよこたわっている。あたかも、言語を指示表出によって意識が外界に関係をもとめたものとしてみるとき言語の構造につきあたるように』見たいな最初から最後まで意味不明の言葉のマジックで煙に巻いている。
ところが多くの人々は善良に出来ている。
しかも日本人は謙譲の美徳も心得ている。
自分が『良くわからない』のは→自分の『理解力が足らない』からだと善意に善意に解釈して仕舞うのです。
それ故に『吉本隆明は凄い思想家』だと勘違いした。
しかも多くの新左翼活動家は不勉強で歴史に疎かった。
半世紀前の日本浪漫派や京都学派の悪行を、まったく知らなかったので簡単に騙されたが、これは高尚な哲学思想の話ではなくて、インチキなリフォーム詐欺に引っかかった高齢者が振り込め詐欺にも騙されるという、柳の下にドジョウが二匹いた阿呆臭い笑い話である。
吉本の『主張』とは、そもそも坊主の説教とかキャリア官僚の答弁書と同じで、実は『誰にも判らない』ようにと、わざわざ不明瞭に小難しく書いてあるのですよ。
『戦後最大の思想家』吉本隆明の思想とは、半世紀ほど周回遅れでやってきた日本浪漫派と京都学派の二番煎じである。歴史的な視野で冷静に判断すれば『だまし』に使用されている『手口』がまったく同じである。
それ以上でもないし、それ以下でもない遅れて生まれた一卵性双生児である。
(日本浪漫派と京都学派と瓜二つの吉本隆明なので双子ではなく三つ子?)
彼等三者の『主張』の際立った特徴とは、話が抽象的過ぎて全てに当て嵌まる可能性があるのですが、一たん具体的個別的な話に言及すると様子が一変、悲しいかなその支離滅裂な主張が明らかになる所でしょう。

『反・反原発、反核兵器反対、オウム賛美のニヒリスト吉本隆明』

吉本隆明ですが、自分が得意な左翼批判だけにしておけばよいものを、今大問題に成っている原発にも言及しているのですが、お粗末の極みで現実離れした間違いだらけあり、その主張の余りの非科学性には呆れ果てる。
原発に関する発想は、読売のドン渡辺恒雄や石原慎太郎、経団連の米倉会長と『戦後最大の思想家』吉本隆明の主張がまったく同一である。
根本的な主張が完璧に狂っているので、一々批判する気も起こさない程の馬鹿馬鹿しい代物。
それなら今のマスコミの金太郎飴状態の主張が正しくて、本当に吉本某が『戦後最大の思想家』なら、ナベツネも慎太郎も米倉も同じ意味で全員が戦後最大の思想家だという馬鹿馬鹿しいお笑い話になる。
1960年代に極左の教祖だった吉本隆明が世間から忘れ去られた頃に、運悪くオウム真理教事件が起こったが、吉本隆明はこともなげに『宗教家としての麻原彰晃は評価する』、『いい意味での宗教家』と言い放ったのである。
単なる『左翼憎し』に凝り固まり、反原発や核兵器反対さえも『左翼運動だから』との理由で敵視して口汚く罵倒ししていたが、何のことは無い今ネット空間だけに蔓延る知恵足らずのネットウョの先駆け的な阿呆臭さ過ぎる支離滅裂な言動である。
毒キノコは所詮毒キノコで、知性の欠片さえ感じさせないのは滑稽でも有り、最早哀れですらある。

コメント (11)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日銀総裁のインフレ1%発言... | トップ | 3・11大震災死者行方不明... »

11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
和魂洋才? (平行連晶)
2012-03-20 23:43:57
>過去の日本人にはこのような特徴があったとの答えは、『日本人とは何か』の答えにはならないのである。
>何故なら、過去の日本人は、現在はもういない。
>同じ意味で未来の日本人も何処にもいないので、『日本人とは何か』の核心は、今現実の日本に存在している『自分自身とは何か』という意味の『問い』だった

>実生活と離れた知識人の思想は、実生活に対して超越的な価値概念も、真理概念も作り出すには至らなかった。
>先進的な外来思想は頭だけで理解されていたので、心情や生活感覚とは無縁の二本立て構造だったので当時の民族の伝統的文化とは切り離され、当時の知識人と一般大衆とを切りはなしていた。

>我々の問題は、誰かが『だまされていた』ことでは無くて、日本の知識人がなぜ自らだまされたいと望んだかということ(原因となったA級戦犯の思想や哲学)である。

宗純さんは自身の視座(意見ではなく)というものをあまり出さないので以前から訝しく思っていたものの、本エントリを読んで何となく腑に落ちるものがありました。
「科学」にこだわる理由も。

>日本では古事記の昔から日本の精神的構造の中に超越的な動機は含まれていなかった

超越的な動機を持たないにも関わらず「崇高」「理想」といった感覚や概念が右翼からも左翼からも当たり前のように湧いてくるのが奇妙でならなかったのですけれど、借り物で身に付いていないからこその融通無碍ということですか。
これも和魂洋才という話になってしまうのですかね。

いずれにせよ、私の問いのために立ててくださったようなエントリ、ありがとうございました。
だいぶ力不足ながら、暫く考えてみます。
スッキリ (JUNSKY)
2012-03-21 14:42:27
トラバありがとうございます。

なんで今頃。これまで殆ど無視してきた吉本 隆明氏を、亡くなったからといって、マスメディアがこれほど持ち上げるのか不思議です。
おそらく、親の七光りならぬ、吉本ばななという子の七光り程度の話でしょう。
ですから、どの報道も「次女の作家・吉本ばなな」と必ず付け加えていました。
おそらく、吉本ばななという名前はその異様さから本を読んでいなくても知っている人は多いでしょうが、吉本 隆明という名前を知る人は50代の新左翼崩れかその対抗勢力の人々だけでしょう。
圧倒的多数の人々はそんな名前知らないはず。

私は、学生時代の対抗勢力の思想の源泉が吉本 隆明だと言っていたので知っている程度で、何も読んだことがありません。

こちらで、マスコミの礼賛を尻目に吉本 隆明をズバリと批判されていてスッキリしました。
平行連晶さん、コメント有難う御座います (宗純)
2012-03-22 16:27:46
1万字を遥かに超える難解で長文なブログ記事に対してコメントしてくれる読者の存在とは、これはもう頭が下がる、ありがたい話です。
加藤の主張ですが、何時もながら感心させられる。
そもそもこの記事は知の巨人加藤周一の『日本人とは何か』に付いて書いていたのですが、奇しくも吉本 隆明が死に、何と驚いたことにこの人物が加藤周一と同じ様に『戦後思想界の巨人』と呼ばれてたらしい。
呆れ返る話です。
大槻義彦氏は吉本隆明をずばり毒キノコと表現しているが大笑いですね。
加藤周一と吉本隆明では、同じ知の巨人でも意味が正反対。
本来なら著作の紹介では出来る限り要約して短い文章にするのですが、加藤周一の場合には内容が深いので簡単には要約できなくて長文になってしまった。
反対に吉本隆明はその主張の中身が、内容的には何も無い衒学(ほとんどが感情論)であり、1行で要約が可能なのです。
今回の吉本隆明の死でマスコミが特集を組んでいるのですが、此処で実は面白いことを見つけました。
マスコミの常連の有名知識人、識者ですが、連中が本物か偽ものかのリトマス試験紙的にこの吉本隆明が使えますね。
内田樹や中島岳志が吉本隆明を褒めちぎっているのは『やっぱり』と納得する。
新自由主義を賞賛し小泉改革を手放しで喜び原発推進に狂奔する吉本隆明が知の巨人に見えるとしたら、その人物のお頭の程度が判ろうというものです。
大槻義彦のページ3月19日 (宗純)
2012-03-22 16:55:12
JUNSKY三、コメント有難う御座います。

原発が科学の成果であり手放すべきでないと考えているお気楽な大槻義彦氏ですが、吉本隆明に対しては科学者らしい正確な観察眼を持っている。
『吉本隆明逝く』
評論家 吉本隆明氏が亡くなった。
朝日新聞やNHKなどは大騒ぎ。『戦後最大の思想家』と持ち上げた。
1960年代後半から、新左翼運動のカリスマとなったので、私の大学院生時代から助手の時代には多くの左翼友人たちがこの人物にかぶれていった。
しかし、私はどうしてもこの人が好きになれなかった。
どこかニヒリズムのにおいがした。『真っ当な生き方』を心がけていた私には吉本隆明は危険な思想家であった。
それでも常に興味がわく思想家であった。いわば毒キノコであったが、つい手をだして食べてみたい誘惑に駆られた。
私は真っ当な科学者にあこがれて努力に努力を重ねていたから、このような誘惑に懸命に抵抗した。友人の左翼活動家は次第に私から去っていった。
そして、やがてすっかり吉本隆明のことは眼中になくなったころオウム真理教事件が起こった。
このとき忘れていた吉本隆明が登場した。
彼はこともなげに言い放った。『宗教家としての麻原彰晃は評価する』と。
一体麻原彰晃のどこが宗教家なのだろうか。宗教家とはこんなグロテスクなものか。
なるほど宗教家というものがもともとグロテスクで殺人狂ならば、まさに麻原彰晃は宗教家である。
しかし、吉本隆明は『いい意味での宗教家』と評価したのだった。
ああ、やっぱり、私は吉本隆明に近づかないでよかった。
ニヒリストは毒キノコだった。そういえば彼が『反核、反原発運動』を批判していたことをおもいだした。
反核運動、つまり原水爆廃絶のための運動を拒否していたのだった。
それは単に『典型的な戦後の左翼運動』だからだった。
つまり『新』左翼運動ではなかったからだった。合わせて反原発の運動も批判した。
実際には反原発運動は主に新左翼運動だったのに、である。
ともかく時代は変わった。
そして吉本隆明は死んだ。今にして思えば吉本隆明の思想はどの点からしても誤りであったことが明らかとなった。
麻原彰晃のオウム真理教がまっとうな宗教でなかったことはいまや明らかではないか。
反核、反原発運動は世界的に高く評価されているではないか。
毒キノコは所詮毒キノコである。

此処まで吉本隆明を正しく見ているのに、ご自分は『原発は必要です』の立場なのですから困ったは話ですね。
実は吉本隆明が極左のカリスマとなりえた理由は極簡単で反戦平和の日本共産党の非転向を非難したことに尽きるでしょう。
永久であると信じられていた帝国の敗北により、共産党の先見性(正さ)は誰の眼にも明らかで有り、この点に関しては誰一人も批判出来なかった。
その唯一の例外が、この吉本隆明なのですが、彼の理屈では、『共産党の反戦の主張は、戦争を止めれなかった』(だから共産党は悪いのだ)ですね。
この無茶苦茶の主張にネットウョと同程度の社会常識しかない新左翼はしびれたのです。たんなるお馬鹿ですね。
この吉本の理屈が正しいなら同じ意味で、40年間原発村からのイジメに耐えて原発の危険性を訴えていた京大の小出助教も『原発事故を止められなかったから悪い』となりますね。
事実、この吉本隆明は経団連の米倉会長や石原慎太郎とそっくり同じ見解なのです。
西経180度と東経180度は同じ位置です。ぐるっと360度回ればもとの位置に帰るマゼランの法則で、極左の吉本隆明とネットウョなどのお馬鹿は極右とは同じ政治思想なのです。
ETV特集 (平行連晶)
2012-03-26 00:25:31
25日(今晩)のETV特集で吉本隆明の講演を追っていたので、本エントリを思い出して観ていました。
実は吉本の著書は代表作とされる『共同幻想論』すら読んでいないのです。

それで観ていて興味深く感じたのは、十代の吉本が自身で「神ながらの道を信じている」と書いていたことです。彼自身が思春期を懐古して「主戦主義者だった」と述懐しているので辻褄は合っているように思えますが、やはりよく考えるとしっくり来ないんですね。

本来「神ながらの道」とはアニミズムから発した樹木崇拝・山岳崇拝・巨石崇拝・祖霊崇拝のような所謂自然宗教に立脚するものですよね。
この宗教概念を「信じる」者が、政・官の企画により古代から連綿と維持されてきた(由来のはっきりしない)氏神の社や神の宿る杜を何千と廃社・合祀した上で人工的に作られた「国家神道」を何故当然のように受け入れてしまったのかが、理解しがたい。

主戦主義者の学徒であった若き吉本は、思想的な支柱を敗戦によって喪ったため彼が言う「世界を知る方法」を探求するために5~6年を費やしたそうですね。ということは「国家神道」を大真面目に信じていたはずです。
でなければ、戦争という勝敗が付き物の勝負事に負けたことで転向を強いられるはずがないですから。勝ち負けはただの勝ち負けです。

そして、彼が書物と思索に没頭した上で発見したのが「古典経済学」であるという。
これもやはりよく分からない。番組の編集で分かりにくくなっているのかも知れません。
しかし、アダム・スミスの労働価値論が「神ながらの道」とも「国家神道」とも筋の違う話であることくらいは素人の私でも分かります。

ここでまた、本エントリで語られている「外来思想は頭だけで理解されていたので、心情や生活感覚とは無縁の二本立て構造だった」を想起してしまいます。
服を着替えるように思想を着替えているだけのようにも見えます。
何故私は国家神道を選んだのか、という分析が欠如しています。これも、日本人は国家神道を他者を通して見る視座を持ち得なかったという話に収斂してしまうのかも知れませんけれど。

…あ、でも「自己表出」と「指示表出」の話は面白かったですよ。芸術がファンクショナリズムに陥ることの危険性を指摘しているところには、かなり共感できました。
とは言え、自己表出が他者に共有されている時点で、既に指示表出になってしまっているような気もしますけどね。
蛇足です。 (平行連晶)
2012-03-26 00:35:48
国家神道と祖霊信仰は全く異質なものですよね。

例えば靖国ですが、戦没した所謂「英霊」が靖国神社の柱=「神」となるのであれば、おのおのの戦死者には墓など要らなかったはずです。

神の墓を作ることなど、不敬も良いところでしょう?

こんなふざけたブラックジョークのような代物を、国民を挙げて信じていた(ふりをしていた)ことが、やはり理解しがたいですよ。
趣味の悪いブラックジョーク (宗純)
2012-03-26 16:04:45
平行連晶さん、コメント有難う御座います。

インターネット空間ですが、これは私達が住んでいる現実世界とは必ずしも一致しない。
読んでも面白い、『他と違う意見』の護憲左翼系のブログ記事ですが、驚いたことにこれが全て極左の全共闘崩れで、選挙の得票数から考えて普通なら沢山あるはずの共産党系とか護憲左派系は例外的な少なさなのですよ。
余りにも実生活と違いすぎる。
普通の社会人で極左の友人知人がいる人は粗ゼロですよ。
極左とは、遭遇する機会が無い。
これは沖縄旅行してヤンバルクイナやイリオモテヤマネコに遭遇する確率よりも低いでしょう。
旅行者どころか地元の沖縄県人でも現実に目撃した人は皆無なのです。
生息数の絶対数が少なすぎるのです。
ところがネット世界では正反対。
この珍現象はネット空間だけの限定した話ではなくて、実はマスコミ界でも(ネット程では無いが)良く似た状態であることが今回の吉本隆明の25日のETV特集で証明されたようです。
あれは酷すぎた。批判する気も起こさない代物。
ご自身で極左上がりを自認しておられた元マスコミ人の岩下俊三の例もあるが、マスコミ界には今でも元極左の全共闘崩れやそのシンパが不思議なことに沢山いるのですね。
吉本隆明の、日本語で無いぐちゃぐちゃの日本語表現ですが、これらの吉本用語の『関係の絶対性』などのらりくらりして雲を掴むような話で徹底的に抽象的で、そもそも内容自体が何も無いので、誰が読んでも何を書いてあるかが誰にもよく判らない。
ところがこの『誰にも良くわからない』ところが全共闘連中には馬鹿受けしたのですから大笑いですね。
この誰にも判らない抽象的なぐちゃぐちゃの観念論とは、逆に『何にでも自分勝手に当てはまる』ことでもあるのですよ。
知恵足らずの極左にとって、社会科学に疎いのでとらえどころの無い吉本隆明が何となく賢そうに見えたのですね。
基本的に何にでも当て嵌まる万能薬とは何の効能も期待できないが、吉本隆明の場合には具体的個別的問題に答えた時の荒唐無稽な主張の出鱈目ぶりが際立っていた。
到底正視に耐えない徹底的な『お粗末さ』と『悪質さ』のコラボレーションなのです。
例えば原発問題を見ればこの東工大出の吉本隆明の科学知識がどの程度のレベルかが誰にでも明らかです。
だからNHKでもその他のマスコミでも『戦後最大の思想家』とは宣伝したが具体的な、お馬鹿過ぎる発言例は意識的に避けていた。
当たり前です。
原発村の住民以上の歯の浮くような原発賞賛なのですから呆れ果てる。
加藤周一のような『知の巨人』ではなくて、一字違いで大違いで吉本隆明の場合は『痴の狂人』だったことは具体的な事例に当たれば誰にでも判るレベルなのです。
こんなお粗末な吉本隆明の言葉に簡単に簡単にだまされるとはオウムの麻原にだまされた理科系の高学歴の信者の社会性の無さと共通する。
無邪気な軍国少年だった吉本少年だったが、良く考えれば1945年当時、そもそも20歳ですが子供とは言えないのですよ。
しかも、敗戦後も自分の間違いに気が付かず、敗戦後に転向した知識人を攻撃した。
ついでに非転向の共産党も同じように口汚く攻撃した。
反核兵器運動も左翼運動だからとの理由で攻撃した。
今では正しいことが誰の眼にも明かな、反原発も攻撃したのですから無茶苦茶。
しかも67年前の敗戦時と同じで、去年の福島第一の爆発後でも態度を変えないし反省もしない。
事実によって、今までの自分の主張の間違いが完膚なきまでに明らかになっても、主張を変えず以前のまま。
まったく間違いを認めようとはせず、今までの態度を変えなかったのです。
これは社会性がまったく無い、頑是無い幼児以上に子供染みています。無茶苦茶。
少しも面白くないブラックジョークですね。
今度のマスコミにより吉本劇場の悪ふざけですが、不思議なことに元新左翼系の政治ブログは完全無視なのですよ。
誰も取り上げない。
理由ですが、多分ネットのブログとは一方通行のマスメディアとは性格が大きく違い双方向なのです。
それなら『戦後最大の思想家吉本隆明』何てマスコミと同じことを書いたら批判が殺到すること間違いない。
政治ブログの大炎上間違いなし。
かといって自分で昔信奉していた吉本隆明を手のひら返しで批判もできない。
どちらにしても福島第一原発事故以後では、吉本隆明は都合が悪いのです。
だから結果的には新左翼系ブログでは完全無視しか(それ以外には)出来なかったのです。
歴史・テレビ神話 (マトリックス)
2012-04-06 11:11:38
坂本龍馬はイギリス(とその手下の長州藩の一派)に利用され、その事に気づき始めたところを、逆らい真相を暴露される前に前もって口封じで暗殺されたのが実態だと思われます。
明治政府を正当化する為に創られたスーパーヒーローとなった坂本龍馬は、武力クーデターであった明治維新を市民革命に偽装した歴史の捏造の司馬史観の虚像であったという、ジョージ・オーウェルの『1984年』の世界を上回るような歴史の改竄により大物にされたといえるようです。
教育システム自体も、国家による洗脳システムである本質を意識するようになってから、自分は『バトル・ロワイアル(上・下)』を読んでみると、あれは現代社会の風刺小説ではないかと考えたと以前コメントしました。「プログラム」の為にやって来る「坂持金発」が意味するものは、テレビ、マスコミ、そして教育(歴史教育も含めた洗脳)の正体。『バトル・ロワイアル』でのアメリカンスプラッターコミックのような表現も、「金八先生」を見るのと同じようにアメリカやNATOの空爆を伝えるテレビのアナウンサーの報道を正義と受けとめるのは、「プログラム」を受け入れるのと同じようになると、テレビの放送や映画の持つ恐ろしさを表現したのでは… 上巻の巻頭に、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』が載っていますし、生徒が減っていくのも国際金融資本家の有色人種の絶滅政策、生徒の置かれた立場から起こる殺し合いもイギリスの「分断して統治せよ」を思い出しました。
平行連晶さん コメント有難う御座います (宗純)
2012-04-07 13:12:19
吉本隆明とかんながらの道との不思議な関連ですが、ブログ記事に書いたとしても、果たして読む物好きがいるのでしょうか。
そもそも吉本隆明のことに対して元極左以外で興味を持つ読者がいるか如何かさえ怪しい。
ごく一部の元新左翼活動家以外には誰も知らない毒キノコ的な人物ですよ。

平行連晶さんが色々不思議に思っているらしい当ブログの科学に対する考え方の特徴とか、愚樵空論の変質問題(カルト宗教化)などの話で、参考になるのではないかと思える記事とコメントを思い出したので紹介しておきます。
愚樵さんは困った事に。この当時から普遍的な科学的真理に疑問を持っていて、何とかして否定したかった。
(吉本隆明教やオウムの高学歴の信者を連想する)今のように意味の無い言葉遊びや不可解な宗教の袋小路に多少は陥っていたが、今では引き返せ無い地点にまで深入りしたようです。

光るナス2010年09月17日
仏教の布教 (* ̄ー ̄)
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51858851.html#comments
これにはコメントが145個も付いています。トンデモナク長い。
誰かが私とブログ主のアキラさんとのコメントのやり取り(あるいは愚樵さんの)に、興味があれば別に新しく当ブログの記事にアップしたいと思っています。
不思議な科学教の東西南北さんのコメントはパスした方が良いでしょう。
色々なものが宗教化するのですが、整体術や科学さえ懐疑心を失うと簡単に新興宗教化してしまうのですよ。
恐ろしい話ですね。
当ブログは、政治ブログでは唯一と言ってよいほど珍しい『宗教』のカテゴリーを持っているので、色々なものが簡単に宗教化する不思議を一度取り上げるべきであるかも知れません。
あくまで虚構(フィクション ) (宗純)
2012-04-07 13:22:46
マトリックスさん、コメント有難う御座います。

小説世界ですが幾ら実名が出て来ても、あくまで作者の脳内でのフィクションであり、どれだけの真実が含まれているかはまったく不明です。
NHKで放送されていた『坂の上の雲』ではドラマが始まるエンディングで必ず『まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
小さな、といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。』
などと司馬遼太郎の原作の言葉が引用されているのですが、明治維新当時の日本の人口は3500万人で、3000万人程度のアメリカ合衆国よりも大きな国だったのですよ。
司馬の話は誇張と欺瞞に満ち満ちているのです。決して歴史的な事実とは関係の無い一小説家の創作なのです。
『明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう』などとは呆れてモノが言えない。当時欧州諸国で日本に匹敵する大きな国はフランスぐらいだったのですよ。いち早く産業革命が起きたイギリスは人口が三倍近くにも増えるがそれでも日本やフランスよりも常に小さい人口しか養えない。
そもそもドイツやイタリアなどは国家自体がまだ出来上がっていないのです。
司馬小説が有名になるまで、地元の高知県でも坂本龍馬はそれ程有名ではなかったのですね。
土佐勤皇党の武市半平太は有名で誰でもが知っていたが、龍馬の名前は実は司馬遼太郎の小説で全国区になったのです。ですから色々なエピソードも史実とは無縁であり個人的な創作の可能性が高いでしょう。
作家としての司馬遼太郎ですが、・・・何故か社長とか管理職には大うけなのですが、吉本隆明と同じで大作家とは言いかねる水準ですね。
それが証拠に、吉本隆明も司馬も日本以外の外国の評価は比較出来ないほど低くて無名なのです。

コメントを投稿

文化・歴史」カテゴリの最新記事