逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

ルドルフ・シェーンハイマー 機械でない生命 

2009年06月24日 | 臓器移植法
日本では100万人以が毎年死ぬが、『脳死』はこれまでの死の三兆候の心臓死に至るプロセスで、ごく稀(年間数千例)に起こる現象で、誰にでも必ず起こる話では有りません。(心臓死なら全ての人が最期にはそうなる)
この話には何とも違和感を感じざるを得ない。

『以前の死刑論議との共通点』

以前護憲派のブログで、光市事件に関して死刑問題を真剣に論じられていたのと同じ様な違和感ですね。
今では何倍にも増えて二桁の死刑が行われているが当時は年間数件ですよ。
年間3万人を超える自殺者や、過労死するまでに緊迫している労災死、家庭の風呂で溺死する人や階段から墜落死する人に比べて、其の数値の余りの少なさに、一般市民にとっては『死刑は例外的事項』では無いのか。?
そのために、死刑論議では『人の死の実感』のリアリティがまったく感じさせないものが多かった。
死刑賛成者氏は曰く、
『人を殺した者に対しては、死刑が当然』と何とも単純で明快です。
(日本で起こる年間千件程の殺人事件の殆んどが、友人知人が酒を飲んで喧嘩になり弾みで殺人になったような類いですよ)
死刑賛成者は『貴方が間違って殺したらどうするのか』の質問に対しても、
『当然(自分も)死刑である』と至って判断が単純・明快である。
(迷いがまったくない)

『死に対する実感の無さ』

今度の脳死臓器移植でも(以前の死刑賛成者と全く同じ様に)賛成派はまったく迷いが見られない。
死刑賛成者と同じで、自分の正義をまったく疑っていない。
賛成者達は、これ等の問題に対して賛成できない人々のように、まさか『自分が人殺しの手伝いをしているかも知れない』なんてことは考えた事も無い筈です。
実に不思議だ。
自分が必ず関係するなら、これほど明確に賛成できるでしょうか。?
定年まで勤めれば必ず貰える退職金で、社会や友人に大判振る舞いする人はいません。
人は自分に関係ない一般論では、明確な判断が出来る。
当たる心配が余り無いので、三億円当たったら社会に役立てるとか友人知人に奢るとか考えるのと、どれ程の違いがあるのか。?
今の人は殆んどが病院で産まれ病院で死ぬが、其のお陰で『死の実感』を感じなくて済ましている。
自分自身の目で耳で、皮膚で『死』を実感したことが少ないので、重たい意味を持つ『人の死』を生身の問題としてではなく観念的にしか理解する事が出来ないでいる。

『近代科学が見失ったもの』

昔は日本でも命は家庭で生まれ、家族に看取られながら同じ家庭で死を迎えた。
今の日本人の一般的な『人の死』とは、『ここまでは生きていて、ここからは死んでいます』と専門家(医療関係者)に言われて納得しているかもしれないが、死の実態はそんなものではなりません。
生と死はデジタル的に捉えられるものではなく、あくまでもアナログ的な連続した変化のプロセスです。
『脳死から生還して社会復帰したものはいない、不可逆的に死に向かいつつある状態で有る。』
だから要らなくなった臓器を速やかに摘出して利用するとの考え方はおぞましい。
脳死賛成者でも『脳死者は死につつある』との認識ですが、『死につつある』が正しいとするなら、其の時点で脳死者は間違いなく生きていますよ。
そして今生きている全ての者は例外なく死ぬので、多少の時間的な差があるだけで全ての人は『死につつある』状態であるとも解釈できます。

『生命は機械か動的平衡か』

西欧の近代科学は実在するマクロな存在を、ミクロな部分部分に細分化する事によって深く探求する事に成功する。
物理学では究極のクオークの段階まで理解が進み、生命は細胞に始まり核に進みDNAを見つけ、今ではDNAの塩基配列まで解明されている。
その結果、生命は単純化され小さな部品を集めた機械で有るとするような考え方が生まれている。
機械の部品が壊れれば交換するほうが当たり前である。
この考え方に立てば、近くに適当な壊れて使えない機械が有れば解体して部品を再利用するのは余りにも当然な合理的判断で有る。
しかし生命とは、本当に機械のようなもなのだろうか。?

『人間の体は数カ月で置き換わる』

人は毎日毎日一人当たり最低でも1㎏以上の食物を食べ続けるが、皆さんの中に、『何故人(自分)は、一日三回も食べ続けなければならないのだろうか』と疑問に思った人はいないだろうか。?
生命は全く身体を動かさずに過ごせば、体温維持の熱量程度の極少量の食物だけで済むのではないか。?
毎日食事するのは、主に身体各部の筋肉にエネルギーを送り、活動を続けるためで、ガソリンが車のエンジンを動かすのと同じような役割が食事にあるのではないか。?などの疑問は、生命が機械ならば当然考えられる。

生命が機械仕掛けで動いているとする『機械化論』の見失ったものは何であったろうか?
今までのミクロな解析を得意とする近代科学の、生命が機械のようなものと看做す機械化論説が、全く事実と違う事をルドルフ・シェーンハイマーは発見する。
『生命とは機械ではなく流れである』
何と、生命とは機械の様ではなく、『絶え間ない変化のバランス』のことだったのです。

『生き物は何故食べ続けなければならないのか』

食べたものは、生き物の体内から出て行かない。
毎日我々が食べている食物は、日々身体に置き換わって、分子レベルでは『生命』は変化し続けていたのです。
生きていると言う事は、生命が食べ続けることと同じであり、生命体自身の物質が流れ続けていて、シェーンハイマーは『其の流を止めない為に食べ続けているのであり、生きているということは流れそのもの』であること発見する。
つまり、たんぱく質でできている器官は日々、分子レベルに分解され、そこに食事で摂取したたんぱく質の分子が素早く置き換わる。
ネズミでは3日で、身体のたんぱく質のほぼ半分が置き換わっているので、一週間後のネズミは一週間前のネズミとは物質的には別の存在であるとも考えられる。
生命とは、水の表面の渦のような運動のことで、渦自体は同じでも渦を作っている水は同じではない。
人間の体も数カ月たてば、脳も心臓も分子のレベルで新たに置き換わる。

『グローバルスタンダードな一神教的な死生観』

脳死を人の死とする欧米の死生観は、デカルトに代表されるキリスト教的な一神教独特の、肉体は「塵から生まれて塵に帰る」ものにすぎず一段劣る存在でしかなく、(宗教的に)必ず滅びる肉体ではなく不滅の霊魂(変わらない自我)だけが大事であると考える霊肉二元論的な宗教観が根底に有る。
(二元論といっても霊魂は肉体の上位にあるので完全なる対等の二元論ではない。
霊魂は不滅なのでこの考え方からは千年王国とか不死などの考え方も生まれる)

それで欧米では、変わらない自我が無くなった(脳死した)肉体は無価値で、脳死移植のように廃品利用しても何ら道徳的な問題は発生しない。
余りにも有名な、『われ思う。ゆえに我有り』とは、穿って考えれば正に脳死移植のための言葉であるとも解釈できるのです。

『仏教的な日本の死生観』

しかし。この考えは、霊魂の存在を認めていない仏教の世界観と相容れない。
仏教的な、体と心は一体と考える日本人の道徳観・宗教観・世界観には馴染まない。
仏陀は生命の輪廻転生は言ったが、弟子に聞かれても転生の主体である筈の『霊魂の存在』については何も語らなかった(霊魂不説)
盛える者は必ず衰える『全ての生あるものは死ぬ』とするのが仏陀の説いた真理です。
輪廻の思想ですが、『霊魂が再びこの世に戻る』と解釈するよりも、全ての生ある者は死んで土に返り、それが植物を育て、それが動物を育むというような生命の輪廻の死生観。
あるいは親から子供に、また其の子供にと命が受け継がれる科学的な『生命の循環』の事ではないでしょうか。?
それなら科学的な知見とも一致して、まったく矛盾が有りません。
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12 コメント

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「感情の錬金術」 (愚樵)
2009-06-24 20:23:41
dr.stoneflyさんのところへのコメントをこちらにも投稿します。

ご存知のことと思いますが、「感情の錬金術」とは、高橋哲哉が「靖国」が引き起こす洗脳についていった言葉です。

*******

「感情の錬金術」には、まず、「恣意的な線引き」があるんです。

「靖国」の場合だと、「天皇の臣民」という線引きがある。この線引きが恣意的なのは議論の余地はありませんよね。外国人だって、面と向きあって、互いの「肌感覚」で確かめ合えば同じ人間なんですよ。

「肌感覚」は感情に直結するものです。「感情の錬金術」は、この「肌感覚」を遮断して「恣意的な線引き」に感情を引き寄せるもの。

臓器移植も同じ構造です。脳死というのは、「恣意的な線引き」です。たとえそれが科学的に死であると確認されても、人はそれを自分の「肌感覚」で確認することは出来ない。心臓も鼓動しているし、体温もある。感覚的にはまだ生きている。脳死は機械を通じてでしか確認できないのです。

臓器移植には、「肌感覚」からすれば「生を奪う行為」であり感情的には抵抗があるものを、「肌感覚」よりも「機械による診断」に重きを起きて感情的な抵抗を改変してしまうことが必要となってくる。この「感情的な抵抗の改変」は、「感情の錬金術」と同じものでしょう。

「感情の錬金術」が成功してしまえば、「恣意的な線引き」の外にあるものを「利用する(=殺す、強制労働させる、慰安婦にする」ことは容易に正当化される。これは歴史が証明するところです。

臓器移植の場合には、これが当てはまらないか? ...私にはとっても、そんな結論は出せないです。

*******

ちょっと追記。「靖国」において「感情の錬金術」の鍵になるのは「天皇」です。では、臓器移植の場合は? 「科学」以外にありえない。ここでは「科学」が宗教と化して「肌感覚」を遮断し、「感情の錬金術」を引き起こすのです。
愚樵さんへ。 (東西南北)
2009-06-25 09:50:04
 愚樵さんの言うことに従えば、脳死者本人の溢れるような自己犠牲の感情がある場合、それを尊厳して臓器を摘出することもまた、人間の深い感情、肌感覚ということになってしまう。森鴎外の高瀬舟の兄弟愛の物語と同じようなことです。

 しかし、問題は、そのような尊厳ある、尊いドナーが存在するとして、では、医師および周辺の人々がドナーの意思・感情を尊重し、臓器を摘出してよいか?この1点です。

 その場合、感情はもはや、歯止めになりません。むしろ、ドナーの熱い自己犠牲の感情に応えて、全力で臓器摘出に全力を挙げることが必要ということになる危険がある。

 ここで冷静な科学的、客観的な基準が絶対に必要となる。

 脳死は本当に人の死か?、と。人の死である科学的に断定できるのであれば、ドナーの感情を尊重し、臓器を摘出してもよいでしょう。これこそ個人の尊厳、個人の問題です。余計なお世話ということになります。

 しかし、本当に脳死は人の死である、と断定できるのか?それが科学の結論なのか?この1点なのです。

 そして、少しでも合理的、科学的な疑問が発生したのであれば、従前の3兆候基準に従うことが科学です。

 脳死は3兆候に先立って存在しますが、3兆候は脳死に先立って存在しない。これは絶対的な科学です。

 ゆえに、人の死を早める、つまり、「早く死になさい」という行為を具体的に行う臓器移植については、人の死であると断定できないのであれば、絶対に行ってはならないということが科学的、客観的な結論です。

 

 
科学的事実と事実の解釈 (愚樵)
2009-06-25 10:26:37
東西南北さん、しばらくです。

>ゆえに、人の死を早める、つまり、「早く死になさい」という行為を具体的に行う臓器移植については、人の死であると断定できないのであれば、絶対に行ってはならないということが科学的、客観的な結論です。

私はこの結論には納得いきかねます。科学的事実と事実の解釈を混同しておられるように見受けられるからです。

自然界の出来事には必ず順序がある。それを解き明かすのが自然科学であって、

>脳死は3兆候に先立って存在しますが、3兆候は脳死に先立って存在しない。これは絶対的な科学です。

はその通りでしょう。が、ここで問題になっているのは「死」という状態の区切りをどこでするかの問題であって、これは「科学的事実の解釈」の問題であり、個々人の主観あるいは社会的合意に依存する問題です。

仮に「脳死が必然的に死にいたる」ことが科学的事実で在ることが証明されても、脳死=「死」との必然的解釈がなされることはありません。もしそうであるなら、「生はいずれ死にいたる」ことも科学的事実であり、「生」=「死」となってしまって、自分の意志さえあれば、いつでも自死に伴う臓器移植はできるということになる。事実上、「生」と「死」の区別がなくなるのです。
科学が受け持つ範囲 (ブロブ主)
2009-06-25 11:51:30
何か面白いですが、大混乱ですね。

この問題は賛成派、反対派どちらも科学的な判定の正当性を主張しているが・・・・・
何れも科学的正しさを錦の御旗に押し立てようとする。

科学が判断すべき問題と判断すべきでない問題が曖昧なままで議論しているように思えて仕方が有りません。
勿論科学で全ての正誤の判定は、出来るだろうとは思いますよ。
例えば、果してこの絵はレオナルド・ダ・ヴィンチの真筆かなら科学が判断できる。
しかしダ・ヴィンチとピカソとどちらが上かなんて科学では判定できないし、すべきではない。
しかし科学的に絵の値打ちならある程度の判定が出来る。
例えば特定の絵を大勢に見せて評価を点数化すれば、本職の画家の絵と素人の値打ちの違いは一目瞭然です。
何事も普遍化客観化できれば数値化でき、全ては科学的に判断できる。
しかし、突然事故死した小学生の子供の最期に書いて残した下手糞な親の似顔絵は、かけがえの無いもので当の両親にとってはゴッホの自画像以上に値打ちがある。


死は社会的な『みなし』なのですよ。
みんなが『死とみなす』から死人となる。
個人個人が勝手に決めては揉めごとの種になる。ミイラ化した状態を『生きている』として物議をかもしたカルト団体が有りましたが、個人が勝手に決めるものではない。

で、『脳死は人の死か』ですが、科学的に白黒のはっきり付けれる部分は有るが、白黒の境界線上もある事を認めないといけない。
『脳死』この白黒の境界線上(ボーダーライン)にある曖昧な領域である事を皆さんは認めるべきですよ。
「私」でも「あなた」でもないもの (ブログ主)
2009-06-25 12:57:35
愚樵さん。東西南北さん。
一人で食事をしている時とか、食事の後でトイレでしゃがんでいる時とかに、『毎日毎日食べているが、時間も資源ももったいない。』とか『食べる事は無駄ではないのか』と思ったことは有りませんか。?
私は昔は時々考えていた。
特に一日殆んど何も成果がある事をなさなかった時なんかは、よく考えます。
『人(自分は)は何故食べるのか』
『食べずぬ済ます事が出来れば、色々な問題が一挙に解決するはずだ。』

これ等は生命体を機械の様に考えていたからで、実は生命とはその様な存在ではなく、全く違う。
命ある生物が生きている限り分子的には変化してやまない存在です。
生命とは代謝の持続的変化であり、その変化こそが生命の真の姿なのです。

毎日食べる食物も、食べる主体である私という命も、殆んど同じもので、殆んど同格なのです。
食べものとは他者ではなく、自己と同格の存在とみなしてもそれほど間違っていないのです。
正に毎回毎回の食事とは『命をいただいている』のですよ。
ところが不思議な事に臓器移植では、他者の臓器は10年経ても他者のままで自己にはならない。
そのため移植患者は一生免疫抑制剤を飲み続けなくてはならない。
ところが移植で他者の臓器を身体に入れた自己そのものは半年で全て入れ替わっているのですよ。
臓器移植とは『動的均衡にある流れそのものである』生命現象の逸脱に近い行為らしいのです。
少し付け加えますと (kaetzchen)
2009-06-25 14:47:26
ブログ主さんの発言の中に少々事実と異なることがあります.

>臓器移植では、他者の臓器は10年経ても他者のままで自己にはならない

例えば,心筋梗塞だとかを起こしたときに,大腿の血管を取り出してバイパス手術を行いますよね.ところが同じ個体の臓器を移植したのにも関わらず,やはり免疫抑制剤を用いないと傷口が免疫反応を起こしてくっつかないことが多いんです.

似たことは大やけどをした際に,よく用いるお尻の皮膚を移植して,新しい皮膚が再生してくるのを待つというありふれた外科的治療法にも言えます.これも,やはりいずれは自らの臓器であるお尻の皮膚は異物とみなされて剥がれてしまいます.

「動的均衡にある流れ」という言い方は恐らくどこかの書物で読まれた表現だと思いますけど,まさに生命現象は生体物質の入れ替わりによって「生きている」と言えるのです.

これまで何人もの老衰の方を見てきましたけど,やはり「代謝の持続的変化」の速度がゆっくりと遅くなるのが「老衰」だと体験的に考えます.

話を本文に戻すと,自らが光市事件に関わっている立場から言うと,ブログ主さんが死刑論議と臓器移植の問題を同質のものだと考えたのは,私は正しい認識だと思います.もっとも,私が光市事件に関わっていることで,kaetzchen は「護憲派」だとか (確かに九条の会の会員ですが) 「ウソツキだ」などと勝手にレッテルを貼るのはやめて頂きたい.光市事件に関しては私が具体的に検察側の「証拠」の間違いを指摘しているので,そちらへコメントして頂きたく思います.

# ここではあくまでブログ主さんの提案された,死刑論議と臓器移植との比較について論じあいましょう.
Unknown (根本的な事を理解していない人々諸君!)
2009-06-25 19:23:32
臓器移植は神への冒涜です
人間が超えてはならない一線を超えた僭越な行いです。
科学では解明できない物事は科学で解明された物事よりも多い。
そんな生半可な知識に頼って驕る人類には破滅的な報いが臨むでしょう
興味深いです (アキラ)
2009-06-26 00:20:14
kaetzchenさんの出されている例も含めて、改めて興味深く拝見させていただきました。

あんまりハッキリと認識してなかったのですが、確かに「臓器を移植して何とかしよう」といういき方は、機械論的な生命観が基になってますね。

考えてみると不思議です。
その「部分」がないと生命維持が出来なくなるのだから、自己化してとり込んでもよさそうなのに・・と思いますが、生命をそれをやらない。
あくまで非自己として排除しようとする。
排除すれば、待つのは死・・です。
動的平衡の流れを維持する「何ごとか」は、ただただ生き永らえようとする目的を持っているわけでもないってことですよね。
自己と自己以外の他者 (ブログ主)
2009-06-26 14:02:31
自己といっても、(分子的には)半年後には全てが入れ替わっている。
複製を正しく行いさえすればですが、半年後にはピカピカの生まれたての体なのですね。
だから本来自己と自己以外の他者との違いはそれほど無いようにも思える。
非自己に対して生命体は実に寛容なように思える。

しかし他人の臓器に対しては激しい拒否反応を起こす。
10年経とうが其の出自を問うて他者と認定して、排除しようとする。

外部から身体を守っているバリアーの役目をしている皮膚は、元々のその性質上拒否反応の強い組織で、他人からの移植には無理がある。
それで自分自身の皮膚の自家移植になるのですが、それでも一定の拒否反応が有る。
他者ではなく身内でも位置が違うと拒否する。命とは可也の頑固者ですね。
有るべきところにあるべきもの (ブログ主)
2009-06-26 15:16:50
生命体の臓器移植に対する拒否反応ですが、何とも意味深長で考え深い。
幾等何億円も出して移植に成功しても12年程度の余命の延長にしかならない。
例えば拒否反応がこれほど強くなかったらと仮定すれば、今の世の中は恐ろしい地獄絵の世界になっていますよ。
臓器移植はいくら技術が此れから進歩しても圧倒的な臓器不足は、『人から人の場合』には原理的に解消するわけが無い。
大金持ちは他人の臓器で若々しく永久に生き続ける。対して貧困層は臓器提供の側に居続ける。そればかりか動機売買や臓器目的の誘拐が頻発する。
臓器目的の児童売買を描いた『闇の子供達』は恐ろしい。
何年か前に中米のグアテマラの現地人の村を訪れた日本人観光客が臓器目的で子供を誘拐しに来たと誤解され、激怒した住民に殴り殺された事件が有りましたが現地ではその様な事件が頻発していたのでしょう。
移植への生体の拒否反応がこれほど強くても移植目的の児童誘拐や臓器売買が頻発しているなら、拒否反応が弱ければ凄まじい世界になっています。
問題は事実の解釈ではなく、科学的事実=真理・真実。 (東西南北)
2009-06-26 18:15:08
 脳死は個体死なのか?この1点についての科学的な事実とは何か?ブログ主さんの言うことに東西は賛成です。

 すなわち、脳死状態は個体としての生(動的平衡)から個体死へのプロセスであって、グレーゾーンである。

 個体としての死は三兆候基準となるが、その場合でも蘇生の可能性を恐れる人類は、死の三兆候基準を満たした後にも、直ちに火葬せず、24時間以上経過させてから火葬を行います。

 こうして死の三兆候基準を満たし、その後も24時間以上は火葬せず、様子を見て、確実に個体死であると科学的事実として確定するわけです。

 科学的な事実としては、生から個体死へ至るグレーゾーンとして脳死が存在するということを認めるしかないのではないでしょうか?

 「もう助からない」は個体死ではないし、個体死だと断定するには「臓器移植の必要性の意図」を介在させないと判断できない。

 要するに、脳死とは、賛成者の側でも「臓器移植の必要性」を介在させなければ、個体死であると「みなす」ことができない、というわけです。

 ここには、脳死は個体死とまでは言えないという科学的事実について、臓器移植という感情・主観的な価値観を介在させることによって、科学的な事実が捻じ曲がっているということになるのではないでしょうか?

そして、脳死・臓器移植を推進する価値観の背景には、ブログ主さんのいうような資本主義による経済格差が存在するのであって、差別意識に根ざしているということではないでしょうか?
何事も境界線はあるが・・・・科学の限界と謙虚さ (ブログ主)
2009-06-27 10:34:56
東西南北さん、コメント有り難う御座います。

全ては白か黒か完全に別けれるのか。?
善と悪。白と黒の違いは確かに有ります。
しかし世の中のものは大概は白黒マンダラなものの方が実は多いのではないか。?
ディズニーアニメに出てくる人物達は完璧な正義で正しく、悪役はトコトン悪い。
今日本のアニメが世界でうけている理由は、主人公の人間らしさで、正義も完璧ではなく悪も相対的です。
『脳死は人の死かも知れない』なら賛成したいが、『脳死は人の死だ』と断定されると鼻白む思いです。
この問題は『完全に科学的に(生と死を)判定できる』は今の科学に対する過信です。
今の科学は其処までの力を持っていない。
境界線上のグレーゾーンの判定は『科学的判断』というよりも、単なる社会的な『みなし行為』です。
社会が『そのようにみなす』なのです。
何故『みなし行為』があるかというと、『科学では判定できずどちらでも良い』で各自が勝手に判断すると色々な問題が起こるので、仕方なくどちらかに区分けする社会的必要が有るだけです。


この(脳死臓器移植)問題は、個人のレベルでは色々な考え方が出来るし、其れは其れで尊重しなければならないが、
純粋に政治的に考えれば冷たい様だが優先順位があり、適性な医療予算の配分となる。
いま莫大な金が必要でも、将来其の医学技術が進歩して大勢が助かるなら、かえってや経費節減になる。
ところがこの脳死移植技術は原理的に無理があるのですよ。
いま脳死移植が粗自由に行われているアメリカでも年間数千例の少なさで誰でもが受けれる医療行為ではない死、此れからも其の様にはならない。
アメリカの医療は、新自由主義の効率主義と強者必勝劣者必敗の弱肉強食のない交ぜになったもので、到底日本の見本にはならない。
医療では、グローバルスタンダードではなく、今までの日本モデルの方が優れているのは世界一の長寿でも証明されている。

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