逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

宗教と共産主義と科学との不思議な関係

2010年08月26日 | 共産党

『共産党と、ものみの塔の似た部分』

日本における『共産党』ですが、残念ながら『ものみの塔』などのカルト宗教とイメージ的にかぶる部分が多いのは、明らかな事実である。
具体的な客観的事実(数字)でも、選挙前の世論調査での支持政党の調査と実際の投票で破壊的カルト宗教の政治部である『公明党』と『日本共産党』では不思議な一致点があるのです。
今度行われるの選挙で『何党に投票しますか』との新聞社などの世論調査の設問に対しては、公明党支持者では半数しか本当(公明党支持)を明らかにしないのです。
アンケートで出る数字の倍程度が、実際に選挙での公明党得票数なのですね。
この数字から判ることは支持者の半数は自分の『公明党支持』の事実を隠すのです。
これが自民や民主では違いが小さく、ほとんど統計の誤差の範囲程度の小ささなのですね。
半数が隠す公明党ほどではないが、他党に比べれば大きく違いのあるのは共産党で、実際の得票数のおよそ6割程度の小さい数字がアンケートの数字として出る。
4割の人々が自分の『共産党支持』の事実を隠すのですよ。
これらの、共産党員や支持者が自分の支持政党を明らかにしたくない事実には、歴史的な無視することが出来ない明確な理由があるのです。
日本共産党は歴史的にみれば、戦前に大弾圧されただけではなく敗戦後にも米軍や政府自民党に松川事件菅生事件など数々の謀略事件をでっち上げられて、大勢の共産党員が検挙され沢山の人が裁判にかけられ多数の死刑判決まで出ていたとんでもない時代を経験しているのですよ。
吉田茂首相の自民党政府の積極的に関与した、これ等の反共謀略の犯罪行為に対して、未だに一片の謝罪も訂正もされていません。
勿論積極的に松川などの警察や政府の犯罪を『共産党の犯罪行為である』と正反対に報道したのは今のマスコミで、このマスコミも全く体制的には変革がなされていないばかりか、当時よりも更に悪化しているのです。
悪人が罰せらることは無く、それどころか犯罪行為に加担した警察官を出世させて幹部に起用しているのが日本の現在の民主主義のレベルです。
権力とは基本的に腐敗して犯罪を行うものなのですが、困ったことに『権力=正義』との国家の原則が有るので、まったく罰せられないのです。
これ等の少し前の国家権力が基本的に持って要る恐ろしい事実を少しでも覚えていれば例えアンケート程度でも警戒する人たちがいても何ら不思議でない。
これとは大きく違い、理由がさっぱりわからないのが公明党です。
しかし共産党以上に隠すには、なにか合理的な理由があるはずなのですよ。
多分とんでもなく不都合な隠さなければ成らない悪いこと(犯罪行為)に手を染めている可能性が高いのです。
通常、何かの積極的な支持者であるなら、公明党や共産党の例のように沈黙するなどは有り得ないのですよ。
普通なら、誰か第三者に聞かれれば大喜びして自分から積極的に大宣伝する、(公明党の態度の正反対に)大いに自分の支持するモノを色々と紹介(宣伝)したくなるのが人情なのです。

『宗教と共産主義と科学』

何年か前の話、エホバの信者が『近頃日本人はみんな怒っている。困ったことだと思いませんか』と戸別訪問にまわっていたのですが、運よく(多分向こうには運悪く)私はちょうど時間的に余裕があり『怒りこそが正義の原動力』『いかにカルト宗教は間違いであるか』と1時間以上語りあった経験があるのですが、
その時の感想は、日本共産党の党員とキリスト教系カルト信者の語り方や性格、特徴が良く似ているのに溜め息が出たのです。
1、生真面目で基本的に善良である。
2、一つの価値観(例えば命は大事とか、争いは良くないなど)を唯一絶対視して仕舞い,価値観とは沢山の部分を含んだ相対的な巨大なもので、単一の部分や断片では無いとの普通の社会常識を失念している。(部分と全体との問題を、全体対全体であると誤解している)
3、日本人であるなら常識的な多元的な価値観を基本的に軽んじるか馬鹿にしている。(真理は一つを文字どうりに心底信じている)
4、価値観が多元的であるとの考えが無いので、善悪二元論に近い単純思考に陥っている。(部分と全体が矛盾する善と善とがぶつかる時があるとの考えが無い)
5、『多元的な価値観』の考え方が最初から無いので、大事な問題でも其々には順番があるとの価値観の優先順位などは、そもそも理解できない。
6、自分の信じる宗教(政党、主義)に対して少しも疑うことが無く、他との違いを善と悪(共産党の場合には正誤)に単純化している。
7、①~⑥なので当然自分の知っている(回りのみんなが未だ知らない)『正しい真理』を自分だけが独占(隠匿)することは『悪い事だ』と思っている。
8、⑦が原因(動機)で、布教活動(政治活動)に自分から行おうとする。
など、実に良く似ていたのです。

『部外者の素朴な疑問点』

>『そもそも共産主義や社会主義でなかった』同じマルクスを解釈しても、読む人によって共産主義ではないものになってしまう。まるで同じ聖書の解釈をめぐって、宗派争いをしているキリスト教徒みたいです。では何を持って自分の解釈だけは絶対正しいと言い切れるでしょう。
つまり(自称)共産主義は信用ならないということになります。』<

これは実は可也大事な指摘で、宗教と共産主義は実に良く似た構造に成っているのですよ。
日本では宗教とは宗派によって色々有るし解釈も色々と『種種雑多』であると考えがちです。
ところが日本以外の世界の一神教世界では大違いで、『神は一つ』で真理も一つです。
宗教が色々あると考えるのではなく日本の破壊的カルトの創価学会と同じで、『一つの正しい真理』と沢山のそれ以外の(撲滅すべき)『悪しき間違い』があると考えがちなのです。
この考え方は宗教だけには止まらない。
今世界中に沢山の国々に共産党が存在するのですが、『正しいものは一つである』とのキリスト教的な考え方が影響して一国一共産党なのですね。
日本でもそれ以外の国々でも共産党内で内部の意見対立から分党した場合に二つが並び立つことは無いのです。
必ず『正しいものは一つ』の原則で、相手側の(関係ない第三者から見ればほとんど違いの無い)二番目のもう一つの共産党は、共産党を詐称する悪質な反共分子と断定して敵(右翼)以上の不倶戴天の扱いになり、最終的にはどちらかが勝つので常に一国で一共産党なのです。
この原則は日本を含め世界共通ですべてに当てはまる大事な共産党原則なのですね。
ところが何ごとにも例外が在る。
面白い現象ですが、あの何でもありの多神教の国インドではソ連派インド共産党とそこから分派した自主独立派のマルクスレーニン派インド共産党とが仲良く連立政権を作って左翼の州政府を作っているのですよ。
流石に世界で最初に0を発見した数学の天才のインド人だけはあると感心しています。
共産党が主張するように共産主義が『正しく良いもの』であれば一つよりも幾つもあるほうが、数学的考察では間違いなく単独より複数の方がより、社会全体にとっては『良い』と考えることが出来るのです。
ところがインドとは違い、元々共産主義は共産党宣言のマルクスエンゲルスに見られるように欧州で生まれているのですから、欧州的な一神教的価値観からは自由ではないのです。
共産主義は欧州ではなく多元的な価値観のインドとか日本で生まれていたら全く違う性格になっていたかも知れないのですね。
それではそもそも『共産主義』とは何であるかの根本的な『問い』が出てくるのですが、この答えは極簡単で『社会科学』の一部であり重要な構成部分なのですね。
共産党の主張する『真理は一つ』の原則ですが、これもある意味当たり前で『客観的な科学的真理』とは一つの問題には一つしかないのです。
科学とはその人の持つ主観などには全く影響されることは無く『正しい』ものは正しく、『間違っている』ものは間違っている。
いくら考えや利害が違っていても客観的真理(科学)は唯一普遍的なものなのです。

科学とは客観的であり普遍的でもある。
ところがこの科学を生んだそもそもの存在とは、歴史的に考察してみれば判るように客観的でもなければ普遍的でもない欧州の一神教(キリスト教)であるのですね。
そして面白いことに一神教的カルトでは、客観的でもなければ普遍性も無いのに、自分ではこの二つを主張するのです。
ですから、
本来社会科学の一部分である共産主義は、勿論自分たちの客観性と普遍性を主張するのですが、ここで、根本的な弱点が生まれてしまったのですよ。
共産党は社会科学の学術研究団体(権威)であるだけではなく、同時に世俗の政治組織(政党)でもあるのですね。
大学教授が、研究者の顔と同時にゼミ内では最高権力者の顔も持っているのですよ。
それに科学では最初から定理や法則、原理があるわけではなく、どんな正しい科学的真理でも最初は単なる一つの仮説なのです。
この二つのもの(権力者と研究者)は、元々持っている性格が大きく違うのです。
権力闘争の政治の世界では『間違い』は間違い程度では済まず『悪』であるのですが、科学では『間違い』に善悪は関係ないので『悪』には決してならず単なる正誤の問題であるので、何処までいっても『間違い』でしかないのですよ。
それに科学的間違いこそが科学の進歩の原動力で、『科学とは間違いの自己修正過程である』との謙虚な考え方が生まれる。

ですから今回の選挙を謙虚に反省し失敗を検証しようとする共産党幹部会声明は大事なのです。

『科学と宗教の意外な関係』

『科学』と『宗教』は今でこそ別々の全く関係ない分野の『独立したものである』と考えられていますが、歴史的に見ると、この両者には部分と全体の関係の様に分かちがたい関連があるのです。
今の様に科学者と宗教の聖職者が別々である社会よりも聖職者が最先端の科学者や医者を兼ねていた世の中の方が遥かに長い歴史がある。
世界的に見ると日本は例外的で宗教者の地位(権威や特権)はそれ程高くは無いが、こんな国は世界から見れば例外的で少ない。
特に一神教世界においては、今でも宗教が『善悪』の全てを判断しており、もちろん科学も例外ではありえない。
その意味で、『人類文化の最高峰』の地位は必ずしも『科学』が独占的に占めている訳で無いのです。
特に個人の中では『何が最高峰であるか』なんてのは個人個人で違ってきて当たり前。
熱狂的な宗教信者にとっては『科学的な正さ』などはそれ程重要ごとではありません。
科学の持っている力の源泉は、精密さ緻密さ以上に、信じるものにも信じないものにも平等に作用する『普遍性』でしょう。
ところがこの『普遍性』は単純系には単純に当てはまるが複雑系には、時には当てはまらない(今の科学ではそこまでの精度が無い)場合が出てくる。
そして人々に密接に関連してくるもの(社会科学)の多くは複雑系です。
複雑系である社会科学では今でも発展途上国状態で『科学の持つ普遍性』に限界があり、新自由主義のようなヴードゥー教モドキまでが現れる始末です。
科学と宗教の関係は今のアフガンのように科学の持つ圧倒的な『力』で都市部や交通機関や政府のような表向きのハード面は完全に(無理やりに)支配下に置いているが、それ以外は宗教(タリバン)が今でも支配していているのです。

コメント (65)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東西南北劇場 | トップ | 共産党の歴史的敗北を分析す... »

65 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
愚樵さん (東西南北)
2010-09-01 08:47:18
 少し頭を冷やしてください。

 愚樵さんのコメントがまさしく科学へのコンプレックスを客観的事実で証明していますよ。

 内心の自由のレベルでは東西は述べているでしょう。


 「人殺しの自由意志があるとかないとかそんなのあるに決まっているのですよ。しかし、人殺しは科学ですか?自由意志は何でもなんでも科学なのであって、自由なのでしょうか?その点を学校教育などの道徳教育であなたは堂々と主張できるのですか?と、問うているのですよ。」

 愚樵さん。内心は何を思っても思考しても自由です。そんなこと当然ですし、縛ることなど不可能ではありませんか。そんな不毛なことではなくて、営業力というか実際の教育言論運動で科学論をしませんか?ということを述べたら、「内心の自由へのハラスメントだ」と摩り替えてくるでしょう?その点、科学へのコンプレックスだ、と断定したのですよ。

 東西も日本共産党も国定の哲学を国家権力で強制しようなどとは微塵も考えていないかたこそ、こうした言論の場で議論して科学論のコンセンサスを得ようと話しているのです。

 学校で人殺しが科学であると断定するのは非科学的であって、人殺しが科学か否かを保留して、双方向性で議論し、お互いが科学と思えば科学でいいし、非科学と思えば非科学でいいなどというのは到底、教育科学ではない、ということは理解してください。

 階級の違いがあっても、真理にいたる多様な観念の方法論があっても、人類が共に生きることが観念することの前提なので、人類が共に生きることを否定するような行為、すなわち、人殺しは非科学だと断定することが科学でしょう。

 観念を大切にし、観念の双方向コミュニケーションを大切にするなら、その共通前提は肉体的、身体的、遺伝子的に同じ人類として共に健康に生きることになる。これが社会科学の方法論である史的唯物論の根本なのです。理解してください。というか、素直になってください。
客観的事実 (愚樵)
2010-08-31 17:02:39
・東西南北さん

>人格うんぬんといっているのは、あなたであって、東西ではないですよ。

は? 何を言ってるんですか? その通りですよ。私は最初から一貫して「そのこと」しか言っていません。しかも、その相手は宗純さんであって、あなたではなかったのです。

私の最初のコメントは「ハラスメント」と題したもので人格攻撃を問題にしていますが、これは宗純さんに向けたもの。当記事のタイトルからして、この内容は別に記事違いではないでしょう。

宗純さんに向けてのコメントにからんできたのが東西さん、あなたです。いえ、別にいいです、絡んでも。公開のコメントですから。が、あなたとやりとりするようになってからはも私は首尾一貫、人格の話です。ブレませんよ。これは客観的事実です。

科学的などといいつつ、私の土俵にうっかり上がってきてしまったのは、東西さん、あなたんです。

>それはコンプレックスというのですよ。

とやってしまった。そして私に追い詰められて、質問に答えずはぐらかした。いまもはぐらかし続けている。これも客観的事実です。

私がどのように「断定」しようが、それは言ったとおり、根拠は私自身なんです。私が求めているのは、その「断定」の科学的証明ではない。共感なんです。そのスタンスの違いを東西さんはちっとも理解せずに、科学的ではないと絡む。

だから、初めから私のスタンスは科学的ではない。少なくとも東西流の科学的ではちっともない。にもかかわらず、あなたは繰り返し繰り返し、東西流に科学的であれと迫る。だから内面侵害だと言うんです。

>史的観念論の愚樵さんと史的唯物論の東西との論争は科学論争として人類史に続く一大論争です

そんなのも、東西さんが勝手に描いた構図でしかない。私はそんな土俵は無関心だし、乗るつもりもないんです。

ま、これ以上はいいでしょう。宗純さんの言うとおり、延々同じことの繰り返しになるだけ。私は東西さんについて、私の独断でいろいろと憶測を並べたてましたが、その憶測は東西さん自身が裏付けてくれました。もう、これで十分。

そういうわけで東西南北さん、もうやりとりはおしまいにしましょう。ごきげんよう、さようなら。
愚樵さん (東西南北)
2010-08-31 13:40:20
もういいのではないでしょうか?人格うんぬんといっているのは、あなたであって、東西ではないですよ。それはあなたの自己矛盾です。それだけですね。あなた自身が認めている。

そして、人殺しの自由意志があるとかないとかそんなのあるに決まっているのですよ。しかし、人殺しは科学ですか?自由意志は何でもなんでも科学なのであって、自由なのでしょうか?その点を学校教育などの道徳教育であなたは堂々と主張できるのですか?と、問うているのですよ。この論争が低レベルだとあなたは認識しているようですが、それこそ権威を高レベルにしているから低レベルとする。矛盾ですね。すばらしく高レベルすぎるから単純になるのですよ。複雑な話を複雑にするのは高レベルな人の得意技ですね。

 史的観念論の愚樵さんと史的唯物論の東西との論争は科学論争として人類史に続く一大論争ですし、政治政策で協力しながらも、続けていけばいいように思っています。

 ただ、東西も日本共産党も国定の哲学を国家権力で強制しようなどとは微塵も考えていないかたこそ、こうした言論の場で議論して科学論のコンセンサスを得ようと話しているのです。

 学校で人殺しが科学であると断定するのは非科学的であって、人殺しが科学か否かを保留して、双方向性で議論し、お互いが科学と思えば科学でいいし、非科学と思えば非科学でいいなどというのは到底、教育科学ではない、ということは理解してください。

 階級の違いがあっても、真理にいたる多様な観念の方法論があっても、人類が共に生きることが観念することの前提なので、人類が共に生きることを否定するような行為、すなわち、人殺しは非科学だと断定することが科学でしょう。

 観念を大切にし、観念の双方向コミュニケーションを大切にするなら、その共通前提は肉体的、身体的、遺伝子的に同じ人類として共に健康に生きることになる。これが社会科学の方法論である史的唯物論の根本なのです。理解してください。というか、素直になってください。

 



一神教的世界観と共産党 (宗純)
2010-08-31 10:40:00
Runnerさん、コメント有難う御座います。
ご指摘の色々な『共産党の不思議』ですが、私流に簡略にすると、すべては『一神教的な世界観』に集約出来るでしょう。

そして日本の一神教信者は1%程度の少なさで例外的。
その価値観が日本人には受け入れられないのです。
日本国で唯一、一神教教的な創価学会は日本の宗教とか党派の中では一番嫌われているのです。
これも矢張りその一神教的な価値観が一般市民の怒りを買い、到底受け入れられないのです。
ところが『一神教教的な世界観』度数と言う物差しで計れば、日本国内の全ての組織党派教団などの中では、そもそもの一神教のキリスト教教団やりも断トツに日本共産党の一神教度数の数値が高いのですよ。
日本の『仏教』は、それ以外の世界の『仏教』からは遥かに遠い到達地点にあるのですが、
これと同じことが日本のキリスト教教会にも言えて、純粋な一神教的では無いのですよ。
今の日本人では9割以上の圧倒的多数がキリスト教式の結婚式あげるのですが、一神教世界では『結婚式』とは、もっとも大事な宗教儀式なので他の宗派の信者の結婚式を行うなどは唯一神の冒涜(棄教)で許されるはずが無いのです。
(一神教教徒にとっては棄教は最大最高の犯罪行為)
日本では一神教であるはずのキリスト教会さえも変質してしまい、今では日本的な多重な価値観の一神教モドキに変質しているのですよ。
今では完璧に『日本的価値観』を受け入れているキリスト教ですが、名前は同じキリスト教ですが幕末から明治大正期には今とは全く違っていた。
当時は欧米一神教世界からの本場直輸入だったので戦闘的で排他的で独善的で不寛容で狂信的でもちろん教条的だったのですよ。
当時は宣教師が街頭に立ってキリスト教の辻説法をしていたのですよ。
(こんな方法で信者が増えると思っていたのですよ。あまりに馬鹿馬鹿しすぎる。
自分達の信じるものは『絶対に正しい』ので誰でもが、一度でも聞きさえすれば受け入れられると信じていて、日本にキリスト教徒がいないのは『神の言葉』を一回も聞いたことが無いからだとの信念ですね。)
これ、丸っきりの今の日本共産党なのですよ。
有権者が共産党を支持しない理由は『未だ共産党の掲げる政策を知らないからだ』と思っていて、『有権者が共産党の正しく政策を知れば必ず支持する』ので、『共産党を宣伝すれば、共産党は支持される』と、心底思っていて何一つも疑っていないのです。

今の共産党の持っている特殊性ですが、・独善的、独尊的・閉鎖的・排他的・不寛容・狂信的・教条主義
これ、困ったことにすべて単に『一神教的な世界観』の一言で説明が付くのですよ。
そしてこの態度は大正期のキリスト教の特徴でもあったのですが、日本共産党が創設されたのは88年前で、これ等と同じ時期であるのです。
そして共産党ですが、一度決めたことは(決めた時は)『間違っていない(正しい)』のだから変えるのは間違いである。
『原理原則を守ることは正義である』などの官僚顔負けの不思議な官僚的な(政治的でない)発想が批判されること無く生き続けているのです。
Runnerさん (愚樵)
2010-08-31 04:29:59
ひとつ前のコメントから

>なぜなら、わが国では「内面への侵害」が常習しているからです。

同意です。ですが、だからといって、

>こういったことから見て、日本人はこの手の行為に関する問題意識が強くなく、麻痺しているとすら思われるのです。

とはならないのではないか。むしろ逆に敏感になっているとも考えられる。一概に結論付けることはできないと思います。

>共産党の布教を聞かされる方がまだマシです。

どちらがマシとかいった話ではないでしょう。“共産党という団体が”どうなのか、ということ。

確かに「内面の侵害」、ハラスメントを仕掛けてくる個人は多いです。そういった「個人」が弁護士や医者に多いというのは事実かも知れない。が、医者だから弁護士だからと言ってハラスメントを仕掛ける人とは限らない。その資質は「個人」に由来する。

が、一方で、共産党はものみの塔は、Runnerさんご指摘の通り「画一的」。つまり、共産党という「団体」の資質としてハラスメント体質だと捉えられている。もちろん、党員ひとり一人をみればそうでない人もいるでしょう。が、それは例外として捉えられる。“あの人は共産党だが話はわかる”になる。

そういった一般的なイメージが、カルト的と捉えられる要因なのではないでしょうか。
宗純さん (愚樵)
2010-08-31 04:16:18
>いい加減エンドレステープの再生で飽きてきたのですよ。もう十分すぎると思いませんか。?

思ってますよ。

ですが、今回、彼は少しだが「内心」を語った。これは宗純さんとは正反対に『内心を語るべし』と主張している私にとっては前進に映った。

それだけのことです。
怪しげな要因 (Runner)
2010-08-31 00:49:23
よく指摘される共産党のマイナスイメージの中でカルト宗教と共通していそうな要素を箇条書きしてみるとどうでしょう。

・独善的、独尊的
・閉鎖的
・排他的
・不寛容
・狂信的
・教条主義
・画一的(多様性がない、*一括回答する)
(*市民運動をやってる人なんかは体験している人が多いと思いますが、全議員に何かのアンケート調査を求めたりすると、共産党だけなぜか一括回答してくる。国政だけでなく地方議会議員相手でもそう。公明党でもそんなことはしない。)

といったところでしょうかね。
それぞれ別個に存在しているようでもありますし、関連しているようでもあります。

私はカルト的とされる共産党の問題点には共産党の組成が関係していると思っています。
特に、次の3つの要因が怪しいと思います。

・まず、共産党は「秘密結社」としてスタートせざるを得なかった。
・途中から学歴崇拝を始めた。
・途中からマルクス主義が付加価値を帯びた。
ヒ ヒ ヒ (宗純)
2010-08-30 16:11:44
愚樵さんの返答コメントを読んでハハハ!と笑った心算が、
何故かよくわからないが笑い声がヒヒヒになっていたのです。(これは何度か試してみたら判りましたが歯を噛み締めた状態でハハハ!と笑うと誰でもヒ ヒ ヒに変化します)


>『宗純さんの東西さん擁護』<は、間違いですね。
正しくは『東西さん擁護』と一見すると見えるかも知れないが、当方のコメントは『賛成反対』とかに関係ない、単に『それはイジメです』という客観的事実を書いただけですよ。
それに対して『イジメ相手がイジメと自覚していないのだからイジメでは無い』との解釈(イジメの定義?)ですが、
これを判りやすく解説すると『イジメ』の認定にはイジメ側とイジメられる側双方(あるいどちらか片方)が『イジメ』との『認識』が必要であるとの見解ですが、
当方はその様な当時者の『認識』などと言う『内心』には殆ど関心がありません。
(内心とは常に移ろいやすく一定では無いのですよ。しかも第三者の客観的判断が不可能です)
関心が有るのは常に科学的な『客観的事実』だけなのですよ。
(これは内心とは正反対で、一定でしかも第三者の検証が可能なのです)

であるからブログのような公開の場所では『内心は語るな』(科学的な検証が可能な客観的的事実のみを語れ)と主張し続けているのです。
>『人の心はそもそも予測不可能です。』
なのだから関係する極少数にはいくら大問題でも、これとは正反対に無関係の第三者には全く無意味なのです。

そんなことよりも一番愚樵さんと違っているのは、別の問題ですね。
南北さんにもっと語らせたい愚樵さんと、何とか止めさせたいと思っている私との論争であるのです。
いい加減エンドレステープの再生で飽きてきたのですよ。もう十分すぎると思いませんか。?
宗純さん (愚樵)
2010-08-30 05:52:38
東西さんにはイジメだと言ったその舌の根も乾かないうちに、再び宗純さんにはイジメではなかったと断言しておきます(笑)

なぜ、イジメではないか? それは東西さんが明かしてくれましたね。彼自身、イジメとは受け取っていないと言明したのです。

ただ、この言明を引き出したのは私の東西さんに対する攻撃ではなかったでしょう。宗純さんの東西さん擁護と私への攻撃、そして私の抗議でしょう。

面白いものです。そうやって自分について他者が争うのを見ると、自分を相対化できるのすね。相対化が余裕を生む。余裕が生まれると自由意志の束縛が解けるのですね。

ここまで私は予測していたわけではありません。人の心はそもそも予測不可能です。
「打ち止め」と言いましたが (愚樵)
2010-08-30 05:43:20
・東西南北さん

「打ち止め」と言いましたが、撤回します。

>愚樵さん。大丈夫です。東西は虐めとは理解していないし、愚樵もおそらく虐めようとは意欲していないだろう、と思っています。むしろ、苛立たしいのであろうな、と。それは東西も同じなのですね。笑。

なるほど。これまでに比べれば好感の持てる文章です。でも、足りません。

私は東西さんをイジメようと意図しています。宗純さんのはイジメではないといいましたが、東西さんに向かってはイジメであると断言します。

私はあなたの人格を攻撃しているのです。そのあなたに向かって、これは「イジメではない」というのは偽善です。私はあなたに(あなたの意図はどうであれ)攻撃を受けていると感じて苛立ち、ゆえに攻撃を仕返している。

>ま、観念論の愚樵さんと唯物論の東西との論争は科学論争として人類史に続く一大論争ですし

観念論と唯物論の対立などと私は捉えていません。単なる人格の対立です。そういうふうに美化してしまっては、問題の本質を見誤る。もっと低レベルで、それゆえにこそ根源的な争いです。

私は共産党をキライだと公言している。が、別に共産党の存在に苛立っているわけではない。以下は憶測ですが、それに対し、東西さんは私の共産党嫌いに苛立っている。私が共産党を攻撃することに苛立つ。その苛立ちゆえに私を攻撃する。私は東西さんの苛立ちを受けて、攻撃を返す。そういった悪循環です。

ただ、これまで東西さんは、自分の苛立ちには言及しなかった。そこは科学だと言って冷静を装った。私はそこをウソだといい、ハラスメントだと言った。板立ちを苛立ちだと表明されれば、私はいくらでも冷静に対応のしようがあるが、それが隠蔽されてしまえば、対処は無視か攻撃かしか選択肢はなくなる。いずれにしても苛立ちゆえの選択になる。

今、私は東西さんに向かって苛立ちを隠さず攻撃しています。が、どうです? あなたはこの私の攻撃に苛立ちますか? むしろ余裕をもって受け止めることが出来るのではないですか?

これがもし、あなたが上で示した「寛容」を入れつつ、つまりイジメるつもりではないといいつつ、あなたの苛立ちのみを攻撃したらどうです? その方がよほど受け止めづらいのではありませんか?
>「道」 (愚樵) (Runner)
2010-08-29 19:39:30
ちょっと平行線になりそうですが、愚樵さんはご自身が共産党を嫌う理由と断った上で論を始めておられますし、共産党が「内面への侵害」を行っているという愚樵さんの主たる指摘には何ら異論はありません。
ただ、それが一般に共有されているらしい「共産党へのカルト感」の正体なのかとなると、腑に落ちないものを感じるのです。

なぜなら、わが国では「内面への侵害」が常習しているからです。
学校においては、少なくとも高校までは間違いなく生徒は「道徳的に劣った者」と規定されています。だから、たとえば、坊主頭を強制するという欧米ではあり得ないことまで行われてきましたし、会社においても経営者の妙な趣味嗜好を強制されたりします。
「内面への侵害」は単に権力的立場にある者が行うにとどまらず、たとえば、飲みたくない者に酒を無理矢理飲ませたりといったように、市民同士においても普通に行われているのです。
こういったことから見て、日本人はこの手の行為に関する問題意識が強くなく、麻痺しているとすら思われるのです。
だから、共産党の姿勢にそれが見られるからといって、それを特異に感じるというのは、なんとも合点がいかないのです。
少なくとも、私個人としては、学校で坊主頭を強制されたり、呼びたくもないのに弁護士を先生と呼ばされることの方がはるかに不快です。共産党の布教を聞かされる方がまだマシです。
ブログ主さんが言うように、それは共産党への差別意識からだとすれば合点がいかなくもないのですが、果たして、そうなのか。

>つまり、カルト的は「一本道」なのです。他の「道」は認めない。
>たとえ認めても、「脇道」という位置づけにしてしまう。

この指摘も異論はありません。
独善的で排他的と言われる部分ですね。
かなり、核心に迫ってきたように感じます。

続く。
北朝鮮バッシングと潜在的な差別意識 (宗純)
2010-08-29 17:36:06
Runnerさんコメント有難う御座います 。

日本全体が02年の小泉訪朝以後の北朝鮮バッシング報道のお蔭で極度に右傾化したのは紛れも無い事実であるのですが、
此処で今一度冷静になって考えれば、拉致問題なんで30年前の歴史的な過去の事件であり関係していた被害者の人数もたかだか十数人という極めて少数です。

何かがしっくりと納得できない。可笑しいというか計算が合わないのですよ。
いや今での拉致被害者が困っているのだとの認識なら、同じように過去の歴史によって拉致被害者以上に悲惨な目にあって未だに苦しんでいるのは凄まじい数ですよ。
例えば今でも何十万人もがアメリカの原爆攻撃の後遺症に苦しんでいる。
シベリアに抑留された旧日本兵も今でも保障を受けられず苦しんでいる。
中国には何の罪も無い幼い日本人残留孤児が今での無数に残されて拉致被害者以上に苦しんでいるし人数的にも桁違いの多さなのです。
今での昔と同じ苦しみを癒されること無く多くの日本人が苦しんでいるのですよ。
ところがアメリカやロシアバッシングは北朝鮮のようには無いのですよ。
ですから、この話は相手が超大国ではなくて日本より遥かに貧乏な弱小国家である北朝鮮が関与したから日本人の『怒り』が何倍にも想像いじょうに異常に増加(増殖)しているのですよ。
アメリカに話を置き換えたら、自分(白人)より遥かに劣った存在であると信じていて差別していた黒人に、反対に危害を加えられたので逆上して極刑を主張するプア・ホワイトの発想なのかもしれないのですよ。
昔の南部で白人が黒人を殺しても正当防衛で、逆なら見せしめで縛り首みたいな話ですね。
で、この話と今の話の関連性ですが、
頭ごなしの上から目線の話ですが、何も共産党の専売特許ではないのですよ。
自民党の森首相の『神の国発言』を思い出してください。
あるいは東京都と石原慎太郎知事の数々の暴言を思い出してください。
『日本国中の子供に君が代を歌わす』のだと強制する米長邦雄を思い出してください。共産党の何十倍も上から目線の腹立たしい態度ですよ。
ところがそれでも支持するのです。、それどころか正反対に上から目線を喜ぶ人までいるのですよ。
何処が違うのか。?
自分より強い相手だと頭の上に原爆を落とされて何十万人も殺されても文句が言えない反動で、自分よりよりも遥かに弱い北朝鮮には十数人でも絶対に許さないのですよ。
何故日本人は原爆攻撃のアメリカを許すことが出来て北朝鮮は許さないのか。北は一応は謝ったのですよ。対してアメリカは未だに一言も謝罪するどころか未だに真珠湾を忘れるなと正当化しているのです尾y。どちらが『より悪いか』言うまでもない話ですよ。
これと同じ理由で、自民党の森には我慢出来ても共産党の志位には我慢なら無いのではないでしょうか。?
Re: 抗議します(笑) (愚樵) (宗純)
2010-08-29 15:09:14
>『イジメというからには、私が東西南北さんの自由意志を侵害し何らかの強制をした、という事実がなければなりません。』<
それそれ。それがイジメル側の典型的な『いじめられる側が悪い』との典型的な台詞なのです。
イジメとは、その様に『いじめられる者』の悪を指摘して、正義の名において行う仕組みなので救いが無いのです。

>『確かに私は結果を予想していました。しかし、100%とはいかない。』<
私は100%の確率で現在の結果を推測していました。だから一番最初に反対したのですよ。
そして愚樵さんですが100%で無いとは仰られていますが99・9%は予想していた(能力から推測して可能性が高い)のですよ。

>『嫌がる女性につきまとうストーカー男を思い起こしてください。長々と頻繁にラヴレターを書いてつきまとうのは、“何とか相手を『理解したい』と思っているし、それ以上に相手に自分の主張を理解して欲しいと願っている”からでしょう』<
愚樵さんの例えはピッタリそのまま丸ごとですね。『善良な悪質ストーカー』ですか。いや素晴らしい表現力です。これ以上に納得する例えは無いでしょう。
ただその後の、
。『そんな善良さは評価出来ない。善良であるほど質が悪い。』<
は、少し納得行きません。
もっと悪質な例があるのですよ。
あの当方のブログでも暴れているFKグループの4人組ですが、あの手口は例えるなら善良さの欠片も無くて、最初から創価学会の折伏 なのですよ。
一見全く同じに見えるかも知れませんが大違いなのですよ。
共産党系ミニカルトのネットゴロのFKグループは『悪意』から始まっていて『悪意あるストーカー行為』でその意味では完璧なのです。
自分達の嘘や印象操作が指摘されそうに成ると一切相手に発言を出来ない無い様に遮断する。
言う度に発言が変わるが、それは相手が悪いと正反対に主張するのですが、よくもこれだけ嘘八百並べれるものだと鉄面皮には感心します。
南北的な同一の主張の繰り返しも困りますが、カメレオン以上で一つのコメントの中でさえ前と後が主張が違うFK的ストーカーにはほとほと呆れています。
一見似ているが正反対なのですよ。
南北さんの場合は『善意』から出てきて結果的に相手や自分に害を与えているのですが、
FKグループは最初から善意は見せ掛けで中身が違う。
悪意から出発していて、懲りずに延々と相手や自分を傷つけているのですよ。
懲りずに延々と周りや自分に迷惑をかけているのだけを見れば、全く変わりは無いのですが、動機が正反対なのです。
自分を疑う (宗純)
2010-08-29 12:23:29
アキラさん、コメント有難う御座います。

ものみの塔の信者さんの話の顛末は記事には書いていないのですが、・・・・元々人間が優しく出来ているらしいアキラさんとでは話が大分違っていたのですよ。
大概は円満には話が進まない。
相手の思考の範囲内で、此方があいてしてあげれば確かに、
>『ものみの塔の人たちも、こちらが何か言えば、その度に「あぁ、それはここにこう書いてあります」とか「それはこういうことですね」とか、常に自分たちの価値規準の方へすべてを引っ張り込みますよね。』<
に成るのですが、・・・それは最初から判っているので返ってくる答えが判っているその様な話は時間の無駄なので絶対に聞かないのですよ。
相手の想定外の問答を行うのですが、聖書などに一行も書いていないことは全く答えられないのです。
昔ネットウヨさんとの靖国へ首相公式参拝問題で、慰霊の前提は遺骨収集であるとか、英霊の顕彰には天皇公式参拝が無いと駄目であるとかを持ち出して、『靖国神社は恥を知れ』と一喝するような一方的な展開になったのですよ。
最初は仕方なく何とか受け答えするのですが後が続かない。
相手が一言も答えられ無くなった黙っているので此方も仕方なく一方的に捲くし立てるしかないのですが、この場合には相手が今まで聞いた事も無い知識や見解を聞いて喜ぶことは絶対にないのですよ。
帰り際には大概『地獄に落ちるぞ』とまでは言わないが恨みがましく、何がしかの捨て台詞を吐きながら出て行くのです。
この人たちは『自分の知らない知識』であるとか『自分とは違う別の意見』などは最初から求めてはいないのです。
一言でいうと『自分を信じている』のですよ。
宗教とは、最初から自己完結していて今更なにも他の『何か』をまったく必要としていないのです。

此処が自分とは違う『別の見解』『別の見方』を聞きたい私と全く違うところなのです。
未だ完結していず、自分を疑っているのでしょうね。
全ては疑いうるの立場であるなら、当然まず最初に『自分自身の判断』『目の前の事実』こそ疑うべきなのですよ。
人とは間違う動物であるのです。
基本的に命のかかっているスポーツ登山は、もしも万が一にも自分の判断が間違っていたらと『目の前の事実』を簡単には信じないのですよ。
昔4人が確かに見た雪山の二つの輝く太陽の話を、それ以降誰も二度と口にしないのも全員が『自分自身』を疑っているからかも知れないのです。
確実に『見た』事実は確かなのですが、今までの既存の科学では説明が付かないので、誰一人も口に出せないのです。
宗純さん、愚樵さんへ (東西南北)
2010-08-29 11:57:06
 宗純さん。社会科学と民主主義の区別と関係性、真理性の認識、さらには、政治的優先性の判断基準は異なりますが、子世代の東西を育てようとしてくれている意欲は感じています。ありがとうございます。しかし、やはり、先に述べた判断基準が異なりますので、これは大いに自由に言論させてください。

 愚樵さん。大丈夫です。東西は虐めとは理解していないし、愚樵もおそらく虐めようとは意欲していないだろう、と思っています。むしろ、苛立たしいのであろうな、と。それは東西も同じなのですね。笑。

 ま、観念論の愚樵さんと唯物論の東西との論争は科学論争として人類史に続く一大論争ですし、政治政策で協力しながらも、続けていけばいいように思っています。

 ただ、東西も日本共産党も国定の哲学を国家権力で強制しようなどとは微塵も考えていないかたこそ、こうした言論の場で議論して科学論のコンセンサスを得ようと話しているのです。

 学校で人殺しが科学であると断定するのは非科学的であって、人殺しが科学か否かを保留して、双方向性で議論し、お互いが科学と思えば科学でいいし、非科学と思えば非科学でいいなどというのは到底、教育科学ではない、ということは理解してください。

 階級の違いがあっても、真理にいたる多様な観念の方法論があっても、人類が共に生きることが観念することの前提なので、人類が共に生きることを否定するような行為、すなわち、人殺しは非科学だと断定することが科学でしょう。

 観念を大切にし、観念の双方向コミュニケーションを大切にするなら、その共通前提は肉体的、身体的、遺伝子的に同じ人類として共に健康に生きることになる。これが社会科学の方法論である史的唯物論の根本なのです。理解してください。

 
愚樵さん、抗議は受け付けません(笑) (宗純)
2010-08-29 11:33:45
愚樵さん,コメント有難う御座います。

小沢一郎に対する評価でインターネット世論と新聞の世論調査とではちょうど正反対に成っていてネットでは8割の小沢一郎首相待望論に対して、
何と、新聞アンケートでは8割が『小沢一郎金権嫌悪論』なのですね。
全く正反対であるのですが、コメントを書いている私ですが、もちろん『小沢一郎は悪党』であると長年主張しているし、同時に『小沢一郎首相待望論』(正確には打倒菅首相)なのですよ。
金に汚く根性が歪んでいるが実力だけはあるリーダー(小沢)がよいのか。?
それとも清潔で人は良いのだが救いがたい無能なリーダー(菅)がよいのかの究極の選択であるのですよ。
これはもう登る山が安全な楽しいハイキング程度の山登りであるなら間違いなく無能でも人が良いほうが正しい選択であるが、遭難の危険性が考えられるなら多少の欠点は目を瞑り実力で選ぶしかない。
(危険度が高ければ、たとえ大きな欠点でも命が惜しければ選ぶしかない)

これ、今の『共産党の上から目線』論議にも少しは共通しています。
弁護士や医者など先生と呼ばれる立場の人が『上から目線』の態度なのは事実なのですよ。
頭ごなしの『こんなことも知らないのか(私はとっくの昔から知っている)』的な相手に対するあからさまな優越感に対して、愚樵さんは不愉快に感じるのですが、・・・・
これ、私は少しも不愉快には感じないのですよ。
多少アホ扱いされたとしても『何か』大事なことを教えてくれるなら大喜びしますよ。
民主主義の原則では人は万人が等しく平等であるのですが、これは事実ではなく現実には能力に大きな差があるのですから相撲では朝青龍には逆立ちして勝てないし将棋では米長邦雄と平手で勝負できる人はいないのですよ。
で政治(共産党)ですが、
此れはもう共産党とその他の政党では実力的に菅と小沢一郎以上の大きな差があるのですから、今のような極度に財務省主導で日本経済が悪化している現状では選択の余地が無いのですよ。
あのリーマンショックでの派遣村の惨状を見て社民党や民主党の議員は非正規雇用の解禁で『こんなことに成るとは思わなかった』と発言しているのですが、社会科学を正しく学んでいれば『こんなことになる』のは社会的必然で極簡単に判る程度の話であるのです。
ですから(社民や民主が)頭ごなしに共産党に馬鹿にされても当然な話なのですよ。
朝青龍や米長邦雄に相撲や将棋で馬鹿にされても当然であるのです。
ただし、前にも書いたが、
何でも出来るレオナルド・ダビンチ型の天才は例外的で『何かが優れている』とは、それ以外の『何かが劣っている』のですよ。
そして『山高ければ谷深し』の例えどおり『凄い能力がある』とはそれ以外の能力が低いか無いのですね。
将棋に能力の殆どを使い果たして一般社会常識はマンがしか読まないネットウヨと同程度の天才米長邦雄のような悲劇が生まれるのです。
「道」 (愚樵)
2010-08-29 06:17:57
・Runnerさん

>>医者・弁護士であることと人格とは切り離して捉えるのが「通常の感覚」だと私は思います。

>これはどうでしょう?
>日本では医者・弁護士は特定の状況下だけでなく「先生」と呼ばれているのです。

なるほど、そうですね。では、一旦、“人格とは切り離して捉えるのが「通常の感覚」”というのは撤回しましょう。

そして改めて考えて欲しいのですが、では、“先生”と呼び習わされている医者や弁護士は、どちらが人格的に優れているかといった「神学論争」をするでしょうか? ちょっと考えられないですよね。

一方、カルト的と捉えられる集団はどうか? あくまで一般的なイメージですが、医者や弁護士とも「神学論争」をやりそうだと思いませんか?

これは日本人が好む「道」という思想から説明出来そうです。日本人はいろいろ「技術体系」を倫理的な「道」にしてしまいますね。茶道、華道、武道、新しいものでは野球道なんて言葉もあります。医道もありますし弁護士道もイメージできそうですね。

日本人にとって「道」とはなにか? それは「三昧(サーマンディ)=悟り」に至る方法論なのですね。そしてその方法論はひとつではない。「道」は複数あって、そのどれもがひとつの「三昧」へ至るものなのです。
(よく趣味を「道楽」「○○三昧」といいますが、これは「道」思想が俗化したものです。)

>僕はいつも疑問に思うんですが、真理ってのは一つなんでしょうかね?
>それにいつも納得がいかないんですよね

これはアキラさんが表明した疑問ですが、“真理”を“真理へ至る「道」”とすれば、どうでしょう? 真理へ至る「道」は一本ではない。私たちは暗黙のうちに真理と「道」を暗黙のうちにそのように捉えているのではないでしょうか?

こう考えると、共産党を初めとするカルト的存在の世界観との違いが明確になってきます。つまり、カルト的は「一本道」なのです。他の「道」は認めない。たとえ認めても、「脇道」という位置づけにしてしまう。

そして、ここにあるのが「見下し」です。「一本道」「脇道」という序列付けは、「道」が倫理的なものだとすれば、それは倫理的な序列付けに他ならない。

日本人が医者や弁護士などを「先生」と呼ぶのは、彼らは医道、弁護士道を辿っているという認識があり、なおかつ、その「道」を辿って行ってもらわなければならないという要請があるからでしょう。が、その「道」はあくまで部分的、数ある方法論の一であり、全人格的とはいえない。“人格とは切り離して捉えるのが「通常の感覚」”というのは、そういう意味です。

対して「一本道」を辿っていると思い込んでいる者は、“人格と一体的に捉えている”。それは当人も、また「道」思想を共有している一般の日本人もそのように捉えるわけです。それがカルト的な感覚に繋がっている。
残念ながら・・・ (アキラ)
2010-08-28 21:05:18
残念ながら(と言うべきでしょうね)、宗純さんの仰るように、コメント欄の一連の書き込みが、そもそもの記事を具体的に補足してるような格好になっていますね。

ものみの塔の人たちも、こちらが何か言えば、その度に「あぁ、それはここにこう書いてあります」とか「それはこういうことですね」とか、常に自分たちの価値規準の方へすべてを引っ張り込みますよね。
こちらの言っていることを、とりあえずこちらが意図しているように受け取ろう・・という気は、そもそもないようにいつも感じます。

おそらくそれは、彼らにとっては「真理は一つ」だからなんでしょうね。
そうしてその「一つの真理」の上に彼らは立っていると思ってるので、自分たちの価値規準(「物差し」)をとりあえず置いといて、相手の意見を相手の考えているように受け取ってみようという発想が皆無なのでしょう。
それと似たような感じを、上の一連のコメント群に感じます。

いや、しかし、「真理」ということについては、立体構造的にというか、「全体と部分」というような関係性を今まで想定していませんでした。
「真理の断片」、『「真理」の全体と部分の関係』、、、
なるほど!です。
>Runnerさんコメント有難う御座います (宗純) (Runner)
2010-08-28 19:14:32
>他の子供達の前では、どれ程些細な間違いでも絶対に先生は間違ってはいけないのでしょうね。

日本だけでなく、儒教社会の学校では原則として生徒の質問は「禁止」ですね。
これはかのデイブ・スペクターさんも、日本の学校の問題点として指摘しています。
その理由についても、「質問に答えられないと教員の権威が損なわれ生徒との関係式が崩れると思っているからだろう」と推論しています。
デイブさんは日本の学校を見学してすぐ気付いた点と言っています。

つまり、日本人というのは、こういう教員や医者や弁護士との付き合いに普段から慣れているのです。
感覚が麻痺しているともいえるかも知れません。
しかし、そんな日本人が共産党には違和感を感じてしまうと言っているのですから、これはもっと特殊な何かが存在しているということだと思うのですよ。
生理的に感じる異様さのようなものがあるということだと思いますよ。その正体は何なのかということですね。

私は共産党の組織としての組成に大いに問題があるのではないかと思っています。
>道徳的 (愚樵) (Runner)
2010-08-28 19:10:48
>医者・弁護士であることと人格とは切り離して捉えるのが「通常の感覚」だと私は思います。

これはどうでしょう?
日本では医者・弁護士は特定の状況下だけでなく「先生」と呼ばれているのです。
顧客だけでなく、一般的に「先生」と呼ばなければならない雰囲気が作られているのです。
つまり、医者・弁護士は「人間的権威」とされているのです。だから、例として取り上げたのです。
私は社会的な弊害という観点からすれば、ある意味共産党以上に問題性が高いと思いますよ。
つまり、共産党が「内面への侵害」を行っているという愚樵さんの指摘自体には何も異論がないのですが、もっと別の何かがあるのではないかと思うのですよ。

>いうまでもなく共産党が求めるのは「信者」です。対して自民党・民主党などが求めているのは「消費者」。

この指摘もまったく的を得ていると思います。
しかし、それが共産党へのカルト感の原因なのかとなると、そこが疑問なのです。
何せ、単に「宗教みたい」ではなく「カルト宗教みたい」と言われているのですから。
カルト宗教とそうでない宗教との違いは、単に量的な違いだけなのか。それとも何か質的な違いがあるのか。
キリストやシャカや親鸞の布教にも人々は同様の不快感を感じたのか。
もっといえば、ガンジーやキング牧師、あるいは、マンデラやゲバラの活動とどう違うのか。
あるいは、別の問い方としては、なぜ、共産党は宗教になってしまったのか。なぜ、自民党や民主党のようにできないのか。
抗議します(笑) (愚樵)
2010-08-28 17:58:33
・宗純さん

私が悪人であることは一も二もなく認めますが、私の態度がイジメであったとのご説には納得ゆきません。よって抗議いたします。

イジメというからには、私が東西南北さんの自由意志を侵害し何らかの強制をした、という事実がなければなりません。

>ですからこれはそもそも、その様な質問をした愚樵さんに責任があるのですよ。(100%この様になるのは予想していた筈です)

その論理はおかしい。確かに私は結果を予想していました。しかし、100%とはいかない。なぜなら、東西さんには東西さんの自由意志があるからです。東西さんには私の期待(?)を裏切る自由があるし、もし裏切ったとしても私にはそれを非難する何らの権利もない。

私は東西さんが自分に自由意志を自ら縛っていると観察していましたが、それはあくまで東西さん自身の責任です。それを私の所為にされては堪りません。

とはいえ、イジメと宗純さんが表現された意味合いはわからなくないですよ。ただいかんせん、イジメという言葉は意味が強すぎる。これでは抗議しないわけにはいきません。

>基本的に善良であるのですよ。

彼が基本的に善良である、というのは私も認めます。が、東西さんを善良な対話の相手として評価することはまったくできない。なぜか。彼の善良は一方通行だからです。一方通行の善良――私はこれを偽善と呼びます。

偽善というと悪意だと思われるかもしれませんが、違います。悪意は当人も悪意だと自覚しますが、偽善は当人は善良だと自覚しているのです。にもかかわらず、結果的に悪となる。それは善良というのが何か、よく分っていないからです。

東西さんの質問にも善性とは何かとありましたから、ここで答えておきましょう。善性とは、相手の善良さを信頼すること。つまり、善良が一方通行ではなく双方向であること、双方向への期待です。

>長々と書くコメントの目的も、何とか相手を『理解したい』と思っているし、それ以上に相手に自分の主張を理解して欲しいと願っているのですよ。

そうでしょう。が、それが一方通行ではハラスメントにしかならないのです。

嫌がる女性につきまとうストーカー男を思い起こしてください。長々と頻繁にラヴレターを書いてつきまとうのは、“何とか相手を『理解したい』と思っているし、それ以上に相手に自分の主張を理解して欲しいと願っている”からでしょう。そこだけを見るならストーカー男だって善良です。が、そんな善良さは評価出来ない。善良であるほど質が悪い。東西さんは、まさにそれなのです。ですから、宗純さんがどう考えようが、私は現在の彼を評価出来ない。

>>彼は他人の話を理解しようという意欲がまるでありません。

意欲とは何を指しているか。「双方向への期待」のことです。そして、その「意欲」こそが他人を理解する「能力」発揮の鍵なのです。私は宗純さんとは逆に、彼には「能力」はあると考えている。あれだけ言語を操ることが出来るのですから、能力がないはずはないのです。「意欲」がないだけのこと。

この手の「能力」は能力があれば幾分かは発揮できるといった類のものではない。「能力」の顕現は「意欲」に比例するのです。“客観的に同じ”というのは、そのことを端折って表現しただけのこと。

端折り方がよくないとの批判は受け止めますが、むちゃくちゃなイジメとの評価は到底容認できません。
社会科学の一分としての共産主義 (宗純)
2010-08-28 11:38:25
もえおじさん、コメント有難う御座います。

この話ですが、基本的に性格(ジャンル)が違う二つのものが同時に論じられている為に大きく混乱しているらしいのですよ。
政党である『日本共産党』の掲げる『共産主義』とは一党派の信奉する特定の『イデオロギー』にすぎないのです。
そして、それぞれの宗教の教義や政党のイデオロギーは、
それぞれの宗教や政党にとっては、当たり前ですが、「唯一絶対」の「真理」で有るのですよ。
特定の一政党のイデオロギーとしては、『色々な解釈や見解がある』では党員も有権者が困るのですから、少数意見は排除され民主主義的に多数決で一つの『解釈』に集約され、これば『唯一の正しい真理』であるとされるのは、これも当たり前であるのですが、これは『科学』ではありません。
何処までいっても、単なる一党派の一つのイデオロギーなのですね。(多数決であれ全会一致であれ、そのような決定を行った段階で科学とは別のもものになっています)
科学的な検証を経ずして『唯一の正しい真理』など多数であれ少数であれ無関係に誰であれ無理であるのです。
ですから共産党であれ誰であれ、『科学的真理』を独占的に判断(決定)出来るとする考え方は危険であるし科学的でもないのです。
自然科学でも社会科学でも同じですが、『科学的真理』の探求を、『権力』が行っては間違いの元ですよ。
権力機構と権威(真理)を分離するのが時代の要請であるのですが、まだまだ共産党は大昔のままの一昔目の原始的な政教一致的な状態が残っているのです。
理由は色々有るが、政党としての歴史が長すぎる事も大きな原因でしょう。
一世紀近い歴史があれば大昔の、当時であれば当然だが今から見れば無茶苦茶な部分が当然生まれます。
組織が極々小さい場合には分離していない状態でも良いのですが、今の共産党ですが大きすぎるのですよ。
科学とは、こちさんのコメントの、

>『私の考えは絶対に正しいので、反論すること自体がおかしい、意見が違うのはおかしい、などとなったら科学でも何でも終わりですね。』<
のですね。
それは『科学』ではなくカルト宗教としての科学教でしかなくなるのです。
ところが困ったことに今の共産党には一部に、『私の考えは絶対に正しいので、反論すること自体がおかしい、意見が違うのはおかしい』(唯一正しいのだから必ず満場一致に成って当然)などと言う南北的な破壊的カルトが、民主主義の政党の中に共存している恐ろしい現実があるのです。

解決方法には政教分離(科学的真理の探求とイデオロギー政党の分離)以外には無いでしょう。
そしてこれは程度の差こそあれ共産党を除く全ての政党が一定限度は行っているのです。
矢張り、南北さんには感謝しないと (宗純)
2010-08-28 10:15:20
アキラさん、私の書いたブログ記事よりも、

>『いわゆる「科学」と「キリスト教」とが、一体不可分の関連性があるとは認識してましたが、共産党までが一体不可分とは思ってませんでした。
けれど、ここのコメント欄をずっと追っかけていると、なるほど♪と納得です。 (^_^;)

と仰られるとおりで、南北さんの数々の長い長いコメント群が『生き証人』としてこれ以上無い説得力があるのですよ。
となると、これはもう南北さんには感謝するべきなのでしょうね。
これ、聖書の記述が単なる神話ではなく現実の歴史的現実であるとの『正しいことの生き証人』としてキリスト教世界でわざわざ都市に必ずユダヤ人のゲットーを造ったのと多少は似ている。
目の前に生きた標本が有れば、『論』に無茶苦茶説得力が生まれるのですね。

>『僕はいつも疑問に思うんですが、真理ってのは一つなんでしょうかね?
それにいつも納得がいかないんですよね。』<

科学的真理は普遍的であるのですから、一つで無いと困るのですよ。(幾つもあると普遍的とは言わない)
ですから、間違いなく一つです。
幾つもあるように見えるのはあれば『真理の断片』のことなのですよ。
そして断片なら無数にあって当然であるのですよ。
断片なので大きさがまちまちで真理全体に近い大きな塊もあれば、その反対に取るに足らないほこり程度の小さな真理も有るのです。
今ある無数の争いごとですが『真理』と『間違い』の争いではなくて、真理と真理の争いであるのです。
『真理』の全体と部分の関係ですね。

短絡的に、「真理は一つ」と思い込んで、しかもその『真理』を『自分が知っている』(自分だけが知っている)なら間違いなくカルトですね。
科学論争とは基本的に『真理の断片』を論じているのだとの謙虚さが当然生まれますが、『真理の全体』だと主張したなら、
その段階で『科学』が『科学教』に変質してしまいます。
何事によらず完成された科学的な『全ての真理』が無いのと同じ理由で『全ての間違い』も存在しないのですよ。
ですから程度の低いネットウヨとか『新しい歴史教科書を作る会』の言い分でも同じことが言えて、幾ら小さくても真実の部分は有るのです。
ところが護憲左派はうっかりすると、この事実を失念してしまい単純に『間違いである』と間違った解釈になるのです。
正しくは『その真理は小さすぎる』なのですね。
亀の腹筋、ワニの懸垂 (宗純)
2010-08-28 09:13:49
愚樵さんも『お人が悪い。』と言うか・・・・今回は到底賛成できない態度でしたよ。
それはまさに亀に腹筋を強要していたのと同じような『イジメ』なのですよ。
もちろん、みんなが知りたがっている『共産党の本当の姿とは何か』の質問に少しでも寄与するなら賛成しますが、残念ながらその逆です。
共産党ですが、40万人もいる巨大政党なのですよ。
能力があるから共産党員になったのではなくて何の資格審査も有りません。
共産党ですが『来る者拒まず』の組織であるのですから数%は単に『他所では相手にしてもらえなかった』人も含まれている。(内緒の話ですが、他所では絶対に受け入れない性格破綻者的な人物でも拒まず受け入れるのですよ。困ったことです。)
『南北さんが矢張り答えなかった』と愚樵さんは仰られていますが、その解釈は間違いです。
南北さんとしては精一杯答えている心算なのですよ。
ですからこれはそもそも、その様な質問をした愚樵さんに責任があるのですよ。(100%この様になるのは予想していた筈です)

>『彼は他人の話を理解しようという意欲がまるでありません。いや、意欲と内面的な言い方は止めましょうか。能力がありません。結果として理解しないのですから、意欲がないのも能力がないのも、客観的事実としては同じですよね。』<

これには賛成できません。
>『他人の話を理解しようという意欲がまるでありません』<
は大きな勘違いで本人は目いっぱい『理解し様としている』のですよ。
その点はネットウヨと同じFK的印象操作とは大違いですよ。
(印象操作では、そもそも討論の妨害が目的で、相手が何か失敗することをひたすら期待しているのです)
まあ相手の論の核心部分を正反対に描いて自分が描いた虚像に向かって反論するところなど一見全く同じには見えますが、丁度正反対の立ち居地ですね。
南北さんは討論相手に対して、一定の敬意も持っているし礼儀正しくあろうとも考えているし、
長々と書くコメントの目的も、何とか相手を『理解したい』と思っているし、それ以上に相手に自分の主張を理解して欲しいと願っているのですよ。
基本的に善良であるのですよ。
この辺が、あの同じに見えるが正反対のFKコメントとの相違です。
ただそれなら何故あのようなコメントを繰り返すかですが、
その理由は愚樵さんは最初から判っていた。
>『能力がありません。』<
なのですよ。
ただこの後の発言部分が良くない。
>『結果として理解しないのですから、意欲がないのも能力がないのも、客観的事実としては同じですよね。』<
これは無茶苦茶ですよ。酷すぎます。人が悪すぎるのですよ。
正真正銘の『イジメ』ですよ。

年配の社会人に対して義務教育を終了しているのだからと英語で質問して相手がさっぱり理解できず右往左往するさまを笑っているのと同じ程度ですよ。

>『あの創価学会にしてみたところで、設立当初からカルトだったわけではないのですね』<

これは間違いで創価学会の元々の宿主である日蓮正宗自体にカルトとしての性格が有ったのですよ、同じ檀家組織である法華講などは創価学会以上の過激な原理主義カルトなのですね。
突然変異で破壊的カルトが生まれたのではないのです。
>『権力が腐敗する最大の要因は、この「私は正しい」。ある組織が成功を収め、大きくなって権力構造が生じてくると、必ずこの手の人間が寄ってきて、権力を掌握しようとする。そして例外なくそれは成功するんですね。』<
は、全く同感で悪貨は良貨を駆逐するのです。


ひとは、パンのみに生きるにあらず (もえおじ)
2010-08-27 23:34:37
共産主義・社会主義を科学として最初に位置付けたのは、エンゲルスの著書「空想から科学」でしょうね。 もともと平等・人権という「主義」「イデオロギー」に過ぎない主張をヘーゲルスの社会弁証法を利用して、社会科学的客観的に基づく「科学」と定義してしまったのが事の始まりです。 当然、一神教的宗教と同じ排他性を持つようになります。

はっきり言ってしまいますが、宗教やイデオロギーは「真理」でも「唯一絶対」でもなんでもなく、権力闘争、或いは、単なる社会的ゲームに過ぎません。 ですから、立場や見方によっていくらでも解釈や主張が変わります。 それに対して、科学というものは、数学的論理的証明、実験などにより、動かしようが無い客観的普遍的な事柄であり、その意味でブログ主さんの話には異論を挟む余地は無いはずです。 (個別の科学的事実を認識する人が存在するか否かは、全く別の次元の問題です。)

根本的状況として、人は誰しもその人それぞれの主義主張に基づいて人生ゲームを行っているのであり、それから自由になろうとすれば、単なる生物として動物的に生きるしかないでしょう。
宗純さんに1票 (アキラ)
2010-08-27 22:05:17
いわゆる「科学」と「キリスト教」とが、一体不可分の関連性があるとは認識してましたが、共産党までが一体不可分とは思ってませんでした。
けれど、ここのコメント欄をずっと追っかけていると、なるほど♪と納得です。 (^_^;)
よって、上記の宗純さんのコメントに1票。


ものみの塔の人たちも、真理。真理・・と言いますよねぇ。
あれがどうも、ゲンナリ・・なんですよね。

僕はいつも疑問に思うんですが、真理ってのは一つなんでしょうかね?
それにいつも納得がいかないんですよね。

ある条件下では、あるいはある角度から見れば、あるいはある「物差し」を当てはめれば、その帰結は一つにならざるを得ない・・というのは分かるんです。
しかし、それは「真理」ではないですよね。
どこまでいったって、条件付きなんですから。
全体と部分の関係は、いつも変わらないわけで。

そこを短絡的に、「真理は一つ」と思い込めること自体が、僕はいつも共感できない部分なんです。
予想どうり (愚樵)
2010-08-27 19:07:50
・宗純さん

東西さんとのやりとりは「もう、わずか」だと言いましたけれども、はい、終了。打ち止めです。

彼は予想どうり(笑)、私の質問に答えませんでした。答えられないんでしょうね。んだもので、わけのわからんことをゴチャゴチャ言い募りますが、当然のことながらお付合いするつもりは毛頭ありません。

彼は他人の話を理解しようという意欲がまるでありません。いや、意欲と内面的な言い方は止めましょうか。能力がありません。結果として理解しないのですから、意欲がないのも能力がないのも、客観的事実としては同じですよね。

宗純さんもべつのところで述べられていましたが、こういった手合いが共産党を貶めるんでしょうねぇ。私は共産党にカルト的要素はあると思ってますが、初めからカルト的だったと思っているわけではない。戦前の逆境のなかで信念を貫いた姿勢は、とてもカルトとは呼べません。

また、あの創価学会にしてみたところで、設立当初からカルトだったわけではないのですね。「私は正しい」がすべての人間に乗っ取られてしまってからカルトへと堕ちた。

権力が腐敗する最大の要因は、この「私は正しい」。ある組織が成功を収め、大きくなって権力構造が生じてくると、必ずこの手の人間が寄ってきて、権力を掌握しようとする。そして例外なくそれは成功するんですね。


>愚樵さん。その話は『内心を語るな』と主張している、私にこそするべきでは有りませんか?

わはは。そうですね。私は宗純さんとは逆に「内心にこそ意味がある。よって内心は語るべし」という立場ですから、ね。

共産党の話は抜きにして、「科学 vs 宗教」あるいは「主観 vs 客観」でやりましょう。
ここは政治ブログであるのです (宗純)
2010-08-27 16:53:42
東西南北さん、そもそも、ここは政治ブログなのです。
共産党内にあるキリスト教的な価値観の残滓をこの記事では論じているので、南北さんの数々の書き込みは私の論の補強(生きた見本)として貴重で有るとも考えられるのですが・・・・

このブログ記事は、私が勝手に好き放題に書いている様に思われる方も居られるとは思いますが、政治ブログであるので、政治的な価値判断(政治的な損得)が最優先されているのですよ。
南北さんが、其処まで頑張られると・・・・
普通の常識的な判断の出来る多くの読者からは『共産党のマイナスイメージ』の増幅効果しか期待できないのです。
一言でいうと『迷惑している』のです。
ブログと言うツールは極親密な人たちと内緒の隠し事を喋っているようでもあるが、実は広く日本中に公開されており、駅頭で演説しているのと同じ意味が有るのです。
南北さん。
コメントに何かを書く前に、『無関係の第三者が読んでいるのだから、共産党のイメージの低下になる』可能性があるのか無いのかを必ず考えてください。

今の一連の書き込みでは『こんな連中にだけは政権を渡してはならない』と誰しもが思うような発言の数々で、心底不愉快になっています。
こちさん、言葉の定義が違うのです (宗純)
2010-08-27 16:43:53
コメント有難う御座います。
南北さんが語っている『科学』ですが、いわゆる科学とは大きく違っていて理解することは困難ですが、色々な発言から想像してみると、義務教育で教える『理科』のことですね。
理科と科学とは別の構造になっている事実が理解できていないのですよ。

『共産党が』、ではないのは間違い有りません。
共産党ですが、党員40万人支持者400万人もいるのですから、もっと共産党系のブログが有っても良いのですが、基本的に『無い』のですよ。
本当に少ないのです。
これは破壊的カルトの創価学会にも同一の特徴で、こちらの方は共産党系よりももっと少ないのですよ。

ネットを行っているのは共産党支持者の内で、極々一部の人だけであるのですが、その中でも何か根本的に『問題のある人』だけがネットで語っているのですよ。
実に不思議な話ですが左翼のブログで読む価値がある『他と違うもの』は、全ていわゆる極左系であると言い切っても良いくらいのインターネットの不思議な現状なのですね。
(現実世界ではこれとは正反対に、極左や無政府主義なんかには絶対に出会えません。)

>『科学という言葉のイメージを利用した宗教なんですね。

全く仰られるとおりで私も同意見であるのですが、実に不思議すぎる理解に苦しむ現象です。
何か根本的な科学教育の欠陥を見る思いですが、『既にある完成されたもの』で『民主主義で全会一致』とは、まさに宗教者の考えで、特に一神教教系のカルト団体の思考方法と瓜二つです。
科学的な懐疑心がゼロなのです。

それにしても『全会一致』が科学とは無縁であるだけではなくて『民主主義』でも例外的な話であり、『有り得ない』との常識が働かないのは、欧州的な民主主義をご存じないからですね。
旧約聖書では『全会一致』の死刑は『無効である』との記述がるのですが、良く考えてみれば当たり前で自分の死刑に賛成する人はいないので、不利をこうむる少数者の発言を許せば、必ず全会一致には成らないのですよ。
それで民主主義では『全会一致』は例外的な話で、村の寄り合いの道徳が今でも細々と生きている日本の様には尊ばれないし、そもそも『何かの原則』何ぞにはなり様が無いのです。
Runnerさんコメント有難う御座います (宗純)
2010-08-27 14:37:58
>『たとえば、学校と称する場で行われている「教育」と称する行為はどうなのでしょう?』<

大昔ですが、小学生の時に先生のほんの些細な間違いを指摘して、ひどく恨まれて酷い目にあった悲しい記憶があるのですよ。
昔の学校では今以上に先生と生徒では身分や権威に違いが有って、ある意味教室内では天皇(神)であるのですよ。
他の子供達の前では、どれ程些細な間違いでも絶対に先生は間違ってはいけないのでしょうね。
教室内でうっかりと言ったのが悪かったのです。
『恥をかかされた』と思ったのです。あるいは『恥をかいた』と自分で勝手に信じ込んで何とかその事実を隠蔽し様としたのです。

そしてこの悲しい悲しい子供の時の話ですが、今の共産党系ブログでも事情が全く同じ程度なのですよ。
公開の場で自分の知らない知識を(自分が教え導く立場にある第三者の一般読者から)指摘されたら、怒り狂って理由も糞もなく、あらゆる嘘や低級な詭弁を弄して頭ごなしに否定するのですよ。
参議院選挙での歴史的敗北で共産党幹部会が敗北原因の意見を広く求めるとしていることに反応して幾つかのブログでも記事を書いているのです。
其処え当方が、
『皆さんは天安沈没を誰も指摘していませんが、過去の例では何回も類似の外国がらみの共産党の名前つながりの風評被害で大敗北しています』
と書き込んだら、数人は当たり前ですが『それは気が付かなかった。納得です』との普通の答えが返ってくるのですが、
ブログ管理者やブログの常連が狂ったように意味不明の悪罵の限りを投げつけてくるのですよ。
この連中はなんとも執念深くて、当方のブログ記事にまで押しかけてきて何万字もの嫌がらせコメントを送ってくるのでコメント欄が記事に関係ない塵に埋まるのも忍びづ仕方なく妨害コメントだけを別立ての記事にしたら量が多すぎて4つも共産党の歴史的敗北を分析する(番外、FK的印象操作 )記事が出来てしまったのですよ。
大昔の悲しい悲しい思い出が蘇ってしまったのですがここまで来ると、これは完璧な宗教戦争ですね。
アキラさん、コメント有難う御座います (宗純)
2010-08-27 13:54:36
宗教と共産党と科学と、全く別々のジャンルの三題話的な題名であるのですが、、実はこの三者には密接な切っても切れない一体不可分の関連性があるのですよ。
これ、正反対の別々の話題ではなく、そもそもが『部分』と『全体』あるいは親子の関係であるのです。

近代科学を生んだものは西欧社会のキリスト教のルネッサンスと関連があるのは誰でもが知っていることですが、それなら少し見方を変えればキリスト教を母親として生まれた子供が『近代科学』であると言えるのです。
そして社会科学として共産主義が生まれるのも誰でもが知っているのですが、
それならキリスト教と科学と共産党は姻戚関係があるのですよ。
共産党の直接の生みの親が『科学』であり、その偏屈な爺さんが『キリスト教』なのです。
それで幾ら自分が否定しても時々は、共産党の中にキリスト教的な悪しきDNAが脈脈と生き続けているので騒動を起こすのです。
普通は理性で押さえていても酔っ払ったら本能が丸出しになり恥ずかしい行いをする日本の迷惑な酔っ払いを連想する話ですね。
愚樵さん、駄目です (宗純)
2010-08-27 11:04:55
それは、そもそも無理なのです。
その議論は、私に吹っかけるなら結構面白い話に発展する可能性が有るかも知れないが、今の南北さんでは高齢者に聞かせる英語落語よりも解読不能で到底無理です。
言葉で遊ぶだけの余裕が今はないのです。
長い間ご自分のブログに悪質なネットウヨが居ついてしまい延々とエンドレスの悪罵の投げ合いをしていたので、見かねて注意したのですが・・・コメント欄のオープン化のままで・・・相手と同水準なのですから泥仕合にしかならないのですよ。一部読んでみましたが・・・到底あれでは神経が持たないでしょう。
それとも何か大病をされた後遺症なのかもしれません。
余裕がまったく無い、認識力や判断レベルが極端に劣化してしまい以前のような会話は望むべくもありません。私は諦めました。

愚樵さん。その話は『内心を語るな』と主張している、私にこそするべきでは有りませんか。?
個人の内心などには何の値打ちもなく唯一科学的な客観的事実のみが、意味があるのです。
dr.stoneflyさんとこで私の『内心を語るな』で一時は大盛り上がり。
科学と『私』とは何の関連もありませんよ。
私が何を考えるか(内心)と客観的な科学的事実と、時には一致する場合もあれば、まったく違う時もある。
別々の独立したものです。
個々の内心が賛成であろうが反対であろうが、何の関係もなく地球は動くのです。
(私は自分の目でみたら地球はまっ平らの水平で絶対に動かないので、プトレマイオス以前の学説を密かに信じていますが、人前では滅多に言いません)
こちさんへ (東西南北)
2010-08-27 09:51:25
それは科学の公開性のことですよ。賛成です。

しかし、科学というものは不動の自然界の法則、人類社会と歴史の法則なので、ころころと変わるような観念は科学ではないんですね。

 それだけです。

 サルから人類へ進化したという法則は、未来永劫、普遍であって科学なのですよ。

 これを認めないとそれこそ「宗教」とまではいかなくとも非科学でしょうね。相対主義の堕落と無責任とでもいいますか。
科学教とも違うか (こち)
2010-08-27 09:44:13
共産党が、なのか、一部の人が、なのかはわかりませんが、科学という言葉のイメージを利用した宗教なんですね。


科学に関わっている人ならば、科学がどれだけ不完全なものかを良く分かっています。
科学をちょっとでも完全なものに近づけている仕事をしているわけですから、科学が完全だったら仕事がなくなっちゃいます。

現時点では正しそうに見えることでも、明日には新発見によって修正されるかもしれない、といった謙虚さや、反論を受け入れる柔軟性も大切です。

私の考えは絶対に正しいので、反論すること自体がおかしい、意見が違うのはおかしい、などとなったら科学でも何でも終わりですね。
ブログ主さんへ (東西南北)
2010-08-27 08:37:04
 一応。東西が民主主義の原理、民主主義の科学をコメントした文章を読み直してくれればわかると思いますが、ブログ主さんは民主主義の原理を採決面で規定していますが、東西は、端からそれはぜんぜんちがう、と主張しています。譲歩して、そのレベルであえて議論するならば全員一致が原則と述べました。

 民主主義が一人一票というか、どんな人間でも世界各国に生活する人間として肉体的、身体的、遺伝子的に人類として同じだという真実がある。これが民主主義を最深部、根本で支える民主主義の科学的根拠なのです。

 世界各国の国民、民族は、多様な観念を抱き、精神の能力にも高低がある。しかし、みんな等しく肉体的、身体的、遺伝子としては人類なのです。

 これが民主主義が科学であるという普遍的な人類の社会科学なのです。

 この意味で民主主義は社会科学なのです。ブログ主さんは、採決面だけで民主主義を捕らえるから、民主主義は科学とは無関係などと言うのですよ。

 民主主義は多数決原理などの採決原理ではなく、世界各国の民族、国民が遺伝的に肉体的に共に生きる対等平等な人類であるという社会科学の法則であって、人類普遍の原理です。

 このことを認識してください。

 民主主義を最悪のベターな政治体制をほざくような輩こそ、エリート主義の立場、資本主義の階級独裁の立場の影響を受けた非科学的な勢力なのです。
愚樵さんへ (東西南北)
2010-08-27 08:20:20
 ですから、あなたがどう思うか?は科学とは無関係ですよ。それは、あなた自身が認めています。それだけならいいんです。

 しかし、あなたは、そこから科学を教育し、科学を啓蒙する物は、人間を「見下している」とか断定したでしょ?特に、共産党はそうだ、と。

 そこで、東西はそうではないでしょう、と。だいたい科学を教育するのは家庭では両親の義務責任だし、学校では教育者の義務責任なんだし、社会で言っても科学を科学として教育することのどこが「見下し」なのか?

 例えば、人間は猿から進化したという科学的な心理がありますが、これを非科学的なあなたのような人間が「私はそう思わない。私には信仰がある。私の感覚です」と反発したとして、東西は、そうですか、しかし、あなたの信仰心は非科学的であって科学ではないですよ。あなたがどのように思っても人間はサルから進化したのですよ。と何度でも言います。それを「見下しだ」と延べ、さらに、科学を教育する共産党はカルトと共通する、などと主張しているのが、あなたなのですよ。自覚があるのでしょうか?

 したがって、普通の人間なら科学は科学なのだから、素直に科学と認識し、「そうですね。科学って真理なので、宗教の権威とはぜんぜんちがいますね」。

 こうなりますよ。それを科学に対し、異常な攻撃性というか、違和感のようなものを抱いているのがあなたでしょう。それを東西は科学へのコンプレックスだ、と述べたのです。

 要するに、愚樵さんによれば科学も非科学も同列であって、すべて各自の「思い」に過ぎない。われ思う、ゆえに、われあり、に過ぎない。あえていうなら、それが科学であろう。

 こういうことでしょう。不真面目にも程があるということを東西は次の例をあげて述べました。

 科学も非科学も選択するのは本人の自由意志。自殺するのも自由意志。人殺しも自由意志。オウム真理教も自由意志。無限に挙げれるのですが、やはり、非科学には科学を対置して教育していく勢力が人間社会を進歩させていくという科学の役割を真面目に認識したいではなく、しなければなりませんね。自発的な道徳の科学でしょう。

 科学を自由意志に摩り替えるような不毛な議論は止めませんか?
ブログ主さんへ。 (東西南北)
2010-08-27 08:07:31
 ブログ主さん。民主主義の科学の原則は、自然法則、社会法則を人間が反映しているか、していないか、ですよ。

 そして、民主主義の原理を多数決原理とブログ主さんが主張するから、その土俵で東西は、その内容を問題にしないで(議決内容が自然法則か社会法則か、自然科学か、社会科学か)形式的に採決のレベルで言うのであれば、多数決ではなく全員一致が民主主義の原則・原理である、と述べたのですよ。

 きちんと理解してくれませんか?

 
消費者か信者か (愚樵)
2010-08-27 05:59:37
もう少し続けてみます。

道徳的か否かということは、求める相手が消費者か信者かということになっていきます。

いうまでもなく共産党が求めるのは「信者」です。対して自民党・民主党などが求めているのは「消費者」。その姿勢の違いが営業姿勢の違いに表れます。

技術部的共産党は政策という「商品」で勝負といいながら、その実、支持者に求めるのは商品開発を裏打ちしている「技術体系」です。対して営業部的自民党は、あくまで「商品」への支持を求める。支持を求めるものの違いゆえに、その宣伝の在り方も異なってくる。共産党は「布教活動」に、自民党は「商品宣伝」になるるのです。

で、民主主義というのは、基本的に「消費者」を主体とする政治思想です。「消費者」には主体的に、つまりそれぞれの好みに従って、「商品」を選択する権利がある。だからまた、政権交代という発想にもなっていくわけで、この場合、政権というのも消費者が選択する「商品」の位置づけなのですね。

が、共産党はそういった捉え方をしない。「技術体系」を「商品」としては扱わない。「教義」として扱うわけです。「教義」は「商品」のように「消費者」に選択の自由はないのです。

もちろん、「商品」を選ぶか「教義」を選ぶか、「消費者」であるか「信者」であるかは、個々人の自由です。が、現代社会の傾向としては、「消費者」であることが一般的といえるでしょう。

自動車の他の例として、PCにおけるWindowsとMacの例なども挙げられそうです。Macはハードソフト一体の「技術体系」として、Windowsはハートとソフトを分離して「商品」として、それぞれPCユーザーへ支持を求めた。どちらがより多くの支持を集めたかは、いうまでもありません。
道徳的 (愚樵)
2010-08-27 04:44:18
・Runnerさん

確かに「見下し」は世の中に蔓延しています。ハラスメントもまた世の中の至る所に見られる現象で、なにも共産党やものみの塔の専売特許というわけではない。それはその通りです。

が、そういうRunnerさんも、やはり共産党には特殊性はあると感じておられる。で、私はその特殊性に言及していなかったでしょうか?

>私は絶対的な存在である神を信じているから「正しい」。神を信じていない者は「誤り」で人格的にも劣っている。

>私は最も普遍性の高い科学を信奉しているから「正しい」。科学的な思考をできない者は「誤り」で人格的にも劣っている。

ここが私が指摘した共産党と一神教信者の共通点ですが、では、弁護士や医者は

私は弁護士(医者)であるから「正しい」。弁護士(医者)でないものは人格的に劣っている

と考えるものでしょうか? 医者・弁護士であることと人格とは切り離して捉えるのが「通常の感覚」だと私は思います。

そこが共産党やものみの塔との違いです。つまり、彼らの主義主張は常に道徳的なのです。

私たちは医者や弁護士を必要としています。しかし、健康であれば医者は必要ではないし、トラブルがなければ弁護士も要らない。自民党をはじめとする代議士だって、庶民には選挙の時以外は用事はないのです。極端な話、選挙の時だけ自民党を支持してくれればよい。

ところが共産党は違う。つねに共産党であることが要求される。これはどういうことか。内面への侵害なのです。だから道徳的なのであり、カルトと並列に語られる所以なのです。

教育と啓蒙の違いも道徳性に関わってきます。“蒙を啓く”は、道徳的に劣った者を教育するということです。知識や技術を伝えるだけではないのです。
特殊性の説明としてはどうでしょう (Runner)
2010-08-27 02:47:56
愚樵さんの指摘したい共産党の問題点はわかるのですが、果たして、その説明であっているのでしょうか?

たとえば、学校と称する場で行われている「教育」と称する行為はどうなのでしょう?
教員と称する者は生徒と呼ばれる対象者を明らかに見下していると思いますよ。
となると、これは「啓蒙」になるのでしょうか?啓蒙と教育はどう違うのでしょうか?
また、そういう設定された場でなくとも、ごく日常的に、知っている者が知らない者に教えるという関係式は存在していますよね。
たとえば、既にパソコンをやっている者が身近なパソコン初心者に使い方を教えるなんてことはよくある話です。
こういった場合、人はおのずと不快な気分になるのでしょうか?
違いますよね。つまり、関係式の問題ではないということだと思いますよ。
教える側に立った場合のその人の姿勢、人格の問題だと思いますよ。
パソコンを教える場合であっても嫌な教え方になる者もいますし、自動車教習所の教員なんかが世間的には評判が悪いですよね。
しかし、その手の問題なら世の中のそこら中に転がっているわけで、特殊ではないですよね。

それに、政党でいえば他党はどうなのでしょうか?
たとえば、自民党の連中は人を見下していないのでしょうか?
そんなことはないと思うんですよ。自民党の世襲議員や官僚上がりの議員、民主党の松下政経塾議員なんかは、やっぱり、人を見下していると思うんですよ。
しかし、共産党のように話題にされない。
その他、医者や弁護士など、人を見下す人々や集団というのは世の中にいくらか存在しているわけですが、「共産党は医者や弁護士と同じだ」などとは言われないし、逆に医者や弁護士も「共産党と同じだ」などとその問題性を批判されるわけでもない。
やはり、共産党の問題性はそれらとは違った特殊性があるということでしょう。
だから「カルト宗教と同じだ」と言われているけだし、愚樵さんも共産党のそれに特殊性を感じたから、こうして論じているんでしょう。
そう考えていくと、愚樵さんの解説では共産党の「特殊性」の説明にはなっていないように思うのですよ。
つまり、関係式の問題でもなければ、単なる姿勢の問題でもない。もっと特殊な何かが存在しているということだと思うのです。
なるほど (アキラ)
2010-08-27 00:43:08
こんにちは。

あんまり気にしたことはなかったんですが、一国一共産党・・、確かにその通りですね。
こうして改めて指摘されると、とても不思議というか、奇妙な気がします。

それを思うと、インドはさすがインドですね。 (^o^)
解釈もいろいろ『種種雑多』であると考える傾向がある日本人も、まだまだ生真面目すぎる・・というところでしょうか。
ああ、そうそう (愚樵)
2010-08-26 20:02:43
もうひとつ質問がありましたね。

>>科学に出番があるとするなら、人間が「善性」を発揮する条件を探究するというところにあるでしょう。

>具体的にどういうことでしょうか?ここでいう科学とはどういう意味でしょうか?善性とは何でしょうか?

こちらへの回答は、あなたが上の問いにキチンと答えていただいてから、回答させてもらうことにします。あなたの回答によって、こちらも答えが違ってきますので(無回答という回答もあり得ます)。

ただし、この場ではなく、別の場所、つまりは私のブログにおいて。
東西南北さんへ (愚樵)
2010-08-26 19:55:34
お答しましょう。

>共産党とものみの塔の共通部分。それは私に言わせればハラスメントです。あなたがこのように根拠もなく断定してのですよ?根拠は?

根拠ですね。上の宗純さんへのコメントでも言及しましたが、根拠は「私」です。

ちゃんと“私に言わせれば”と断わってあるでしょう。“私が”そう思う。いけませんか?

私は私の思うところについて、何らの権威に寄りかかってはいません。ただ『私が思う』、それだけ。ですから『私もそう思う』『いや、そうは思わない』、どのように感想を持たれようが自由です。その感想に対して、科学的に正しいの誤っているのといちいち「赤ペン」を入れるつもりは毛頭ない。

なぜか。それはあなたがいうように科学と自由意志のすり替えではないからです。一貫して自由意志の問題だから。私が「共通部分」と主張したのは、科学や神といった「外的規範」を用いて自由意志を侵害する点です。それをハラスメントと呼んだだけのこと。

さて、私はあなたの質問に答えましたよ。こんどはあなたの番です。よもや逃げはしないでしょうね?

もう一度、私から東西さんへの質問を提示しておきましょう。

>それはコンプレックスというのですよ。

なぜ、そう言えるんですか?

>人類はサルから進化したという科学を科学と認めることが普通なんですよ。

だから、なぜ私が“人類がサルから進化した”ということを認めていないとするのですか? その根拠は? 

>こんな不真面目な議論をしても不毛ですよ。

なぜ私の議論が不真面目なのですか? その根拠は?

もちろんこれらの答えには、私がしたように『東西南北がそのように感じた』でも結構です。が、その場合、私はさらに次の質問を提示することになる。

では、その東西南北の答えとと科学との関係は?

私は、私と科学とはなんの関係もないと答えました。東西さんもそのようにお答になるなら、それで結構。が、関係あると答えのなら、科学的・客観的な根拠を示してもらわなければなりません。

なぜ、あなたは私の内面を客観的に観測することができたのか?

他人の内面を客観的に観測する方法があると仰るのなら、私は一も二もなく東西南北さんに平伏しますよ(笑)
相変わらずです(笑) (愚樵)
2010-08-26 19:34:04
・宗純さん

相変わらずの愚樵節...素直にお褒めの言葉と受け止めておきます。

>当方のブログ記事ですが、どうも困ったことに読んだ感想が啓蒙主義というか説教臭いらしいのですよ。

はい。正直申しまして、私もそう感じます(笑) また、かく言う私も、『上から目線』あるいは「見下し」を感じる方は多かろうと思っていますし、私の議論に不快感を覚える方もいるでしょう。まあ、感じ方は人それぞれですからね、致し方ないところでしょう。

他人の感性を尊重するということは、それは他人に媚びる、ということとは違いますよね。“私は感じる。私は考える”そこを正直に表明すること。そして、その判断を他人に委ねること。また、そうでなければ「対話」も成り立たない。

重要なのは“私が”であって、決して“科学が”あるいは“神が”ではないのですね。ではないどころか、私は“科学が”“神が”で語るのはウソだとすら思っている。そういう語り口は、ほんとうは“私が”なのに、それを隠しているんです。これは当たり前の話で、語っているのは「私」ならば“私が”でしかあり得ないんです。神から神託を受けた「預言者」でもない限り、何かを語るときには、必ず“私が”のはず。

たったそれだけのことなんです。


で。

ブログ主である宗純さんにはご迷惑かもしれませんが、もう少し東西南北さんとやりとりさせてください。いえ、もうわずかです。私としても、実りのない議論を延々とするつもりはありませんから。

申し訳ありません。

では、コメントを改めて。
陰謀論というのが良く分からない (宗純)
2010-08-26 17:04:05
Ladybirdさん、コメント有難う御座います。

>『科学で説明するためには,それなりのデータや観察が必要で,データや観察が不足のまま無理に説明しようとすると「陰謀論」になってしまいます.』<

何か少し引っかかるのですよ。
どうも仰られている事が納得行く様で、よく理解できません。
科学的な検証が無い(不足している)が何故突然『陰謀論』などになるのですか。?
それは、それこそ何かの『陰謀』??ですよ。
基本的にどれ程優れた学者の提唱した学説でも、出された時には未だ検証はなされていませんが、『陰謀論だ』などという人物は誰もいませんよ。
質量によって空間が歪むとしてアインシュタインの相対性理論など、まったくの超陰謀??になりますよ。
ですから証明されていない(検証されていない)は単に未だ未検証の仮説であって、陰謀論など何の関連もないのですよ。
いわゆる『陰謀論』なんて言葉がこれほど頻繁に使われだしたのは昔からではなくて極最近です。
そう2001年の9・11事件以降の、それもインター・ネット世界だけにに限定された特殊な流行り言葉ですね。
我々の年代ではお互いの会話で『陰謀論』などの単語が出ることはありません。
この不思議な流行り言葉ですが、まったく根も葉もない現象であるのか。?
それとも1994年に自民党の腐敗が極度に達して政治改革を求める国民を小選挙区制に誘導する目的でそれまでの左翼を『守旧派』なる不思議な新造語で貶めてて排除する目的でマスコミが流行らして大成功しら例と同じで、
何かの思惑で誰かが意識的にははやらした流行語ではないのか。?

少なくともこの言葉は議論に負けたときに『負けました』と言わずに『それは陰謀論だ』と言えば何となく勝ったような印象をまわりにあたえる便利な言葉ですね。
『それは陰謀論だ』の意味するところは、『その話の続きはしたくない』なのですよ。
こちさん、はじめまして。 (宗純)
2010-08-26 16:14:09
コメント有難う御座います。これからも宜しくお願い致します。

東西南北さんの『科学と多数決原理は別物』との主張に賛成したのは、科学の世界は民主主義とは何の関連も無くて、たった一人の主張であっても『正しいものは正しく』多数決であれ満場一致であれ、間違いは間違い』なのですね。
科学の世界は『自由』の原則はあるが、『知』の階級社会で『平等』は存在し無い。
民主主義など何の関係の無い。
『無知』にはそもそも発言権はないのです。
なにやら、大人のセックスの会話に幼児が乱入してきて会話に加わっているような違和感をおぼえます。
ガリレオ・ガリレイは当時の社会常識とか科学的真理とはまったく別の地動説の唱えて宗教裁判にかけられて、自説を撤回して一命を全うすることに成功するのですが、
その時にはガリレオ『自説を否定』なのですから満場一致で『天動説?』が正しいとなったのですよ。
つい最近の日本でもフランスで石器学を学んだ竹岡 俊樹は最初から江戸時代に電卓が発掘されるのと同じであるとして捏造を主張していたのですが、考古学会は全員があの私でもインチキが見破れる『神の手』を正しいと満場一致で支持していたのです。
そして偽装発覚後でも考古学会の役員はそのままで、唯一人正しい科学的な力量がある竹岡 俊樹はいまでの女子大の非常勤講師というワーキング・プアのままであるのですよ。
日本の考古学は、南北流の『全会一致』原則を採用しているらしいのですよ。民主的では有るかもしれませんが、およそ科学的でないし見苦しく恥ずかしいですね。
トラバありがとうございます (Ladybird)
2010-08-26 15:45:31
 こんにちは,ご無沙汰しています.
 拙記事(9.11関連の行事案内)へのトラバありがとうございます.
 ここの議論は面白いですね.
 我田引水ですが,科学で説明するためには,それなりのデータや観察が必要で,データや観察が不足のまま無理に説明しようとすると「陰謀論」になってしまいます.しかし「その点は説明できません」と正直に言ってしまうと,論争に負けたという印象を持たれてしまうようです.
ここは東西南北劇場ではない。 (宗純)
2010-08-26 15:27:21
東西南北さん、

此処は逝きし世の面影の『宗教と共産主義と科学との不思議な関係』の記事のコメント欄である事を失念しているのではありませんか。?
一コメンテーターとして出過ぎた越権行為で御自分のブログと勘違いなさっていませんか。?
特に、
悪気は無いのでしょうが、悪質なFK的印象操作に協力する態度は我慢できません。
この人物が何を目的に此処に出入りしているとおもっているのか。?
以前にも既に注意しているはずですが、忘れている様なので、

東西南北劇場

汚物に蝿が集るが如く ( 逝きし世の面影)
2010-08-25 09:31:52
東西南北さん、
このような不真面目な人物に対してコメントすることは、南北さんも同類項であるとその他の人からは思われる危険性が有るのですよ。

この悪質なコメントを読みましたか。?
>『今回の参院選総括についてブログ主氏のアプローチは他者よりも優れていると感じています。』
、なのですよ。
ところがこれに続くのが、
>『ただ導き出された結論(仮説)が「天安」であり、主要な要因にしろ最後の一藁にしろ、私からするとこれでは珍説です。』<

『他より優れている(説)』→『私からすると珍説』
だと主張していているのですから、
この主張を理解するのは至難の業で常人には無理なのですよ。
何かの障害者であるとか、
あるいは何かのカルト信者。あるいは何かの工作員なのか。

しかし発言する度に発言が違っているのですよ。支離滅裂ですね。
ですから、それ程の大者ではなくいわゆる中学生程度の知性のネットゴロですね。

今度の長ったらしい一見まともなコメントですが、この目的はただ一つで最後の2行だけが目的であるのですよ。(他は客寄せの無料のざるとかもち焼き網ていど)

>『最初から主観に基づく仮説を客観的(科学的)真理として異論を排除する姿勢はいかがなものかと感じます。個人的には順序が逆だと感じます。』<

と意味不明の珍論で当ブログの天安沈没を何とか否定したいのですよ。詰まらないFK的印象操作ですね。
この言葉が何故、『宗教と共産主義と科学との不思議な関係』のコメントとなるかの理由に少しは考えを進めて下さい。いやらしい悪意が隠れしていることに気がつかないのは仕方が無いとは思いますが、ブログ管理者然として討論をしきる今の態度は不愉快です。

相変わらずの愚樵節 ですね (宗純)
2010-08-26 12:05:42
愚樵さんコメント有難う御座います。

何時もながら鋭い観察眼で感心しますが、視点が複眼的というか科学的というか、
他の多くの人がライオンを正面から見ての議論しかしていない時に、誰も気が付かない側面から対象物を捉えて全体像を客観的に判断する手法ですね。
正面からならライオンのたてがみの立派さに惑わされて体格の貧弱さが理解出来ないが、真横から見れば頭から尻尾の先まで全体が監察できるので、愚樵さんの意見が何時も他の人とは何か一味違い複眼的であるのでしょうね。
今回の、物事の核心部分を突いています。
とくに、
>『たとえ知識と論理では啓蒙主義者に敵わなくても、敏感に「見下し」は察知する。だから嫌うのです。』<
には、思わずのけぞりました。
余りにも核心部分(人間心理)を突いている。
知性や理論的水準の低い人の方が、ずばり面と向かって『お前は救いがたい愚かものだ』と口に出さずとも動物的な直感で、相手の心の奥の心理の動きを判断出来るのですよ。
逆に知性や理論が優先している人の場合には、相手の真理的な微妙な動きのような計算できないものは苦手なのですね。(はっきり言われないとまったく気が付かない)
だからアインシュタインとかマルクスなんかは極近い肉親にとっては世間の評価とは正反対で心の動きに鈍感で迷惑な人だっただろうと思います。
何でも出来るレオナルド・ダビンチ型の天才は例外的で『何かが優れている』とは、それ以外の『何かが劣っている』のですよ。
そして『山高ければ谷深し』の例えどおり『凄い能力がある』とはそれ以外の能力が低いか無いのですね。
将棋に能力の殆どを使い果たして一般社会常識はマンがしか読まないネットウヨと同程度の天才米長邦雄のような悲劇が生まれるのです。

当方のブログ記事ですが、どうも困ったことに読んだ感想が啓蒙主義というか説教臭いらしいのですよ。
特に、記事内容が理解できない一部の人にとっては禅の説法と同じ程度に見えて我慢出来ないくらいにえらく腹立たしいらしいのですよ。
ですから、何万字ものコメント様のもので何とかして仕返ししたいらしいFK的印象操作なんて不思議なものも副作用として生まれます。
そこで開き直って禅僧の一休宗純にHNを変える気になったのですが、思い起こせば今まで過去に何回もコメント相手に『上から目線である』『それでは話が出来ない』と言われたことがあるのですよ。とほほ。(自爆)

ただ、此方には最初から『上から目線』との自覚がさっぱり無いのですよ。
元々論じている視点が違うと言うか、別の意見を別の方向から語っているだけなのです。
ですから、いくら相手から『上から目線である』と言われてもしっくりとは納得行かないのですよ。
当方の意見、判断が他の一般的な意見と違いすぎて、みんなから『浮き上がっている』事は認めますが断然、絶対に『上から目線』ではないのです。
愚樵さんの視点が『横から目線』であるなら、私の場合の視点は誰も気が付かない真後ろとか真下から見える隠れた部分で、みんながたてがみや牙の大きさを論じているときに『金玉がぶら下がっているさまは滑稽で尻が貧弱、尻尾は不細工』などと言っているようなものですね。
それは事実では有るが、誰もその話はしたくないのでしょうね。
だから感情的に反発する人もでて来るのです。
愚樵さんへ (東西南北)
2010-08-26 10:09:16
一応。質問です。

 1:「科学に出番があるとするなら、人間が「善性」を発揮する条件を探究するというところにあるでしょう。 」

 具体的にどういうことでしょうか?ここでいう科学とはどういう意味でしょうか?善性とは何でしょうか?

 
FKさんへ (東西南北)
2010-08-26 09:52:07
 1:ですから、摩り替えて議論すると不毛なのですよ。あなたの言っていることは、自殺を容認する政治家、政党ということですが、東西は、人命最優先を最大限に追求することが科学と述べています。本人の自由意志で自殺選択、治療停止などと選択することは本人の自由意志の問題でしょう人命最優先を最大限に追求する科学とは関係ないではありませんか?混同して、摩り替えるから死刑を受け入れる死刑囚は死刑でもよい、などというのですよ。死刑は殺す側の人間がいるから成立するのです。死刑囚の自由意志の問題ではないのですよ。殺す側の問題なのです。

 2:いえ。科学とは人命と身体の健康最優先を最大限に追及することですし、経済、政治、文化を一人一人の民族、国民に取り戻していく民主主義運動ですから。

 3:さまざまな意見には、非科学的な意見もあるし、科学的な意見もあります。何が科学的な意見を見定めることができなければ、単なる多いもの勝ちになりますね。何度も、言いますが、自由意志と科学を混同し、摩り替えるような議論は不毛です。自分で区別できるようになってから、お願いします。
こちさんへ (東西南北)
2010-08-26 09:43:17
 学校で科学と非科学の区別をつけないで教育できますか?サルから人間へ進化したという真実は科学ですよ。誰がどうみても永遠に。もちろん、サルの種類、現生人類とそうではない人類の違いは、より鮮明になるでしょうが、サルから人間へ進化したという科学は、もう動かせない科学です。

 

 
愚樵さんへ (東西南北)
2010-08-26 09:39:48
 1 「だから、なぜ私が“人類がサルから進化した”ということを認めていないとするのですか? その根拠は?」

 共産党とものみの塔の共通部分。それは私に言わせればハラスメントです。あなたがこのように根拠もなく断定してのですよ?根拠は?

 したがって、例えば、東西は科学を教育、啓蒙する行為のどこがハラスメント?と述べたのですよ。こんなの当たり前ではありませんか?
科学も非科学も選択するのは本人の自由意志。自殺するのも自由意志。人殺しも自由意志。オウム真理教も自由意志。無限に挙げれるのですが、やはり、非科学には科学を対置して教育していく勢力が人間社会を進歩させていくという科学の役割を真面目に認識したいではなく、しなければなりませんね。自発的な道徳の科学でしょう。

 科学を自由意志に摩り替えるような不毛な議論は止めませんか?

 
東西南北さん (愚樵)
2010-08-26 04:44:09
>だから、人格攻撃と解釈する愚樵さんの間違いなのですよ。

だから、どう間違いなのか、説明してください。

私が人格攻撃としたのは、あなたが「断定」したからです。その「断定」の根拠を示してくれ、と要求しています。

根拠のない「断定」は「レッテル貼り」であり人格攻撃である。しかもその攻撃を科学という「権威」に寄りかかり、人格攻撃でないと装う。

私はハラスメントを「人格攻撃」と「人格攻撃だと気がついていけないという命令」の合わせ技だと言いましたが、東西さんのやっているのはまさにハラスメント。

>人類はサルから進化したという科学を科学と認めることが普通なんですよ。

だから、なぜ私が“人類がサルから進化した”ということを認めていないとするのですか? その根拠は? 

いつ私は福音主義者になったのですか? ぜんぜん憶えがないのですけど(笑)

ことほどさように、あなたの文章は人格攻撃のオンパレードなのです。人格攻撃をしていないと言いつつ、人格攻撃を繰り広げる。

>こんな不真面目な議論をしても不毛ですよ。

ほら、ね。これもそう。

他人の議論を真面目なものと受け取るか、不真面目なものと受け取るのかは、受け取る本人次第。たとえ私が不真面目なつもりであっても、東西さんが真面目に受け取れば、その落差は自ずからあらわれるものだし、それは周囲から好感をもって受け取られるでしょう。

が、あなたがいつもやるのはその逆なんですね。つねに自分が上位で相手をしただと「見下す」。私の議論を不真面目だと「断定」するのも、それ。その姿勢が不快感を催す。

もう一度言いましょう。あなた以外の人間は、あなたが“望んでいる”ほどバカではない。ハラスメントは察知されてしまうのです。
科学って関係あるの? (こち)
2010-08-26 03:16:16
横やり失礼します。

>人間はサルから進化したのは科学

たぶんですけど、東西南北さんが使う「科学」という言葉の意味やイメージするところが、他の方と食い違っていそうです。

「科学=正しいことが確定した知識」という意味で使っていらっしゃるのでしょうか?


進化の分野なんかは、毎年のように新証拠が発見されて学説が書き換わっているところですので、
せいぜい「現時点では正しそうな学説」「多数決とったら勝つ学説」になるかと思います。

これが力学とかなら、ずっと真理に近そうですけど、それも膨大な量の検証を受けた結果です。


政党の主義主張の何がどう科学なのか、全然わかりません。
愚樵さんへ (東西南北)
2010-08-25 19:01:37
 だから、人格攻撃と解釈する愚樵さんの間違いなのですよ。

 東西は示したでしょ?人類はサルから進化したという科学を科学と認めることが普通なんですよ。それを「見下し」、「ハラスメント」と理解するのはコンプレックスですよ。

 要するに、俺は科学など信じない。俺は信仰を信じる、というだけです。

 こんな不真面目な議論をしても不毛ですよ。

 科学も非科学も選択するのは本人の自由意志。自殺するのも自由意志。人殺しも自由意志。オウム真理教も自由意志。無限に挙げれるのですが、やはり、非科学には科学を対置して教育していく勢力が人間社会を進歩させていくという科学の役割を真面目に認識したいではなく、しなければなりませんね。自発的な道徳の科学でしょう。

 科学を自由意志に摩り替えるような不毛な議論は止めませんか?

 
ほうら、人格攻撃がきた(笑) (愚樵)
2010-08-25 18:37:59
・東西さん

>それはコンプレックスというのですよ。

なぜ、そう言えるんですか?

東西さんのその指摘は、私(愚樵)が、科学に対してコンプレックス(この場合は劣等感というのが相応しいでしょう)を持っているという「断定」ですが、なぜ、あなたが私のことを断言できるのですか? その根拠はどこにあるのですか? 誰もが納得できる客観性をもって示すことが出来ますか?

それができないというのなら、あなたの「断言」は私に対する人格攻撃に他なりません。そして、それが反射的に出てくるということはすなわち、あなたは常に私を「見下し」ていると推論することが出来る。

仮にもしあなたが私を尊重しているのなら、

「なぜ愚樵はそういう考えを持ったのか? その論拠はどこにあるのか?」

という方向で考えを展開させるのが当然でしょうし、またコンプレックスだろうと推測したにしても「断定」になどなるはずがない。「疑い」にはなっても。

つまり、以下のように推論できます。あなたが「断定」した理由は、私の中にあるのではなく、東西さん自身のなかにある。

ここでは相互主義を適用することにして、私もあなたを「見下し」て放言しておきましょう。
(相互主義ですから、あなたの「見下し」が私の誤解だと判明したときには、謝罪の上訂正する用意はあります。先に言っておきます)。

東西さんのあらゆる議論は、東西さんの正しさを証明するための材料に過ぎません。どんなことを主張していようとも、あなたが言いたいことはただひとつ、「東西南北は正しい」これのみ。「愚樵は科学にコンプレックスを抱いている」という「断定」もここから導かれる。

科学は、あなたの正しさを証明するためのツールでしかない。それは、例えば「愛国心」を己の正しさの基準とするのと同じことです。
愚樵さんへ。 (東西南北)
2010-08-25 18:05:34
 ま、要するに、科学を強制するな、ということですね。国家と社会と学者団体が。

 そんなことは当たり前です。人間はサルから進化したのは科学ですが、信仰心からそれを否定する宗教団体もあるからです。

 しかし、そのような非科学的な勢力に対し、絶えず科学の教育を構成的に行うことが人類の進歩になるのですよ。

 科学も非科学も選択するのは本人の自由意志。自殺するのも自由意志。人殺しも自由意志。オウム真理教も自由意志。無限に挙げれるのですが、やはり、非科学には科学を対置して教育していく勢力が人間社会を進歩させていくという科学の役割を真面目に認識したいではなく、しなければなりませんね。自発的な道徳の科学でしょう。
ついでに (愚樵)
2010-08-25 17:57:45
啓蒙主義者=権威主義者を攻撃したついでに、その矛先を「科学」にも向けておきましょう(笑)

一般に、科学は普遍性が高いといわれますが、私は誤りだと思っています。なぜか。科学の普遍性には自ずから限界があるからです。その限界は科学を支える理性によってすでに明らかにされています。

“限界のある普遍性”を「普遍性」と端折るのは、私は罪悪ですらあると思う。新興宗教の教祖が“私は全知全能です”といっているようなもの。

科学の普遍性が及ばないもの。それは第一に人間ひとり一人の自由意志です。それは明らかに科学と別個に存在する。いや、そうではなくて、科学は人間の自由意志と「現象の普遍性」とを峻別するところから生まれた。「現象の普遍性」とは、ひとり一人の自由意志とは無関係に、一定の規則に則った現象が観測されること。つまり「現象の普遍性」とは「客観性」のこと。

そうした限定付きの普遍性しか持ち合わせていない科学を人類最高の叡智と持ち上げることの罪悪はいかほどのものか。それこそ「最高の罪悪」かもしれません。

というのも、最高と定義されてしまうことで、もともと峻別されていたはずの個々人の自由意志を科学が侵すようになるから。いや、正確に言うと、科学の名を騙って侵すようになるから。私はしばしば科学を「呪文」と揶揄するが、なぜそういうか、その理由はここにあります。そして悪いことに、この「呪文」の効き目は“最高”なのです。科学的に証明されたことは、各々の自由意志がどうであれ、必ず再現される。
(ただし、その再現性の範囲は、実はさほど広くないが、科学を利用する啓蒙主義者はそのことにはあまり言及しない。)

人間に自由意志があり、科学が自由意志と無関係であるとするなら、政治の世界に科学を持ち込むことは、もちろん禁ずべきことではないけれども、控えめになされるべきなのですね。政治の基本は科学や合理性への信頼ではなく、自由意志を行使する人間の「善性」への信頼でなければならない。政治が「善」を目指すものであり、それがひとり一人の自由意志の結果によってもたらされるのであるなら、それ以外に方法が存在するはずがない。

もし科学に出番があるとするなら、人間が「善性」を発揮する条件を探究するというところにあるでしょう。
愚樵さんへ (東西南北)
2010-08-25 17:46:38
 それはコンプレックスというのですよ。科学を科学と認めることはハラスメントでも何でもありません。人間はサルから進化したのだという科学を教育して、「それは違う。見下すな」「ハラスメントだ」と騒ぐのはどうなんでしょうかね。

 問題は、科学か非科学かですよ。見下しとかけ妹か、そんな問題ではありません。
ハラスメント (愚樵)
2010-08-25 17:26:04
そうですか。HNを改めまなさいますか。

「逝きし世の面影」をHNにするのはさすがに長すぎという感じでしたが、勝手に呼び慣らさせていただいた「面影」さんにはちょっとした愛着もあるのですが...、ま、それは当人のご意志を尊重すると致しましょう。

で。

共産党とものみの塔の共通部分。それは私に言わせればハラスメントです。

ハラスメントとはなにか。一般的に思われているような「嫌がらせ」ではありません。それは、「人格に対する攻撃」と「人格に対する攻撃に気がついてはいけない」という合わせ技です。共産党もものみの塔も、無意識のうちに、しかも善意をもってこのハラスメントを行なう。私が共産党を嫌う最大の理由はここにあります。

共産党支持者はすべからく啓蒙主義者です。啓蒙主義者であるということは、自身は相手よりも高い「意識」を持っていると自惚れているということ。つまり相手の人格を己よりも常に低く見る傾向があるということです。

その「傾向」は、表面的な物腰とは無関係です。あからさまにその「傾向」を露わにする者もいれば、一見相手を尊重するようで、その実、そうでない者もいる。啓蒙主義者のこうした「傾向」を支えているのが「権威」です。

私は絶対的な存在である神を信じているから「正しい」。神を信じていない者は「誤り」で人格的にも劣っている。

私は最も普遍性の高い科学を信奉しているから「正しい」。科学的な思考をできない者は「誤り」で人格的にも劣っている。

よって、高い人格を保持する私は人格の劣る者たちの蒙を啓いてあげなければならない。“あげなければならない”は、一見、善意のようですが違います。たとえ善意であったとしても、その前段に「見下し」が入っている。「見下す」から“あげなければならない”のです。己の「見下し」に気がつかない善意は、たとえ本人は善意のつもりでも、客観的には偽善と呼ぶほかありません。

啓蒙主義者たちは、自身が権威に寄り添ってしまうがゆえに自身の「見下し」に気がつきません。その無自覚がハラスメントになる。無自覚のうちに他人を「見下し」て人格攻撃を行ない、また無自覚ゆえに“人格攻撃に気がついてはならない”と命令する。その命令に抗う者には「異端者」というレッテルを貼る。あるいは「科学を理解できないバカ」とレッテルを貼る。

通常、人間は啓蒙主義者たちが思い込んでいるほどバカではありません。たとえ知識と論理では啓蒙主義者に敵わなくても、敏感に「見下し」は察知する。だから嫌うのです。

人間が啓蒙主義者にしてやられるときは弱っているとき。自身の感覚に信頼が持てなくなり、なにかすがるものを欲しているとき。そんなときには、啓蒙主義者の偽善に気がつかず、啓蒙主義者が提示する「権威」にすがりついてしまう。そうして弱った者もまた、啓蒙主義者=権威主義者となってゆく。

すなわち、ハラスメントは連鎖していくのです。
プロフィールの自画像が一休宗純なので、 (宗純)
2010-08-25 15:49:36
ブログ主ですが、
これまでは、逝き世の面影のブログタイトルをそのままHNにしていたのですが、どうも名前としては長すぎて、皆さん不便をおかけしている様なので自己紹介文を変えたついでに短く『宗純』と変更しました。

JUNSKY2010さん、コメント有難う御座います。JUNSKYblog2007と有るのですが結構長い付き合いで、秋田県藤代町の連続幼児殺害事件での全てのマスコミを敵に回しての大活躍には敬意を感じております。
事件の経過は最初から犯人を特定している完全な冤罪モードで未だ裁判中ですが、検察側の主張は有りもしない事故で済ましていた警察の捜査を妨害する為に第二の殺人を行ったのと荒唐無稽な作文なのですが、無理が通れば道理が引っ込むの例えどおりの展開です。富山の冤罪事件と同じで誰か真犯人が名乗り出ない限りは今のように一度自白すると決して覆さないのですよ。人間とは弱いもので悲しい話ですね。


東西南北さん、『科学と多数決原理は別物なのだから。』
が真実であるのは、学術研究団体とは『科学』の範疇に含まれるからですね。
だから科学の手法が採用される。
世俗の政治団体である政党とは基本的に性格が違うのですよ。
政党は多数決原理で動いています。この事実を認めないと話しにもなりません。



にゃんたつさん、はじめまして。
コメント有難う御座います。これからの宜しく御願い致します。
何年か前の古い記事でも結構ですから、興味が有りましたら何かご意見ご感想、コメントを御願い致します。
アポロ関連などは若い人でも大いに笑える楽しい記事であると思います。
すごいっす (にゃんたつ)
2010-08-25 13:42:07
はじめまして
昨日からこのブログ少しずつ読み始めたところでした
今まで思い続けてきた何かにガンガン突き刺さる思いです
公明党(学会員)は話にならない、論議できないと言われます が同じ事が共産党にも言える気がしてたんです
今後も一読者として期待いたします
科学と多数決原理は別物なのだから。 (東西南北)
2010-08-25 10:18:53
 日本共産党は科学の政党として客観的、普遍的な科学的な理論・思想の研究、教育活動を積極的に行えばいいと思いますよ。

 多数決原理と科学的真理は別物なのですから。

 科学的真理も自動的には多数派にならないし、市民権を得ないんですよ。科学的真理を積極的に教育普及していく主体的な活動があって始めて市民権を得ていくのですね。

 これは政策教育、宣伝も同じです。

 こうして、正しい科学の思想・理論と正しい科学の政策を両輪として積極的に語る活動こそ科学を思想的にも政治的にも市民権を得る多数派にしていく原動力になるのですよ。

 日本共産党はその支持者は大いに思想・理論でも政策でも科学を教育普及、宣伝する主体としてその力量を高めていくべきでしょうね。

 

 
ブックマークに追加させて頂きました (JUNSKY2010)
2010-08-25 10:15:58
以前より気にはなっていたのですが、当方のブログはブックマーク上限が30サイトだったので、追加できませんでした。
この度、更新されていないサイトを整理致しましたので、遅ればせながら、こちらのサイトをブックマークに入れさせて頂きました。
こちらのブックマークには、随分前から(2007年から?)当方のブログ【JUNSKYblog2007】を入れて頂いているのに、申し訳ございませんでした。

コメントを投稿

共産党」カテゴリの最新記事