正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

米と麦の戦後史ー学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略」から

2010-06-29 | 食事教育
元NHK職員高嶋光雪さんは著書「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」のあとがきに

昨年8月、NHK撮影部の原沢辰夫カメラマンと私は、一ヶ月ほどのアメリカ取材をおこない、11月にNHK特集『食卓のかげの星条旗ー米と麦の戦後史ー』を放送した。多くの視聴者から「初めて聞く話だ。もっと詳しく知りたい」という反響がもあり、家の光協会からのすすめもあったのでここに一冊の本にまとめることになった。

リサーチから含めると半年近くかかって取材したテーマである。自分なりに文章として整理しておきたいという気持もあった。

米の過剰問題を消費の面からとらえ直すことにより、日本の稲作農民が置かれている状況を、都会の消費者にも自分の問題として考えて貰いたいーーそう念じてペンを執った。

私は日本の米が、アメリカの小麦に追いつめられて行くプロセスとメカニズムを追求したかったのである。その点では、プロセス面に比べて、メカニズムの解剖が今ひとつ弱いことを自白しておく。

 米と麦の二大主食の戦後史をアメリカとの関係で書いた著書は非常に少ない。私たちの取材が全く手探りで進められた。・・・

と書いてあります。

 私がこの「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」を最初に読んだとき、衝撃を受けたものです。それまでに自分がやってきた仕事(畜産関係)がアメリカの為だったんだ、そして日本の食を破壊していたんだと言うことです。

 この本を読んだときは、仕事の部署が変わって米の消費拡大の仕事についたときで、以降如何にして米の消費拡大を計るのかを考えて来ました。アメリカに荒らされた日本の農業や食生活を正す仕事です。このブログもその一環です。

この「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」と言うは絶版になったので、これを後世に残すべきだと考えられたのが鈴木猛夫さん、「「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 」(単行本) を書かれ、そのダイジェスト版が「学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略」」(学校給食と子供の健康を考える会のHPの中にあります)

鈴木先生は亡くなられました。アメリカの小麦戦略に犯されている日本の現状の改善が進まない中、無念の思いであると思います。残された我々、先生の意志を継いで日本の食正す事に努力をすべきで、このことを子や孫に伝えて行くべきだと思います。

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.1」(前編) 鈴木猛夫
「昭和20年8月、日本は終戦とともに未曾有の食糧難時代をむかえ世情不安となった。同年10月には地方の疎開先から学童達が都会に戻ったものの食料はなく、米軍の緊急食糧放出、海外からのララ物資、ガリオア、エロア等の援助物資で急場をしのいだ。これはアメリカ初め諸外国の好意の援助でありまさに干天の慈雨であった。

政府にとって欠食児童救済は急務であり翌年から学校給食が始まった。主食はアメリカからの無償援助小麦によるパンであった。当時食糧難に加え米の生産量が上がらず、アメリカの援助小麦に頼らざるを得ない事情があったので必然的にパン給食となったのである。アメリカ頼みの給食であったが、昭和27年4月講和条約が発効すると日本は占領時代が終わり形の上では独立国となりアメリカからの無償援助は終わった。同時に学校給食もピンチとなり、財政難から給食費は有料となり給食辞退者が続出し大きな社会問題となった。この頃から食糧事情は次第に好転し、学校給食に米飯を取り入れることも可能な時期ではあったが、昭和29年学校給食法が成立しパンとミルクという形が継続された。
パンが主食となると副食はミルク、卵、バター、チーズ、肉類、油料理などの洋食スタイルとなり、味噌汁、漬物、野菜の煮物や豆腐、納豆、梅干し等の伝統食は遠ざかる。当時厚生省は日本の伝統的な食生活ではなく、欧米流の栄養学に基づく「進んだ」食生活を普及させるという「栄養改善運動」を熱心に推進していた。その線に沿った献立が学校給食で出された。
そしてその運動を裏で強力に支え資金援助したのがアメリカであった。当時アメリカは膨大な量の農産物の過剰在庫をかかえ苦しんでいた。一刻も早く農産物を輸出しないと財政悪化はさらに進み農民の不満も増大していた。アメリカは日本等を標的に本格的に余剰農産物の輸出作戦を開始したのである。」

学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.1」(後編) 鈴木猛夫

アメリカは昭和29年、余剰農産物処理法(PL480)を成立させ官民挙げて早急な余剰農産物のはけ口を求めた。その最大のターゲットにされたのが日本であった。このPL480法案はアメリカ農産物を有利な条件で発展途上国に輸出するという内容であったが、同時に学校給食に対しては無償で食糧援助をすることが出来るという条項もあった。
この法案に基づいて昭和31年、財政難に苦しむ日本政府はアメリカ側提案による学校給食に関する次のような取り決めをした。(1)アメリカは給食用小麦粉を4ヵ年に四分の一ずつ漸減して日本に贈与する。(初年次10万トン、4年次2万5千トン)(2)日本政府は4年間にわたり、年間18万5千トンレベルの小麦給食(パン給食)を維持すること。という内容であった。
つまりアメリカは初めは学校給食用の小麦を無償で与えるが、それは毎年四分の一ずつ減らし、減った分は日本側が有償でアメリカから購入しパン給食を続けなさい、というものであった。日本側はこれ以後大型製パン工場の相次ぐ建設でパンの大量供給態勢が出来ていった。アメリカはパン給食が4年で終わるものでないことを充分承知の上であった。
パン用小麦は日本では産出されずパン給食を続けるということはその原料を全量アメリカからの輸入に頼ることになる。そこがアメリカの狙いであり、このパン給食の裏にはアメリカの高度な政治戦略があった。アメリカは膨大な余剰農産物処理の為、日本の学校給食でパンとミルクという給食を長期的に定着させようと画策したのである。そこを理解するとパン給食固定化の真相が見えてくる。それについては次号で詳しく取り上げたい。」


学校給食の裏面史 「アメリカ小麦戦略 No.2」(前編) 鈴木猛夫
「アメリカの農業>は歴史的に見ると戦争と戦後の復興援助を契機として発展してきた。イギリスからの独立戦争、南北戦争、第一次大戦などで大量の農産物が消費されアメリカ農業興隆の一因となった。第二次大戦中アメリカでは農業従事者の約500万人が兵役につき、人手不足を解消するため農業の機械化、大型化、省力化、肥料増などが一段と進んだ。戦後は農業機械代金支払いのため常に一定量の生産を維持しなくてはならず過剰生産が慢性化していた。国内消費だけでは消費しきれず常に輸出が必要であった。
戦後、疲弊したヨーロッパの復興計画いわゆるマーシャルプランにアメリカは総額120億ドルの巨費を投じ大量のアメリカ農産物がヨーロッパで消費され1952年に大成功のうちにこの計画は終了した。51年から始まっていた朝鮮戦争も53年には終結し、同時に農産物のハケ口が無くなり過剰在庫は深刻化した。1950年代小麦、綿花、乳製品などの農産物の在庫総額は2兆円に上り、倉庫代だけで一日2億円以上、倉庫不足から大戦で活躍した多くの輸送船が倉庫代わりに使われたり、更には路上に野積みするなどで余剰農産物対策は急務であった。
当時国際的に小麦価格は低迷しカナダ、オーストラリアなどが価格ダンピングで輸出攻勢をかけアメリカの小麦輸出は困難な状況にあり何としてでも他国より有利な件を提示し余剰農産物の滞貨を処理しなければならなかった。」

アメリカで余剰農産物がたまり保管場所にも困る等になった様子が分かります。アメリカとしてはただでももらってほしい気持です。この後アメリカは東南アジアや日本に販売先探しの調査団を送ります。そして・・・

幕内秀夫先生のHP「学校給食と子供の健康を考える会」も覗いて下さい。


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1 コメント

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 (y)
2014-07-03 10:23:32
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