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第2章 希望の風
10
そいつはぶくぶくと太った身体をしていた。大きく突き出した腹とその上に乗った胸、太くて短い手足。背中や尻尾には茶色の斑点がある。巨大な口は不敵な笑みを浮かべ、耳はエルフのように大きく尖っている。中でも目を引くのは頭のツノ……ではなく、首に巻かれたピンクのリボン、そしてかわいらしいチェックのポシェットだ。
先ほどの声も、姿に似合わず高くハスキーだった。
奇妙なのはそいつがいる場所で、部屋壁の一角に作られている巨大な窓の窓枠に立っているのだった。部屋に入った時には誰の姿もなかった。となると、外からこの巨大な塔を登ってきたことになる。
「お前ら誰だ! このオレのスウィートホームに土足であがりこむとは!」
怒っているようだが、その姿と声でまるで緊張感がない。ショコラはフウラを手招きして側に呼び、その生き物に微笑みを向けた。
「勝手に入ってごめんなさい。ここはあなたのおうちなの? えっと……魔物さん」
「魔物じゃねーよ! 俺は怪獣! 怪獣プスゴンさまだ! そうよ、ここはオレさまのスゥィーーーートなお・う・ち! 勝手に入るとは失礼なやつらだぜ!」
怪獣と魔物の違いがよくわからなかったが、スゥィーーーートと言う時のうっとりした表情がなんとも言えず可愛らしいと思った。
だがフウラはそうではないようだ。ケキちゃんを振り回して、怪獣に食ってかかる。
「なによ! ここがアンタの部屋なわけないじゃない! ここはお母さまがねぇ……」
「ぬおおお!」
「なっ、なに!?」
怪獣はわなわなと肩を震わせながら、両腕を前に少しずつフウラに近づいていく。よく見ればその手の先の爪は太く、鋭い。部屋と同じようなピンク色の爪だった。
「キュ……キュートだ……なんて可愛いんだ……」
プスゴンは頬を真っ赤に染めて、うっとりとした表情を浮かべている。
「可愛い……いや、ただ可愛いだけじゃない。ちょっと毒のある瞳! 抱きしめたくなるような身体のサイズ!」
「え、私?」
フウラは自分を指さし「どうしよう~」と身をくねらせた。顔の半分をケキちゃんで隠し、ちらちらと怪獣を盗み見る。
「困るわ。だってあなた怪獣だし……。お父さま、きっと許してくれないよ」
「恥ずかしがらないでいいんだよ。おいで、ハニー」
怪獣がゆっくりとフウラに手を伸ばし、そして、ケキちゃんの頭をわしづかみにした。
「え! なに?」
「お前! このキュートなハニーをよこせえええええ!」
そう叫ぶと、プスゴンはフウラを睨み付け、ケキちゃんを引っ張り始める。フウラは慌ててケキちゃんを持つ手に力を入れた。抱えていた風の衣を肩にかけ、両手でケキちゃんを引いた。
「ケキちゃんはだめぇっ!」
「あっ……」
怪獣は両側から引っ張られる形になったケキちゃんをパッと話した。フウラは勢いづいて後ろにひっくり返る。
「くっそー! この忌々しいエルフめ! 何しにきやがったんだ!」
「わたしたちは、風の衣を取りに来ただけ! もう帰るよ!」
ふらふらと立ち上がり、フウラが風の衣を怪獣に向けて突き出す。それを見たプスゴンはにやりと笑った。
「ふーん、風の衣か……ふふふ、ちょうどいい……俺は風の衣を取りに来るやつを倒すように頼まれてるのさ! お前らをぶっ殺し! ついでにマイ・スウィートハニーを手に入れる! 一石二鳥とはこのことだぜ! おらぁ!」
プスゴンはどすどすと走り、フウラを手の甲で殴り飛ばした。
「ぎゃ!」
フウラは激しく吹き飛び、壁に背を打ち付ける。床に落ちると、そのまま気を失った。
「フウラちゃん!」
「ショコラ、下がって」
アイが静かに前に進み出、剣を抜く。プスゴンの視界からショコラを遮る位置に立ち、切っ先を向けた。
「私が相手だ」
「ふーん……お前……」
プスゴンはアイを眺め、にやりと笑う。
「なかなかいいセンいってるぜ! オーガにしてはかわいいじゃねえか!」
鋭い爪をベロリと舐める。ピンク色の爪が毒々しく赤みを帯びて見えた。
「なっ、なにを……」
「いくぜ!」
プスゴンが突進する。一瞬遅れてアイも怪獣に向かっていく。プスゴンは爪を振りおろし、または突き上げ、連続でアイを襲った。だがことごとくアイは剣でその攻撃を捌いていく。
連撃のわずかな隙をついてアイが左斬上を放つが、敵は右手の爪でその刃を止め、すかさず左の爪で突く。
身体を回転させて突きをかわしながら、アイは爪に剣を走らせた。金属をひっかく嫌な音が部屋に響く。そのままの勢いを乗せて、今度は右から斬り上げる。
プスゴンはさっと後ろに飛ぶとともに左腕を引き、剣に空を斬らせた。そのまま刃が返ってくるのを右爪で防ぎながら、左爪でアイの腕を狙う。
再び嫌な音を立てて剣を急激に引き、柄尻で怪獣の左腕を強く突いた。苦痛に顔を歪め、右爪を払うプスゴンとの距離を取ると、アイは真横に素早く一歩移動する。
「ヒャド!」
ショコラの氷の呪文が怪獣を狙う。
「ちいっ」
プスゴンは両手の爪で氷の槍を受け止めたが、槍の大きさと速さに押され、後ろに大きく吹き飛んだ。砕かれた氷が部屋中にきらきらと降り注ぐ。
「ったく! どこがヒャドだ! ヒャドってのはもっとこう可愛らしいもんだ! あーもう、オレ様の部屋が汚れるじゃねーか!」
立ち上がり、ショコㇻを睨み付けるプスゴンの前にアイが立ちふさがる。腕を伸ばし、切っ先を眼前に突きつけた。
「まだやるかい?」
「ったりめーだ!」
プスゴンは叫び、剣を爪で払おうとした。が、その手は空を切り、剣は弾かれない。爪と金属がぶつかる音もしなかった。
「あれ?」
プスゴンは自らの両手を見る。その爪はボロボロに折れてしまっていた。
「ああああああああーーーーー! オ……オレのプリティーな爪が……。お前らなあ、かわいく染めるのに何時間かかったと思ってんだ、このやろう!」
いきり立つ怪獣に、アイはさらに剣を近づける。少しでも動けば刺さるその距離に、プスゴンは動きを止めた。
「わ、わかったよ……これじゃ戦えねえ。剣を引いてくれ」
数秒見合った後、アイは静かに剣を引いた。後方で次の呪文を準備していたショコラも杖を降ろす。
「あ、ありがとよ……そうだ、これをやろう」
プスゴンはポシェットを漁り、大きなイチゴのぬいぐるみを取り出し、アイに渡した。
「な……こんな大きなものがその小さなポシェットに入っていたのか? いったいどうやって……」
「まあ、ちょっとした手品だよ。おっと、タネは教えないぜ。でもそのイチゴば……イチゴ、カワイイだろ?」
「かわいいけど……」
アイは不思議そうにイチゴのぬいぐるみを眺めた。ぬいぐるみにしては重量があり、それほど柔らかくもない。見れば見るほど小さなポシェットに入っていたことが信じられなかった。
プスゴンはイチゴをもう一つ取り出すと、ショコラに向かって歩き始める。
「ほら、お前にもやるからな~」
だが、ショコラは何かを感じ取っていた。部屋を抜ける風に乗って、なにか異質な、自然のものではない気配がする。
(これはなに……何かのクスリの匂い? それに、少しだけ魔力を感じる……どこから?)
怪獣が柔和な笑みを浮かべながら近づいてくる。
(あの、イチゴのぬいぐるみを出した時から? だとしたら……)
「アイちゃんだめ! そのイチゴ放して!」
ショコラの顔をきょとんと見るアイの手の中で、イチゴが震えだした。はっと、前方に投げ放った瞬間、爆発が起こった。
吹き飛ばされ、壁に激突するアイを助けに行く余裕はなかった。今まさにもう一つのイチゴがショコラに向かって投げられたのだ。
呪文は間に合わない、避ければ後ろのフウラが被害にあってしまう。その状況で、できることは一つしかなかった。一か八か、イチゴ爆弾を打ち返すしかない。ショコラは少し左に立ち位置をずらし、杖を右に構えた。強く叩くとその場で爆発するかもしれない。放物線を描いて落下してくるイチゴを、杖を下げつつふわりと受け止める。想像以上の負荷が杖と腕にかかった。身体がよろけそうになるのを踏ん張りながら、力いっぱい杖を押し返した。
「えーいっ!」
イチゴは少しだけ宙を舞い、鈍い音を立てて床に落ちると、そのままプスゴンの足元に転がっていく。
「う、うわわわわ、なにすんだバカ!」
踵を返し、慌てて逃げるプスゴン。爆風を背中に受け、顔面から床に倒れこんだ。
爆発の跡、部屋の中央付近が真っ黒に焦げ、煙が上がっている。そして部屋の奥でも、二筋の煙。アイが吹き飛ばされた場所と、まさにアイの身体から立ち昇っている。
早くアイを助けないと。ショコラが駆け出そうとしたとき、
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
雄叫びを上げてプスゴンが起き上がった。目は怒りに血走り、身体全体から湯気が上がっている。
「お前……ゆるさん……おおおおおおおおおおおおおお!」
プスゴンの身体から光が溢れる。視認できるほどに力と魔力が高まっていく。
「オレの真の力を見せてやるぜ! お前なんかギッタギタだぞ!」
眼前に両腕を交え、気合を込めると、ボロボロの爪全てが一度に生え変わった。新しい爪は禍々しい漆黒の爪だった。
「いくぞおおおお! そのはらわた抉ってやるううううああああ!」
「やめてっ!」
突進しようと体を低くしたプスゴンの頭に、何かが投げつけられた。跳ね返ってぽとりと床に転がったそれは、つぶらな瞳でプスゴンを見つめた。
ケキちゃんだった。フウラがいつの間にか起き上がっていた。
「それ、あげるから! ショコラさまたちにひどいことしないで!」
プスゴンから溢れる光が徐々に静まっていく。怒りに満ちた目がケキちゃんに注がれ、元に戻っていく。
プスゴンはゆっくりとケキちゃんを拾い、じっと見つめ合う。次第に頬が緩み、優しく抱きしめると、至福の表情となった。
「ああ、ハニー。なんて美しいんだろう。え? うんうん、あのエルフたちなんか放っておいて、一緒にあま~い時間を過ごそうね。ってわけで、ハニーに免じて許してやらあ! いやっほ~い、ハニー!」
プスゴンは幸せそうに言うと、スキップしながら窓の外に消えていった。
「アイちゃん!」
「アイさまっ!」
ショコラとフウラが部屋の奥に倒れているアイに駆け寄る。仰向けに倒れたアイは、黒焦げだった。その身体からはまだ煙が立ち上っている。特に突き放した腕と、下半身にかけて酷い火傷を負っていた。顔はそれほどひどくなく、爆風が掠めた程度らしい。
「アイちゃん……!」
「ショコラさまお水! 息があるよ、大丈夫!」
「う、うん……」
ショコラは水筒の水をアイの火傷にかけた。うう、とうめき声をあげてアイの顔が苦痛に歪む。
「ホイミ! ホイミ! ホイミホイミホイミ!」
フウラの手からやわらかな光が溢れ、火傷の傷を包み込む。
「この部屋にお水ないかな! 探して!」
「う、うん!」
フウラがホイミを使えることに驚くのと同時に、ショコラを再びあの感情が襲った。久遠の森で助けたウサギが、アサナギのホイミによって癒されるのを、ただ見守ることしかできなかった悔しさ。無力感。
部屋の調度品には大きな甕や壺もあったが、中には水はおろか、何も入ってはいなかった。
このまま何もできずに、また見守るしかないのだろうか。旅の仲間が、友達が苦しんでいるのに、何もできないのだろうか。ふと窓の外を見ても雨など降ってはいない。雲がのんきにたなびいているだけだ。
「雲……雨……そうだ!」
ショコラはフウラとアイに駆け寄ると、両手を壁に向けた。そのすぐ下ではフウラは必死にホイミを唱え続け、顔じゅうを汗が流れている。
「待っててね、今水を作るから!」
まず壁にヒャドで大きな氷の塊を作り、すぐさまメラを唱える。火球は氷を包み込み、急激に水蒸気がたちこめた。直後、大量の水が雨のようにアイとフウラに降り注ぐ。
「さすがショコラさま! ちょっとぬるいけどね」
フウラはにっこりと微笑み、立ち上がる。役に立てた喜びがショコラを包んだ。しかし、アイはまだ気を失ったままで、火傷も先ほどよりはマシになったくらいだ。
「あとは早く街に帰って、神父さまたちに診せないと。わたしのホイミだけじゃムリ」
フウラは窓枠に登り、指笛を鳴らして、
「わかばー! つむじー! はやてー!」
そう呼ぶと、たちまち窓の外にカムシカたちが現れた。
「ショコラさま! アイさまを連れてきて!」
そう言うと、フウラは部屋の隅に落ちていた風の衣を取りに向かう。
アイは自分よりもずっと身体が大きい、火傷だらけでどこを触っていいかわからない、ショコラは一瞬迷ったが、そんな暇はなかった。アイの腕を自分の首にかけ、アイの膝の裏に自分の腕を入れる。ぐにゅりという膝裏の触感に泣きそうになる。うっ、と呻くアイの声に胸が締め付けられる。一気に力を込める。全く持ち上がらないが、他に方法が見つからない。目をぎゅっと瞑って、もう一度力を入れる。羽が自然に動く。
「ん~~~~~~~!」
少しだけアイの身体が浮いたと思った瞬間、急に重さが減った。目を開けると、向かい側でフウラも手を添えていた。
何とか窓枠までアイを運び、伏せて待っていたわかばと、すぐ横でやはり伏せていたはやて二頭の上に仰向けに乗せる。フウラは窓枠に置いていた風の衣をショコラに渡すと、ひらりと若葉の背にまたがった。
「ショコラさま、それ、持ってきて。アイさまの剣もね。わたしは先に街に戻ってるから、つむじに乗ってきてね! いくよ、わかば、はやて! ぜったいアイさまを落としちゃダメだからね!」
フウラが手綱を引くと、わかばとはやては揃って立ち上がり、そのまま二頭ぴったりとくっついたまま、塔を駆け下りていった。残されたつむじが、きゅ! と急かすように鳴く。
「うそでしょ。ここから降りるの……?」
ショコラはアイのいた場所の近くから剣を拾い、窓から眼下を見下ろした。すぐ下の階の屋根と、あとはたちこめた靄しか見えない。
「行くしか、ないよね! つむじ、しがみついててもいい?」
「きゅ~?」
ショコラはつむじにまたがった。風の衣は自分の服の中に抱き、杖は背中に。アイの重く長い剣はどうにも持って乗ることはできなそうだったので、部屋から布を探し、自分の身体にくくりつけ、胸に抱く形でつむじにしがみつくことにした。
「痛くない? 大丈夫ならお願い! つむじ!」
つむじは立ち上がりざま、すぐに身を翻し、塔を駆け下りた。ショコラは目を瞑ってつむじの首にしっかりとしがみつく。前に向かって落下する感覚に、身体も羽も固まっている。一つ一つ屋根を駆け下りる衝撃が伝わってくる。やがて地面に着地するとともに落下は止み、代わりにものすごいスピードで前に進む感覚がやってきた。
薄く目を開けてみると、スイゼン湿原の景色が流れ去っていくのが見えた。雨が降った後の河みたいだと思った。
この速度で、もちろんだいぶ揺れはあるが、不思議なことに蹄の音がほとんど聞こえない。
(空を飛んでいるみたい……まるで風のよう)
代わりに、胸に抱いたアイの剣ががちゃがちゃと音を立てる。思えば、この剣にいつも守られていた。初めて出会った時も、旅の間に出会った魔物との戦闘でも、そして先ほどの戦いでも。この剣と、そしてアイに、自分は守られてばかりだった。
アイは剣の達人で、身体も大きくて、強い。そう思い込んでいた。アイがあんな姿になるなど、想像もしていなかった。エテーネでの惨劇が脳をよぎる。村一番の戦士も無残な姿で倒れていた。
ショコラは自分のふがいなさを恥じた。魔法使いとしてできることはやってきたつもりだが、魔法使いであることに甘え、諦めていた部分がある。覚悟が足りなかった。自分はこのエルフの身体で、魔法使いとして、あの冥王の謎を追い、エテーネを救わなければならない。守られてばかりで、いいはずがない。
風のように駆けるつむじのふさふさとした毛皮は、涙もろともショコラをあたたかく包んでくれた。
つづく 【11】へ
第2章 希望の風
10
そいつはぶくぶくと太った身体をしていた。大きく突き出した腹とその上に乗った胸、太くて短い手足。背中や尻尾には茶色の斑点がある。巨大な口は不敵な笑みを浮かべ、耳はエルフのように大きく尖っている。中でも目を引くのは頭のツノ……ではなく、首に巻かれたピンクのリボン、そしてかわいらしいチェックのポシェットだ。
先ほどの声も、姿に似合わず高くハスキーだった。
奇妙なのはそいつがいる場所で、部屋壁の一角に作られている巨大な窓の窓枠に立っているのだった。部屋に入った時には誰の姿もなかった。となると、外からこの巨大な塔を登ってきたことになる。
「お前ら誰だ! このオレのスウィートホームに土足であがりこむとは!」
怒っているようだが、その姿と声でまるで緊張感がない。ショコラはフウラを手招きして側に呼び、その生き物に微笑みを向けた。
「勝手に入ってごめんなさい。ここはあなたのおうちなの? えっと……魔物さん」
「魔物じゃねーよ! 俺は怪獣! 怪獣プスゴンさまだ! そうよ、ここはオレさまのスゥィーーーートなお・う・ち! 勝手に入るとは失礼なやつらだぜ!」
怪獣と魔物の違いがよくわからなかったが、スゥィーーーートと言う時のうっとりした表情がなんとも言えず可愛らしいと思った。
だがフウラはそうではないようだ。ケキちゃんを振り回して、怪獣に食ってかかる。
「なによ! ここがアンタの部屋なわけないじゃない! ここはお母さまがねぇ……」
「ぬおおお!」
「なっ、なに!?」
怪獣はわなわなと肩を震わせながら、両腕を前に少しずつフウラに近づいていく。よく見ればその手の先の爪は太く、鋭い。部屋と同じようなピンク色の爪だった。
「キュ……キュートだ……なんて可愛いんだ……」
プスゴンは頬を真っ赤に染めて、うっとりとした表情を浮かべている。
「可愛い……いや、ただ可愛いだけじゃない。ちょっと毒のある瞳! 抱きしめたくなるような身体のサイズ!」
「え、私?」
フウラは自分を指さし「どうしよう~」と身をくねらせた。顔の半分をケキちゃんで隠し、ちらちらと怪獣を盗み見る。
「困るわ。だってあなた怪獣だし……。お父さま、きっと許してくれないよ」
「恥ずかしがらないでいいんだよ。おいで、ハニー」
怪獣がゆっくりとフウラに手を伸ばし、そして、ケキちゃんの頭をわしづかみにした。
「え! なに?」
「お前! このキュートなハニーをよこせえええええ!」
そう叫ぶと、プスゴンはフウラを睨み付け、ケキちゃんを引っ張り始める。フウラは慌ててケキちゃんを持つ手に力を入れた。抱えていた風の衣を肩にかけ、両手でケキちゃんを引いた。
「ケキちゃんはだめぇっ!」
「あっ……」
怪獣は両側から引っ張られる形になったケキちゃんをパッと話した。フウラは勢いづいて後ろにひっくり返る。
「くっそー! この忌々しいエルフめ! 何しにきやがったんだ!」
「わたしたちは、風の衣を取りに来ただけ! もう帰るよ!」
ふらふらと立ち上がり、フウラが風の衣を怪獣に向けて突き出す。それを見たプスゴンはにやりと笑った。
「ふーん、風の衣か……ふふふ、ちょうどいい……俺は風の衣を取りに来るやつを倒すように頼まれてるのさ! お前らをぶっ殺し! ついでにマイ・スウィートハニーを手に入れる! 一石二鳥とはこのことだぜ! おらぁ!」
プスゴンはどすどすと走り、フウラを手の甲で殴り飛ばした。
「ぎゃ!」
フウラは激しく吹き飛び、壁に背を打ち付ける。床に落ちると、そのまま気を失った。
「フウラちゃん!」
「ショコラ、下がって」
アイが静かに前に進み出、剣を抜く。プスゴンの視界からショコラを遮る位置に立ち、切っ先を向けた。
「私が相手だ」
「ふーん……お前……」
プスゴンはアイを眺め、にやりと笑う。
「なかなかいいセンいってるぜ! オーガにしてはかわいいじゃねえか!」
鋭い爪をベロリと舐める。ピンク色の爪が毒々しく赤みを帯びて見えた。
「なっ、なにを……」
「いくぜ!」
プスゴンが突進する。一瞬遅れてアイも怪獣に向かっていく。プスゴンは爪を振りおろし、または突き上げ、連続でアイを襲った。だがことごとくアイは剣でその攻撃を捌いていく。
連撃のわずかな隙をついてアイが左斬上を放つが、敵は右手の爪でその刃を止め、すかさず左の爪で突く。
身体を回転させて突きをかわしながら、アイは爪に剣を走らせた。金属をひっかく嫌な音が部屋に響く。そのままの勢いを乗せて、今度は右から斬り上げる。
プスゴンはさっと後ろに飛ぶとともに左腕を引き、剣に空を斬らせた。そのまま刃が返ってくるのを右爪で防ぎながら、左爪でアイの腕を狙う。
再び嫌な音を立てて剣を急激に引き、柄尻で怪獣の左腕を強く突いた。苦痛に顔を歪め、右爪を払うプスゴンとの距離を取ると、アイは真横に素早く一歩移動する。
「ヒャド!」
ショコラの氷の呪文が怪獣を狙う。
「ちいっ」
プスゴンは両手の爪で氷の槍を受け止めたが、槍の大きさと速さに押され、後ろに大きく吹き飛んだ。砕かれた氷が部屋中にきらきらと降り注ぐ。
「ったく! どこがヒャドだ! ヒャドってのはもっとこう可愛らしいもんだ! あーもう、オレ様の部屋が汚れるじゃねーか!」
立ち上がり、ショコㇻを睨み付けるプスゴンの前にアイが立ちふさがる。腕を伸ばし、切っ先を眼前に突きつけた。
「まだやるかい?」
「ったりめーだ!」
プスゴンは叫び、剣を爪で払おうとした。が、その手は空を切り、剣は弾かれない。爪と金属がぶつかる音もしなかった。
「あれ?」
プスゴンは自らの両手を見る。その爪はボロボロに折れてしまっていた。
「ああああああああーーーーー! オ……オレのプリティーな爪が……。お前らなあ、かわいく染めるのに何時間かかったと思ってんだ、このやろう!」
いきり立つ怪獣に、アイはさらに剣を近づける。少しでも動けば刺さるその距離に、プスゴンは動きを止めた。
「わ、わかったよ……これじゃ戦えねえ。剣を引いてくれ」
数秒見合った後、アイは静かに剣を引いた。後方で次の呪文を準備していたショコラも杖を降ろす。
「あ、ありがとよ……そうだ、これをやろう」
プスゴンはポシェットを漁り、大きなイチゴのぬいぐるみを取り出し、アイに渡した。
「な……こんな大きなものがその小さなポシェットに入っていたのか? いったいどうやって……」
「まあ、ちょっとした手品だよ。おっと、タネは教えないぜ。でもそのイチゴば……イチゴ、カワイイだろ?」
「かわいいけど……」
アイは不思議そうにイチゴのぬいぐるみを眺めた。ぬいぐるみにしては重量があり、それほど柔らかくもない。見れば見るほど小さなポシェットに入っていたことが信じられなかった。
プスゴンはイチゴをもう一つ取り出すと、ショコラに向かって歩き始める。
「ほら、お前にもやるからな~」
だが、ショコラは何かを感じ取っていた。部屋を抜ける風に乗って、なにか異質な、自然のものではない気配がする。
(これはなに……何かのクスリの匂い? それに、少しだけ魔力を感じる……どこから?)
怪獣が柔和な笑みを浮かべながら近づいてくる。
(あの、イチゴのぬいぐるみを出した時から? だとしたら……)
「アイちゃんだめ! そのイチゴ放して!」
ショコラの顔をきょとんと見るアイの手の中で、イチゴが震えだした。はっと、前方に投げ放った瞬間、爆発が起こった。
吹き飛ばされ、壁に激突するアイを助けに行く余裕はなかった。今まさにもう一つのイチゴがショコラに向かって投げられたのだ。
呪文は間に合わない、避ければ後ろのフウラが被害にあってしまう。その状況で、できることは一つしかなかった。一か八か、イチゴ爆弾を打ち返すしかない。ショコラは少し左に立ち位置をずらし、杖を右に構えた。強く叩くとその場で爆発するかもしれない。放物線を描いて落下してくるイチゴを、杖を下げつつふわりと受け止める。想像以上の負荷が杖と腕にかかった。身体がよろけそうになるのを踏ん張りながら、力いっぱい杖を押し返した。
「えーいっ!」
イチゴは少しだけ宙を舞い、鈍い音を立てて床に落ちると、そのままプスゴンの足元に転がっていく。
「う、うわわわわ、なにすんだバカ!」
踵を返し、慌てて逃げるプスゴン。爆風を背中に受け、顔面から床に倒れこんだ。
爆発の跡、部屋の中央付近が真っ黒に焦げ、煙が上がっている。そして部屋の奥でも、二筋の煙。アイが吹き飛ばされた場所と、まさにアイの身体から立ち昇っている。
早くアイを助けないと。ショコラが駆け出そうとしたとき、
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
雄叫びを上げてプスゴンが起き上がった。目は怒りに血走り、身体全体から湯気が上がっている。
「お前……ゆるさん……おおおおおおおおおおおおおお!」
プスゴンの身体から光が溢れる。視認できるほどに力と魔力が高まっていく。
「オレの真の力を見せてやるぜ! お前なんかギッタギタだぞ!」
眼前に両腕を交え、気合を込めると、ボロボロの爪全てが一度に生え変わった。新しい爪は禍々しい漆黒の爪だった。
「いくぞおおおお! そのはらわた抉ってやるううううああああ!」
「やめてっ!」
突進しようと体を低くしたプスゴンの頭に、何かが投げつけられた。跳ね返ってぽとりと床に転がったそれは、つぶらな瞳でプスゴンを見つめた。
ケキちゃんだった。フウラがいつの間にか起き上がっていた。
「それ、あげるから! ショコラさまたちにひどいことしないで!」
プスゴンから溢れる光が徐々に静まっていく。怒りに満ちた目がケキちゃんに注がれ、元に戻っていく。
プスゴンはゆっくりとケキちゃんを拾い、じっと見つめ合う。次第に頬が緩み、優しく抱きしめると、至福の表情となった。
「ああ、ハニー。なんて美しいんだろう。え? うんうん、あのエルフたちなんか放っておいて、一緒にあま~い時間を過ごそうね。ってわけで、ハニーに免じて許してやらあ! いやっほ~い、ハニー!」
プスゴンは幸せそうに言うと、スキップしながら窓の外に消えていった。
「アイちゃん!」
「アイさまっ!」
ショコラとフウラが部屋の奥に倒れているアイに駆け寄る。仰向けに倒れたアイは、黒焦げだった。その身体からはまだ煙が立ち上っている。特に突き放した腕と、下半身にかけて酷い火傷を負っていた。顔はそれほどひどくなく、爆風が掠めた程度らしい。
「アイちゃん……!」
「ショコラさまお水! 息があるよ、大丈夫!」
「う、うん……」
ショコラは水筒の水をアイの火傷にかけた。うう、とうめき声をあげてアイの顔が苦痛に歪む。
「ホイミ! ホイミ! ホイミホイミホイミ!」
フウラの手からやわらかな光が溢れ、火傷の傷を包み込む。
「この部屋にお水ないかな! 探して!」
「う、うん!」
フウラがホイミを使えることに驚くのと同時に、ショコラを再びあの感情が襲った。久遠の森で助けたウサギが、アサナギのホイミによって癒されるのを、ただ見守ることしかできなかった悔しさ。無力感。
部屋の調度品には大きな甕や壺もあったが、中には水はおろか、何も入ってはいなかった。
このまま何もできずに、また見守るしかないのだろうか。旅の仲間が、友達が苦しんでいるのに、何もできないのだろうか。ふと窓の外を見ても雨など降ってはいない。雲がのんきにたなびいているだけだ。
「雲……雨……そうだ!」
ショコラはフウラとアイに駆け寄ると、両手を壁に向けた。そのすぐ下ではフウラは必死にホイミを唱え続け、顔じゅうを汗が流れている。
「待っててね、今水を作るから!」
まず壁にヒャドで大きな氷の塊を作り、すぐさまメラを唱える。火球は氷を包み込み、急激に水蒸気がたちこめた。直後、大量の水が雨のようにアイとフウラに降り注ぐ。
「さすがショコラさま! ちょっとぬるいけどね」
フウラはにっこりと微笑み、立ち上がる。役に立てた喜びがショコラを包んだ。しかし、アイはまだ気を失ったままで、火傷も先ほどよりはマシになったくらいだ。
「あとは早く街に帰って、神父さまたちに診せないと。わたしのホイミだけじゃムリ」
フウラは窓枠に登り、指笛を鳴らして、
「わかばー! つむじー! はやてー!」
そう呼ぶと、たちまち窓の外にカムシカたちが現れた。
「ショコラさま! アイさまを連れてきて!」
そう言うと、フウラは部屋の隅に落ちていた風の衣を取りに向かう。
アイは自分よりもずっと身体が大きい、火傷だらけでどこを触っていいかわからない、ショコラは一瞬迷ったが、そんな暇はなかった。アイの腕を自分の首にかけ、アイの膝の裏に自分の腕を入れる。ぐにゅりという膝裏の触感に泣きそうになる。うっ、と呻くアイの声に胸が締め付けられる。一気に力を込める。全く持ち上がらないが、他に方法が見つからない。目をぎゅっと瞑って、もう一度力を入れる。羽が自然に動く。
「ん~~~~~~~!」
少しだけアイの身体が浮いたと思った瞬間、急に重さが減った。目を開けると、向かい側でフウラも手を添えていた。
何とか窓枠までアイを運び、伏せて待っていたわかばと、すぐ横でやはり伏せていたはやて二頭の上に仰向けに乗せる。フウラは窓枠に置いていた風の衣をショコラに渡すと、ひらりと若葉の背にまたがった。
「ショコラさま、それ、持ってきて。アイさまの剣もね。わたしは先に街に戻ってるから、つむじに乗ってきてね! いくよ、わかば、はやて! ぜったいアイさまを落としちゃダメだからね!」
フウラが手綱を引くと、わかばとはやては揃って立ち上がり、そのまま二頭ぴったりとくっついたまま、塔を駆け下りていった。残されたつむじが、きゅ! と急かすように鳴く。
「うそでしょ。ここから降りるの……?」
ショコラはアイのいた場所の近くから剣を拾い、窓から眼下を見下ろした。すぐ下の階の屋根と、あとはたちこめた靄しか見えない。
「行くしか、ないよね! つむじ、しがみついててもいい?」
「きゅ~?」
ショコラはつむじにまたがった。風の衣は自分の服の中に抱き、杖は背中に。アイの重く長い剣はどうにも持って乗ることはできなそうだったので、部屋から布を探し、自分の身体にくくりつけ、胸に抱く形でつむじにしがみつくことにした。
「痛くない? 大丈夫ならお願い! つむじ!」
つむじは立ち上がりざま、すぐに身を翻し、塔を駆け下りた。ショコラは目を瞑ってつむじの首にしっかりとしがみつく。前に向かって落下する感覚に、身体も羽も固まっている。一つ一つ屋根を駆け下りる衝撃が伝わってくる。やがて地面に着地するとともに落下は止み、代わりにものすごいスピードで前に進む感覚がやってきた。
薄く目を開けてみると、スイゼン湿原の景色が流れ去っていくのが見えた。雨が降った後の河みたいだと思った。
この速度で、もちろんだいぶ揺れはあるが、不思議なことに蹄の音がほとんど聞こえない。
(空を飛んでいるみたい……まるで風のよう)
代わりに、胸に抱いたアイの剣ががちゃがちゃと音を立てる。思えば、この剣にいつも守られていた。初めて出会った時も、旅の間に出会った魔物との戦闘でも、そして先ほどの戦いでも。この剣と、そしてアイに、自分は守られてばかりだった。
アイは剣の達人で、身体も大きくて、強い。そう思い込んでいた。アイがあんな姿になるなど、想像もしていなかった。エテーネでの惨劇が脳をよぎる。村一番の戦士も無残な姿で倒れていた。
ショコラは自分のふがいなさを恥じた。魔法使いとしてできることはやってきたつもりだが、魔法使いであることに甘え、諦めていた部分がある。覚悟が足りなかった。自分はこのエルフの身体で、魔法使いとして、あの冥王の謎を追い、エテーネを救わなければならない。守られてばかりで、いいはずがない。
風のように駆けるつむじのふさふさとした毛皮は、涙もろともショコラをあたたかく包んでくれた。
つづく 【11】へ