軟弱者 自給自足に挑む!

「学びは暮らしから」をモットーに!
娘とかーちゃんの田舎暮らし。

ありがとう。愛してます。

2012-02-17 05:26:58 | Weblog
 おはようございます。

今朝も生かされてます。

ありがとう。愛してます。



 昨日は、月のものやら、ここ数日の濃い日々やら、のためか?

まあなんだか、眠くて眠くて、午後から半分以上?夢の中〜っていうような日でした。

ひーたんも、今日は寝る!そんなモードだったようで、長く眠っていました。



 おととい友達の家での会話から。

私おなか弱いのよ!という友達の言葉を受けて「私、下痢なんてしたことほとんどない。下痢してみたいもんやわー」と言っていたら、その晩ほんとに実現しました!!!

夜寝る前にやってきた腹痛。

今までなら、自分の中だけで叫んでいただろう状況で「痛いーーー!!!痛い===!!!」とあえて声に出してみました。

となりの布団でマンガを読んでいたひーたんが「おなかそんなに痛いんや。」と反応をくれました。(一瞬私の心に、そんだけか!(少ない)がよぎっていたが、すぐ→あっ!♪愛♪ありがとう。私を気にかけてくれる人がいる。幸せ。感謝。となった。)


そして、トイレで「身体がデトックスしてくれているんや。ありがとう。愛してます。」と自分の身体にいいました。


1時間ほどで、デトックスが終わり、その後普通に眠れました。


ひーたんは、そのままマンガを読み、私のトイレ通いが終わる前にすっかり寝ていました。



 こうやって振り返ると、以前より随分、自分の感情の責任を自分で引き受け、その自分を自分で愛して、周りからのものを当然のものとせず、渇望するように要求せず、もらったらありがたくギフトとして受け取ることができるようになったなとおもいます。

ありがとう。愛してます。



厳密にいうと。

今までの視点での私と同じように感じた私の言動・思考が一瞬あり、少々ひーたんにも出し、すぐに今の視点が沸いてくる?移行する?

そしてその視点で、問題ない〜愛があると感じる世界になる。

そして自分の状況に自分で満足してありがとうとおもえる。

ひーたんに対しても、十分もらっているありがとうとおもえる。

総合的に、私にとってこの出来事は良かったこと。愛が十分あったことになった。

簡単に言うとこんな感じだった。

ココ最近よく感じることだけど、かなり楽に自然にスピードアップしていた♪


ありがとう。愛してます。



これを文章でわかりやすく伝えるとなると、すごーく長い。

ひーたんとのかかわりに関してなんて10分ほどのことだけど、私の中は全く違うから面白い。



 私の捕らえ方の変化のわかりやすい例をいえば。

ひーたんが自分のご飯を自分で作る時。

私も食べたいけど作れないから、私の分も作って欲しい!とおもう時、頼んでみる。

そして断られた時、残念と感じる。でもしかたないとすぐ受け入れられる。

そして、よかった。よかった。ひーたんはひーたんを自分幸せにしてくれている。

ひーたんを大事におもいひーたんの幸せを願う私の幸せを、ひーたんが叶えてくれた♪ありがとう〜♪愛してます♪という気持ちが浮かんできた。



私が私自身に許され愛されたぶん、私の中の罪悪感が減った→自分×が減った。

私が私自身に許され愛された分、私が私の幸せのための主張や言動ができるようになり、ひーたんがひーたんの幸せ最優先でも私の幸せが邪魔されないようになった。→ひーたん×がへった。


そしてそのように私は私の置かれた状況に、不都合や問題や足りないを感じること、不快が減って、イイ感じ〜十分ある〜愛しあっている〜と「快」を感じ、幸せ。ありがたい。と感じることが増えた。



そんな風なことが起こっていると感じる。


そんな風に生かされていると感じる。


ありがとう。愛してます。


ありがとう。愛してます〜。
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大きなギフト 言葉

2012-02-16 11:01:21 | Weblog
 

 私は

家族みんなの

笑顔が

大好きです
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大きなギフト

2012-02-16 06:35:34 | Weblog
 おはようございます。

先日雨の中の散歩で、自生しているような小さな菜の花に出会いました。

じゃあフキノトウもそろそろかな?とおもっていたら、我が家の玄関でフキノトウに出会いました。

少しづつ、冬から春で移り変わっていっているんやなあ〜。



 昨日、友達の家に呼んでもらって、天然酵母の元だねづくりのお手伝いやら、ポノポノの話やら、一緒にご飯を食べるやらの、時間を過ごしていました。

濃厚な人とのかかわりの時間を沢山過ごしています。



 その友達の家で、そこの子が色紙に書いた言葉に、昨日始めて出会いました。

その何度もお邪魔しているお宅で、長年飾られていたらしいその色紙に気がついたのは昨日がはじめて


ここ最近、私の世界はご存知の通り(笑)相変わらずいろいろ感情豊かですが。



その言葉は、その中でも私の心にとってもとっても大きく響きました。



私のこころにやさしくしみました。



愛しくて、ありがたくて、涙が出ました。



出会えて良かった。



ありがとう。愛してます。



その言葉の中から私が感じた愛は、

ひーたんにもある!と感じました。

ありがたくて、愛しくて、涙がでました。

そして私の胸の中にもあると感じました。

ありがたくて、愛しくて、涙がでました。


そして


そしてみんなあるんだろうとおもいました。

ありがたくて、愛しくて、安心が広がりました。



その言葉の中の「家族」は、一般的な家族でもあり、この世全体を重ねてでもあり、それぞれに色んな意味をもちながら、時には形が見えなくなりながらも、みんなの中にあると私にはおもえました。


ほんとはこんな風に、この子がこの言葉に乗せて表現した、とてもシンプルでクリアな愛が、全ての核にあるんだと思いました。


その子のにあった愛は、自我をもった生をもった肉体をもった生身の個人の中に、自他のべつ無くみんなを愛する、そんなような無条件の愛だと私は受け取りました。


そのように受け取りました。


そんな風に生かされました。


ありがとう。愛してます。





足りないと恐れ、不安になる気持ちが、これでまた溶けたと感じました。

私を縛っていた鎖を、にぎりしめていた何かを溶かしてくれたと感じました。


その分、私の中の愛への信頼や安心が広がったと感じました。


ありがとう。愛してます。


この言葉に1年前にであっていたとしたら、1年前の私が感じることは、ここまでではなかったとおもう。

なんだか上手くいえないけれど、今出会えたことがとっても良かったとおもう。


私にとってとても大きなギフトをいただいたと感じました。


ありがとう。愛してます。

ありがとう。愛してます〜。




ちなみに、その言葉は私にとってとても大切でとても重要で〜などの貴重品なので、(笑)ページ?を変えてこの次に言葉だけご紹介したいとおもいます。
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おはようございます。

2012-02-14 11:09:23 | Weblog
 おはようございます。

雨の朝です。


朝起き抜けから、肩こり頭痛あり。

私の身体が私の意識に、何か強く主張してお知らせしてくれている気がします。

ありがとう。愛してます。


ひーたんから散歩のお誘いがありました。

グットタイミング♪



散歩行ってきま〜す。


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おはようゴザイマス ありがとう。愛してます。

2012-02-13 10:20:11 | Weblog
  おはようございます。

書きたいことがない朝です。笑

書きたいこときいて欲しいことは山のようにあるけど、パワーがないって時もありますが、今朝はそんな感じでない。

私の中は昨日までと同じように思考やポノポノ的に自分を見つめたりなども続いているし、少々疲れている朝であったり、これから出かける用があるのでいつもほど時間がない状況ではありますが、

根本的に今誰かに聴いて欲しいことが、空っぽそんな感じです。

今朝の自分の中を感じてみると、そんな感じだなあ〜と感じます。


へえ〜。そうかそうか。そうなんだ。


ありがとう。愛してます。






 おととい、いつもの近所の友達とのかかわりの多い日を過ごし、夕飯をご馳走になり、

鳴門の友達夫婦がやっているお遍路宿で知り合ったEさんが、遍路旅の途中にわが家に遊びにきてくれていて、昨日は出店の手伝いをしてくれたりして、

ひーたん以外の人と個人的に交流し、行動をともにし、家族以外の人の存在を感じる時間が一昨日の夜から連続で続いていています。







こんな風に、この数日、普段とはちょっと様子が違う、

そんな時、そんな時間、そんな流れに、

今の私に丁度良く私の幸せに必要なこと。


今そのように、普段と違う感じの時を、生かされているんだなあ。とおもいます。







ありがとう。愛してます。



ありがとう。愛してます。



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ほんとにこれでいい?ありがとう。愛してます。

2012-02-12 06:05:47 | Weblog
 ほんとに自分は愛せているのか?

これで十分愛せているのか?

私がいけないんじゃないか?


ひーたんとのかかわりの中、ひーたんに対する自分に対して。

私の意識という私の中のおかーさん自身に対して。

そんな疑惑や批判の目を向けているシーンに出会うこともある。

そんな風になっている自分に気がつくときもある。

私の中のおかーさんが、十分愛せてないんじゃないか?と自分を疑う。


これが、この気持ちこそが、自分の中のこどもや、ひーたんを愛している証拠なんやないか。

そうだ♪ひーたんを愛しているんだ。私は私に愛されているんだ。ありがとう。愛してます。


おかーさんが、いっぱいいっぱい過ぎて、これ以上自分を疑い批判すると壊れそうになると、おかーさん自身が自分を守る為、自分に愛を向ける機能が働いて、自分以外のものを疑い批判する。

それがひーたんに向けて出ることもある。

これもまず私を愛して、愛の存在である自分を生かし活かす愛の行動なんだ。

そうだ♪愛しているんだ。ありがとう。愛してます。



 ほんとに私この道進んで大丈夫?

ありがとう。愛してます。

自分は心地よくなっていっている?

ひーたんは心地よくなっていっている?

私がこの道を行くことで、私たちの幸せの循環は上手くまわっている?


そんな視点、そんな目、そんな気持ち。

ありがとう。愛してます。




 ひーたんのヘルペスはどうなん?

やっぱり私もっとがんばらなあかんのちゃうん?

ありがとう。愛してます。

これはきっと、我の強いらしい、私に与えられた理性的に自分をみるめ。

ありがとう。愛してます。


 ひーたんの希望要求にもっと添いたいな、沢山愛してほしいひーたんが沢山愛されていると感じて安心してもらいたいな。

そんな気持ち。

ありがとう。愛してます。


じゃあ、だから、自分の中を愛し自分を愛で満たそう。

自分同士が愛し合っているのを信頼し、愛することを、許可しつづける道を行こう。




愛してます。

愛してます。



私の外から来る、ものを受け取ろう。

不快はお知らせまなびという愛のギフト、道しるべ、そっちじゃないよ〜こっちだよ〜。

ありがとう。愛してます。

快もまた愛のギフト。

ありがとう。愛してます。と堂々とありがたく受け取ろう。

ありがとう。愛してます。


ありがとう。愛してます〜。



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ゆずクリーム 明日日和佐出店・薬王寺「初江式」お知らせ

2012-02-11 15:27:33 | Weblog
 木頭ゆずクリームジャムできた♪

明日2月12日(日) 日和佐道の駅出店します。



明日は道の駅のすぐそばの薬王寺さんで初会式が行われるそうです。
お餅投げもあるそうです♪




開店時間 10時〜11時ごろ

閉店時間 5時ごろ(商品無くなったら早めに閉店になることもあります)

商品 木頭ゆずクリームジャム 大

ご来店お待ちしております〜。



※薬王寺初会式

やくおうじはつえしき

2012年2月11日(土・祝)〜2月12日(日)

11日に寺中にて宵勤めがあり、12日の11時と13時に本堂で僧侶約30名による古式ゆかしい大般若大護摩供法要が行われ、全国信徒の諸願成就が祈願される。12時からは「招福餅なげ」が行われる。
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愛してます。

2012-02-11 03:55:11 | Weblog
 おはようございます。

最近ほとんどコタツで朝をむかえてます。

そして、夜中!というような早い時間に目が覚めます。

私の中に、世の中のことをおもいやる節電の意識だとか、自身の身体とか経済だとかをおもいやる意識とかが、私なりにあって、この頃毎晩コタツで寝ている自分を責める意識や申し訳ないという意識が、湧いているのを感じます。

自分×の意識。

ありがとう。愛してます。

正しいことも、間違っていることも、いいことも、悪いことも、ほんとはなにもない。

そのあらたな価値観が私の中に入ってきたのは、3〜4年前に「道三」というマンガの中で主人公が言っていた言葉を読んだ時。


そこから、禁止、強制、コントロール。

いいとか悪いとか、正しいとか間違ってるとか評価すること。

なくてもいい。なくても大丈夫。一度全部とっぱらう。

自分の中に設けている基準を、手放せるものは手放し。

そのままの自分を受け入れようという意識も私の中に共存し始めた。

そしてポノポノに出会って、ポノポノを日々意識していくうちに、自分の基準に添えない自分も愛するうちに。

自分に対し、いいとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、〜しなきゃとおもっている自分をダメと評価している自分に気がついた。

そして、そんな自分にも、ありがとう。愛してます。という意識を向けるようになった。



今朝目覚めたこたつの中でまどろみながら。

そんな今の自分を感じていた。

そして、今の私ができる範囲、私の全てにありがとう。愛してます。という意識をむけた。

今週はお通じが、なんだか必要あってわけあって不調で、昨日も今朝目が覚めたときも、おなかがパンパンに張って苦しかった。

そんな風に自分を扱って申し訳ない気持ちがあった。

自分ダメ。悪いことしている意識だった。

そんな自分にもありがとう。愛してます。といった。



 そんなことをしていたら。

私の身体が私に、しんどいよーやめてーなどと、不満を訴えていて、その私の身体が困らないように苦しまないように愛せないと感じ罪悪感が発生している自分を感じた。

そして、この水曜日に受けたカウンセリング中の、児童相談所のカウンセラーとのやりとりで、(数日前にブログにも書いた)自分が語っていたことが思い出された。

そうだそうだった。

私の中の子どもは、私の身体は、不満や不足を訴えているわけでなくて。ただ愛してくれている。

ただ自分も、自分のおかーさんも、自分の家族も、全体も、ただ愛してくれている存在なんだ。

怒ってもない、うらんでもない、いつも愛してくれているおかーさんをいつも全面的に信頼してくれていて、いつも愛してくれている。

自分も愛しているから、苦しい時は苦しいとちゃんと主張しているだけで、おかーさんを責めているわけではない。

ただ自分を愛し自分の気持ちを主張しているだけなんだ。何度嫌な思いをしても、純真で無垢な感じで、ただ愛してくれている。


そんな視点で、そんな風にみることもできる。

そこに不都合や矛盾がを感じない。

それが、クリアな目。もののけ姫をみて私のこころに残った「曇りのないまなこ」でみる世界みえる世界なんじゃないか。

その世界に生き、生かされる!こともできる。

する!♪


私を幸せにする為になんだかわけあって、私の過去の体験が記憶されて、くもったまなこ。

自分の認識の世界は自分の責任。自分の全てにだたひたすらに、ありがとう。愛してます。という。それが曇りをとることなんだ。

そんな風に感じる。

そんな風に感じるように生かされている。


ありがとう。愛してます。



 ポノポノの伝承をしている?ヒュ−レン博士の言葉。

「「ごめんなさい」は、いわなくてもいい。究極は愛してますだけでいい。」

はきっとこういうことからなんだ。


ごめんなさい。許してください。ありがとう。はおかーさん自身の意識をおかーさん自身が許す為に必要な言葉。

あなたが不満だとおもっているなんておもってごめんなさい。


そもそも、愛する為に生まれてきて、ただ自分も含んだ全体をただ全力で愛することだけしかしない。

そのことに疑いを持つことが、心地いい愛の循環に不都合を発生させていただけ。

そんな風なんじゃないか。

ありがとう。愛してます。



そして、そのメッセージは、ひーたんから私へ送られていた。

ずっとずっとひーたんは教えてくれていた。

このことを言っていたんだ。このことを訴えていたんだ。

そうおもった。

子どもは「曇りのないまなこ」で、いつだって全ての中の核の愛だけ見ている。

全てを愛として受け取ってくれている。

そしてただ愛だけ発信している。

ただ愛している。

私の中にも、全ての中にも、それがある。

ただなんだかわけあって曇ってしまってみえない、発揮できない、とかになっているだけ。


ありがとう。愛してます。


十分愛せてない、申し訳ないなんて罪悪感をいだかず、

だた愛するしかしてない子どもが、私に不満をもっているだとか、不足を感じているだとか

何も求めず、ただ自分を含む全てを愛しているに過ぎない子どもが、私に愛が足りないと要求しているだとか、


そう感じる、そうみえるのは、なんだかわけあって曇ってしまった私のまなこがみてるもの。


命あるものにとって生きるとは、愛することなんだろう。

この間読んだ「愛するということ」に書かれていた。


子どもはできている。

実は大人もみんなそもそもできている。

みんなしている。

みんなできている。

だから生きている。だから生かされている。

ありがとう。愛してます。


ただ愛するだけでいい。

そして実はそもそもみんなしている。


愛する対象に、自他を分ける視点があることで曇っているんやないか?


私は私。

私はこの世。

私はこの世の1部。

私を愛するということ=この世を愛すること。


この世がひとつの生命体。

この世が一人の人としたら。

私はそれを構成する細胞のひとつ。

自己主張、自分の中に沸いてくるもの、その細胞がその細胞の命を活かし、その細胞に与えられた役割というをまっとうする為の正常な機能が作用しているだけ。


それをよくないこととしなくてもいい。

それを間違っていることとしなくてもいい。

そもそも命とは、命ある今、いつも自分を含む全体を愛しているだけ。


怒りや不満や悲しみなどの不快な感情と感じているもの。

これも、自分を含む全体を愛しているだけ。

だた愛している。

ただいつも愛し愛されているだけ。


そんな風なんだろう。

そんな風だとおもう。

ありがとう。愛してます。



今、いつも、目の前にあるだた愛し愛されている、世界をみて、

愛し愛されている世界を感じる。

私のなまこの曇もりを掃除しクリアな目でみて感じることは=愛すること。

過去の経験を通してぎゅっと握り締めている私の手をゆるめ、私が私の鎖を安心して手放すことは=愛すること。


他者を、全体を愛すること=私を愛すること。

私を無条件で愛すること=私を命を生かし活かすこと=この世全体の1部である私という細胞の役割を果たすこと。



そんな風なんじゃないか♪


そんな風に感じる、そんな風におもう。

そんな風に生かされている。


ありがとう。愛してます。


私の認識する世界は全て私の責任。

全ての私に、愛してます。といってもいいんだ♪

それが私の役割を果たすこととイコールなんだ。


ありがとう。愛してます。


純粋に無垢に愛されていることに、ありがとう。

私も私の中の子どもをみならって、ひーたんからのメッセージももらってお手本にして、ただひたすらに全て愛する。


ありがとう。愛してます。


存在は愛。

生きるとは愛すること。

幸せに生きるとは愛すること。


そんな感じなんだろう。


ありがとう。愛してます。


どんな形であれ、どんな状態であれ、どんな言動であれ。

そもそも愛し合っている。

私の意識という私の中のおかーさんのような存在が、それんな自分の愛を信頼していないだけ。

こどもがほしいのは、自分がしてるように、おかーさんに愛されること。

それは、おかーさんが自分は「十分愛してます」と自分を信頼することでできること。


そんな風なんじゃないか。

おかーさんが自分から出る、愛してますを信頼すること。


愛してます。


愛してます〜。




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言葉 金山さんの記事

2012-02-10 06:29:43 | Weblog
 最近言葉について色々おもっていたことや感じていることと似たような感じのことがかかれているなあーそうかそういうことか〜とおもった記事のご紹介。

金山さんのブログ↓より

言葉はツール
2011年05月24日
テーマ:創造者としての目覚め
『言葉』というものは非常に便利なツールです。


『言葉』は、抽象度の高いものごとに
具体的な意味をもたせることができます。



『言葉』によって人は思考することができます。


世の中のいろいろなものごとに、形やイメージ、
そして、意味をもたせることができるのです。




人は、『言葉』によって自分の
思いや感情を表現できます。


『言葉』はコミュニケーションの
可能性を広げてくれます。



人間が生み出したもの・発明したものの中で、
『言葉』というものは、恐らく最も便利なツール
だと言えるのではないでしょうか。




ですが、『言葉』は万能ではありません。


たとえば、『父親』という言葉に対して、
脳裏に浮かぶイメージは人によって違います。


『father』という言葉に対して浮かぶイメージは、
一般的なアメリカ人と日本人では違います。



同じ『言葉』を使っても、それが指す
イメージは人によって違うのです。



『言葉』ひとつとってもそうなので、
文章や会話は、なおさらのことです。





電話で人と話していて、その時は特に
意識せずに相手と言葉を交わします。



電話を切った後、ふと振り返ってみて、


『自分たちはお互いに、一体何を交換していたのか?』


と、不思議に思ってしまったことがあります。




考えてみれば、自分が使った言葉は相手の中では、
自分の意図とは別の解釈をされているはずだし、

相手の言葉も、相手の中では、自分の受け取り方
とは別の意図があったはずです。



でも、親しく、信頼関係の出来ている相手であれば特に、
確実に『言葉』以上の何かが通じ合っているのです。




メラビアンの法則というものがあります。



アメリカの心理学者アルバート・メラビアンが
1971年に提唱した法則で、『7-38-55のルール』
とも言われます。


感情や態度について矛盾したメッセージが
発せられたときの人の受けとめ方が、


話の内容などの言語情報が7%、

口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、

見た目などの視覚情報が55%


の割合になる、というものです。




この法則をとってみても、コミュニケーション
において、『言葉』が占める重要度が大したもの
ではないことがわかります。



『言葉』をもたない動物であっても、親子や
つがいの間に、愛情のコミュニケーションが
立派に成立しているのをみれば、確かに
理解できることですね。



また、例に挙げた『電話口』でのコミュニケーション、
つまり、相手の姿が見えない、ある種ヴァーチャル
なやりとりであっても、人は単に『言葉』だけを
交換しているわけではないのです。



コミュニケーションは、感情や、何か目に見えない
エネルギーを交換することによって成り立っているのです。



目に見えない、『言葉』の裏にある、
もっと大事なものの存在を意識する。


そういう、当たり前の裏に潜む価値を
しっかり意識することが、大切なんでしょうね。



金山さんの記事↑ここまでです。




言語だけ文字だけで伝わるものと、声のトーンや表情など身体全体で感じたものは、また奥行きが違う?そんな気がする。


そして私はメールとか手紙とかで、文字だけ伝えあうより。

電話や対面で人と話すほうが好きで

大切な人との大切な話ほど、対面を望むとこがある。
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いいかげん 私の仮説 質問

2012-02-10 05:35:39 | Weblog
 いいかげんって言葉。

そもそも始めは「いいかげん=良い加減」でしかなかったんじゃないか!?!

とおもって、ひーたんと話した。

私の疑問・仮説は、まあ最近のいつものとおり、最近の私の視点で展開した。


これこれこんな風なことがあって、これこれこんなわけで、必要あって。これこれこんな愛で、これこれこんな風にあれこれ変化していっているんじゃないか!?な〜んて話しをした。


たぶんひーたんは私の話を大してきいてなかったとおもう。笑


ひーたんは熱心にいいかげんを使い分けるイントネーションを表現して私に話してくれていた。

よかった。ありがとう♪


ひーたんの答えはひーたんが決める。

私に洗脳されたり、私からインプットされたものが多すぎて、ひーたんが自分で感じられなくなるのを、ひーたんなりに防いでくれていると感じる。


私たち楽しい。私たちの関係おもしろい。私は自分で自分をそんな風にみることができた。

ありがとう。愛してます。


ありがとう。愛してます。




 そして、今でもとかずっと、「いいかげん=○(良い加減)」という観念しか持ってない人もいるんだとおもう。

今の?一昨日までの?私とひーたんは「いいかげん=○も×もある」だった。

そして私の中では「いいかげん=(良い加減)」ということになった?なりつつある?まあ前よりはなった。

そういう感じです。

ちなみに○のイメージは「影・光のセット=○」。




 いいかげんという言葉。

私の認識では、私の生まれた1970年ごろ〜1990年〜2000年ごろ、
いいかげん=×という意味で使われることが中心で、それが社会的に過半数の人の共通の価値観で、私もそのように感じていた。そして社会の大多数の変化にともない、ともなうように?社会的な基準にも、私のなかにも、いいかげん=○×が普及していった。

そのように私は過半数の価値基準の影響を受け、それにそってきた。流されてきた。

そして社会の価値基準は、私が感じていたように感じていったように変化していっていた。

そう感じている人が多い。

そう感じているのが過半数。

私もそこに属している。


私はそんな風に感じるんですが。


みなさんはどうおもいます?


また、みなさんの「いいかげん」のイメージはどんなですか?

私は、そもそもいいかげん=良い加減だったんちゃうん!?!とおもいましたが、

みなさんはどうおもいます?


よかったら、みなさんそれぞれの視点の、それぞれのご意見きかせてください。






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