常勝大阪2

随筆人間世紀の光、スピーチ

◆大中部に轟く正義の勝鬨

2004-04-28 08:38:54 | 中部
随筆 人間世紀の光 027


◆大中部に轟く正義の勝鬨

―― 青年が立てば堅塁城は不滅 ――

―― 我らは「信教の自由」を断じて護る ――




―― 君よ勇気の「挑戦王」たれ! ――





 「生まれつき耐えられぬようなことはだれにも起らない」とは、古代ローマの哲人・皇帝マルクス・アウレリウスが語った人生哲学である。
 若き青年の君よ! 何があろうが、断じて屈するな! 断じて負けるな! 前進をあきらめるな!
 法華経に説かれている「能忍」とは、「よく堪え忍ぶ」という意義を持った言葉である仏の別名のことだ。
 つまり、来る日も来る日も、苦難と苦悩に満ち満ちた危険千万である、この娑婆世界にあって、「何ものにも断じて負けない!」という不屈の師子王の生命こそ、仏であるというのだ。
 熱い涙を流し、苦悩の日々を乗り越え、悲しく歌ったあの日を勝利に変えながら、真実の栄光を、真実の幸福を勝ち取った、汝自身の魂の英雄の姿よ!
 これが、偉大なる中部の同志の方々の実像である。

     ◇

 それは、昭和三十四年の秋の出来事であった。
 忘れることができぬ九月二十六日の夕刻――。紀伊半島の潮岬付近に、超大型の台風十五号が上陸したのである。
 各方面に、その恐怖の破壊を続けながら、台風は闇の中を北上していった。有名な伊勢湾台風である。
 この台風の直撃を受けた愛知県、三重県、岐阜県を中心に、全国で五千人以上の死者・行方不明者が出たのであった。
 この悲しき悪夢の如き災禍から、今年で四十五年となる。
 当時の私は、学会でただ一人の総務として、事実上、恩師亡き後の全責任を担っていた。
 あの暴風雨の晩、私は静岡にいた。皆の安否を思うと、夜も眠れなかった。
 いったん、東京に戻り、学会本部で懸命に救援体制を整えると、私は、友の嘆きを我が胸の嘆きとして、中部の大切な同志のもとへ走った。
 名古屋駅で降り、真っ先に“泥の海”のような被災地域に、数人の同志と共に足を運んだ。
 尊敬する友を護るために、大切な同志を護るために、異体を同心とする家族以上の友を護るために、私は全魂を打ち込んで走り回った。
 さらにまた、半年前にできた愛知会館を救援の本部とし、皆が何でも相談に来られるように開放した。
 ひっきりなしに同志が訪ねて来られた。
 家を失い、家財を流され、疲れ切った顔があった。不安に怯えた顔があった。泥まみれの姿で、中に入るのを躊躇する人もいた。
 「ここは、あなたの“家”です。そのままで結構です。どうぞ上がってください」
 一人ひとりを迎え入れては、消えかかった勇気の灯に再び油を注ぐように、私は全身全霊で励まし抜いた。
 「大悪をこ(起)れば大善きたる」(御書一三〇〇ページ)と教えられた仏法である。最悪の事態も必ず変毒為薬できる信心である。
 ともかく、一番大変なところ、一番苦しんでいる人のもとへ飛び込め! そこで戦いを起こせ!
 これが、真実の仏法であり、学会精神であるからだ。
 それから私は、三重の四日市方面へ行くことを、即刻、決めた。
 大難があった時に、永遠に栄えゆく勝利と福運を開くべき、自分自身の魂を自殺させてはならない。
 「勇気」を与えることだ。
 「生き抜く力」を与えることだ。
 だが、台風の猛威は長良川をまたぐ交通を寸断していた。恐ろしい濁流が轟音を上げて立ちはだかっていた。「これでは無理だ」と、呆然と皆がつぶやいていた。
 しかし、私は、あきらめるわけにはいかなかった。
 川の対岸に、同志たちがいるからだ。行けないわけはない!
 我々は、無限の勝利の鎖で、魂と魂が繋がっているのである。
 私は前進した。大変な遠回りであったが、川を渡れない以上、岐阜から関西へ入り、そこから三重に向かうというルートを選んで、苦難と戦っている友のもとへ急いだのであった。
 どんな困難な状況にあっても、解決策は必ずある。救いのない運命というものはない。
 「運命というものは、人をいかなる災難にあわせても、必ず一方の戸口をあけておいて、そこから救いの手を差しのべてくれる」
 これは、世界的に名高いスペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』に綴った一節である。彼の信念がにじみ出ている有名な言葉だ。

必ず勝利の突破口を
 
 息苦しい陰惨な“不可能の壁”が、いかに頑丈に見えても、鬼神をも動かす厳然たる祈りと、勇敢なる信念の行動があれば、必ずや、永遠の希望に満ち満ちた勝利の突破口を開いていけることは、間違いないのだ。
 私の尊き青春時代、四十五年前の一日一日の行動は、いな、一日一日の戦闘は、この魂をば、中部の大地に留めるためであったといえる。
 そして中部の全天に、勝利の風を巻き起こすための東奔西走であったといってよい。

     ◇

 ともあれ、日蓮仏法の「立正安国」の精神から、「人間革命」、そして「民衆の救済」と、さらには「社会革命」へと立ち上がった我が学会は、その前途に苦難の烈風を宿命づけられていくのは当然のことであった。
 特に、学会が支援する公明党が躍進するにつれ、危機感を抱いた政界や宗教界から、数限りない非難・中傷が沸騰していった。
 なかでも中部は、最も辛く苦しい歳月を歩んだ。
 思えば、私の“会長就任十周年”にあたる昭和四十五年ごろも、そうであった。
 当時、学会を狙い撃ちした悪質な中傷本に対する、一部のメンバーの抗議行動が、思いもよらぬ言論・出版妨害事件とされたのである。
 このいわゆる「言論問題」を発端に、学会を反社会的団体として抹殺せんとするが如き、囂々たる批判の嵐が吹き荒れたのだ。
 「言論問題」は国会に持ち出され、愛知選出の某議員などは、全くの憶測と偏見に基づいて学会を罵り、私に対しても不当極まりない「喚問」を要求したのである。
 中部の同志は、信教の自由を脅かす権力の横暴に、激怒した。言われ放題の情けなさに悔し涙した。

青年が決起した!

 この時、決然と立ち上がったのが、大野和郎君(現・総中部長)を中心とする青年たちであった。
 「こんなことが許されてなるものか!必ず、必ず正義の勝鬨をあげてみせる!」
 十六人の青年たちが、固く盟約した。
 彼らは祈りに祈りつつ、胸中に不屈という堅塁を固め、「忍辱の鎧」を身にまとって、嵐のなかへ勇んで打って出たのであった。
 彼らは、陰湿な謀略に対して、そして邪悪な暴論に対して、堂々たる正論で反撃を開始していったのであった。
 多くの同志が誹謗と悪口に苦しめられた。
 しかし、卑劣な狂乱状態の攻撃に対して、栄誉ある尊き大使命に立ち、進んでいく我が学会を厳護せんがために、多くの友が歯を食いしばって、反転攻勢の火蓋を切ってくれたのだ。
 私は、生涯、忘れることができない、この同志たちの名前を、今でも御宝前の脇に置いている。
 彼は戦った。彼は前進した。彼は勇んで攻撃を開始した。
 そして誰人も納得できる誠実な対話で、信頼を大きく大きく広げていった。
 来る日も、来る日も、なかなか決着のつかない戦場で、攻めて攻めて、攻め抜いていった。
 我らの正義と、我らの戦うべき使命を叫びながら!
 法難の至高の喜びを、胸に抱きながら!
 息つく暇もなく、彼らは戦った。いや、戦い抜いた。
 そして、中部は勝った。
 彼ら「中部十六勇士」は勝ったのだ!

     ◇

 いざや起て
   いざや築けと
     金の城
  中部の堅塁
    丈夫勇みて

 かつて、私が戸田先生に捧げた誓いの歌である。
 私自身が「丈夫」となりて戦闘を開始して、絶対に人材の堅塁を築いてみせる!
 そして、大中部から、「死身弘法」の幾千幾万の青年たちを、必ず育てあげてみせると、私は大御本尊に真剣に誓ったのである。
 今、その通りの中部となった。理想的な中部の基盤は、出来上がった。本当に、私は嬉しい。
 仏典には、「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」(御書三一〇ページ等)とある。
 人間の生き方として拝すれば、「浅き」とは惰性であり、安逸であり、臆病である。この惰弱な心を勇敢に打ち破って、「深き信念」と「深き人間の偉大さ」につくのが「丈夫の心」だ。
 おお、一番星の中部の青年部よ、自分自身に勝っていくことだ!
 それが、本当の信念であり、仏の使者としての意志であるからだ。
 勝ちゆく人生は、素晴らしく幸福である。誇り高く正義の輝きである。そして、勝ちゆく人生を生き抜く人は、無限の価値と歴史を創り残しゆく、庶民の大王である。
 君よ、正義の友とスクラムを組め!
 下劣な力に負けるな!
 世間の日々の労苦にも負けるな!
 正義を貫き、人生を牛耳っていくのは、自分自身の自由な生命だ。
 負けるな!
 君よ、負けるな!
 愚か者になるな! 賢く、勝利の賢者になるのだ。
 さらにまた仏典には、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(同一〇二五ページ)とも説かれている。
 自分の弱い心や感情に翻弄されることなく、本来の自分らしく、尊き使命に生きるのだ!
 その最も自分らしい人生の羅針盤が「信心」だ。
 そしてまた、正義に生きゆく学会と共に、広宣に戦いゆく師弟の大道を生き抜くことだ。これを外れて、信心はない。勝利はない。幸福もないからだ。

     ◇

 「あらゆる困難は、新たな発展への一つのチャンスです」
 現在、私が親しく対談を進めている、インドの大科学者スワミナサン博士の言葉は、私に、中部青年部の雄姿を想起させるものであった。
 それは、昭和五十七年の四月二十九日、岐阜で行われた第一回中部青年平和文化祭のことだ。
 その最後の演目である男子部の組み体操で、強風にあおられたように、五基立てられた五段円塔のうち、中央の円塔が崩れていったのだ。
 皆が驚いた。皆が蒼くなった。そして皆が固唾をのんだ。音楽も止まった。瞬間、全会場が静まりかえった。沈黙が長く感じられた。
 だが、直ちに、師子が吼える如く、不屈の声が沸き上がった。
 「もう一回だ!」
 「やるんだ!」
 崩れたことで、がっくりと打ちひしがれている弱虫など一人もいなかった。次の瞬間には、もう跳ね起きるように再挑戦が始まっていた。
 私は胸が熱くなった。
 そうだ。この不屈の挑戦が中部魂だ!倒れても、倒れても、断じて負けるな。立ち上がって、前へ進むのだ! やり遂げるのだ!
 全同志の祈りに応えるかのように、若き英雄たちの再びの挑戦は、永遠に輝く勝利の金字塔を築き上げた。
 青年たちは勝ったのだ!
 青年たちは歴史を築いたのだ!
 中部の天地に、「二十一世紀の希望の虹」が大きく輝いていることが、皆にはっきりと見えた。

     ◇

 おお、使命ある若き君よ! 
 おお、広宣流布の青年よ!
 いかなる困難の壁も、悠然と乗り越え、厳然と勝ち越えていってくれ給え!
 その尊き責任と、勝ち抜く力が、諸君自身の胸にあるのだ!
 ともあれ、私はすぐさま、第二回の文化祭を行うことを提案した。少々、疲れている青年に早すぎると思ったが、これこそ訓練の中の訓練をするのだという決意であった。
 皆がいっせいに、「やります!」と大声で叫んだ。
 五カ月後、中部の若人は、この文化祭も、圧倒的な勝利で飾ってくれた。
 若き諸君こそ、尊き広宣流布への「堅塁中部」の誉れ高き直系中の直系なのだ!
 法華経には、広宣流布に勝ち抜く人を、三世十方の諸天善神が守りに護れと厳命されている。一生涯、君たちを、諸天善神は断固として護っていることを、確信してくれ給え!
 
飛翔そして勝利!
 
 そしてまた、大中部は、固い大地を蹴って、使命と勇気の鳳が飛翔しゆく舞台でもあった。
 一九九八年(平成十年)、世界六十三カ国の、人種も異なる多種多様な人びとをば、名古屋に賑やかに迎え、それはそれは絢爛たる世界青年平和文化祭が開催されたのである。
 「飛翔そして勝利」という、私も大好きなテーマであった。
 中部青年部十万人の代表二万人が、ナゴヤドームを揺り動かした青春の舞を、青春の心意気を、そして青春の勝利へのスクラムを見せてくれた。
 素晴らしかった。嬉しかった。
 嫉妬と僧悪が渦巻く、この世の世界でない、未来の理想としている人間愛の縮図が、ここにあった。
 さらに、中部の青年部は、私が日中友好に注いだ真情を汲んで、「偉大な指導者周恩来」展を、独自に企画・制作してくれた。
 天晴れ、中部青年部よ!
 君たちは、日本中に、大いなる新しき勇気の波動を広げてくれたのだ。
 「新たな戦いを起こせ!
 新たな勝利をもぎ取れ!
 それが、青年の青年たる所以だ」と。
 これが、青年の特権であるからだ。

     ◇

 堂々と
  断固と勝ちたり
      中部かな

 日本のど真ん中で、東西を見渡しながら、二十一世紀を決する広宣流布の、妙法流布の戦野を、縦横無尽に駆け巡ってくれ給え!
 東京、首都圏の勝利も、そしてまた関西の勝利も、中部の君たちが責任をもつ決意で、立ち上がってくれ給え!
 ともあれ、私が心から愛する愛知、三重、岐阜の青年たちよ!
 そして、偉大なる静岡の青年たちよ!
 大中部の若師子たちよ!
 完勝の金星よ! 勝って、勝って、勝ちまくれ!
 諸君が美事に築きゆく、永遠不滅の、夢に見た大堅塁城を、私たちは祈り待っている。


2004年(平成16年)4月28日(水)掲載