キャンディキャンディFinalStoryファンフィクション:水仙の咲く頃
By Josephine Hymes/ブログ主 訳
By Josephine Hymes/ブログ主 訳
4月12日の朝、キャンディは少し吐き気を感じて目が覚めた。キャンディはベッドから起き上がって台所へ行き、不快な感覚を和らげるためにリコリス茶を入れた。暖かいハーブティーをカップに注ぎながら時計に目をやると、時刻は丁度午前6時だった。今日は日曜日だったので、ハーブティーを飲み終えたらもう少しベッドで休んでも大丈夫だ。キャンディは、この体の不快な症状が改善することを期待して、そのようなことを考えた。
ハーブティーをゆっくりとすすりながら、だるい足取りで寝室に戻ると、ベッドではテリィがまだぐっすりと眠っていた。夜明けのピンクがかった陽の光が、もう既に白いカーテンから差し込み始めていた。
キャンディは窓の方へと歩み寄り、朝の空気を吸い込むために窓ガラスを開けた。――朝の新鮮な空気が気分を良くしてくれるはずだ……。そして窓を開けた時、キャンディは今日が何の日かを思い出した――イースター(復活祭)だ。そのことを思い出すと同時にテラコッタの鉢植えで満開になっている水仙が目に映り、キャンディの顔に笑顔が浮かんだ。
バルコニーのガーデンチェアーに腰掛けて、キャンディはトランペットの形に似た繊細な水仙の花を観賞した。そして、心の中で今日一日の予定を確認している間に、ハーブティーの香りが胃の不快感を和らげるのを感じた。キャンディは、ミサの時間に間に合えばいいがと考えていた。テリィを教会に無理やり引っ張ってでも、今日のイースターの礼拝には何としても参列するつもりでいたのだ。テリィが引っ張られている姿を想像して、キャンディはクスクスと声に出して笑った。
テリィと暮らすようになってから3ヶ月が過ぎ、テリィが常に近くにいることにもキャンディの心は慣れ始めていた。このようにテリィの存在に馴染んでいくのは、かつて経験したことのないような穏やかな喜びであり、完全に満ち足りた状態であり、甘美で心地よい感覚だった。――人はこれを幸福と呼ぶのだろう……。ほとんどのラブストーリーは、主人公がこのような状態に至って、読者にとってつまらなくなるこの段階で終わりを迎える。
がしかし、キャンディにとってテリィとの人生がつまらなくなることなどあり得なかった。公の場所でのテリィはいつも慎重で冷静沈着だったけれど、キャンディと二人だけの時は、これ以上望めないほど愉快な男になるのだった。この暴れ馬同士のカップルは、二人で過ごす時間を殊のほか楽しんだ。二人はカントリークラブでの乗馬に興じ、アッパー・イースト・サイドの散歩に出かけ、家でゆっくりと読者や音楽を楽しんだ。何をしていても、二人は終始声を出して笑いながら満喫した。もちろんこのような遊びはあくまで余暇の時間に限られていたし、いつどこにでも現れるカメラマンを避けなければならなかったけれど、キャンディにとっては全く問題にならなかった。
さらに二人の間には、新たに培われた肉体関係の親密さがあった。テリィと寝室を共にするようになってから、ベッドの中では亭主関白で、毎晩愛し合わなければ気が済まない恋人と自分が結婚したことをキャンディは理解した。愛し合う時のテリィは、究極的にはキャンディを自分のものにするという目的を持って行動するのだが、その瞬間に至るまでのスタイルやアプローチの仕方は予測不能だった。――もちろんキャンディには不満などなかった。
このような嗜好を持つ男性にとって――キャンディは笑顔を浮かべながら考えていた――毎月1週間も愛し合えない期間があることが非常にもどかしい様子だったが、いくらキャンディでも自然の摂理に逆らうことはできない。そんなことに思いを巡らせていた瞬間、キャンディの思考が凍りついた。
(えっ!? 最後に生理が来たのはいつだった?) キャンディは、眉を寄せて自分に問い掛けた。

3月に始まった『リチャード三世』の舞台は大きな成功を収めていた。4月に入り、5週間に渡る連日満席の公演が終わりを迎えると、ストラスフォード劇団は公演旅行の準備に取りかかった。5月の末にスタートする今回の公演旅行では東南部の地域を回り、7月にニューオリンズで幕を閉じる予定になっていた。
この間、ストラスフォード劇団の売却に関する詳細が発表された。今冬シーズンの舞台は、新たな経営者であるライオネル、エセル、ジョン・バリモアの3兄弟の元での公演となる。全員が40代のバリモア3兄弟は、ブロードウェイで最も高い評価を得ている熟練した俳優として知られていた。3兄弟の中で最年少のジョンは、長年ライトコメディを演じてスターダムにのし上がったのだが、最近では高級演劇でも成功を収めていた。そのためテリュース・グレアムとジョン・バリモアは演劇界のライバルと目されていて、ストラスフォード劇団には主演俳優2人分の席はなかったために、テリュース・グレアムが別の劇団に移籍するという噂が浮上した。テリィは自分の置かれた状況をよく把握し、自分の業績に関心を示してきた舞台監督たちに会い始めていた。しかしこれまでのところ、満足のいくオファーは得られていなかった。
4月のあるけだるい朝のこと、テリィは会計士から送られてきた所得税の報告書を書斎で確認していた。キャンディは病院でのボランティアに出掛けていたので、テリィは夕食までの丸一日、一人の時間を過ごすことになっていた。キャンディが帰宅するまでにこの面倒な報告書の確認を済ませてしまおうと、テリィが集中して作業していると、書斎のドアをノックする音がした。家政婦のミセス・オマリーが郵便物を届けに来たのだ。ミセス・オマリーは書斎に入って来て机の上に郵便物を置いてから、静かに部屋を出ていった。
再び部屋に一人になると、テリィは宛名を確認しながら自分宛てと妻宛てに郵便物を仕分けした。予想に反せず、ほとんどの手紙は社交的なキャンディ宛てのもので、自分宛ての手紙は3通だけだった。その3通の中から、テリィは最初にウィリアム・アルバート・アードレーからの手紙を読んだ。その手紙には、新しく始めた事業のためにアルバートさんはヨーロッパに出張せねばならず、テリィと二人で計画していたポニーの家でのキャンディのお誕生日会に参加できないことが記されていた。アルバートさんはそのことを非常に残念がりながらも、テリィには予定通りに計画を進めて欲しいと頼んでいた。そして、キャンディの誕生日の祝いの席に参加できない代わりに、4月24日にロンドンへ発つ前の1週間をニューヨークで二人と過ごしたいということだった。
手紙を封筒に戻しながら、アルバートさんのような友人の訪問を受けるのはとても楽しそうだとテリィは思った。そして、この新居にそのような大切な客人を迎えるのを、キャンディもたいそう喜ぶだろうと想像した。そしてこの訪問が、キャンディにとって今後数か月に渡るアルバートさんの不在の慰めになることを期待した。
2通目の手紙に目を落とした時、テリィはまだアルバートさんの訪問のことを考えていた。その特徴のある筆跡で書かれた2通目の手紙は、イギリスのロイヤル・シェークスピア・カンパニーの演出家であるウィリアム・ブリッジス・アダムスからのものだった。テリィがロンドンでその演出家と仕事をしてから1年が経っていたが、その間二人の間には何のやり取りもなかったのだった。
テリィはいくつかの理由からブリッジス・アダムスのことを気に入っていた。ブリッジス・アダムスはテリィより8才年上だったが、オックスフォード大学のドラマティック・ソサエティに在籍していた時から素晴らしい評判を得ていた。ブリッジス・アダムスはまた野心家であり、完全主義者であり、シェークスピア劇の演出家の中でも強固な原典主義者だった。ブリッジス・アダムスが頑固なまでにファースト・フォリオにこだわって、原典から一切の編集や省略なしに舞台の演出をしようとすることから、人々は彼を冗談でアンアブリッジス・アダムス(訳者注*「unabridged」に「要約しない」という意味があることからの言葉遊び)と呼ぶほどだった。そしてテリィ自身も断固とした原典主義者だったのだ。
ということで、テリィはブリッジス・アダムスからの手紙の内容を、関心を持って読んだ。その手紙は、ハサウェイの引退の話を知ったブリッジス・アダムスが、テリィにロイヤル・シェークスピア・カンパニーの劇団員の座をオファーするものだった。テリィはその手紙の意味するところの重大性を理解するために、何度か読み返さなければならなかった。収入、格式、俳優としてのキャリアの構築、そのすべての面から言って、このオファーは現時点で提示され得る最高のものだった。その上このオファーを受けることはイギリスに移り住むことを意味していたために、父親に今までよりも頻繁に会える機会が突如として目の前に現れたのだった。
しかし……それでもしかし……そのオファーを受けるのを躊躇させる側面があることも否めなかった。その一つは、母親がニューヨークにいることだった。一人の親を得れば、一人を失うことになるのだ。そしてもう一つは妻のことだった。テリィは、キャンディがアメリカにとても愛着を抱いていることを知っていた。キャンディにとって大切な人たちはほとんどこの国に住んでいる。故郷のインディアナを遠く離れたニューヨークに住んでいることでさえ十分辛い事であるのに、今回は大西洋の反対側へ行くことを意味していた。――あの快活なキャンディが、このような別離に耐えられるのだろうか? イギリスに住んで愛する友人たちや家族に会えなくなった時、自分一人の存在がキャンディの慰めになるのだろうか……。 キャンディの陽気な性格がホームシックによって損なわれてしまうところなど、テリィは見たくなかった。このような考えに心が乱されて、テリィはブリッジス・アダムスからの手紙を机の引き出しにしまった。
3通目の手紙は父親からのものだった。封筒の中に鍵が入っているのを不思議に思いながら、テリィは父親からの手紙を読み始めた。その長い手紙の一部には、このような物語が記されていた――
3代目グランチェスター家の当主ダンカン・グランチェスター公は、公爵領を継ぐ前の若かりし侯爵だった頃、エリザベス1世の英国海軍に所属していた。そして、1588年のアルマダ海戦で英雄的な防衛戦を戦ったのだ。侯爵はその栄光の戦いの最中、非常に勇敢で名家の子息にも引けをとらない剣術の技を持つ、同年代の水先案内人と出会った。この水先案内人の名はウィリアム・アダムスという名で、戦闘中に侯爵がアダムスの命を助けたことから、二人の間には強い絆が育まれたのだ。
しかし、戦いが終わると二人の人生は全く異なる道を進むことになった。侯爵はイギリスに帰国して公爵領の後継者となり、探検家であったアダムスは北極やシベリアへの探検の後、極東への航海に乗り出した。様々な危険を乗り越えて日本に到着したアダムス一行は、その地で海賊と間違われてしまったのだ。何とか処刑を逃れたアダムスは将軍の信認を得て、極東の島国で重要な役割を担う地位を得るに至ったのだよ。
アダムスは終生イギリスに戻ることはなかったが、命の恩人である公爵のことを忘れることはなく、ポルトガル船がヨーロッパに向けて出港する度に手紙を託した。このようにして、アダムスは公爵の結婚の知らせや、公爵夫人が10年もの間、公爵家の跡継ぎを産もうと苦しい努力を重ねていたことを知ったのだ。そして1606年に、ようやく待望の公爵家の4代目となる健康な男の子が産まれると、その子の2才の誕生日にアダムスから特別な誕生祝いが送られてきたのだよ。
それは、黒く燻した銅に、金、銀、それからマザー・オブ・パールやエメラルドがちりばめられた箱だった。その箱は、不死鳥の周りに梅の花が咲いている絵柄に金属や宝石が施された、巧みで繊細な手仕事から生まれた品だった。そして、その品に添えられていた手紙には、箱の由来と、それを贈る理由が記されていたのだよ――
グランチェスター公爵閣下
名誉ある公爵家の後継ぎとなられるご子息様の誕生の知らせは、この遠く離れた地まで聞こえてまいりました。閣下とわたくしのこうした手紙のやり取りも、数年をまたいだものとなる故に、わたくしからのこのささやかな祝いの品が、侯爵様の2度目のお誕生日までに閣下のお手元に届けられることを願っております。輝くばかりのイギリス貴族のお家柄の御公爵家にはつまらないものかと存じますが、閣下の忠実な僕からの、真心からの贈り物でございます。
この品はトレドのムーア人の手によるものに非常に似ておりますが、日本の鍛冶職人の技の方が勝っているように思われます。この工芸品は、この国ではShakudo(赤銅)と呼ばれております。
この品には、それにまつわる物語がございます。この品は、閣下の僕であるこのわたくしにとって特別に尊いお方であった、ある高貴な女性がもともと所有しておりました。そのお方がお亡くなりになられた時に、そのお方のご長男様から形見として頂戴した物でございます。ご長男様は形見の品をわたくしに下さる際に、箱に施された花と鳥は、平和、正義、繁栄、そして新たな時代の幕開けを象徴するのだとおっしゃいました。わたしにとって、この上なく尊いお方の形見である大切な品ではありますが、グランチェスター公爵家に寄贈したく存じます。わたくしの命は、閣下に一度救われました。閣下の僕はその御恩を忘れたことはございません。この品が、閣下の名誉ある公爵家と閣下の僕との不滅の友情の印となることを祈念いたします。
公爵はその贈り物をたいそう喜んで、それを妻に贈ったのだよ。その時から、嫡男の誕生と共にその箱を公爵が公爵夫人に贈ることが、グランチェスター家の習わしになったのだ。公爵夫人は嫡男の結婚式の日にこの品を息子に手渡し、その嫁が嫡男を生んだ日に嫁がまたこの品を贈られる――このようにして、この象眼細工の箱は代々グランチェスター家に受け継がれてきたのだ。
息子よ……わたしがベアトリクスと結婚するという悲劇的な過ちを犯した時、わたしはおまえのおじいさんからこの象眼細工の箱を手渡された。しかし、おまえのおじいさんは、この箱をベアトリクスに渡すことを禁じ、おまえにわたしの手から直に渡すよう厳密に指示したのだ。おまえのおじいさんは、わたしの結婚が例外的なものだと分かっていたからね――わたしの嫡男の母はわたしの妻になることはなく、わたしの妻はわたしの嫡男の母になることはない……と。だから、わたしがこの箱を手元に保管して、おまえが結婚する時に渡すようにと言い残したのだよ。
そのような理由から、わたしはこの貴重な品をニューヨークの銀行に送っておいた。封筒の中にその品が保管してある銀行の金庫の鍵を入れておく。結婚したからには、今度はおまえがこの品を保管して、いずれ相応しい時が来たら、おまえの妻に贈るのだ。わたしが死んだ後に、おまえが公爵家の15代目の当主となるかあるいは庶民のままでいるか、どのような決断を下すにせよ、この品はおまえとわたしの新たな和解の印と思ってもらいたい。
しかし、戦いが終わると二人の人生は全く異なる道を進むことになった。侯爵はイギリスに帰国して公爵領の後継者となり、探検家であったアダムスは北極やシベリアへの探検の後、極東への航海に乗り出した。様々な危険を乗り越えて日本に到着したアダムス一行は、その地で海賊と間違われてしまったのだ。何とか処刑を逃れたアダムスは将軍の信認を得て、極東の島国で重要な役割を担う地位を得るに至ったのだよ。
アダムスは終生イギリスに戻ることはなかったが、命の恩人である公爵のことを忘れることはなく、ポルトガル船がヨーロッパに向けて出港する度に手紙を託した。このようにして、アダムスは公爵の結婚の知らせや、公爵夫人が10年もの間、公爵家の跡継ぎを産もうと苦しい努力を重ねていたことを知ったのだ。そして1606年に、ようやく待望の公爵家の4代目となる健康な男の子が産まれると、その子の2才の誕生日にアダムスから特別な誕生祝いが送られてきたのだよ。
それは、黒く燻した銅に、金、銀、それからマザー・オブ・パールやエメラルドがちりばめられた箱だった。その箱は、不死鳥の周りに梅の花が咲いている絵柄に金属や宝石が施された、巧みで繊細な手仕事から生まれた品だった。そして、その品に添えられていた手紙には、箱の由来と、それを贈る理由が記されていたのだよ――
1608年1月3日 江戸にて
グランチェスター公爵閣下
名誉ある公爵家の後継ぎとなられるご子息様の誕生の知らせは、この遠く離れた地まで聞こえてまいりました。閣下とわたくしのこうした手紙のやり取りも、数年をまたいだものとなる故に、わたくしからのこのささやかな祝いの品が、侯爵様の2度目のお誕生日までに閣下のお手元に届けられることを願っております。輝くばかりのイギリス貴族のお家柄の御公爵家にはつまらないものかと存じますが、閣下の忠実な僕からの、真心からの贈り物でございます。
この品はトレドのムーア人の手によるものに非常に似ておりますが、日本の鍛冶職人の技の方が勝っているように思われます。この工芸品は、この国ではShakudo(赤銅)と呼ばれております。
この品には、それにまつわる物語がございます。この品は、閣下の僕であるこのわたくしにとって特別に尊いお方であった、ある高貴な女性がもともと所有しておりました。そのお方がお亡くなりになられた時に、そのお方のご長男様から形見として頂戴した物でございます。ご長男様は形見の品をわたくしに下さる際に、箱に施された花と鳥は、平和、正義、繁栄、そして新たな時代の幕開けを象徴するのだとおっしゃいました。わたしにとって、この上なく尊いお方の形見である大切な品ではありますが、グランチェスター公爵家に寄贈したく存じます。わたくしの命は、閣下に一度救われました。閣下の僕はその御恩を忘れたことはございません。この品が、閣下の名誉ある公爵家と閣下の僕との不滅の友情の印となることを祈念いたします。
閣下の忠実な僕より
ウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムス
公爵はその贈り物をたいそう喜んで、それを妻に贈ったのだよ。その時から、嫡男の誕生と共にその箱を公爵が公爵夫人に贈ることが、グランチェスター家の習わしになったのだ。公爵夫人は嫡男の結婚式の日にこの品を息子に手渡し、その嫁が嫡男を生んだ日に嫁がまたこの品を贈られる――このようにして、この象眼細工の箱は代々グランチェスター家に受け継がれてきたのだ。
息子よ……わたしがベアトリクスと結婚するという悲劇的な過ちを犯した時、わたしはおまえのおじいさんからこの象眼細工の箱を手渡された。しかし、おまえのおじいさんは、この箱をベアトリクスに渡すことを禁じ、おまえにわたしの手から直に渡すよう厳密に指示したのだ。おまえのおじいさんは、わたしの結婚が例外的なものだと分かっていたからね――わたしの嫡男の母はわたしの妻になることはなく、わたしの妻はわたしの嫡男の母になることはない……と。だから、わたしがこの箱を手元に保管して、おまえが結婚する時に渡すようにと言い残したのだよ。
そのような理由から、わたしはこの貴重な品をニューヨークの銀行に送っておいた。封筒の中にその品が保管してある銀行の金庫の鍵を入れておく。結婚したからには、今度はおまえがこの品を保管して、いずれ相応しい時が来たら、おまえの妻に贈るのだ。わたしが死んだ後に、おまえが公爵家の15代目の当主となるかあるいは庶民のままでいるか、どのような決断を下すにせよ、この品はおまえとわたしの新たな和解の印と思ってもらいたい。
父より
リチャード・グランチェスター
リチャード・グランチェスター

いよいよアルバートさんがニューヨークにやって来た。アルバートさんはいつもながらに愛嬌があって面白くて愉快で、その訪問はキャンディとテリィの二人にとって、とても楽しいものとなった。テリィがアルバートさんに対して抱いていた疑いはとうに消え去っていたので、ほんの短い滞在ではあったけれど、テリィはこの友情を楽しむことに決めていたのだ。キャンディは言うまでもなく我を忘れて浮かれ、数日でニューヨーク中を案内したいと言い始めた。人の良いアルバートさんは、自分はこの街には十分精通していることを、キャンディにやんわりと思い出させなければならなかった。
「観光もいいけれど、ぼくはきみたち二人と時間を過ごす方に関心があるんだからね、おてんばさん」 アルバートさんはクスクスと笑いながらキャンディに言った。
それでも、鼻息のあらいキャンディをなだめるために、テリィはいくつかの行事を計画した。観劇の夕べはもちろん何を差し置いても必須行事だった。観劇の後、アルバートさんはその夜一晩中テリィのリチャード三世のお芝居について冗談を言い続け、キャンディはその冗談にお腹を抱えて笑い通した。それから乗馬も行楽の一部として計画されていたのだが、この時は、キャンディは乗馬を断ってテリィとアルバートさん二人だけで行かせ、自分はジョルジュとカントリークラブのレストランに残ってアイスティーを楽しんだ。セントラルパークでの長い散歩も忘れてはならない。少し後ろからジョルジュに付き添われて散歩をしていた三人は、テリィを追いかけ回すカメラマンから走って逃げるという予期せぬ楽しみも味わった。アパートに戻ってからアルバートさんは、この経験は17才の時以来の最高な逃避行だったと言い切った。そして、17才の時に自分がどうやって父親の車を盗み、ポニーの家まで逃避行したかという話をした。ジョルジュは控えめながらも、自分にとってはその同じ出来事はあまり良い思い出ではないと発言したが、そのお蔭でアルバートさんがキャンディに出会ったことで、その苦い思いは帳消しになっていた。ジョルジュの考えでは、アルバートさんがキャンディと出会ったことは、アードレー家にとって最良の出来事だったのだ。
またある日には、アルバートさんが台所を占拠して、創作のイタリア料理の夕食を振る舞ってくれた。その夕食の席にはミセス・オマリーとロベルトも当然のように招待された。ロベルトはアルバートさんのパスタ―ソースを一口味わうと、このソースは自分のママのソースよりもおいしいと驚いて言いながら、アルバートさんにキスする勢いで喜んだ。ミセス・オマリーも喜んでいたが、それはまた別の理由からだった。キャンディから滞在客のアルバートさんが台所を使って料理をすると聞かされた時、ミセス・オマリーは慌てふためいた。この人の良い家政婦は、男性が台所に立つとたいていそうであるように、ミスター・アードレーも台所をめちゃくちゃに汚してしまうだろうと恐れたのだ。しかしながら、ミセス・オマリーは台所がきれいに使用されたことに驚いて、余分な仕事を増やさなかったアルバートさんに大いに感謝した。
その夕食の後、テリィが劇場に行ってしまうと、キャンディとアルバートさんはアパートで静かな夕べを過ごした。キャンディは、アルバートさんに個人的な打ち明け話ができるのを待ち望んでいたのだ。広々とした客間で心地よく椅子に座りながら、キャンディはアルバートさんにスザナ・マーロウからの死後の告白について言及した。
「キャンディの気持ちは理解できるよ。あのお嬢さんは、確かに複雑な性格の持ち主だったようだね」 キャンディの話が一通り終わったところでアルバートさんが見解を述べた。
「わたしはとっても失望してしまったのよ、バートさん」 キャンディは不満を述べた。「わたしは、スザナはテリィのために自分を犠牲にできる人だと思っていたの。でも、スザナはテリィのことを本当には愛していなかったことがわかってしまったんだもの」
「キャンディが言うことは間違っていないよ。彼女がテリィに対してどのような感情を抱いていたにせよ、それを愛とは呼べないな。最初にキャンディから事故の話を聞いた時には、ぼくにもそのことがわからなかったと認めなければならない。あの時ぼくがもっと慎重に判断して、キャンディにもっといいアドバイスをするべきだった」 いつもの陽気な表情から真面目な顔になってアルバートさんは言った。
「そうじゃないの、アルバートさん。アルバートさんが自分を責めることじゃないのよ。あの時ニューヨークにやって来たのはこのわたしで、真実を見抜けなかったのもわたし自身なの。わたしが自分で下した決断だったんだもの」 キャンディは緊張してそわそわと婚約指輪をいじりながら説明した。
そして、心乱れた様子で椅子から立ち上がると、暖炉の方へと歩いて行って、マントルピースの上に置かれたテリィの写真を手に取った。
「あの夜、テリィはとっても混乱して圧倒されていて、本来のテリィではなかったわ」 キャンディは、愛情を込めた眼差しで夫の写真を見ながら言った。「駅まで送ると言ってくれた時、わたしが別れる決意をしていたことに、テリィはまだ完全には気付いていなかったと思うの」
キャンディの声が一瞬震えた。
「送ってもらえばもっと悲しくなるとわたしが言った時になって初めて、テリィはわたしたちの関係が終わったことを理解したのよ。わたしはテリィに何も聞かないままに決断してしまっていたの」 キャンディは写真を元の場所に戻して、アルバートさんの方に再び振り向いて結論を言った。
「それから何年もの間、わたしは頑なにアニーやエレノアさんの助言を聞くことを拒んだのよ。アニーとエレノアさんはこのことに関して同じ考えを持っていたのに……。わたしが二人の言葉に耳を貸さなかったためにテリィが苦しんだのだと思うと辛いの。わたしは彼のために頑張る代わりに、ただ彼をあきらめてしまったのよ。そんな自分にとても腹が立つし、それから……スザナに対しても。わたしはどうしてあんなに愚かなことをしてしまったのかしら!?」 キャンディは、溢れる涙が頬に落ちないように顔を上げながら激しく言った。
「このことについてテリィとは話し合ったのかい?」 キャンディが自責の思いを語り終えると、アルバートさんは問いかけた。
「アルバートさんの山小屋で、お互いの気持ちを確認した日に話したことがあるわ。でも、テリィはわたしが悪かったという考えを受け入れようとしないの。テリィはいつでも自分だけを責めて、わたしに責任はないと言うの。彼を見捨てて立ち去ったわたしにどうして怒りを感じないのか、わたしには理解できないのよ」
「ぼくが見るところ、きみたち二人は相手に責任はないと言いながら、全責任を自分一人の肩に乗せる競争をしているようだね。でも、それでは上手く行かないよ、キャンディ」 テーブルにコーヒーカップを置きながら、アルバートさんはキャンディに苦言を呈した。
「それはどういう意味?」
「苦しい思い出を乗り越えるには、二人が起こったことを正しい見方で見る必要があると思うよ。ぼくの正直な意見を聞きたいかい、キャンディ?」 アルバートさんはキャンディの目を真っ直ぐ見ながら聞いた。
キャンディは黙って頷いた。
「いいかい? ぼくは二人共に責任があると思うな。結婚式の前にこの話をした時には、キャンディはもっとこのことに関して中立的な考えを持っていたし、二人に同じように責任があると言っていたね。でも今は、スザナの手紙で物事を見る目が曇ってしまっているんじゃないかな。本当のところは、キャンディが下した決断は一時の感情に駆られた残酷なものだったし、テリィの優柔不断さは臆病の表れだった。それに、出会った当初からどんどん激しくなっていったスザナの執着心に対するテリィの対応は不注意だったと言っていい。スザナと彼女の母親にも罪はあるけれど、それは彼女たちの問題なんだよ。さっきキャンディが話してくれた手紙の内容からは、スザナもそのことに気付いたようだね……例え適切な償いをするには遅すぎたとしてもね」 アルバートさんは長い足を伸ばすために椅子から立ち上がって結論を言った。
「いずれにせよ、過去に起きたことは変えられないんだ、キャンディ」 哀愁を帯びた声になってアルバートさんは言った。「アンソニーが亡くなって何年も過ぎてから、ぼくはそのことを学んだんだよ。キャンディは、ぼくがあの事故のことで自分を責めていたことを覚えているね? 過去の過ちを修復することはできないということが、今ではわかるんだ。ぼくたちの前にあるのは未来だけなんだよ。後悔や恨みの感情に心を蝕まれてもいいのかい? そんなのはきみらしくないな、泣き虫キャンディ」
「わかってるけど……とても辛かったんだもの!」 しょげた面持ちで長椅子に座りながらキャンディは強い口調で言った。
「他人を許すのも、自分を許すのも、時間がかかる作業だ。でも、そうするのがいつだって最善の方法なんだよ、キャンディ」 アルバートさんはキャンディの隣に腰掛けて、その右肩に手を置いて言った。そして、努めて明るく聞こえるように付け足した――「テリィの過去の苦しみについてキャンディがそれ程までに心を痛めているのだとしても、テリィはその苦しみからほぼ立ち直ったようにぼくには映るよ。ぼくがここへ来てからというもの、彼の機嫌がずっと良い状態なのを見れば、キャンディがしっかり埋め合わせをしていることがわかる」
アルバートさんの最後のコメントにキャンディは弱々しく笑顔を見せた。
「このことに関して、テリィともう一度話をするべきだとぼくは思うよ」 アルバートさんは重ねて言った。
アルバートさんの知恵のある言葉を理解してキャンディは下唇を噛み締めた。しかし、どのように行動すればいいのかに関しては、まだ不安が残っていた。

アルバートさんとジョルジュは予定通りにヨーロッパへと旅立って行った。二人を見送ってから、キャンディは慌ただしく荷造りに取りかかった。今シーズンのニューヨーク公演は幕を閉じ、夏の公演旅行が始まる前に1週間の休暇をテリィが取ってくれたのだ。二人は数日間をポニーの家で過ごしてから、テリィのアシスタントのヘイワードや劇団員たちとフィラデルフィアで落ち合うことになっていた。
キャンディは、ストラスフォード劇団の公演旅行に同行しないかというテリィからの誘いを即座に受けた――今後はそのような誘いを受けることがもっと困難になるだろうと予測してのことだ。二人は公演旅行が終了した後で、遅まきながらの新婚旅行の計画も立てていたために、ほぼ3カ月間も家を空けることになる。そのように長い期間家を留守にする時には、荷造りも慎重にせねばならなかった。
荷造りの傍らで、キャンディとミセス・オマリーはアパートを長期間締め切る前の春の大掃除の計画も立てていた。その大掃除の最中、テリィの書斎のゴミ箱の中身を捨てようとした時に、キャンディはあるものを見つけた。
それは、しわくちゃに丸めて捨てられた封に入ったままの手紙だった。その手紙に貼られたイギリスの切手が目に留まったのだ。最初、その手紙はテリィのお父さんからのものだとキャンディは思った。テリィと公爵の関係がまたこじれたのかもしれないと考えて、キャンディはその封筒をよく見るために手に取った。そして、封筒に印刷されたロイヤル・シェークスピア・カンパニーのレターヘッドを見て驚いたのだった。

to be continued...
ブログ主より

次回の更新は今日(4/12)から1週間〜2週間の間の予定です。
また詳しい日程が分かり次第こちらでお知らせします。
お楽しみに〜
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