sweet キャンディキャンディ

伝説のマンガ・アニメ「キャンディキャンディ」についてブログ主が満足するまで語りつくすためのブログ。二次小説も翻訳中。

水仙の咲く頃 第11章-3 |キャンディキャンディFinalStory二次小説

2012-04-12 13:42:28 | 水仙の咲く頃
キャンディキャンディFinalStoryファンフィクション:水仙の咲く頃
By Josephine Hymes/ブログ主 訳


4月12日の朝、キャンディは少し吐き気を感じて目が覚めた。キャンディはベッドから起き上がって台所へ行き、不快な感覚を和らげるためにリコリス茶を入れた。暖かいハーブティーをカップに注ぎながら時計に目をやると、時刻は丁度午前6時だった。今日は日曜日だったので、ハーブティーを飲み終えたらもう少しベッドで休んでも大丈夫だ。キャンディは、この体の不快な症状が改善することを期待して、そのようなことを考えた。

ハーブティーをゆっくりとすすりながら、だるい足取りで寝室に戻ると、ベッドではテリィがまだぐっすりと眠っていた。夜明けのピンクがかった陽の光が、もう既に白いカーテンから差し込み始めていた。

キャンディは窓の方へと歩み寄り、朝の空気を吸い込むために窓ガラスを開けた。――朝の新鮮な空気が気分を良くしてくれるはずだ……。そして窓を開けた時、キャンディは今日が何の日かを思い出した――イースター(復活祭)だ。そのことを思い出すと同時にテラコッタの鉢植えで満開になっている水仙が目に映り、キャンディの顔に笑顔が浮かんだ。

バルコニーのガーデンチェアーに腰掛けて、キャンディはトランペットの形に似た繊細な水仙の花を観賞した。そして、心の中で今日一日の予定を確認している間に、ハーブティーの香りが胃の不快感を和らげるのを感じた。キャンディは、ミサの時間に間に合えばいいがと考えていた。テリィを教会に無理やり引っ張ってでも、今日のイースターの礼拝には何としても参列するつもりでいたのだ。テリィが引っ張られている姿を想像して、キャンディはクスクスと声に出して笑った。

テリィと暮らすようになってから3ヶ月が過ぎ、テリィが常に近くにいることにもキャンディの心は慣れ始めていた。このようにテリィの存在に馴染んでいくのは、かつて経験したことのないような穏やかな喜びであり、完全に満ち足りた状態であり、甘美で心地よい感覚だった。――人はこれを幸福と呼ぶのだろう……。ほとんどのラブストーリーは、主人公がこのような状態に至って、読者にとってつまらなくなるこの段階で終わりを迎える。

がしかし、キャンディにとってテリィとの人生がつまらなくなることなどあり得なかった。公の場所でのテリィはいつも慎重で冷静沈着だったけれど、キャンディと二人だけの時は、これ以上望めないほど愉快な男になるのだった。この暴れ馬同士のカップルは、二人で過ごす時間を殊のほか楽しんだ。二人はカントリークラブでの乗馬に興じ、アッパー・イースト・サイドの散歩に出かけ、家でゆっくりと読者や音楽を楽しんだ。何をしていても、二人は終始声を出して笑いながら満喫した。もちろんこのような遊びはあくまで余暇の時間に限られていたし、いつどこにでも現れるカメラマンを避けなければならなかったけれど、キャンディにとっては全く問題にならなかった。

さらに二人の間には、新たに培われた肉体関係の親密さがあった。テリィと寝室を共にするようになってから、ベッドの中では亭主関白で、毎晩愛し合わなければ気が済まない恋人と自分が結婚したことをキャンディは理解した。愛し合う時のテリィは、究極的にはキャンディを自分のものにするという目的を持って行動するのだが、その瞬間に至るまでのスタイルやアプローチの仕方は予測不能だった。――もちろんキャンディには不満などなかった。

このような嗜好を持つ男性にとって――キャンディは笑顔を浮かべながら考えていた――毎月1週間も愛し合えない期間があることが非常にもどかしい様子だったが、いくらキャンディでも自然の摂理に逆らうことはできない。そんなことに思いを巡らせていた瞬間、キャンディの思考が凍りついた。

(えっ!? 最後に生理が来たのはいつだった?) キャンディは、眉を寄せて自分に問い掛けた。



3月に始まった『リチャード三世』の舞台は大きな成功を収めていた。4月に入り、5週間に渡る連日満席の公演が終わりを迎えると、ストラスフォード劇団は公演旅行の準備に取りかかった。5月の末にスタートする今回の公演旅行では東南部の地域を回り、7月にニューオリンズで幕を閉じる予定になっていた。

この間、ストラスフォード劇団の売却に関する詳細が発表された。今冬シーズンの舞台は、新たな経営者であるライオネル、エセル、ジョン・バリモアの3兄弟の元での公演となる。全員が40代のバリモア3兄弟は、ブロードウェイで最も高い評価を得ている熟練した俳優として知られていた。3兄弟の中で最年少のジョンは、長年ライトコメディを演じてスターダムにのし上がったのだが、最近では高級演劇でも成功を収めていた。そのためテリュース・グレアムとジョン・バリモアは演劇界のライバルと目されていて、ストラスフォード劇団には主演俳優2人分の席はなかったために、テリュース・グレアムが別の劇団に移籍するという噂が浮上した。テリィは自分の置かれた状況をよく把握し、自分の業績に関心を示してきた舞台監督たちに会い始めていた。しかしこれまでのところ、満足のいくオファーは得られていなかった。

4月のあるけだるい朝のこと、テリィは会計士から送られてきた所得税の報告書を書斎で確認していた。キャンディは病院でのボランティアに出掛けていたので、テリィは夕食までの丸一日、一人の時間を過ごすことになっていた。キャンディが帰宅するまでにこの面倒な報告書の確認を済ませてしまおうと、テリィが集中して作業していると、書斎のドアをノックする音がした。家政婦のミセス・オマリーが郵便物を届けに来たのだ。ミセス・オマリーは書斎に入って来て机の上に郵便物を置いてから、静かに部屋を出ていった。

再び部屋に一人になると、テリィは宛名を確認しながら自分宛てと妻宛てに郵便物を仕分けした。予想に反せず、ほとんどの手紙は社交的なキャンディ宛てのもので、自分宛ての手紙は3通だけだった。その3通の中から、テリィは最初にウィリアム・アルバート・アードレーからの手紙を読んだ。その手紙には、新しく始めた事業のためにアルバートさんはヨーロッパに出張せねばならず、テリィと二人で計画していたポニーの家でのキャンディのお誕生日会に参加できないことが記されていた。アルバートさんはそのことを非常に残念がりながらも、テリィには予定通りに計画を進めて欲しいと頼んでいた。そして、キャンディの誕生日の祝いの席に参加できない代わりに、4月24日にロンドンへ発つ前の1週間をニューヨークで二人と過ごしたいということだった。

手紙を封筒に戻しながら、アルバートさんのような友人の訪問を受けるのはとても楽しそうだとテリィは思った。そして、この新居にそのような大切な客人を迎えるのを、キャンディもたいそう喜ぶだろうと想像した。そしてこの訪問が、キャンディにとって今後数か月に渡るアルバートさんの不在の慰めになることを期待した。

2通目の手紙に目を落とした時、テリィはまだアルバートさんの訪問のことを考えていた。その特徴のある筆跡で書かれた2通目の手紙は、イギリスのロイヤル・シェークスピア・カンパニーの演出家であるウィリアム・ブリッジス・アダムスからのものだった。テリィがロンドンでその演出家と仕事をしてから1年が経っていたが、その間二人の間には何のやり取りもなかったのだった。

テリィはいくつかの理由からブリッジス・アダムスのことを気に入っていた。ブリッジス・アダムスはテリィより8才年上だったが、オックスフォード大学のドラマティック・ソサエティに在籍していた時から素晴らしい評判を得ていた。ブリッジス・アダムスはまた野心家であり、完全主義者であり、シェークスピア劇の演出家の中でも強固な原典主義者だった。ブリッジス・アダムスが頑固なまでにファースト・フォリオにこだわって、原典から一切の編集や省略なしに舞台の演出をしようとすることから、人々は彼を冗談でアンアブリッジス・アダムス(訳者注*「unabridged」に「要約しない」という意味があることからの言葉遊び)と呼ぶほどだった。そしてテリィ自身も断固とした原典主義者だったのだ。

ということで、テリィはブリッジス・アダムスからの手紙の内容を、関心を持って読んだ。その手紙は、ハサウェイの引退の話を知ったブリッジス・アダムスが、テリィにロイヤル・シェークスピア・カンパニーの劇団員の座をオファーするものだった。テリィはその手紙の意味するところの重大性を理解するために、何度か読み返さなければならなかった。収入、格式、俳優としてのキャリアの構築、そのすべての面から言って、このオファーは現時点で提示され得る最高のものだった。その上このオファーを受けることはイギリスに移り住むことを意味していたために、父親に今までよりも頻繁に会える機会が突如として目の前に現れたのだった。

しかし……それでもしかし……そのオファーを受けるのを躊躇させる側面があることも否めなかった。その一つは、母親がニューヨークにいることだった。一人の親を得れば、一人を失うことになるのだ。そしてもう一つは妻のことだった。テリィは、キャンディがアメリカにとても愛着を抱いていることを知っていた。キャンディにとって大切な人たちはほとんどこの国に住んでいる。故郷のインディアナを遠く離れたニューヨークに住んでいることでさえ十分辛い事であるのに、今回は大西洋の反対側へ行くことを意味していた。――あの快活なキャンディが、このような別離に耐えられるのだろうか? イギリスに住んで愛する友人たちや家族に会えなくなった時、自分一人の存在がキャンディの慰めになるのだろうか……。 キャンディの陽気な性格がホームシックによって損なわれてしまうところなど、テリィは見たくなかった。このような考えに心が乱されて、テリィはブリッジス・アダムスからの手紙を机の引き出しにしまった。

3通目の手紙は父親からのものだった。封筒の中に鍵が入っているのを不思議に思いながら、テリィは父親からの手紙を読み始めた。その長い手紙の一部には、このような物語が記されていた――


3代目グランチェスター家の当主ダンカン・グランチェスター公は、公爵領を継ぐ前の若かりし侯爵だった頃、エリザベス1世の英国海軍に所属していた。そして、1588年のアルマダ海戦で英雄的な防衛戦を戦ったのだ。侯爵はその栄光の戦いの最中、非常に勇敢で名家の子息にも引けをとらない剣術の技を持つ、同年代の水先案内人と出会った。この水先案内人の名はウィリアム・アダムスという名で、戦闘中に侯爵がアダムスの命を助けたことから、二人の間には強い絆が育まれたのだ。

しかし、戦いが終わると二人の人生は全く異なる道を進むことになった。侯爵はイギリスに帰国して公爵領の後継者となり、探検家であったアダムスは北極やシベリアへの探検の後、極東への航海に乗り出した。様々な危険を乗り越えて日本に到着したアダムス一行は、その地で海賊と間違われてしまったのだ。何とか処刑を逃れたアダムスは将軍の信認を得て、極東の島国で重要な役割を担う地位を得るに至ったのだよ。

アダムスは終生イギリスに戻ることはなかったが、命の恩人である公爵のことを忘れることはなく、ポルトガル船がヨーロッパに向けて出港する度に手紙を託した。このようにして、アダムスは公爵の結婚の知らせや、公爵夫人が10年もの間、公爵家の跡継ぎを産もうと苦しい努力を重ねていたことを知ったのだ。そして1606年に、ようやく待望の公爵家の4代目となる健康な男の子が産まれると、その子の2才の誕生日にアダムスから特別な誕生祝いが送られてきたのだよ。

それは、黒く燻した銅に、金、銀、それからマザー・オブ・パールやエメラルドがちりばめられた箱だった。その箱は、不死鳥の周りに梅の花が咲いている絵柄に金属や宝石が施された、巧みで繊細な手仕事から生まれた品だった。そして、その品に添えられていた手紙には、箱の由来と、それを贈る理由が記されていたのだよ――

1608年1月3日 江戸にて


グランチェスター公爵閣下

名誉ある公爵家の後継ぎとなられるご子息様の誕生の知らせは、この遠く離れた地まで聞こえてまいりました。閣下とわたくしのこうした手紙のやり取りも、数年をまたいだものとなる故に、わたくしからのこのささやかな祝いの品が、侯爵様の2度目のお誕生日までに閣下のお手元に届けられることを願っております。輝くばかりのイギリス貴族のお家柄の御公爵家にはつまらないものかと存じますが、閣下の忠実な僕からの、真心からの贈り物でございます。

この品はトレドのムーア人の手によるものに非常に似ておりますが、日本の鍛冶職人の技の方が勝っているように思われます。この工芸品は、この国ではShakudo(赤銅)と呼ばれております。

この品には、それにまつわる物語がございます。この品は、閣下の僕であるこのわたくしにとって特別に尊いお方であった、ある高貴な女性がもともと所有しておりました。そのお方がお亡くなりになられた時に、そのお方のご長男様から形見として頂戴した物でございます。ご長男様は形見の品をわたくしに下さる際に、箱に施された花と鳥は、平和、正義、繁栄、そして新たな時代の幕開けを象徴するのだとおっしゃいました。わたしにとって、この上なく尊いお方の形見である大切な品ではありますが、グランチェスター公爵家に寄贈したく存じます。わたくしの命は、閣下に一度救われました。閣下の僕はその御恩を忘れたことはございません。この品が、閣下の名誉ある公爵家と閣下の僕との不滅の友情の印となることを祈念いたします。

閣下の忠実な僕より 
ウィリアム・アダムス 


公爵はその贈り物をたいそう喜んで、それを妻に贈ったのだよ。その時から、嫡男の誕生と共にその箱を公爵が公爵夫人に贈ることが、グランチェスター家の習わしになったのだ。公爵夫人は嫡男の結婚式の日にこの品を息子に手渡し、その嫁が嫡男を生んだ日に嫁がまたこの品を贈られる――このようにして、この象眼細工の箱は代々グランチェスター家に受け継がれてきたのだ。

息子よ……わたしがベアトリクスと結婚するという悲劇的な過ちを犯した時、わたしはおまえのおじいさんからこの象眼細工の箱を手渡された。しかし、おまえのおじいさんは、この箱をベアトリクスに渡すことを禁じ、おまえにわたしの手から直に渡すよう厳密に指示したのだ。おまえのおじいさんは、わたしの結婚が例外的なものだと分かっていたからね――わたしの嫡男の母はわたしの妻になることはなく、わたしの妻はわたしの嫡男の母になることはない……と。だから、わたしがこの箱を手元に保管して、おまえが結婚する時に渡すようにと言い残したのだよ。

そのような理由から、わたしはこの貴重な品をニューヨークの銀行に送っておいた。封筒の中にその品が保管してある銀行の金庫の鍵を入れておく。結婚したからには、今度はおまえがこの品を保管して、いずれ相応しい時が来たら、おまえの妻に贈るのだ。わたしが死んだ後に、おまえが公爵家の15代目の当主となるかあるいは庶民のままでいるか、どのような決断を下すにせよ、この品はおまえとわたしの新たな和解の印と思ってもらいたい。

父より 
リチャード・グランチェスター 




いよいよアルバートさんがニューヨークにやって来た。アルバートさんはいつもながらに愛嬌があって面白くて愉快で、その訪問はキャンディとテリィの二人にとって、とても楽しいものとなった。テリィがアルバートさんに対して抱いていた疑いはとうに消え去っていたので、ほんの短い滞在ではあったけれど、テリィはこの友情を楽しむことに決めていたのだ。キャンディは言うまでもなく我を忘れて浮かれ、数日でニューヨーク中を案内したいと言い始めた。人の良いアルバートさんは、自分はこの街には十分精通していることを、キャンディにやんわりと思い出させなければならなかった。

「観光もいいけれど、ぼくはきみたち二人と時間を過ごす方に関心があるんだからね、おてんばさん」 アルバートさんはクスクスと笑いながらキャンディに言った。

それでも、鼻息のあらいキャンディをなだめるために、テリィはいくつかの行事を計画した。観劇の夕べはもちろん何を差し置いても必須行事だった。観劇の後、アルバートさんはその夜一晩中テリィのリチャード三世のお芝居について冗談を言い続け、キャンディはその冗談にお腹を抱えて笑い通した。それから乗馬も行楽の一部として計画されていたのだが、この時は、キャンディは乗馬を断ってテリィとアルバートさん二人だけで行かせ、自分はジョルジュとカントリークラブのレストランに残ってアイスティーを楽しんだ。セントラルパークでの長い散歩も忘れてはならない。少し後ろからジョルジュに付き添われて散歩をしていた三人は、テリィを追いかけ回すカメラマンから走って逃げるという予期せぬ楽しみも味わった。アパートに戻ってからアルバートさんは、この経験は17才の時以来の最高な逃避行だったと言い切った。そして、17才の時に自分がどうやって父親の車を盗み、ポニーの家まで逃避行したかという話をした。ジョルジュは控えめながらも、自分にとってはその同じ出来事はあまり良い思い出ではないと発言したが、そのお蔭でアルバートさんがキャンディに出会ったことで、その苦い思いは帳消しになっていた。ジョルジュの考えでは、アルバートさんがキャンディと出会ったことは、アードレー家にとって最良の出来事だったのだ。

またある日には、アルバートさんが台所を占拠して、創作のイタリア料理の夕食を振る舞ってくれた。その夕食の席にはミセス・オマリーとロベルトも当然のように招待された。ロベルトはアルバートさんのパスタ―ソースを一口味わうと、このソースは自分のママのソースよりもおいしいと驚いて言いながら、アルバートさんにキスする勢いで喜んだ。ミセス・オマリーも喜んでいたが、それはまた別の理由からだった。キャンディから滞在客のアルバートさんが台所を使って料理をすると聞かされた時、ミセス・オマリーは慌てふためいた。この人の良い家政婦は、男性が台所に立つとたいていそうであるように、ミスター・アードレーも台所をめちゃくちゃに汚してしまうだろうと恐れたのだ。しかしながら、ミセス・オマリーは台所がきれいに使用されたことに驚いて、余分な仕事を増やさなかったアルバートさんに大いに感謝した。

その夕食の後、テリィが劇場に行ってしまうと、キャンディとアルバートさんはアパートで静かな夕べを過ごした。キャンディは、アルバートさんに個人的な打ち明け話ができるのを待ち望んでいたのだ。広々とした客間で心地よく椅子に座りながら、キャンディはアルバートさんにスザナ・マーロウからの死後の告白について言及した。

「キャンディの気持ちは理解できるよ。あのお嬢さんは、確かに複雑な性格の持ち主だったようだね」 キャンディの話が一通り終わったところでアルバートさんが見解を述べた。

「わたしはとっても失望してしまったのよ、バートさん」 キャンディは不満を述べた。「わたしは、スザナはテリィのために自分を犠牲にできる人だと思っていたの。でも、スザナはテリィのことを本当には愛していなかったことがわかってしまったんだもの」

「キャンディが言うことは間違っていないよ。彼女がテリィに対してどのような感情を抱いていたにせよ、それを愛とは呼べないな。最初にキャンディから事故の話を聞いた時には、ぼくにもそのことがわからなかったと認めなければならない。あの時ぼくがもっと慎重に判断して、キャンディにもっといいアドバイスをするべきだった」 いつもの陽気な表情から真面目な顔になってアルバートさんは言った。

「そうじゃないの、アルバートさん。アルバートさんが自分を責めることじゃないのよ。あの時ニューヨークにやって来たのはこのわたしで、真実を見抜けなかったのもわたし自身なの。わたしが自分で下した決断だったんだもの」 キャンディは緊張してそわそわと婚約指輪をいじりながら説明した。

そして、心乱れた様子で椅子から立ち上がると、暖炉の方へと歩いて行って、マントルピースの上に置かれたテリィの写真を手に取った。

「あの夜、テリィはとっても混乱して圧倒されていて、本来のテリィではなかったわ」 キャンディは、愛情を込めた眼差しで夫の写真を見ながら言った。「駅まで送ると言ってくれた時、わたしが別れる決意をしていたことに、テリィはまだ完全には気付いていなかったと思うの」

キャンディの声が一瞬震えた。

「送ってもらえばもっと悲しくなるとわたしが言った時になって初めて、テリィはわたしたちの関係が終わったことを理解したのよ。わたしはテリィに何も聞かないままに決断してしまっていたの」 キャンディは写真を元の場所に戻して、アルバートさんの方に再び振り向いて結論を言った。

「それから何年もの間、わたしは頑なにアニーやエレノアさんの助言を聞くことを拒んだのよ。アニーとエレノアさんはこのことに関して同じ考えを持っていたのに……。わたしが二人の言葉に耳を貸さなかったためにテリィが苦しんだのだと思うと辛いの。わたしは彼のために頑張る代わりに、ただ彼をあきらめてしまったのよ。そんな自分にとても腹が立つし、それから……スザナに対しても。わたしはどうしてあんなに愚かなことをしてしまったのかしら!?」 キャンディは、溢れる涙が頬に落ちないように顔を上げながら激しく言った。

「このことについてテリィとは話し合ったのかい?」 キャンディが自責の思いを語り終えると、アルバートさんは問いかけた。

「アルバートさんの山小屋で、お互いの気持ちを確認した日に話したことがあるわ。でも、テリィはわたしが悪かったという考えを受け入れようとしないの。テリィはいつでも自分だけを責めて、わたしに責任はないと言うの。彼を見捨てて立ち去ったわたしにどうして怒りを感じないのか、わたしには理解できないのよ」

「ぼくが見るところ、きみたち二人は相手に責任はないと言いながら、全責任を自分一人の肩に乗せる競争をしているようだね。でも、それでは上手く行かないよ、キャンディ」 テーブルにコーヒーカップを置きながら、アルバートさんはキャンディに苦言を呈した。

「それはどういう意味?」

「苦しい思い出を乗り越えるには、二人が起こったことを正しい見方で見る必要があると思うよ。ぼくの正直な意見を聞きたいかい、キャンディ?」 アルバートさんはキャンディの目を真っ直ぐ見ながら聞いた。

キャンディは黙って頷いた。

「いいかい? ぼくは二人共に責任があると思うな。結婚式の前にこの話をした時には、キャンディはもっとこのことに関して中立的な考えを持っていたし、二人に同じように責任があると言っていたね。でも今は、スザナの手紙で物事を見る目が曇ってしまっているんじゃないかな。本当のところは、キャンディが下した決断は一時の感情に駆られた残酷なものだったし、テリィの優柔不断さは臆病の表れだった。それに、出会った当初からどんどん激しくなっていったスザナの執着心に対するテリィの対応は不注意だったと言っていい。スザナと彼女の母親にも罪はあるけれど、それは彼女たちの問題なんだよ。さっきキャンディが話してくれた手紙の内容からは、スザナもそのことに気付いたようだね……例え適切な償いをするには遅すぎたとしてもね」 アルバートさんは長い足を伸ばすために椅子から立ち上がって結論を言った。

「いずれにせよ、過去に起きたことは変えられないんだ、キャンディ」 哀愁を帯びた声になってアルバートさんは言った。「アンソニーが亡くなって何年も過ぎてから、ぼくはそのことを学んだんだよ。キャンディは、ぼくがあの事故のことで自分を責めていたことを覚えているね? 過去の過ちを修復することはできないということが、今ではわかるんだ。ぼくたちの前にあるのは未来だけなんだよ。後悔や恨みの感情に心を蝕まれてもいいのかい? そんなのはきみらしくないな、泣き虫キャンディ」

「わかってるけど……とても辛かったんだもの!」 しょげた面持ちで長椅子に座りながらキャンディは強い口調で言った。

「他人を許すのも、自分を許すのも、時間がかかる作業だ。でも、そうするのがいつだって最善の方法なんだよ、キャンディ」 アルバートさんはキャンディの隣に腰掛けて、その右肩に手を置いて言った。そして、努めて明るく聞こえるように付け足した――「テリィの過去の苦しみについてキャンディがそれ程までに心を痛めているのだとしても、テリィはその苦しみからほぼ立ち直ったようにぼくには映るよ。ぼくがここへ来てからというもの、彼の機嫌がずっと良い状態なのを見れば、キャンディがしっかり埋め合わせをしていることがわかる」

アルバートさんの最後のコメントにキャンディは弱々しく笑顔を見せた。

「このことに関して、テリィともう一度話をするべきだとぼくは思うよ」 アルバートさんは重ねて言った。

アルバートさんの知恵のある言葉を理解してキャンディは下唇を噛み締めた。しかし、どのように行動すればいいのかに関しては、まだ不安が残っていた。



アルバートさんとジョルジュは予定通りにヨーロッパへと旅立って行った。二人を見送ってから、キャンディは慌ただしく荷造りに取りかかった。今シーズンのニューヨーク公演は幕を閉じ、夏の公演旅行が始まる前に1週間の休暇をテリィが取ってくれたのだ。二人は数日間をポニーの家で過ごしてから、テリィのアシスタントのヘイワードや劇団員たちとフィラデルフィアで落ち合うことになっていた。

キャンディは、ストラスフォード劇団の公演旅行に同行しないかというテリィからの誘いを即座に受けた――今後はそのような誘いを受けることがもっと困難になるだろうと予測してのことだ。二人は公演旅行が終了した後で、遅まきながらの新婚旅行の計画も立てていたために、ほぼ3カ月間も家を空けることになる。そのように長い期間家を留守にする時には、荷造りも慎重にせねばならなかった。

荷造りの傍らで、キャンディとミセス・オマリーはアパートを長期間締め切る前の春の大掃除の計画も立てていた。その大掃除の最中、テリィの書斎のゴミ箱の中身を捨てようとした時に、キャンディはあるものを見つけた。

それは、しわくちゃに丸めて捨てられた封に入ったままの手紙だった。その手紙に貼られたイギリスの切手が目に留まったのだ。最初、その手紙はテリィのお父さんからのものだとキャンディは思った。テリィと公爵の関係がまたこじれたのかもしれないと考えて、キャンディはその封筒をよく見るために手に取った。そして、封筒に印刷されたロイヤル・シェークスピア・カンパニーのレターヘッドを見て驚いたのだった。



to be continued...

ブログ主より
次回の更新は今日(4/12)から1週間〜2週間の間の予定です。
また詳しい日程が分かり次第こちらでお知らせします。
お楽しみに〜


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水仙の咲く頃 第11章-2 |キャンディキャンディFinalStory二次小説

2012-03-29 21:11:02 | 水仙の咲く頃
キャンディキャンディFinalStoryファンフィクション:水仙の咲く頃
By Josephine Hymes/ブログ主 訳


早朝の、まだ外が暗いうちの静まり返った寝室でキャンディは目を覚ました。隣で寝ている夫はお気に入りのうつ伏せの体勢で、モルフェウス(訳者注*ギリシャ神話の眠りの神)の腕の中で深く眠っていた。昨夜は一晩中眠りにつくまで、マーロウ夫人から渡された包みのことを思い出さないようにしていたけれど、こうして目が覚めた今、その中身を知りたい衝動に猛烈に駆られていた。キャンディは出来るだけ静かにベッドから起き上がると、シルクのローブを羽織ってから寝室を出て扉を閉めた。

包みは台所の食料庫の中に置いておくようロベルトに指示を出しておいたので、キャンディは包みをそこで見つけた。

キッチンナイフの助けを借りながら、素早い手つきで茶色の包装紙を開いてその中身が現れた時、キャンディは、信じられない思いで目を見開いた。それは時間の経過と共に色あせたピンク色の封筒の30通以上もの手紙の束だった。その手紙の束の上にはより最近書かれたものと思われる真っ白い封筒が置いてあり、その封筒にはキャンディの名前が旧姓で記されていた。

大理石のキッチン台の上にそのピンク色の封筒を手で広げながら、キャンディの驚きは指数関数的に増大した。ランプの照明に照らされて浮かび上がってきた文字は、自分の筆跡だったのだ。

「これは……わたしがテリィに出した手紙!」 キャンディは動揺していた。「……ずっと……ずっと前に、わたしがシカゴからテリィに出した手紙……。封が開けられてもいないなんて! テリィは読んでいないんだわ!」 キャンディはショックを受けて、口ごもりながら声にした。

このことをどう解釈すればいいのか理解に苦しんだキャンディは、スザナ本人からの説明がそこには書いてあるのだろうと推測して、白い封筒を手に掴んだ。それから台所スツールに腰掛けて、その白い封筒の手紙の中身を読み始めた――

1922年10月24日


キャンディス・ホワイト・アードレーさま

この手紙は、わたしがあなたに宛てて書く2通目の手紙です。そして、これが最後の手紙になるでしょう。あなたがこの手紙を読んでいる時には、わたしはすでに別の世界の住人になっているはずです。わたしは、そこがここよりも良い場所であることを願わずにはいられません。この世界で経験した肉体的な苦しみはあまりにも大きくて、わたしはただ疲れ切って、気持ちが沈んでいくばかりでしたから……。

この手紙があなたの手元に届けられる時には、きっとテリュースがあなたの隣にいることでしょう。わたしがこれを書いている今この瞬間でさえも、この同じ部屋でぼんやりと本を読みながら、彼が心の中であなたと一緒にいることが、わたしにはわかっています。テリィがわたしの元に戻って来て婚約してから、この6年の間ずっと同じでした。彼の言葉と存在はわたしと共にあるけれど、彼の心は、インディアナのあなたのいる場所に留まったままなのです。

わたしを憐れに思わないで、キャンディスさん。今ではテリィの冷淡な態度にも慣れました。でも、始めの頃はこんな風ではなかったのです。あなたへの手紙に書いたように、以前はわたしも、彼の心がいつかはわたしに向けられるという希望を持っていました。けれどもその希望は、すべて落胆に変わってしまいました。もしわたしの命を脅かしているこの恐ろしい病がなくなって、あなたと離れている年月がもっと長くなれば、テリィもいつかはわたしを愛するようになる日が来るだろうと言うことができたらどんなにいいでしょう……。でも、間もなく創造主の元へ旅立つことになった今、わたしはこれ以上、自分自身を偽ることはできません。わたしと彼がこれから何十年も生活を共にして、一緒に年をとったとしても、今と同じ状態が続くことがわたしにははっきりとわかっています。テリィは頑固なまでにあなたを愛し続けるでしょう……おそらく以前よりもっと強く――なぜなら、彼のあなたへの愛は、日を追うごとに深くなっているのですから……。

でもね、キャンディスさん……テリィがわたしのことを、わたしの望むように愛せないからといって、わたしが彼に腹を立てているとは思わないで。それどころか、いくら哀れみの精神からだったとしても、彼がわたしと一緒にいてくれる善意の気持ちに、わたしは感謝しているのです。わたしのこんな痛ましい彼に対する情熱は、あなたの中に軽蔑心を抱かせたでしょうか? あなたに何と思われようが、わたしは一向に構いません。テリィがわたしに投げかけてくれたほんの少しの愛情の欠片で、わたしは十分幸せだったのです。

これから書くことをしっかり読んでくださいね、キャンディスさん。そしてその後で、わたしのことをどうとでも判断してください。わたしは、例えそれが世間への表向きのことであって真実ではなかったとしても、《テリィはわたしのものなのだ》と思うと天国にいるような気分でした。わたしは栄光の絶頂を垣間見たけれど、わたしの最大の罪はそこにあるのです――それは、わたしが幸せだった間テリィが不幸だったこと……そしてわたしは、彼の苦しみにちゃんと気付いていたこと……。自分に正直になって正しい言い方をするならば、それは自分勝手な愛情でした。わたしは、そうすることが彼をとても苦しめるとわかっていても、あなたから彼を引き離すことにためらいはありませんでした。わたしにあなたの強さや無私の心があって、彼を自由にしてあげることが出来ればよかったけれど、残念ながら、わたしはあなたのように勇敢な行いをする人間には生まれついていないのです、キャンディスさん。

だからわたしは、テリィをあなたの元へ行かせるのが一番良いことだと時には思うことがあったとしても、結局は、いつでも彼を繋ぎ止めてしまったのでした。初めからそうでした――ストラスフォード劇団の事務所を訪ねて来たテリィの姿を初めて見た時から、わたしは一生彼のそばにいるのだと心に決めたのです。わたしの決心は揺るぎなく、そのためなら嘘をつくことも、騙すことも、どんな作り話をでっちあげることもためらいませんでした。テリィに送られたあなたの手紙を盗んだことは、わたしが行ったたくさんの行為の内の一つに過ぎません。――そのことを思い出すと、今では恥ずかしさで顔が熱くなります。

説明が必要ですね――その昔、わたしがロミオとジュリエットのオーディションの知らせを持って、当時テリィが住んでいたアパートに行った時の事でした。わたしがアパートの階段を上っていると、管理人さんからテリィに届いた手紙を預けられたのです。あなたからの手紙でした。わたしは、あなたとテリィが手紙のやり取りをしていることを知って、嫉妬で狂いそうになりました。それから数週間の間、わたしはその手紙を手元に置いたまま、それを粉々に破いてしまうべきか、それともテリィに返すべきか悩みました。

少なくともその時は、意図は間違っていたとしても、わたしは正しい行いをすることにしました。テリィにあなたからの手紙を返した時、わたしは彼に愛していると告白して、あなたとの付き合いを止めてほしいと訴えました。わたしは自惚れていましたから、わたしの美貌と情熱があれば、彼の心を簡単にあなたからわたしに振り向かせられると信じていました。結局はバカを演じただけだったのに……。

そんなわたしに、テリィは冷ややかな情けを持って対応しました。テリィはいつもの彼らしく紳士的な態度でわたしの愛の告白を丁重に退けてから、まるで大切な宝物であるかのようにあなたからの手紙を受け取りました。わたしは泣きながらその場を立ち去ったけれど、テリィは止めようともしなかった。わたしは激しい屈辱を感じていました。そしてその時、わたしはどんな犠牲を払ってでも、あなたから彼を奪い取ることを自分に誓ったのです。

この出来事の後から、わたしは彼のアパートの管理人を引き込んで、あなたから送られてくる手紙を横取りするようになりました。全部の手紙を盗ってしまうと疑われてしまうから、少しは彼に届くようにして……。でも、あなたからの手紙がほとんど届かなくなっても、テリィのあなたへの思いが薄らぐことはなかった……。わたしはなす術を無くしていました。

そんな時に、あの恵みの事故が起きたのです。あなたからテリィを勝ち取ることができた恵みの出来事が……。認めてしまうのは情けないけれど、わたしはあの事故のことを、ずっとこんな風に思ってきたのです。あの夜、あの病院で、あなたがわたしの病室に別れの挨拶をしに来た時、あなたがテリィをわたしの元に置いて行こうとしていることが、わたしにはまるで嘘のようでした。それはわたしにとって、夢以上の出来事でした。

あの時、あなたはわたしにテリィのことを頼んでいきました。死への準備を整えながら、わたしはあなたに告白しなければなりません――わたしはその約束を守れなかった、と。テリィはずっと幸せではなかった。何年もの間わたしが恐れていたのは、いつの日かあなたがわたしとテリィの前に現れて、わたしが自らの言葉に忠実でなかったことを非難するのではないかということでした。もしあなたがそうしていたら、わたしには返す言葉もなかったし、それ以上に、テリィをわたしの元に留めておく力などありませんでした。わたしにははっきり分かっています――テリィは、彼の廉恥心からわたしに縛られていたけれど、もしあなたにそのつもりがあったなら、あなたはただ指をパチンと鳴らすだけで、彼をあなたの足元にひざまずかせることができたのです。でも、あなたは現れなかった……この長い年月の間、ただの一度も……。

あなたに既に告白したように、わたしは自分のしたことを誇らしく思っているわけではありません――もしこのことを知ったなら、たいていの人はわたしを強く非難することでしょう。でも、わたしはただ自分の弱さをよくわかっていて、彼なしで生きる強さを持っていなかっただけなのです。

とは言え、わたしのテリィに対する愛着から、わたしがあなた方二人に間違ったことをしてしまったことは自覚しています。もしも劇の脚本を書く時のようにこの物語を書き換えられるのだとしたら、わたしは筋書きの大部分を変更することでしょう。第一幕からやり直して、スザナ・マーロウを、薄幸な恋人たちの邪魔などせずに、無私の精神で舞台後方へと消えていく、悲劇のヒロインに仕立てることでしょう。でも現実の世界でわたしが下した決断は、わたしをこの悲しい物語の敵役にしてしまいました。

わたしの命はもう尽きようとしています。そのことに不満はありません。わたしは、それで良いのだと思っています――なぜならわたしの存在は、テリィの人生を破滅させただけなのですから……。わたしが逝ってしまったら、彼はあなたの元へ飛んでいくでしょう。わたしにはそれが分かっています――わたしは、あなたがまだ独身だということを調べました。あなたが独身で居続けているのは、あなたがまだ彼のことを愛しているからなのでしょうか……? わたしはそうであることを心から願っています――テリィはそれだけの思いに値する人ですから。

テリィとあなたが結婚したら、あなたに直ぐに会いに行くよう母に頼んでおきます。わたしの犯したすべての過ちに対してはほんの申し訳程度かもしれないけれど、せめてもの償いの気持ちとして、わたしが盗んだ手紙をお返しします。

キャンディスさん、わたしの告白は以上です。あなたがわたしに示してくれた親切に感謝すると共に、あなたに許しを請うことが、この手紙を書き終える前にわたしが最後にしなければならないことです。信じてください――最後の息を吐いた時、わたしがあなたの名を祝福したことを。

かしこ 
スザナ・マーロウ 


スザナの屈折した手紙を読み終えた時、キャンディの目に涙が溢れて頬を伝った。キャンディは、かつて一度も経験したことがないような複雑な感情の渦の中で、心の動揺を抑えることができなかった。昔に抱いたスザナ・マーロウの印象は、頭の中からゆっくりと消えて行った。テリィがスザナとの生活の様子を断片的に明らかにして以来、キャンディのスザナに対する見解は大きく変化していたけれど、スザナ自身の告白の手紙でその心の内を知ることは、理解の限度を超えていた。キャンディの中で、これまで持っていた人間の本質に対する信頼が、もろくも崩れていきそうだった。

キャンディは、自尊心と自立心が完全に欠如しているスザナのことを気の毒に感じたが、自分がテリィに送った手紙を盗んだ厚かましさに対しては猛烈に腹を立てていた。さらに、スザナがぬけぬけとテリィの苦しみに気付いていたことを告白したことが、キャンディを激しく怒らせた。スザナはテリィを苦しみから解放することが出来たにも関わらず、哀れみを示さなかったのだ。しかしながら、おそらくこの手紙の中でキャンディの気持ちを最も激しく動揺させたのは、もし自分がテリィの前に現れていたとしたら何が起き得たのかに関する、スザナの確信を持った言葉だった――

『もしあなたにそのつもりがあったなら、あなたはただ指をパチンと鳴らすだけで、彼をあなたの足元にひざまずかせることができたのです』

この言葉の重みが、これまで考えても見なかったある現実へとキャンディの目を開かせた――それは、自分も知らぬ間に、スザナと同じ罪を犯していたという現実。――テリィの苦しみを終わらせることが自分にも出来たのに、わたしはそれをしなかったのだ……。この新たな認識に戸惑って、キャンディは手に顔を埋めて激しく泣きじゃくった。そして、そのようなキャンディの姿を、テリィは見つけたのだった。

「キャンディ、何があった?」 テリィは慌てて駆け寄ってキャンディを抱きしめた。「どうした、キャンディ? 何があったかおれに話すんだ」

キャンディは状況を説明したかったけれど、口から漏れるのはすすり泣きばかりだった。心配が増してきたテリィが部屋の中を見渡すと、開封された茶色い包装紙と、ピンク色の封筒の手紙の束が、キッチン台の上に広げられているのが目に留まった。

「これは?」 テリィが問い掛けると、キャンディは振り返ってその方向を見た。

キャンディは泣きながら内心でため息をついた。過去のことでテリィの心を乱したくなかったので、この件については何も言わずにおこうと思っていたのだ。しかし残念ながら、今となっては秘密にしておくことなど不可能だった。唯一の正しい対応策は、真実を話すことだとキャンディは考えた。

「この包みは、昨夜舞台が終わった後に、わたしがボックス席から出た時に渡されたものなの」 キャンディは、涙で枯れた声で話し始めた。

テリィの不安は募っていたが、何も言わずにキャンディに話を続けさせた。

「まったく予想もしなかった人から渡されたの」

「予想もしなかった人って?」 テリィはせっかちに話を促した。

「……マーロウさん」 キャンディは、テリィの反応を予期しながら答えた。

「あのくそったれが!」 罵倒せずにはいられずに、テリィは声をあげた。

「わたしに手渡してほしいとスザナから頼まれた物だと言ったわ」 テリィの顔が一瞬青ざめ、その後怒りで真っ赤に染まるのを見ながらキャンディは説明した。

「なんて浅ましい女なんだ」 テリィは信じられないというように頭を左右に振りながら、苦々しく笑った。「最後の最後まで壮大なドラマを演じなければ気が済まないとはな」

「もういいのよ、テリィ……そんなに怒らないで。そんな風に気に病む必要はないことだから」 キャンディは、テリィの急激な怒りをなだめようとして言った。

「でも……きみをこんなに泣かせたじゃないか……」 その手でキャンディの涙を拭いながらテリィは言い張った。

「わたしなら大丈夫よ、テリィ。包みの中身を見て驚いちゃっただけなの。あなたも見たでしょう?」 キッチン台の方に振り返ってキャンディは聞いた。

「一体何なんだい、これは?」 キャンディがいつも使っているピンク色の封筒に気がついたテリィは、驚きを隠せずに大きな声で聞いた。

「あなた宛ての手紙よ、テリィ」 キャンディは説明した。「あなたが受け取ることのなかった手紙なの」

「でも……こんなにたくさんの手紙……まさか、あり得ない!」 テリィは封がされたままの手紙を一通一通手に取って、確かにキャンディの筆跡で書かれた自分の名前とかつての住所を指でなぞりながら、消印の日付を見て激しく言った。「おれに届かなかった手紙……きみはこんなにたくさん書いてくれたのか……キャンディ!」

「そうなの……前にも話したことがあったわよね。あなたに出した多くの手紙が一体どこへ紛れ込んでしまったのかと思っていたけど……スザナが持っていたのね。スザナが残した死後の手紙の中で、そのことについて説明してくれたわ……それから、謝罪の言葉も……」 キッチン台の上のスザナの手紙を指さして、キャンディは口をつぐんだ。

白い便箋に書かれたスザナの手紙を見て、テリィの表情に暗雲が立ちこめた。スザナの偏執的な性格についてはよくわかっていたので、キャンディと自分が遠距離恋愛をしていた当初から、自分たちがスザナの策略の犠牲者だったことをテリィは理解した。

普段のテリィであれば、スザナのこのような汚い手口に対して怒りでカッとなってしまうところだが、キャンディの激しく落ち込んだ様子を目にして、今回ばかりは気持ちを鎮めて妻の悲しみを慰めることにした。

テリィはスザナの手紙を手に取ると、その不快な手紙を無言で粉々に破いてゴミ箱に捨ててから、キャンディの手紙をまとめて片手で持った。そしてもう一方の手でキャンディを裸の胸に抱き寄せて、そのおでこにキスをした。

「この手紙は明日読むから」 唇をキャンディのおでこにつけたまま、テリィは囁いた。「ひとまずおれとベッドに戻ろう、ハニー。あともう少しきみと一緒に寝たいからさ。いいだろ?」

キャンディは黙って頷いた。テリィに肩を抱かれて寝室へと戻りながら、キャンディは、心を蝕む暗い想いを消し去ろうと懸命に努めていた。



『リチャード三世』の初演の日から一週間もすると、キャンディとテリィは快適な日常のサイクルの中で日々を過ごした。キャンディは、週に二日は赤十字で看護婦のボランティア活動をした。病院では偽名を使わなければならず、記者を避けるために家から病院までは必ずロベルトに付き添ってもらう必要があることが厄介ではあったけれど、有名人の妻として、多少の犠牲は仕方ないと割り切っていた。ボランティアの仕事がない日の夜は、夫と一緒に劇場に出かけた。劇場では、時にはボックス席から舞台をもう一度観劇することもあったし、舞台裏で控えていることもあった。テリィの同僚たちは、控えめで邪魔にならないどころか、むしろ世話好きなキャンディの存在に慣れてきていた。団員たちの多くが心密かに――どうしたらこんなに感じのよい魅力的な女性が、テリュース・グレアムのような男を好きになれるのだろう……と首をひねった。それでも団員全員が、テリュース・グレアムの気分を和ませて親しみやすくしてくれるキャンディの存在を有難く思っていた。

朝はテリィはたいてい遅くまで寝ていたが、キャンディはその点では夫と行動を共にできなかった。孤児院での長年に渡る子どもたちとの生活から、朝早く起きる習慣が身に付いていたのだ。そういう訳で、ボランティアの仕事がない日の朝は、キャンディはミセス・オマリーと一緒に時間を過ごした。ミセス・オマリーもキャンディといるのが楽しい様子で、二人の会話は自然に弾んだ。

そんなある日の朝、二人一緒に台所仕事をしながら、ミセス・オマリーはこれまで聞きたくてうずうずしていた質問をキャンディにぶつけた。

「奥様……」 ミセス・オマリーは質問を開始した。「マーロウ夫人とその娘さんのことはご存じですか?」

「ええ、知っているわよ。でもどうしてそんなことを聞くの?」 スライスしていたニンジンを脇に置いてキャンディは問い掛けた。

「わたしとロベルトが、奥様のいないところでこんな話をしていたことは許してくださらなければなりませんよ。グレアム様の舞台の初演の夜に、マーロウ夫人が現れたとロベルトから聞いたのですよ。わたしもロベルトも、あの夫人が一体何を奥様に言いに来たのかとても興味が湧きましてね。マーロウ夫人と奥様はお知り合いではないと思っていたものですからね」

キャンディは一呼吸置いて、この家政婦に説明する言葉を慎重に選んだ。

「そうねえ……確かに以前会ったことはあったけど……」 キャンディは、出来るだけ軽い調子に聞こえるように説明し始めた。「実際は、多少の面識があるくらいなの。スザナさんとは数回話したことがあるだけだし、マーロウ夫人に至っては、以前に一度会ったことがあるだけなのよ」

ミセス・オマリーはここで一旦会話を止めた。長年生きてきた知恵をたよりに、この家政婦はグレアム夫妻のことに関して多くのことを理解しつつあった。新聞の記事には、グレアム夫妻は学生の頃からの知り合いだということが書いてあったし、ミスター・グレアムは、どう見ても愛しているようには見えない婚約者と何年も暮らした後、その婚約者が亡くなってから2年後に、相思相愛の妻を連れて公演旅行から戻ってきた。それに加えて、かつての婚約者と今の妻がお互いを知っていたとなれば、世間からは念入りに隠された三角関係があったと推測するのは容易かった。

「マーロウ夫人が何かの包みを奥様に渡していたと、ロベルトが言ってました」 ミセス・マーロウは再び質問を続けた。

「ええ……えっと……それには手紙が入っていたのよ……スザナさんがわたし宛に書いた死後の手紙だったの」

「そういうことでしたら、奥様、あの娘さんが書いたことなど何一つ信じてはいけませんよ」

「どうしてそんなことを言うの?」 キャンディは、ミセス・オマリーの確信に満ちた物言いを不思議に思って聞いた。

「奥様、わたしはあのマーロウ母娘と何年か一緒に暮らしたんですよ。ミス・マーロウに特別な手伝いが必要だからということで、住み込みで雇われたんです。だからあの娘さんのやり方はすっかり心得ていますよ、ええ。虚栄心のかたまりのような娘さんでしたからね……それにあの母親ときたら!」 軽蔑するように眉をひそめながら、ミセス・オマリーは語気を強めて言った。

「二人のことを嫌っていたような口ぶりね」 キャンディは、この話題の中で品位を損なわぬよう最善の注意を払いながら、それとなく聞いた。

「あの二人を好きになんてなれませんよ」 ミセス・オマリーはため息まじりに言った。「こんなことを言っていいのか分かりませんけどね、マーロウ夫人はグレアム様の財産に異常な関心を持っていたと思いますよ。マーロウの母娘はたいそう贅沢な暮らしをさせてもらっていたんですから、本来ならグレアム様に平身低頭感謝すべきところを、マーロウ夫人ときたら、グレアム様があの二人のために買った豪華な家でもまだ物足りないと言わんばかりに、いつだって口うるさくもっともっととねだっていたんです。あのタウンハウスは、このアパートより格段に広くて素敵な家でした。あのがみがみ女にグレアム様が利用されるのを見ているのは本当に辛いものでしたよ。グレアム様は良い方ですからね。わたしがこれまでお仕えした中で一番の御主人様です」

「そうだったの……」 キャンディはほとんど何も言うことができなかったが、ミセス・オマリーは勢い批判を続けた。

「それにですよ、ミス・マーロウときたら大人の女性の皮を被った我儘な小娘でしたよ。グレアム様にはすっかり熱をあげていましたけれどね、わたしが見たところ、グレアム様の方では歯牙にもかけない様子でしたよ。わたしはずっと不思議に思っていたんです――どうしてグレアム様のようなお方がミス・マーロウと婚約までしているのかとね。わたしが下した結論は、グレアム様はミス・マーロウを気の毒に思っておいでだったんですよ――ほら、あの事故がありましたからね。それに、グレアム様は結局ミス・マーロウと結婚なさいませんでしたから、ミス・マーロウは言ってみればただのゲストだったんですよ。なのに、あの娘さんはまるでグレアム様の妻気取りでわたしをこき使って、自分の気に召さないと怒り出すんです。でもそうかと思えば、ミス・マーロウはグレアム様のためにお料理もしなければ、わたしがシャツにアイロンをしっかりかけたのか確認もせずに、妻らしいことは何一つしないんですから。ロベルトとわたしは、あの母娘に関しては嫌な思い出がたくさんあるんですよ。グレアム様のことが好きだったから、わたしらは何とか辞めずにいたんです」

ミセス・オマリーの話を聞きながら、内心でマーロウ母娘とそして自分自身に対する怒りが高まるのを感じながらも、キャンディはその感情を上手に隠した。

「それは大変だったのね、オマリーさん……でも、わたしの夫に対して示してくれた忠誠心に感謝します」 キャンディは、この不愉快な話題を終わらせようとして言った。

「ありがとうございます、奥様」 ミセス・オマリーは頷いて答えたが、まだ言うべきことがあるというように話を続けた。「グレアム様からタウンハウスをマーロウ夫人に譲って引っ越しをすると告げられた時、ロベルトとわたしはあの雌ドラゴンとあの家に残るのを拒否したんです。グレアム様はわたしらに引き続き仕事を与えて下さって、しかも、週末や夜は働かなくてもいいと言って下さって、わたしはとても恵まれていると思っていたんです。でも、グレアム様が電話で結婚したことを知らせて来た時は、正直わたしは不安だったんですよ」

「その気持ちはよく理解できると思うわ」 キャンディは、この人の良い女性に同情して、もの悲しい笑顔を浮かべて言った。

「でも奥様にお会いして、わたしは信じられないような思いでした。新聞には、奥様は大富豪の令嬢だと書いてありましたけど、全くそうは見えませんでしたよ……わたしが言いたいのは、奥様はツンツンしたところのないレディーだということです。奥様は素晴らしいご主人様ですし、グレアム様にとっても本当に良い妻でいらっしゃいます。ですからわたしは、あの小娘が書いたことが奥様の気分を害するのが嫌なんですよ」

「本当にどうもありがとう、オマリーさん。その気持ちに感謝するわ。手紙のことは心配しないで……大したことは何も書いてなかったのよ。さあ、急ぎましょう……シチューが間に合わなくなるわ」 キャンディは努めて明るい笑顔を作って言った。言うべきことは言ったと判断したミセス・オマリーは、それ以上は何も言わずにキャンディの言葉に従った。

それからキャンディはシチューの野菜を切る作業に戻り、ミセス・オマリーは台所を出て掃除を始めた。キャンディは、ミセス・オマリーの言葉を頭から払いのけようと懸命に努力したけれど、落ち着かない気持ちが膨らむばかりだった。テリィがスザナと過ごした生活の実態を知れば知るほど、キャンディは、何故テリィは自分が彼の元を去ったこと恨みに思わなかったのか、理解できなくなっていた。





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水仙の咲く頃 第11章-1 |キャンディキャンディFinalStory二次小説

2012-03-25 20:47:23 | 水仙の咲く頃
キャンディキャンディFinalStoryファンフィクション:水仙の咲く頃
By Josephine Hymes/ブログ主 訳


第11章
水仙の咲く頃


グロスター公リチャード・プランタジネットは、障害のあるいびつな体を持って産まれた。足を引きずって歩くせむしの姿は人々の目に不快に映ったが、言葉巧みに人を惑わす性格が、その不格好な外見を覆い隠していた。そして彼の不実で冷酷な心根は、悪意に満ちた目的を達成しようという意図を隠す術を熟知していた。長さの違う足を引きずって舞台に登場した瞬間から、グロスター公は観客に対して、その人となりをおおっぴらに認めてうそぶいた――「おれは――兄貴と違っていんちきな造物主からこんな不様なからだに生みつけられて、いびつ、未完成、半出来のまま、早々とこの人間世界にひり出されてしまった(*1)」 このようにして、粗末な外見に関する認識を観客に植え付けてから、グロスター公は次のように独白を締めくくった――

「この巧言令色の御時世を泳いで回る好き者にはおれはなれんのだからして、おれは決めた。悪党になる。当世風の下らん快楽を憎んでやる(*1)」

グロスター公は、恥も外聞もなく実の兄の殺害計画を明らかにして観客を共犯に巻き込むと、振り向いて、舞台に登場してきた誠実そうなその兄と会話を交わした。こんな風に、第一幕の間中、テリィはシェークスピアが意図したとおりに邪悪に人を魅了しながら、冷笑的なリチャード三世を驚くほど深みのある表現で演じて観衆を引きつけた。

ロバート・ハサウェイは、今回の舞台では演出に専念するために配役から外れていたために、劇が進行する間、話の展開と観客の反応を見て楽しむという贅沢を得ていた。リチャード三世による冒頭の独白が終わった時、ハサウェイは、この舞台が翌朝の新聞のエンターテイメント欄の見出しを飾ることを確信した。三十年にわたる演劇人生の中で、ハサウェイはこれほど見事なリチャード三世の演技をこれまで見たことがなかった。

リチャード三世のような複雑な役を、まだ30才にもならない役者にやらせるのは重大な賭けではあったけれど、その実りは大きかった。今日の舞台に関しては、どの批評家も耳触りの良い言葉以外何も言えないことだろう。そしてブロードウェイでは、今後一人ならず何人もの熟練した俳優たちが、まだ若いテリュース・グレアムの卓越した才能に、その座を脅かされる心配を抱くことだろう。

客席では、テリュースの演技に魅了された観客たちが、魔法にでもかけられたような表情で舞台を見ていた。その様子を見てハサウェイは、自分は最善のタイミングで引退できると考えた。テリュースは師である自分を超えていたが、ハサウェイはそのことに嫉妬を感じるよりも、父親が息子を誇らしく思うような満足感を得ていた。

ボックス席の最前列からは、一つの眼差しが、心をわくわくさせながら舞台を見つめていた。夫が稽古をするのを繰り返し聞くうちに、台詞は全て覚えてしまっていたキャンディは、劇の進行も上の空でテリィの演技に心服していた。舞台上の人物は自分の夫とはあまりにもかけ離れていたので、二人が同じ人間であることが信じ難かった。

グロスター公リチャードは醜く足を引きずって、観客の誰もが彼を憎く思う以外の選択肢がないほどまでにその身をどんどん貶めながら、破滅への道を進んで行った。しかしながら、激戦の末にリチャード三世が、「馬を! 馬を! 王国などくれてやる、馬を!(*1)」と懸命に叫びながら、当然の報いとしてリッチモンド伯に殺害されると、先ほどまでリチャード三世を憎んでいたその同じ観客が、テリュース・グレアムの卓越した演技に惜しみない称賛を送った。

予想された通り、アンコールは延々と続いた。舞台にたくさんの花束が投げ込まれ、「ブラボー」の声が湧き上がると、キャンディは、邪悪な王の仮面の下に、普段通りに厳めしい表情をした夫の顔を見つけることができた。テリィは観衆に向かって最後のお辞儀をして手を振りながら、舞台に投げ込まれたバラの花を拾いあげると、カーテンが降りる直前に、客席にいる妻にそのバラを投げた。

テリィからの合図を受けて、キャンディはバラを拾ってからクラッチバッグを手に取ると、急いでボックス席の外に出た。廊下では運転手のロベルトがキャンディを待っていた。ロベルトは、キャンディを楽屋に連れて行ってから、劇場の横に車を準備しておくようにという指示を受けていた。ところが、廊下を楽屋へ急ぐ二人の耳に、キャンディの名前を旧姓で呼ぶ声が聞こえてきた。

「キャンディス・ホワイト・アードレー!」 背後で叫ぶ女性の声に、キャンディは否応なしに後ろを向かされた。

振り返ると、そこには見覚えのない、黒いドレスに身を包んだ、疲れきった女性が立っていた。

「何かわたしに御用ですか?」 この女性と少し話をするから――という合図をロベルトに送って、キャンディは声を掛けてきた女性に返事を返した。ロベルトは、楽屋へ行くのが遅くなるのが不安だった。ミスター・グレアムは、ボックス席から出た後は、見知らぬ他人を妻に近づけないようにという、厳重な指示を出していたのだ。それでもロベルトは、女主人の指示に従って、その場で待機した。

「キャンディス・グレアムという名でお呼びした方がよろしかったかしら?」 その見知らぬ女性は声に皮肉を滲ませて、キャンディに近づきながら言った。

「ええ、そうです。わたしはキャンディス・グレアムになりましたけれど……。一体どんなご用ですか?」 キャンディはもう一度聞いてみた。

「わたしを覚えていないのですか?」 その女性は目をすぼめながら問い質したが、その後、何かを考え直したように付け加えた――「思い出せるはずがないわね。何年もの間に……特にこの2年で、わたしの外見は大きく変わってしまいましたからね」

キャンディは、その女性の顔の中に、何か見覚えのある部分がないか探そうと努力した。髪は半分白髪になっていたが、元は明るい茶色の髪をしていたように見受けられた。青い瞳はいじわるそうな鋭い眼光を宿していた。しかし、古典的な美しさと上品な容貌から、キャンディは、その女性は若い頃はさぞや美人だったろうと思った。すると突然、雷に打たれたように、キャンディは目の前の女性が誰かを理解した。

「……マーロウさんですか?」 キャンディは、少しためらいながら聞いた。

その名を聞いた時、ロベルトはぼんやりした意識のままはっとした。そしてもう一度その女性をよく見ると、ロベルトはようやく、その女性がミスター・グレアムのかつての婚約者の母親であることに気がついた。マーロウ夫人は見るからに急激に年老いていた。

「その通りですよ、お嬢さん。テリュースの妻としてのこんな華々しい夜に、このような形で声をかけることを許して下さいね。他に方法がなかったのですよ。テリュースは、わたしには決して新しい住所を知らせないようにしたのですからね」

「ご心配なさらずに、マーロウさん」 キャンディは、出来る限り丁寧な態度で答えたが、あまり時間がないことを思い出して言った――「ただ、ご覧のとおり、今はちょっと急いでいるんです。でも、もしわたしに話したいことがあるのでしたら、日を改めて、よろしければお茶でも飲みながらお話しするというのはどうですか?」

「そんな必要はありませんよ。1分もあれば済むことですからね」 抱えていた鞄から包みを取り出しながら、マーロウ夫人はキャンディの提案を断った。「わたしはこれをあなたに渡したいだけなのですから」

そしてマーロウ夫人は、茶色い紙の包装の上に黄ばんだピンクのリボンがしっかり結ばれた包みを、キャンディに手渡した。

「これは? これは何ですか……?」 キャンディは困惑して口ごもった。

「それは、娘のスザナが亡くなる……亡くなる前に、あなたに残したものです」 マーロウ夫人はしわがれた声で説明した。「娘がこれをわたしに託した時、わたしは、あの子が以前あなたに手紙を送った同じ住所に郵送すればいいと提案しました。でも娘はわたしに、この包みをあなたに直接会って手渡すことを約束させたのです。娘はわたしに言いました――テリュースの行く末を追っていれば、いつかはあなたに対面し、これを確実に手渡す方法がわかるから……と」

キャンディは何と答えればいいのかわからなかった。母親にこのような使いを頼んだスザナ・マーロウの意図や、それ以上に、この謎めいた包みの中身は、キャンディには不可解だった。

「マーロウさん、あの……いろいろお骨折りいただいたこと、感謝します」 キャンディはつぶやくように言った。

「壮絶な苦しみの中にいた娘と約束したことですからね。わたしの用はこれだけですよ、キャンディスさん」 自分の尊厳を守ろうとするかのように、マーロウ夫人は精一杯の虚勢を張って答えた。

「わかりました」

二人の女性は、このような時に何を言えばいいのかわからずに、互いを見つめ合った。

「では。わたしはこれ以上、あなたを引き留めるつもりはありませんからね」 マーロウ夫人が口を開いた。「今後わたしたちの進む道は、それぞれ全く違う方向に分れていくことでしょう。でもその前に、一つだけ言っておかなければならないことがあります」 マーロウ夫人は、口にするのが難しい言葉を発しようともがくように、一旦間を置いてから言った――「ありがとう……」 マーロウ夫人はようやくその言葉を口にした。「娘の命を救ってくれて、ありがとう。あなたのお蔭で、ここにいる一人の母親は、娘との人生を数年長く楽しむことができました」 マーロウ夫人がそう言い終えると、その瞳が抑えた涙で曇っているのにキャンディは気がついた。

「とんでもありません、マーロウさん。お気になさらないでください」 キャンディは、夫人の苦しみを目の当たりにして胸を打たれ、心から言った。

「ではこれで。よい人生を、ミセス・グレアム」 微かに頭を動かして、マーロウ夫人は会話を締めくくった。

「マーロウさんもよい人生を。どうかお元気で」

マーロウ夫人が背中を向けて立ち去ると、その場にはキャンディと運転手のロベルトが残された。気まずい雰囲気を払拭するように、ロベルトはキャンディの腕をとって先を急かした。劇場の廊下は間もなく観劇を終えた人々でごった返し、今夜の主演俳優の妻に気付いたら、彼らは執拗に質問を浴びせてくるだろう。

キャンディは、予期せぬ再会にわずかな動揺を感じながら、マーロウ夫人から手渡された包みをロベルトの手に預けた。そして、スザナの記憶によって呼び起された不愉快な感情を、最善の努力で脇に追いやりながら、夫の元へと急いだ。

ようやくキャンディが夫の楽屋に辿り着くと、テリィはすでにいつものハンサムな姿に戻って、ネクタイを締めているところだった。愛する夫を見た途端、キャンディは他のことは全て忘れて後ろからきつく抱きしめて、その広い背中に顎を乗せた。テリィは鏡に映ったキャンディの細い手を見つめた。しばらく二人は何も言わなかった。テリィは目を閉じて、背中に押し当てられたキャンディの体の感覚を味わいながら、後ろから回された手と腕を優しく撫でた。

「今夜のあなたは素晴らしかったわ!」 キャンディはようやく言葉を口にした。「邪悪なせむしの王が、わたしの旦那様を人質にとっちゃったかと心配したわ」 キャンディは冗談を言った。

「この部屋のどこかに、その王がいるかもしれないぜ」 テリィはキャンディの腕の中で素早く振り向くと、リチャード三世を演じるために工夫した声を使って脅した。

キャンディはクスクスと笑いながら、グロスター公がその甘い口づけを味わうのを許した。



初演後の祝宴は大盛況だった。ストラスフォードの団員たちは、ハサウェイの送別会も兼ねてこのパーティーを準備していた。当然ながら、このような祝いの場所は、アルゴンキン・ホテル以外は考えられなかった。そのホテルは、芸術家や劇作家や批評家や俳優たちが自然と集まってくる家のような場所であり、ハサウェイはアルゴンキン・ラウンド・テーブル(訳者注*1919年〜1929年の10年間、当時の文化人たちが毎日ランチに集ったホテル内の丸テーブル)の常連メンバーでもあった。落ち着いた木製パネルの壁に囲まれた、琥珀色のランプが灯るそのホテルのロビーバーで、キャンディは、活気に溢れたニューヨーク中の著名な文化人や芸術家たちと知り合った。

パーティーの出席者のほとんどがジャズの愛好者だったので、熟練したジャズバンドはその席上になくてはならない存在だった。しかし、ストラスフォード劇団の団員たちがロビーに勝利の入場を果たした時には、バンドは演奏を一旦止めて、劇団の演出家と主演俳優に送られた拍手と歓声がロビーに響き渡るようにした。カメラのフラッシュが、テリュース・グレアムと、その腕に手を回した若い女性に浴びせられた。不揃いの裾からふくらはぎを覗かせて、華やかな赤いシフォンのドレスに身を包んだキャンディは、カメラの格好の被写体だった。カメラマンたちは、ニューヨークの有閑階級の集いの場に現れることがなかったキャンディの姿を、このように撮影できる機会を持てたことを喜んだ。翌朝の新聞では、この女性の明るい笑顔が、彼女の夫の深刻な表情との魅力的な対比となるだろう。

舞台の成功の祝いの言葉をかけようと、最初にテリィとキャンディのところへやって来たのは著名な劇評家のアレクサンダー・ウォルコットだった。丸眼鏡をかけた、でっぷりとした体形のその男性の姿に、キャンディはちょっとした可笑しみと奇妙さを感じた。そして、その男性のまるでフクロウのような外見と、口から発せられる辛辣な言葉の向こう側の瞳の底に、悲しげな何かが宿っているのを見た。キャンディは、その冷静な態度の下には、とても孤独な男の心があるのだろうと察した。世間の評判とは裏腹に、ウォルコットの話し方は終始丁寧で礼儀正しかった。

テリィが後からキャンディに説明したところによると、ニューヨークの芸術家のコミュニティーの半分はウォルコットのことが大好きで、残りの半分は、物議をかもす彼の評論を嫌っているとのことだった。しかしながら、ウォルコットはどうやらテリィを気に入っていて、テリィに対してはいつも敬意を払っていた。そのためウォルコットは、会話の締めくくりにテリィの結婚を祝福し、新妻の美しさを褒め称えたほどだった。それからウォルコットはロバート・ハサウェイの所に移動していくと、長い時間にわたりそこに留まった。

ウォルコットが離れてからも、その夜は、二人の元に大勢の人たちがひっきりなしにやって来た。キャンディはたくさんの著名な人物や活気に満ちた個性的な人々を紹介されて、テリィの住む洗練された世界に驚いていた。しかし皮肉なことに、周りがどれだけ浮かれ騒いでいたとしても、テリィは冷ややかに距離を置いていた。そして誰に対しても礼儀正しく接しながらも、個人的なつながりを持つことは決してなかったのだった。キャンディはテリィの性格をよくわかっていたし、それをあるがままに受け入れていたので、夫の同僚たちと知り合いになって、無関心な態度の夫の横にいることをただ単純に楽しんだ。

キャンディには、今夜のテリィは少し緊張していて、居心地の悪い思いをしていることがわかっていた。翌朝の新聞の劇評がどのような内容になるのかまだ楽観できなかったし、大勢の人に囲まれた状況の中で、テリィの忍耐は確実に限界に近づいていた。キャンディは、誰かが自分たちのところに挨拶に来るたびに、テリィがどんどんパーティーの喧騒から孤立していく様子を観察した。そして、こんな素敵な音楽が演奏されているパーティーで、テリィがそれほどに居心地の悪い思いをしていることを残念に思った。ジャズバンドの演奏はダンスフロアにうってつけだったし、ストリング・オーケストラとのセッションもあり、キャンディの足は踊りたくてうずうずしていた。バイオリンが今最も人気のある曲の始まりの小節を奏でた時、驚いたことにテリィが突然聞いてきた――

「おれたちへの合図だ。そばかすちゃん、どうかタンゴのお相手を」

「もちろん喜んで!」 キャンディは喜んで申し出を受けた。

呆気にとられて見守る同僚や、仲間の芸術家や、批評家や、報道人の目の前で、テリィは妻をリードして、ヤコブ・ゲーゼの大ヒット曲『ジェラシー』の旋律に合わせ、官能的なタンゴのステップを踏んでくるくると回った。催眠的な曲調に合わせて踊る二人の間に流れる電流が目に見えるようで、周囲の人たちは踊りを止めて、二人の姿にただ見とれた。

キャンディはこれまでも踊りが上手だったけれど、テリィは自分にとって完ぺきな踊りの相手だと思った。テリィは二人で親密な時間を過ごしている時と同じように、ダンスフロアでも創造性を発揮した。ある意味では、踊りというのは男女が愛し合う行為を映し出していて、人々をその気にさせるために編み出されたものなのではないかと、踊りながらキャンディは考えた。今となれば、なぜ学生の頃からテリィとこうして踊ることを余儀なくされてきたのか、キャンディにも理解できた。

「どうしてそんなに笑顔なの?」 テリィはキャンディの耳に囁いた。

「このタンゴの曲名は面白いのよ。知ってる?」 キャンディは聞いた。

「知らないな。教えてくれよ」

「『ジェラシー(嫉妬)』っていうのよ」 キャンディは、テリィの瞳に吸い込まれそうになりながら答えた。

テリィは眉をカーブさせ、半笑いを浮かべて一言言った。

「参ったな」

二人は観衆の存在を意識的に忘れ、最後のドラマチックな和音が響くまでダンスフロアを滑るように踊り続けた。その後も二人はパーティー会場に留まって、踊ったり、パーティーの参加者と会話を交わしたりしながら過ごした。しかし、しばらくすると、礼儀正しさを繕い続けるテリィの能力もいっぱいいっぱいになりつつあった。そういう訳でキャンディは、今夜はまだ『チャールストン』や『ボルチモア』などのエネルギッシュな曲に合わせて踊りたい気分だったけれど、夫の希望に応じてパーティー会場を後にする心の準備は整っていた。

弟子の習性をよく知っていたハサウェイは、テリィが帰宅することを告げても驚かなかった。それどころか、1時間もパーティー会場に留まることのなかった過去の初演の夜に比べれば、今夜のテリュースは長い時間を耐え、これまで一度も見せたことのなかった踊りまで披露したことで、己の限界を超えたと言っても良いと判断できた。このような奇跡が起きたのは、妻の存在が大きく影響しているのだろうとハサウェイは推測していた。キャンディがいることで、テリュースは一人だった時よりも明らかに社交的な交流を持てるようになっていた。

最後の挨拶を交わし、翌朝の新聞に最高の劇評が掲載されることを願い合うと、テリィは妻と共に喜び勇んで帰宅の途についた。もともと他人のいる前で無防備になることはなかったけれど、テリィはプライバシーの守られた寝室に入るまで、ほとんど何も話さなかった。

寝室に入ると、テリィはようやくその日の舞台の印象や、キャンディがただの招待客としてではなく、自分の妻としてボックス席から舞台を見守っていると知りながら演じた興奮について、誰はばかることなく話し始めた。ベッドに腰掛けてハイヒールを脱いでいたキャンディは、目の片隅でテリィを見ていたが、その表情は、人前で見せるいつもの厳めしい顔とは打って変わって、まさしく輝いていた。

先ほどのパーティーと、会場でキャンディが初めて出会った人々に関して二人で意見を言い合っている最中、テリィが突然目の前に跪いてキャンディを驚かせた。キャンディが反応できる前に、テリィは妻がシルクのストッキングを脱ぐ手伝いを進んで始めた。キャンディは、弱々しくではあったけれど、そのような必要はないと抵抗した。しかし、テリィはその言葉を遮った――

「おれにやらせてくれよ」 テリィはキャンディの目をじっと見ながら言った。「きみがこんなドレスを着てるのに、おれが冷静でいられると思ったら大間違いだ」

言葉を続けながらも、キャンディが素足になると、テリィはそのふくらはぎをあからさまに性的な意図をもって撫で始めた。

「きみは気付かなかったけど……きみはいつも気付かないようだけど……」 テリィは息を殺してくすりと笑って言った。「パーティー会場にいたほとんどの男たちは、まるで目できみを食べられるとでもいうように、きみのことを見ていたんだぜ。でも、奴らに出来るのはそれまでだけど、おれはと言えば……」

この言葉を最後に、テリィは両手をドレスの裾の中に差し入れて、キャンディの膝を露出させた。妻の引き締まった形の良い足を見て、テリィの瞳は青緑色の輝きを放った。今ではキャンディの呼吸も荒くなっていた。そして、テリィが顔を伏せて右ひざに口づけをしてくると、キャンディは、これから起こることに対して自分の体が準備を始めたのをはっきりと感じた。

どんどん大胆になりながら、テリィの手と唇は、上へ上へと這い上がった。テリィは透き通るような生地のスカートをめくり上げ、キャンディの内腿に、口づけが濡らした形跡と、甘くかんだ跡を残しながら、その唇を、両足の間の待ち望まれた目的地に届かせた。テリィの深い愛撫にキャンディが鋭い喘ぎ声を発すると、それからしばらく会話は不要となった。今夜のテリィの成功は、それ相応の花火で飾られるべきなのだ。キャンディは、パーティー会場を早々に後にしてよかったと思った。



(*1)シェイクスピア作『リチャード三世』木下順二訳/岩波文庫より



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水仙の咲く頃 第10章-5 |キャンディキャンディFinalStory二次小説

2012-03-20 13:38:49 | 水仙の咲く頃
キャンディキャンディFinalStoryファンフィクション:水仙の咲く頃
By Josephine Hymes/ブログ主 訳


グランチェスター公爵とその使用人たちがグリニッジ・ヴィレッジを後にした時、街はすでに闇に沈んでいた。面会が終わると、公爵一人だけが書斎から出てきた。テリィはその場でさよならの挨拶をして書斎に留まり、たった今聞かされた話の内容を一人で噛みしめていた。そういう訳で、最後はキャンディが一人で公爵と挨拶を交わし、義父がグレーのベントリーで走り去るのを見送った。公爵が後部座席の窓から手を振ってさよならの合図を送ってきた時、街に軽い雪が降り始めた。

車が最初の角を曲がり視界から消えると、キャンディは走って家に戻ったが、書斎に飛び込んで行く代わりにしばらく居間で夫を待った。テリィは一人になりたがっているのか、それとも自分にそばにいて欲しいと思っているのか判断できずに、キャンディは雑誌をパラパラとめくって時間をつぶした。その内に、テリィのあまりに静かな様子に心配がどんどん膨らんで、キャンディは書斎のドアを優しくノックしてみた。しかし中からは何の返事もなく、キャンディは心を決めて、爪先立ちで足音を立てないように部屋に入った。

書斎は暗闇に包まれていた。激しい心の痛みが空気を通して伝わってくるのを感じて、キャンディは部屋の灯りはつけずに、椅子に座る夫の方へと静かに歩み寄った。窓から差し込む遠くの夜景のかすかな光が、テリィの輪郭を照らし出していた。テリィの足元の絨毯に座った時、キャンディは、夫の頬を伝う涙に気がついた。

キャンディはテリィの膝に頭を乗せ、手で優しく腿を撫でた。しばらくの間、二人はそうして無言のまま過ごした。テリィの手がゆっくりと動いて、腿を撫でるキャンディの手を覆った。そして、伝わってくる手の温かみに勇気を得たかのように、テリィがようやく小声で言った――

「あの人は、おれに産まれてきてほしかったと言った……」 テリィは、すすり泣いているかのような、しゃがれた声でキャンディに伝えた。「あの人は、おれが産まれたことが、人生の中で最も幸福な瞬間だったと言った……」 テリィは、あたかも自分だけに言うように繰り返した。

キャンディは、テリィの手の甲と手のひらに、それから指の一本一本に、軽く触れるようなキスをして応えた。黙ったまま、感情に圧倒されたまま、テリィは疲れ切って反応することができない様子で、キャンディの唇が自分の手を愛撫するままにさせた。それからキャンディの顔の方に頭を下げて、優しさに輝いた妻の表情を見た時、テリィの心臓はいつもの鼓動を取り戻した。

「昨日一緒に練習した子守歌を弾いてくれないか?」 テリィは反射的にキャンディに頼んだ。

キャンディは同意して頷くと、絨毯から立ち上がって居間に向かった。隣室の居間から音が届くように、書斎のドアは開けたままにした。

キャンディは音楽の才能には恵まれていなかったけれど、それでも音楽を愛していたし、それ以上に夫を愛していた。それ故に、演奏の途中で何度か指がおぼつかなくなりながらも、リクエストされた子守唄を何度か繰り返し弾いた。その間テリィは書斎に留まって、長年父親への恨みの感情を閉じ込めてきた檻の扉を、心が開くがままにさせた。最後の恨みの感情が、さよならのキスをして翼を羽ばたかせて飛び去って行くと、テリィは妻にそばにいて欲しいと感じた。

テリィは椅子から立ち上がって居間にいるキャンディの所へ行き、ピアノ椅子の片側にまたがって隣に座った。

「もう一度二人で弾こう。昔みたいに、きみが右手を弾いて、おれが左手を弾くよ」 テリィは片手でキャンディの腰を抱きながら提案した。

もう一度曲の最初から、二人はそれぞれの右手と左手を合わせて優しい調べで子守歌を弾いた。最後の音が空間に消えていくと、キャンディはもうこれ以上我慢できずに、テリィの方に向き直って両手で顔を挟み、その唇に深い口づけをしてから言った――

「今夜はわたしがあなたを抱くわ、テリィ」

その言葉に忠実に、キャンディはテリィのネクタイを緩め始めた。この予期せぬ申し出にテリィは驚くと同時に魅了され、ただ静かに目を閉じた。内面の混乱で感情的に疲れ切っていたテリィは、キャンディの口と手に全身をくまなく、心地よく愛撫され続ける感覚に身を任せた。その内に、キャンディから放出される熱気が寝室を満たし始めた。テリィの脈拍は徐々に通常のリズムを取り戻し、それから妻の奉仕に応えるように鼓動を早めた。予期していたよりも早く、テリィは二人の情熱的な交わりの際に主導権を握ろうとする自然な衝動を抑えなければならなくなった。しかし、かつて夢にまで見たこのような甘美な夜を、自らの性急さで台無しにしたくはなかったので、甘く責められるがままに体を預けた。

そしていよいよキャンディが体を開くと、テリィの心の影が完全に消え去るまで、二人は互いの体で互いを愛し慈しんだ。外では2月の冷たい風が吹きすさんでいたけれど、二人は心地よく互いの体の温もりを感じていた。



午前0時を過ぎても二人はまだ目覚めていた。夜更けの静けさの中で、キャンディはテリィとベッドに横になりながら、夫が父親との会話の内容を話すのを聞いていた。

「お父さんがイギリスに戻る前に、もう一度会う予定はあるの?」 キャンディが聞いた。

「おやじがニューヨークを発つ前にもう一度会うことにはなっている。でもその後は、次いつ会えるかは神のみぞ知る、だな」 テリィは声に悲しげな響きを含ませて答えた。

「何だか、もっと頻繁に会いたいように聞こえるわ」

「ほんとに奇妙だよ」 テリィは父親に対する混乱した感情を自分でも理解できずに、不機嫌そうに言った。「何年もの間、おれはあの人のことなど考えもしなかった……考えないようにしてきた……それなのに、今はあの人のことをもっと知りたいと感じているなんて……」

「全然奇妙なことじゃないわ、マイ・ラヴ」 キャンディは頭を横に振りながら言った。「息子が父親の存在を求めることは、とても自然なことよ。あなたとお父さんは、きっと話すことがたくさんあるわ」

テリィは手を動かすと、その指をキャンディの指に絡ませて話を続けた。

「おれは……自分がこんな……こんな風に感じることができるなんて、一度も考えたことがなかった……」 テリィは言葉に詰まりながら語った。「おやじはおれのことを嫌っているのだと、ずっと思ってきたから……」

「父親が息子に対して、そんな感情を持つはずがないわよ、テリィ。あなたのお父さんは、たくさんの欠陥がある人かもしれない……お母さんに対しては冷酷で、不実でさえあったかもしれない……でも、そんな欠点があったとしても、父親であることに変わりはないし、それに、あなたのことをちゃんと愛していることだって、今ではよくわかったでしょう?」

「きみがしつこく言ってくれなかったら、おれにはわからなかった……。おふくろの時と同じだな」 中低音の渋みのある声を織り交ぜて、テリィはキャンディに言った。

「あなたの役に立てることほど嬉しいことはないわ」

テリィは愛情のこもった視線を妻に向け、その顔を撫でて額にかかった金髪の巻き毛をそっと払った。

「いつだってきみは、おれの守護天使だな」

「守護天使の方が、ターザン・そばかすよりも聞こえがいいわ」

キャンディの発言から何かのひらめきを得たように、テリィの顔いっぱいにいたずらな表情が浮かんだ。

「じゃあ、エンジェル・そばかすっていうのはどうだい?」 テリィは半笑いで聞いた。

「口を開くんじゃなかったわ!」 キャンディが自分を戒めるようにそう言って口をとがらせると、テリィはその唇にキスせずにはいられなかった。

二人の唇が離れると、キャンディは、夫に聞きたいと思っていた質問を思い出した。

「テリィに話したいことがあるの。あなたとお父さんが書斎で話をする間、実は、お父さんの秘書さんと運転手さんをお茶にご招待したの」

「おやじの使用人を招待したのか?」 テリィは面白そうに聞いた。

「ええ……外に停めた車の中で待つには、凍えるような寒さだったもの。可哀そうだわ」

「きみが使用人たちと話しているのを見て、おやじは心臓が止まる思いだったはずだぜ」 テリィはこの数時間で初めて笑った。――どんなに重苦しい状況であっても、キャンディはいつだって、自分を笑わせることを何かやってくれるのだ……。

「そうね……お父さんが少し驚いていたことは認めるわ。でも、何も言わなかったわよ」

「当り前だ。ここはおれの家で、バッキンガム宮殿じゃないんだからな」 テリィはこわばった調子に戻って答えた。「きみが話したかったのはそのこと?」

「違うわ。お父さんの使用人の人たちと話をしていた時に気付いたことについて聞きたかったの。あることが気になったから……」

「気になったことって?」

「あなたの話をする時に、二人ともあなたのことを侯爵様って呼ぶのよ。それはどういう意味なの?」

「ただの形式的な敬称さ」 テリィは無関心に言った。

「形式的な敬称?」

「おやじは公爵以外の爵位も持っていて、侯爵であり、伯爵であり、男爵でもある」

キャンディはテリィの話に少々圧倒されてしまった。テリィのお父さんの高貴な位について、これまで考えてみたことがなかったのだ。

「すごいわね! でも、それがあなたとどんな関係があるの?」 キャンディは怪訝そうに聞いた。

「公爵の嫡男は、その次に位の高い爵位で呼ばれるのさ。ただの形式的なものだから、本当に侯爵なわけではないんだ。実際は、父親が亡くなって公爵領を継ぐまでは、嫡男だって庶民のままなんだから」 もう長いこと忘れようとしてきた話題を話していることに、テリィは若干の気まずさを感じながら説明した。

「でも、今ではあなたの弟さんが、公爵領の跡継ぎではないの? グランチェスター家を出て俳優になったことで、あなたは嫡男の立場を失ったのだと思っていたわ」

テリィには、キャンディが純粋な好奇心から質問しているのはわかっていたけれど、自分にとって最も居心地の悪い話題を持ち出してくるところが、まさにキャンディらしかった。

「実は……厳密に言うと違うんだ」 テリィは深いため息をついた。「そうなったら継母のベアトリクスは大喜びだろうけど、貴族社会での相続の決まりごとは複雑でね。おれが私生児だということを継母が証明できれば状況は変わるだろうが、法的な手続きは長くて困難だし、最終的には継母の訴えは、いずれにせよ却下されることになるだろう。継母にせよ、おれの母親として法的に認められてきたことで、この嘘に関わってきたんだからね。それに、その時はおやじが報復措置として、継母の子どもたちがおやじの子ではないことを公にすることだってできる。そんなことになったら、この件に関わるすべての家の恥さらしだ。自分の子どもたちが私生児であることが暴露されるかもしれないような危険を、継母が冒すとは思えない。継母には打つ手がないのさ。それに、おやじの発言から推測すると、あの人はいつかおれに後を継いでもらいたいと思っているみたいだ」

キャンディは、話をするテリィの目の奥に、様々な感情が渦巻いていることに気がついた。

「そのことに興味を惹かれることはあるの?」 キャンディは、この問題の核心となる問いを投げかけた。

「公爵になった自分の姿なんて、想像したこともないよ……」 テリィは考えをめぐらせた。「長い間、おやじにとっておれは死んだも同然の人間なんだと思ってきたんだ。それなのに、おやじは今おれと近づきたがっている……おれにはわからないよ……今の状況でさえ、おれは本当に混乱しているんだ」

キャンディは、この話題でテリィが感情的になってきたために、愛の行為によってようやく取り戻せた心のバランスを崩しかねないことを察知した。そのためキャンディは、軽い調子に変えることにして聞いた――

「ねぇ、お父さんは今何歳?」

「50代前半のはずだけど……」 これまでの話とは一見関係なさそうな質問に、テリィは少し興味を惹かれて答えた。

「お父さんはとても健康そうに見えたわ」 キャンディは笑顔で言った。「……だから、わたしの計算によれば、テリィが公爵になりたいかどうかを考える時間は、あとまだ20年くらいあるわね」

キャンディの言葉に実際的な知恵を感じ、テリィの緊張がほぐれた。そして、言葉のあやを捉えて言った――

「それまでは、グロスター公爵(*訳者注:後のリチャード三世)になることに専念するか」

「なんて恐ろしい!」 キャンディは、恐がるフリをしながら掛け布団にもぐった。「その殺人者の頭の中で、わたしを死に追いやる策略をめぐらせているなんて!」

「おれのように不様でいびつに生まれついた人間は、お嬢さんのような若い娘さんに対して、誰にも想像できないような策略を持っているのだよ……」 テリィはふざけて言い返した。「たぶん、死よりも恐ろしい……」 テリィは言葉を続けようとしたけれど、あくびに邪魔されて台詞を言い終えることができなかった。

「あくびが出たところで……わたしが思うに、リチャード三世が今取るべき一番の戦略は、稽古の前に数時間でも寝ることよ」

「きみの言うことが正しいよ、奥さん」 テリィはいつも眠る時にそうするように、キャンディを後ろから抱きしめて認めた。それから間もなくして、テリィが深い眠りに落ちたことを示すように、キャンディは背中に夫の規則正しいリズミカルな呼吸を感じた。



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水仙の咲く頃 第10章-4 |キャンディキャンディFinalStory二次小説

2012-03-14 00:00:11 | 水仙の咲く頃
キャンディキャンディFinalStoryファンフィクション:水仙の咲く頃
By Josephine Hymes/ブログ主 訳


テリィが待つ書斎に入った時、リチャード・グランチェスター公爵は息子を抱きしめたいという強い衝動に駆られたが、グランチェスター家の人間らしく、その衝動を抑制してプライドを高く保った。公爵にとっては、今宵息子に対して行おうとしている告白だけをとっても十分に屈辱的なことだったので、感傷的な場面をさらにこの面会に加える必要はないと思ったし、テリュースにしたところで、そんな風に予期せぬ形で愛情が示されるのを望まないだろうとも思った。それ故公爵は、ただうなずいて挨拶をした。

「お久しぶりです、公爵」 窓に向いて立っていたテリィが体を向き直して言った。

「そうだな、テリュース」 そう答えるグランチェスター公爵の声の響きは息子のものより若干低かったが、その色と肌触りはとてもよく似ていた。

「どうぞお座りください」 テリィは公爵を書斎の応接椅子に案内した。

互いに向き合って腰掛けてからテリィがお茶を勧めたが、公爵は夕食を済ませたばかりだと言って辞退した。

「まずこれだけは初めに伝えておきたい……テリュース、おまえがこの面会に応じてくれたことを、わたしは感謝している」

椅子の肘掛に肘をつき、二本の指で右のこめかみを支えながら、テリィは父親のことをすげない態度で観察していた。

「あなたが感謝すべき相手はぼくではありません」 テリィは冷ややかに言った。「この面会を実現するために力を尽くしてくれた、ぼくの妻に礼を言ってください」

「あのような妻をもらえて、おまえは幸運だったようだね」 公爵は、息子と同じような感情の読めない表情のまま、率直な評価を口にした。

「ええ、公爵。でも、あなたはぼくの結婚を祝福するためだけに、はるばるアメリカまで来られたわけではないですよね?」

「その通りだ。わたしがアメリカに来たのは、もっと切迫した理由があったからだ」

「その理由というのを教えていただけますか?」 左眉をわずかに動かしながら、テリィは話を促した。

「もうかれこれしばらく前から、わたしはこれまでの人生の中で下してきた大きな決断に関して、自分なりに考え直してきたのだ……」 公爵は話し始めたが、最も適切な言葉を探すためにそこでしばらく間を置いた。「……そして、そのような……検証……の結果、わたしは、はっきりと後悔になっているいくつかの事柄に気が付いた」

「後悔になっていることとは……?」 テリィが聞いた。公爵は、その声に含まれるわずかに挑戦的な声色を知覚した。

「おまえの母親や、わたしの妻や、おまえについてのことだよ、テリュース」

座り直して体の位置を整えながら、テリィは、今回ばかりはわずかな嘲笑を隠すことができなかった。

「ぼくに言わせてもらえば、かなり低俗な話ではありますね。一人の男と二人の女、それから私生児とはね」 テリィは辛辣な言葉を発した。

リチャード・グランチェスター公爵は、他の機会であればテリィのこのような無礼な発言に憤慨していたことだろう。しかし今は、息子が自分と話をすることを承諾したからといって、そのことが父親を受け入れる気持ちには直結していないこともわきまえていた。それ故に、会話の中で時には不愉快な言葉も交わされるだろうという心積もりは、公爵もしてきていたのだ。

「悲しいことだが、おまえの言う通りだ」 公爵は認めた。「たくさんの人間が、わたしと同じような不名誉な経験を味わっている」

公爵のこの一言に、テリィの瞳の中で青い炎が燃え上がった。

「もう沢山です、公爵。ぼくの存在が、あなたの人生に不名誉をもたらしたのだと伝えるためだけに、わざわざ大西洋を横断したというのなら……」

「テリュース、おまえが言葉の意味を捻じ曲げてしまう前に、少なくともわたしが言おうとしていることは、しっかりと聞いてもらいたい」 公爵は、息子の身構えた態度をなだめようとして言葉を挟んだ。「わたしは、おまえがわたしの不名誉の原因だなどと言ったつもりはない。実際はその逆なのだから」

自分には、他人の言葉を最大限に悪い方向に解釈する傾向があるというようなことをキャンディに言われたことを思い出し、テリィは肩の力を抜いた。

「わかりました……」 テリィは父親に話の続きを促すために、落ち着いた口調になって言った。

「テリュース……わたしはこのきわめて個人的な事柄について、おまえに対しては自分の感情に正直になりたいと思っている。だから、おまえの母親との関係の中でわたしが取った行動について、わたしは自分のことを決して誇らしく思っていないということを、まず初めに認めなければならん。元はといえば、わたしの行動が間違いの原因だったにも関わらず、長い間、わたしはおまえの母親に腹を立てていた」

「相手に責任を押し付ける方が、確かに簡単なことではありますからね」 テリィはそう返事を返したが、今回は、その声には鋭さも非難も含まれてはおらず、それどころか、何かしらの知恵が込められているようですらあった。つい先日のキャンディとのケンカのことが、テリィの脳裏にまだはっきりと残っていたのだ。

「テリュース、おまえは正しいことを言っている。確かにその方が簡単なのだ。しかし、それでは最後には、落胆と苦しみしかもたらさんのだ。真実に向き合う方がより懸命で、傷も浅く済む」

「公爵は、どのような真実について話しておられるのですか?」

「わたしのエレノアに対する気持ちだよ」 公爵は答えたが、その声は、エレノアという名を口にした時わずかに変化した。「わたしはエレノアに出会った当初、彼女に対して抱いた感情を一時の気まぐれと勘違いしたのだ。自分の思いを理解し損ねていた上に、うぬぼれが強くて軽薄な若者だった当時のわたしは、必要な時にはいつでもこの恋愛関係を終わらせることができると考えていた。わたしは、自分がエレノアを本気で愛してしまうことや、子どもができることなど予測していなかったのだ。エレノアが子どもを……わたしの子どもを身ごもっているのがわかった時のわたしの喜びは計り知れなかったが、それと同時に苦しみや悩みも生じたのだよ」

(この人は今、『喜び』と言ったのか?) 父親の発した言葉に衝撃を受けてテリィは思った。

息子がまとっている表情の仮面から内心の反応を読み取れないまま、公爵は話を続けた。

「その時わたしは突如として、エレノアと産まれてくる子どもを二人ともわたしの庇護のもと、一生私の元に留めて置きたいと願っている自分がいることに気付いて驚いてしまった。しかし、自分の高い位と上流の育ちに囚われ何も見えなくなっていたわたしには、エレノアとの結婚など考えられなかったのだ。だからおまえのおじいさんが、産まれてくる子どもが男の子だった場合、その子が正統な跡継ぎとなれるようにベアトリクスと取引することを提案した時は、わたしはその可能性に感謝した。エレノアの都合などは一切考慮に入っていなかったが、未熟で愚かだったわたしは、何も失わずにすべてを手に入れる解決策が見つかると信じたかったのだ」

「大切なものを引き換えにして、そんなことが叶うはずがありませんよ、公爵」 テリィは言葉を挟んだ。父親の発言に対してテリィの中で暴力的な感情が呼び覚まされていたけれど、それでもまだ会話を続けられる状態ではあった。

「テリュース、それは今ではわたしにもわかっていることだ。しかし当時のわたしは、ベアトリクスとの取引を受け入れた上で、これまでと変わらずにわたしの愛人でいるようにエレノアを説得できると思っていたのだよ」

「あなたはそれを名誉と呼ぶのですか?」 母親のことを《愛人》などという言葉で表現されたことに憤って、テリィは父親に挑んだ。

「この話の中で、名誉が何かを知っていたのはおまえの母親だけだったようだ。エレノアは、そうすることがおまえにとって一番良い事なのだと信じきっておまえを手放したが、それでも残りの人生を日陰の身として生きることには同意しなかった。年を重ねた今では、わたしにもその時のエレノアの決心の偉大さがよくわかるが、その当時はおまえの母親に腹を立てたのだ。ベアトリクスとの離婚を承諾しないわたしのことを、エレノアは彼女の寝室と人生から締め出した。わたしは死んでしまうのではないかと思うほどの衝撃を受けたが、その時からわたしはエレノアに対して愛情の代わりに怒りに満ちた敵意を示すようになったのだよ。エレノアを失う痛みに対する防衛的な反応が、そのような感情を起こしていたのだということは、今ではわたしにも理解できるが、その時は愛が憎しみに変わったと思ったのだ。しかし真実はと言えば、わたしはエレノアを愛し続けた――とても利己的で破滅的な愛ではあったがね」

テリィは、父親の突然の赤裸々な告白に当惑し、なぜ自分に対してそのような打ち明け話をするのか依然として理解できずにいた。

「あなたがそのような告白をすべき相手は、ぼくでなく、他にいるとは思いませんか?」 テリィは問い質した。

「わたしは多大な犠牲を払いながら、気力と精神力をかき集めておまえに話をしているのだよ、テリュース。父親が息子にこのような話をするのはきまりの悪いことではあるが、こうすることでしか、わたしがおまえに対してしたことの理由を説明できないと思うからだ。おまえにはわかってもらいたい……わたしは心からエレノアの子どもを望んだのだ。例え産まれてきた子が女の子であったとしても、わたしは最善を尽くしてその子を庇護しただろう。だが息子であるおまえが産まれて、おまえを正統な跡継ぎとしてわたしのそばに置くことができると思った時は、それは他の何にも比較できない、わたしの人生で最も幸福な瞬間だったのだよ」

公爵の告白を聞きながら、テリィは冷静さを保つために、あらゆる演技の技を駆使しなければならなかった。テリィには、息子である自分の誕生が、人生で最高に大切な瞬間だったと語る父親の言葉を聞いている自分の耳が信じられなかった。

片や公爵は、自分の言葉を息子がどれほどの重みで感じているかを依然として推し量ることができないまま、話を続けた。

「おまえを見るだけでわたしの心は舞い上がったが、公爵領を継承するためにイギリスへ戻った時には、エレノアとの思い出がわたしの胸に熱い棘のように刺さっていた。おまえの顔を見ると、エレノアに拒絶された時の痛みがまた襲ってきたのだ。しかもおまえは、大きくなるごとにエレノアに似てくるではないか。おまえの瞳はエレノアの瞳と同じだった。時にはいたたまれない気持ちになって、わたしはアメリカに渡る最初の船に飛び乗り、エレノアの足元にこの身を投げ出してしまいそうになる自分の心の弱さを恐れた。おまえが5才の時にエレノアがスコットランドにやって来て、関係を修復する最後の機会を得たことがあったが、おまえの母親は、わたしがベアトリクスと離婚する以外では満足できないとはっきり言ったのだよ。もしわたしがベアトリクスと離婚すれば、その代わりにエレノアは女優を引退し、わたしとおまえの世話に喜んで身を捧げるとね。わたしはその言葉に非常に心動かされたが、もしまた寄りを戻してしまったら、今度こそはエレノアの要求を呑んでしまうことが怖かった。それはわが公爵家にとって醜聞に他ならず、グランチェスター家の人間としての愚かな誇りが、己の欲求に従うことを自分に許さなかったのだ」

(スザナと共に暮らした終りのない日々の中で、おれも何度この人と同じような気持ちを味わったことだろう……) テリィは自分に問いかけた。

「それ故に……」 公爵は続けた――「ベアトリクスがおまえを寄宿学校に入学させることを提案してきた時、わたしにはそれが最善の解決策だと思えたのだ。妊娠してからというもの、ベアトリクスがおまえに対してますます辛く当たるようになってきていたことにも気付いていたし、おまえが近くにいることで、エレノアへの未練を断ち切る決心が、そのうち揺らいでしまうのではないかと不安だった。そのようなわたしの愚かさ故に、その提案は、我が家名とおまえの将来の展望を禍から守るただ一つの解決策だと思ったのだ」

「あなたは、ぼくが貴族社会に受け入れられることよりも、父親と母親にそばにいて欲しいと望んでいるとは考えなかったのですか?」 テリィはもはや冷静を保つことが出来ずに責め立てた。

「その頃は考えなかったのだ、テリュース。長い間、わたしは偏見で盲目になっていて、自らの精神を蝕まれるままにさせていた。おまえがかつて、セントポール学院から退学になる友達を救って欲しいとわたしに助けを求めて来た時、わたしはおまえの目を見て、おまえがその女子生徒にのぼせ上がっていることがわかった。家名を汚さぬためにわたしが耐えてきた苦しみのことを考えれば、汚名を着せられることからおまえを救うことがわたしの義務だと誤って信じたのだよ。もしわたしがその女子生徒を救えば、その子はおまえと共に学院に残り、互いへの愛情がどんどん深まっていくだけだと……」

「しかし、もしあなたがぼくの頼みを聞き入れてくれていたら、ばくは、それ以前にあなたがしたことの全てを許しましたよ。そうしてくれていたら、ぼくはあともう一年、彼女と過ごすことができたんだ。それがぼくにとってどれ程の意味があったのか、あなたにはわからないでしょう」

キャンディのことに触れた途端、テリュースが初めて気持ちを正直に話すのを聞いて、息子が妻に対して抱く愛情の深さを公爵は改めて認識した。

「わたしの言葉を信じて欲しい、テリュース……先週おまえの妻に会い、その娘があの時の女子生徒と同じ人物だとわかった時、わたしはあの日のおまえの頼みごとの重大さを初めて理解したのだ。残念ながら、その理解に辿り着くのが12年遅かったがね」

二人はここで一旦話を止めた。ここまでに話された内容のとてつもない重みが空間を支配していた。

「キャンディスとあなたが会うのは、今回が初めてではないと彼女から聞きました」 数秒間の重い沈黙の後で、テリィが会話を再開した。

「その通りだ。俳優の仕事を始めるために得た自由に対して、おまえはあの娘に借りがあるのだよ。おまえは、当時はまだ未成年だったことを思い出すといい」

「ぼくは、彼女にいろんな意味で借りがありますから」

「それは、このわたしも同じだ」 公爵が返答した。それは、この困難な会話の中で、二人が初めて何かに同意した瞬間だった。

「テリュース、何故このような話をしているのかと言えば、わたしが犯した最大の間違いは、わたしがおまえとの関係と、おまえの母親に対する感情を切り離せなかったことにあったことを、ようやく認識したからなのだよ。傷ついたプライドに支配されたまま、わたしはおまえの父親になる方法を忘れてしまったのだ。昨年のある出来事が、わたしにこのことを気づかせてくれた」

「もう少しわかりやすく説明して頂けませんか?」 テリィは純粋な興味を持って聞いた。

「わたしは、昨年の春にお前の芝居を見物しに行ったのだ」

公爵の言葉にテリィは驚いた。自分の芝居を現物するなど公爵の威厳が許さないだろうと考え、そのようなことは夢にも思っていなかったのだ。テリィは、自分が俳優であることは、父親の貴族としてのプライドにとっては面汚しに違いないと固く信じていたのだ。

「驚きました」 テリィははっきりしない表情を浮かべて言った。

「何年か前、おまえが初めてイギリスで公演をした時は、見物するのを断固として拒絶したのだがね」 公爵は恥じ入るように目を伏せて認めた。「しかし昨年は、わたしも年を取って丸くなったのだろう……ただ舞台の上の姿だけだったとしても、息子に会いたいと思うようになっていた。おまえが舞台に登場した時、わたしはおまえの仕事を恥じるどころか、目に見えて明らかなおまえの才能を誇らしく感じている自分がいることに突然気がついたのだ。おまえの演技は、おまえの母親を超えていたと言わねばならん」

テリィは、椅子の肘掛に乗せていた両手を、無意識に強く握りしめた。父親の口から自分に対する称賛の言葉を聞くことは、テリィにとってあまりに見知らぬ喜びだったので、一瞬の間、テリィはこの会話をこのまま続けられるか不安になった。

「その夜にわたしが経験したことは……」 その時の記憶に浸って公爵は言った――「それから数日の内に、わたしが信じてきたことを粉々に打ちくだいてしまった。わたしは家名を守るために自分の幸せを犠牲にしたにも関わらず、おまえは今ではグランチェスター家の人間であることは恥だとでもいうように名前を隠している。それはわたしにとって、まるで何者かに殴られたような衝撃だったのだよ」

テリィは父親の視線に耐えられずに目を伏せた。テリュース・グレアムとして社会に出ると決めた若い頃、テリィはそのことに解放感を感じた。名前を変えることで、父親との繋がりや、父親から連想される苦しい記憶の全てを消し去ることができると思ったのだ。しかし今ではテリィもよく自覚していた――父親のことや、過去の事や、家名やそれにまつわる全てのことは、自分の思いだけで簡単に消し去ることなどできないのだ。

「しかし、その衝撃よりも大きな衝撃があった……」 公爵は話を続けた――「わたしが最も耐え難かったのは、もはや少年ではない、多くの人々に尊敬と称賛を受けている大人になったおまえの姿を見たことだった。おまえを見て、わたしは自分の失ったものの大きさを痛切に感じたのだよ。わたしは、ただ一度の父親になる機会を失ってしまった……おまえのそばで、おまえの成長を見守る機会を失ってしまったのだ」

「あなたには、他にも子どもがいるではありませんか」 テリィは言葉を挟んだが、その声は今では悲しげですらあった。

「ベアトリクスの子どもたちがわたしの子でないことは、おまえにもよくわかっているはずだ!」 嫌悪感をもろに示して公爵は口にした。

「……ということは、あなたも噂を信じているのですね」 テリィはいつもの冷淡な口調を取り戻して言い返した。

「わたしは噂の話などしておるのではない。真実を話しているのだ。しかし、わたしはこのことに関してベアトリクスを責める気にはなれんのだよ。結婚の際にどのような契約を結んだのか、われわれ自身が一番よく心得ていた。ベアトリクスは、わたしがおまえをグランチェスター家の跡継ぎとして引き取ることを承知していたし、わたしの方では、あれがいとことの恋愛関係を続けることはわかっていたことだった」

継母の子どもたちは自分の子でないと公爵が公に話すのを聞くことは、テリィにとって新たな驚きだった。そして、継母に対する憤りが、テリィの中で再び湧き上がった。

「それでもあの人は、ぼくが彼女の子どもたちの権利を奪っていると言って、ぼくをずっと憎んでいましたよ」 テリィはあざけるように言った。

「ベアトリクスは危険な駆け引きをしていたのだよ……しかし、あれの好きなようにさせてきたわたしに責任がある。この年まで生きて、わたしはベアトリクスと交わした恥ずべき契約を後悔するようになったが、やってしまったことを取り消すことはできない。だが、今ここではおまえがわたしのただ一人の息子であり、跡継ぎだということが重要なのだ」

(跡継ぎ? この人が望んでいるのはそれなのか?) 心の中で沸き上がった疑問が、テリィを再び身構えさせた。そして、椅子にそのまま座っていられずに立ち上がった。

「息子! 跡継!」 テリィは部屋の中を歩き回りながら、言葉にたっぷりと皮肉な嘲笑を込めて言った。「ずっと昔にあなたは、もしぼくがあなたに逆らえば勘当すると言いました。違いますか?」

「おまえはもう十分に大人だから、わたしが単にお前を威嚇するためにそう言ったのだということくらい、見当がつくはずだ。公爵領の正統な跡継ぎとしてのお前の権利は、おまえの父親の気まぐれで失われることなどないのだよ」

「おれの父親?」 テリィはあざけるように問い質した。「そう言うのならお父さん、あなたはぼくが毎年の夏休みや休暇にあなたを必要としていた時、どこにいたのですか? ぼくが不安でいっぱいで、好きな女の子に対して馬鹿な振る舞いをしてしまう代わりにどう接すればいいか教えて欲しかった時、あなたはどこにいたのですか? ぼくが人生の中で最も愚かな選択をした時、あなたはどこにいたのですか? ぼくがアルコールに溺れかけた時は? アルコール中毒の息子に関わるには、貴族院の仕事で忙しすぎたというわけですか?」

テリィから浴びせられた非難の言葉は、公爵の心に矢のように突き刺さった。公爵は今までテリィがアルコール中毒で苦しんだことを知らなかったため、このような形で初めて知らされたことがとても心苦しかった。

「テリュース……わたしには、すまなかったとしか言いようがない」 公爵はかすれた声で答えた。「過去を変えることはできないが、わたしは心の底からすまないと思っている」

公爵は、父親としての未熟な自分に深く恥じ入りながら頭をうなだれた。それ以上何をして何を言えばいいのかわからずに、椅子にじっと座ったまま、息子がこの罪悪感を何とかわかってくれればと願った。しかし、テリィの口調を聞いていると、この面会は結局どこへも辿り着かないのではないかという恐れが公爵の中でどんどん増し、息子との関係を修復するという望みは薄れていた。

一方テリィの方では、少し違う考えが頭の中をめぐっていた。言葉もなく打ち負かされたように書斎の椅子に座っているこの男性の中に、テリィはもはや自分の父親の姿を見つけることができなかった。テリィは、心の一部では、リチャード・グランチェスターとその人物が象徴することの全てを未だに軽蔑していたけれど、その口から語られた告白が、父親に対する認識や、父親との繋がりに変化を生じさせたことを認めねばならなかった。それに、自分がここで父親に対して石を投げつけるわけにはいかないこともテリィは心得ていた――自分はもうかつての16才の少年ではないのだ……。

「公爵閣下……」 テリィは再び公爵の正面の椅子に腰掛けて、沈黙を破って言った――「ぼくは、あなたが色んな意味でぼくに対して間違いを犯したと思ってきたために、とても厳しい口調になってしまいました。しかし、あなたが正直に話してくれたことに、ぼくは親切で返したい。もしこれが10年前だったら、受けた傷に対して謝罪だけでは十分でないと、ぼくはきっと言ったでしょう。それ以上に、こうして面会する機会を与えることもなかったと思います。でも、あなたは今――ぼく自身も過去の過ちや恥を背負っている大人になったこの時に、ぼくに会いに来た。ぼくも、かつて過ちを犯してしまった人の前に膝間づいて許しを請いました。そして幸運なことに、ぼくが謝罪した相手は、ただ単純に『すまなかった』と言うだけで許してくる寛容な心の持ち主だった。ぼくも公正であるために、あなたからの和睦の申し出を受け入れずに、このままあなたをイギリスに送り返すことはできません。しかし、だからと言って、ぼくがあなたの息子になる準備ができているとは思わないでください。申し訳ありませんが、それにはもう少し時間が必要だ」

テリィが話すのを聞きながら、公爵は少しずつ顔を上げた。公爵の心は安堵し、再び希望が湧き上がった。

「それで十分だ」 公爵はいつもの口調で言葉を返した。「おそらく、わたし達はまず、友人になる努力をせねばならんのだろう」

「それにはぼくも同意します」

父と息子は、この会話の締めくくりが、これまでの悪化した関係を改める新たな始まりになることを理解した。未来が何をもたらすかは二人の手の中にあった。






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