みちのくの山野草

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佐々木多喜雄氏の論考から学ぶ(#14)

2017-09-20 10:00:00 | 賢治の稲作指導
《稗貫の稲田水鏡》(平成29年5月19日撮影)
  「9.賢治は「農聖」といえるか-全体のまとめ-」より
 では今回は本シリーズの最終回で、佐々木多喜雄氏の論考『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-<承前⑤>』の後半について紹介させていただきたい。まずは同論考の構成だが、
9.賢治は「農聖」といえるか-全体のまとめ-
 ⑴ 賢治以前の「農聖」との対比
  1)類似点
  2)相違点
  3)神社、頌徳碑などの有無
 ⑵ 同世代の地元農民が知らない「農聖」賢治
 ⑶ 他によりふさわしい人物がいる
 ⑷ 賢治は「農聖」と言えない-結論として-
となっている。そこで、その中身をそれぞれ以下に簡単に紹介したい。

 ではまず「⑴ 賢治以前の「農聖」との対比」についてだが、佐々木氏は賢治以前の唯一とも言える「農聖」と讃えられた二宮尊徳と「農聖」賢治を類似点と相違点に分けて比較している。
 私が特に目を奪われたのは、「2)相違点」の内の「②実践家、思想家として」における、次の記述であった。
 賢治は、貧しい農民救済として実践したことは無いに等しく、農民に対して反感をもち、農民から反感をもたれ、農民を広く愛し、農民から広く愛されることもなかった。本当の農村や農民のなかへ入っていくことはかなわなかった。……①
             〈『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)97p~〉
 それはもちろん、私がかつて抱いていた賢治とは真逆の賢治であり、同時にここ10年間程の検証作業を通じて浮き彫りになった来た賢治とかなり似ているからだ。そして、この2人の賢治のあまりにも大きすぎる乖離に目を奪われたとも言える。そして最も驚き、しかも嬉しかったことは、私がこの10年間程の作業を通じて得られた結果が佐々木氏のこの〝①〟によってかなり裏付けられたと私は確信を持てたことだった。
 それは例えば、もともと「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導は、
 賢治の稲作経験は花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではなかったのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽一三二号を、ただし同品種は金肥(化学肥料)に対応して開発された品種だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやる、というのが賢治の稲作指導だったということにならざるを得ない。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、当時の大半を占めていた貧しい小作や自小作にとってはもともとふさわしいものではなかったということは当然の帰結である。
私は以前から思っていたからであり、あるいはまた、以前〝「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治〟でも述べたように、
 大正15年のヒデリで、隣の紫波郡内の赤石村・不動村・志和村等の未曾有の大旱害だったので、救援の手が地元からはもちろんのこと、宮城県や遠く東京からのものを含めて、「未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方」等へ陸続と差し伸べられていたのだが、この時に賢治が救援活動等をしたということを示す証言等は一切見つからなかった。
からである。よって、賢治には「貧しい農民救済として実践したことは無いに等しく」といわれても致し方なかろう。

 また、今まではどうしても正直に言うことに躊躇いがあったのだが、「農民に対して反感をもち、農民から反感をもたれ、農民を広く愛し、農民から広く愛されることもなかった」についても、『春と修羅 第三集』所収のいくつかの詩から容易に窺えることだし、それこそ太田村で「独居自炊」していた高村光太郎が地元の子どもたちそして地元の大人たちから愛されていたという証言等はいくつか見つかるのに、下根子桜で同じく「独居自炊」賢治の場合にはそのような証言等を私は見つけられずにいたからである。
 そしてそれはおのずから「本当の農村や農民のなかへ入っていくことはかなわなかった」ということの裏返しだから、吉本隆明が
    宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めた
とか、
    宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。
と言っていることはまさにその通りだったとなりそうだ。

 次に「⑵ 同世代の地元農民が知らない「農聖」賢治」について、佐々木氏は次のようなことなどを述べていた。
 「農聖」と讃えられる程の農業上の実践をし事蹟を残した人物であるなら、少なくとも地元に住む同世代の農民ならば、それを知り後世に伝えていくのが一般のことと考えられるのであるが…(投稿者略)…地元の同世代の農民が知らない、…(投稿者略)…語り継がれる内容が無い故に、地元で後世に伝えられていないということであろう。
 たしかに、私のこの10年間程の検証作業を通じても、「地元の同世代の農民が知らない」ということを否定するものは何一つ見つかっていないから、佐々木氏の主張は尤もだと思う。

 そして「⑶ 他によりふさわしい人物がいる」においては、先に私も取り上げた島善鄰を一つの例に挙げながら実証していて、私もたしかにその通りだと納得した。
 佐々木氏が「もし賢治を「農聖」と呼ぶのなら…(投稿者略)…賢治以上に「農聖」と呼ばれるにふさわしい人々」がいるということに異存はないであろう
             〈同100p〉
と主張する通りだからだ。ちなみ、身近にさえもそのような人物島善鄰がいる。
 
 そして同氏は、同論考の最後の方で、
 農業上の賢治の業績はせいぜい地方の篤志家的行為であり、いつの時代にも各地に存在していた篤志家の一人とするのがふさわしいと考えられ、「農聖」と呼称されるには全くふさわしくないことと言えるのである。賢治の「農聖」の呼称は全く根拠のない賢治の伝説化、神格化、神話化の一環から来る結果としての「農聖伝説」であって、賢治は「農聖」とは言えないと結論される。
             〈同101p〉
と結論していた。同氏の論考は、徹底的に先行資料を調べ尽くした上での、しかも元北海道立上川農業試験場長でもあるが故に農業の専門家だから、その専門性を発揮して論じているので、その説得力は圧倒的だ。まして、このようなことを冷静でかつ客観的に論じた農業の専門家はかつていなかったはずだからなおさらにであった。
 少なくともかつての私の賢治に対する認識は全く違っていて、その対極にあった側面もあったのだということをこれでもう完全に納得した。そして同時に、賢治にますます親近感を感ずるようになって《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》にどんどんなってきたのだということで、とても嬉しい。

 最後に同氏は、
 二宮尊徳について書かれた多くのものは、尊徳について「農聖」の言葉を全く用いていないが、これは戦後民主主義の風潮の影響があるのかもしれない。それにもかかわらず、賢治のそれの多くは以前としてためらいもなく賢治を「農聖」呼ばわりし続けているの、異常と言ってもよいのではなかろうか。
             〈同102p〉
と手厳しく警鐘を鳴らしてこの論考を締め括っていた。私は、この鋭い指摘を重く受けとめねばと心に誓った。
 あれだけ賢治の為に尽力した松田甚次郎の場合も二宮尊徳に似たような扱いをうけて、「戦後民主主義の風潮の影響があるのかもしれない」が、戦後は賢治関係者の多くからはほとんど無視されていたことを私は知っていた上に、この度賢治はその後も二宮尊徳のような扱いはされなかったということを知ったので、私は佐々木氏にそのことも感謝しながら、
    改めて佐々木多喜雄氏の学問に対する厳しい姿勢に、賢治の真実を冷静で客観的に探究しようとする真摯な態度に敬意を表したい。

 そしてもう一つ、佐々木氏のこの「賢治「農聖伝説」考」を学んだことによって私の中で起こった画期的確信は、
 巷間、ブドリは「あり得べかりし賢治」だと言われているが、そして私もかつてはそう思い込んでいたが、もはやもう騙されない、ブドリは読者や賢治研究家にとっての「あらまほしき賢治」に過ぎなかったのだ。
という確信である。

 なお、これで佐々木氏の「賢治「農聖伝説」考」シリーズはひとまず終えるが、その他にも同氏は『北農』に賢治に関する論考を載せているので、近々それらも紹介したい。

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