《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
さてこの度、「風の又三郎」の風景地と一つと言われている「大迫外川目」《 外川目地区(抜粋)》(平成27年10月8日撮影)
<「大迫賢治マップ」(早池峰賢治の会)より>
を初めて直接訪ねて廻ってみて感じたことを以下に少し述べてみる。
(1) これで、「風の又三郎」の小学校のモデルになったと巷間言われている三つの小学校の跡、「木細工分教場跡」「火の又分教場跡」「沢崎分教場跡」を初めて全て見ることができたのだが、
谷川の岸に小さな学校がありました。
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
ということでいえば、どの学校跡地も「谷川の岸に小さな学校がありました」という点では皆当てはまるが、「運動場もテニスコートのくらいでした」に注目すれば、やはり「沢崎分教場跡」の狭さが一番当てはまっている。しかも、「すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でした」ということになれば、「沢崎分教場跡」以外は当てはまらない。「木細工分教場跡」ならばすぐ後ろは川であり、「火の又分教場」の場合は平坦地だからである。したがって、この三つの候補の中でならば一番相応しいのは「沢崎分教場跡」であろう。なお、「沢崎分教場跡」に「水を噴ふく岩穴」を見つけることはしなかったがそのような地形にはあるし、残りの二つにはそのようなことはもともとあり得ない地理的・地学的場所である。教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
(2) それから、この沢崎地区のとある山の斜面に「春日神社」があって、そこの急坂の参道から下を見下ろせば、
……川に沿ったほんとうの野原がぼんやり碧くひろがっているのでした。
「ありゃ、あいづ川だぞ。」
「春日明神さんの帯のやうだな。」三郎が言いました。
「何のようだど。」一郎がききました。
「春日明神さんの帯のやうだ。」
というような景が目の前に俯瞰できる。「ありゃ、あいづ川だぞ。」
「春日明神さんの帯のやうだな。」三郎が言いました。
「何のようだど。」一郎がききました。
「春日明神さんの帯のやうだ。」
(3) そして、この神社の近くから「猫山」に行くことができ、「宮沢賢治と大迫」(早池峰賢治の会)によれば、その山腹にはモリブデン採鉱跡があるという。また、私の知る限りのことでしかないのだが、岩手でモリブデン鉱は外川目地区にはあるが、少なくとも江刺周辺にはない。
(4) また、この大迫地区は江戸時代からの煙草の産地であり、特に「南部葉」の名産地(当時の岩手における煙草の葉の産地は千厩、大迫、江刺)なそうで、
その前に小さなたばこ畑がありました。たばこの木はもう下の方の葉をつんであるので、その青い茎が林のやうにきれいにならんでいかにも面白さうでした。
<『宮沢賢治全集7』(筑摩文庫)330p~より>という必要条件をこの外川目地区も満たしていそうだ (なお、賢治は大正7年、同9年に大迫等へ土性調査に来ていて、あの関教授と一緒にタバコ畑を歩いていたりしていたということなので、大迫地方の葉たばこ生産に関してはそれなりの知識等を持っていたと考えられるし、いくつかの短歌にも詠んでいるというが、これらのことは後刻考えてみたい)。
よって、三つの小学校、「木細工分教場」「火の又分教場」「沢崎分教場」の中でどれが一番「谷川の岸に小さな学校」に相応しいかというと、どうやら「沢崎分教場」だろう。巷間では、この小学校のモデルは「木細工分教場」ということのようだが、少なくとも「風の又三郎」の中に出てくる描写をもとにすればそれに相応しいのは、誤解を恐れずに言えばそれよりも「火の又分教場」であり、そしてはるかに「沢崎分教場」であるということが実際当地を訪ねてみての私の結論である。なぜならば、前者二つは必要条件を欠いているが、最後の「沢崎分教場」は必要条件を満たしているといえるからである。十分条件とまではいえないにしても。
なお、次の書簡
◇昭和6年(1931年)8月18日付澤里武治あて書簡(379)に、
水沢からのお手紙拝誦しました。廿日に当地においでのことそれならば殊に好都合ですから切にお待ちいたして居ります。作曲の方はこれからもどしどしやられ亦低音部がゆるやかに作ってあればセロをも入れられるでせうし第一に歌詞ない譜曲だけスケッチして置かれれば歌詞は私が入れませう。仙人峠の方は今月或は蓋ろ学校が始まってからの方が好都合な点もあります。それはこの頃「童話文学」といふクォータリー版の雑誌から再三寄稿を乞ふて来たので既に二回出してあり、次は「風野又三郎」<*1>といふある谷川の岸の小学校を題材とした百枚ぐらゐのものを書いてゐますのでちやうど八月の末から九月上旬へかけての学校やこどもらの空気にもふれたいのです。とにかく二十日にはお待ちして居りますから駅前から電話をかけるか或は当日は朝顔会があるので午前中は町役場(館)の二階に居りますからそちらへ訪ねて下さるなら殊に好都合です。まづは。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡』(筑摩書房)より>とあるから、当時武治が勤務していた小学校(上郷小学校)がモデルだという人もあるようだが、ここに「八月の末から九月上旬へかけての学校やこどもらの空気にもふれたいのです」とあるように、この時の上郷小学校訪問は学校そのものをモデルにしたいためだったということはなかったであろう。それは、この手紙の日付が〝昭和6年8月18日〟であることからも明らかだ。
もう少し具体的に言えば、いわゆる「風野又三郎」 (學燈社の『宮沢賢治必携』によれば、大正13年以前に執筆されたという) の場合は
九月一日
どっどどどどうど どどうど どどう、
ああまいざくろも吹きとばせ
すっぱいざくろもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう
谷川の岸に小さな四角な学校がありました。
学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室がひとつあるきりでほかには溜りも教員室もなく運動場はテニスコートのくらゐでした。
先生はたった一人で、五つの級を教へるのでした。それはみんなでちゃうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。
<『宮沢賢治全集 5』(ちくま文庫)より>どっどどどどうど どどうど どどう、
ああまいざくろも吹きとばせ
すっぱいざくろもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう
谷川の岸に小さな四角な学校がありました。
学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室がひとつあるきりでほかには溜りも教員室もなく運動場はテニスコートのくらゐでした。
先生はたった一人で、五つの級を教へるのでした。それはみんなでちゃうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。
というようにして始まるから、すでにこの時点で小学校のイメージはできあがっていたし、それは「風の又三郎」 (同じ、昭和6年~8年に改変されたという) でも
九月一日
どっどど どどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいくゎりんふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
谷川の岸に小さな学校がありました。
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
<『宮沢賢治全集 7』(ちくま文庫)より>どっどど どどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいくゎりんふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
谷川の岸に小さな学校がありました。
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。
となっていて、その学校のイメージがそのまま引き継がれているので、「八月の末から九月上旬へかけての学校やこどもらの空気」が童話に反映されていたとしても、「上郷小学校」そのものがこの小学校のモデルであったということはほぼあり得ないだろう。すでに、いわゆる「風野又三郎」の時点でそれはもはや出来上がっていたと言えるからである。
<*1:註> ここでの、この「風野又三郎」とはいわゆる「風の又三郎」のことであり、最初に書かれたいわゆる「風野又三郎」のことではなかろう。
後々、「平成27年9月19日は一度議会制民主主義が死んだ日だった」と歴史から裁きを受けるでしょう。
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非常に洗練された分析 小生も作品聖地について調べていたので とても参考になりました。
ところでなのですが こちらに掲載されている写真を 作品紹介をする際に使わせていただきたいのですが 可能でしょうか?
返信よろしくお願い致します。
この度はご訪問頂きありがとうございます。
とても「洗練」とはほど遠いものですので、恥じ入っております。
なお、このような写真でもよろしければ、どうぞお使い下さい。
鈴木 守