みちのくの山野草

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昭和3年4月に賢治が詠んだ詩

2016年10月17日 | 「羅須地人協会時代」に詠んだ詩
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
 では、昭和3年4月に賢治が詠んだ詩はどのようなものがあったのか。『新校本年譜』によれば、
四月一〇日(火) 田中義一内閣は、この日安寧秩序を害するものとして労働農民党および日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体に解散を命じた。
 伊藤秀治(伊藤椅子張所経営)談。
「労農党の事務所が解散させられた、この机やテーブル、椅子など宮沢賢治さんのところから借りたものだが、払い下げてもいいと言われた、高く買ってくれないか、と高橋(慶吾)さんがリヤカーで運んできたものだった、全部でいくらに買ったかは忘れたが、その机、テーブル、椅子などは今度は町役場に売ったと覚えている。」
四月一二日(木) <台地>。稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄がえがかれている。
四月 この年四月付発行「岩手県農会報」一八八号に「農界の特志家/宮沢賢治君」の記事が掲載されている。
ということで、4月に詠んでいた詩篇は久し振りに一篇だけあった。

 さてこうなると、梅野健造が「賢治との出会い」の中で、
 昭和三年四月、労農党の主張は危険思想であるとする政府・取締当局の弾圧により本部・全国支部は解散された。これと前後して羅須地人協会は農民を思想的に指導しているとして賢治は花巻署に召喚・取調べを受け、やむなく協会を解散するに至った。
              <『賢治研究33号』(宮沢賢治研究会)9p~より>
と語っていることを思いし、〝DVD「その4 イギリス海岸」(梅野健造)〟でも少し触れたように、私はこれを素直に解釈して
 ・昭和3年4月の労農党解散指令の前後に賢治は警察から取り調べを受けた。
 ・それを受けてその後、賢治は羅須地人協会を解散した。
ということでやはりいいのではなかろうかと思いつつある。通説とは違うことになるのだが、同年2月に解散したのはあの「楽団」だけであり、その後も羅須地人協会の活動は従前通りこの時まで活動を続けていた、と。

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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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