みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

昭和2年12月に賢治が詠んだ詩

2016年10月13日 | 「羅須地人協会時代」に詠んだ詩
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
 では、昭和2年12月に賢治が詠んだ詩はどのようなものがあったのか。『新校本年譜』によれば、
一二月二一日(水) 本日付発行の盛岡中学「校友会雑誌」に「冬二篇」を発表。
一二月二六日(月) 本日付「新潟新聞」に詩誌「新年」主催「代表的詩人作品 詩誌 詩集展」の記事があり、その出品者中に賢治の名がある。
ということで、12月に詠んでいた詩篇はやはり一篇もないことになっていた。またこの記載からは、生身の賢治は何一つ見えてこない。

 したがって逆に、ますます賢治はこの時に滞京してチェロの勉強をしていたということが真実味を帯びてくるように私には思える。なぜならば、初出の「澤里武治氏聞書」<*1>は次のようになっているからだ。
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
           <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~より>
 この頃、「先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強」をしていたということであれば、この頃に賢治は詩を全く詠まず、一方で賢治が何をしていたかが「現賢治年譜」から見えてこないことなどのある理由を思い付いて、私は妙に腑に落ちる。

<*1:註> 昭和23年2月発行の『續 宮澤賢治素描』の「序」の記述内容から、澤里が関登久也から「聽取」を受けたのはいつであったかは定かではないにしても、少なくとも昭和21年10月30日以前であることが導かれる。つまり、賢治が亡くなって14年も経っていなかった時のことになる。

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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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