<↑Fig.1 『新しき農村の建設』の記事(大正15年4月1日版岩手日報より)>
大正12年佐藤隆房は稗貫農学校跡地に『花巻共立病院』を開院し、大正13年には宮沢賢治に頼んでその病院の中庭に花壇を造園した。
【Fig.2 花巻共立病院の花壇】
<『賢治の花園』(佐藤進著、地方公論社)より>
この写真は大正13年に写したもので、右上の人物は佐藤隆房である。
佐藤隆房は宮澤賢治の主治医も務め親密な交友関係にあったという。その隆房の著書に『宮澤賢治』(冨山房)という本があり、この本は以前”宮澤賢治の年譜について(その1)”等で触れた本である。
いま、私の手もとにある
【Fig.3『宮澤賢治』】
は2冊あり、右が冨山房刊(昭和17年版)で、左が私家版である。
私家版の方は平成8年宮澤賢治生誕百年を記念して限定出版されたもので、佐藤隆房のご子息佐藤進氏の編集によるものである。
この私家版を見ていて(冨山房版には見当たらないのだが)見つかって嬉しくなったのが次の章である。
84 師とその弟子
大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事(注*)を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
はじめての所なので、距離も一層遠いように感じられ、曲がりや、岐れの数も大変多いなと思いながら、ようやくその家らしい道に着きました。一群の松の木立は冬の晴れた天に伸び上がり、その傍らの、木々にかこまれた隔絶の家が、柾葺きの素朴な中に何かしら清浄さを感じさせています。
北側の入り口に立って訪ねますと、すぐに声がしてその家の主が現れました。初めてお目にかかった宮澤賢治先生です。短く刈った頭、カーキ色の農民服、足袋ははかないで。
請じられて二階に上がりました。冬の寂光が玻璃の窓を透して静かに入り、北上川の流れは清澄、玻璃の外に見えます。いたって粗末な火鉢に、火の少しあるのを真ん中にして、座につきました。松田君は、ただなんとなしに、春風のような愉快さと、泉のような慈しみとを感じさせられました。
お茶は出ないで、主人の御馳走は、オルガンの奏曲と、ロシアのレコードと、うず高く積まれた自作の詩稿の朗読とです。
「こんな山の中におっても、ありがたいことには世界の名曲を聴かれます」と言いながら、宮沢先生はレコードをかけて客をもてなしました。
その訪問の時には農耕にふれての話しはありませんでしたが、数々朗読してくれた詩の中で
草 刈
つめたいというのに刈れというのか
ねむいというのに刈れというのか
は、その中に表現されているすさまじい努力の息づかいが、農人となろうとしている松田君の心を揺り動かしました。また
善 鬼 呪 禁
なんぼあしたは木炭を荷馬車に山に積み
くらいうちから町へ出かけて行くたって
こんな月夜の夜なかすぎ
稲をがさがさ高いところにかけたりなんかしてゐると
あんなに遠くのうす墨いろの野原まで
葉擦れの音も聞こえてゐたし
どこからどんな苦情が来ないもんでもない
…
どうせみんなの穫れない歳を
逆に旱魃でみのった稲だ
もういゝ加減区割りをつけてはねおりて
鳥が渡りはじめるまで
ぐっすりと睡るとしたらどうだ
この詩は、世の中に対してむずかしい心遣いがいるのだということで松田君の胸を驚かせました。冬なのだが暖かい霧に、寒い時なのだが柔らかいもやにつつまれたような思いで、松田君はうやうやしく辞して帰路につきました。
美しく、そして優しいその慈愛を、忘れ去る日がない松田君は、次の年、昭和二年、高等農林卒業の春、三月十八日再び桜の住居の宮沢先生を訪ねました。
…
三月十八日の訪問で感奮した松田君は、その年の八月十八日、三度目の訪問をしました。
…
昭和六年には松田君へなつかしの師宮沢先生から手紙を添えて、先生の著『春と修羅』が贈られた来ました。
<注*:この記事とはこのブログの先頭の岩手日報の記事のことではなかろうか>
というのは、以前”ベストセラー『土に叫ぶ』と宮澤賢治』”に於いて述べたことだが、松田甚次郎は昭和2年以前に『何度か何回か下根子桜の賢治宅を訪れていたことになると私は考えている』と推理していたのだが、この私家版に依れば
松田甚次郎が賢治宅を最初に訪ねたのは大正15年の12月25日だ
ということが分かったからである。なお、大正15年の12月25日といえば大正天皇が亡くなった日でもある。
そしてこの頃といえば、赤石村などを始めとする紫波郡一帯は大干魃に見舞われて殆どの農家は生活に困窮していた頃である。
続きの
”農村文化の創造に努む”へ移る。
前の
”凶作救済策”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
大正12年佐藤隆房は稗貫農学校跡地に『花巻共立病院』を開院し、大正13年には宮沢賢治に頼んでその病院の中庭に花壇を造園した。
【Fig.2 花巻共立病院の花壇】
<『賢治の花園』(佐藤進著、地方公論社)より>
この写真は大正13年に写したもので、右上の人物は佐藤隆房である。
佐藤隆房は宮澤賢治の主治医も務め親密な交友関係にあったという。その隆房の著書に『宮澤賢治』(冨山房)という本があり、この本は以前”宮澤賢治の年譜について(その1)”等で触れた本である。
いま、私の手もとにある
【Fig.3『宮澤賢治』】
は2冊あり、右が冨山房刊(昭和17年版)で、左が私家版である。
私家版の方は平成8年宮澤賢治生誕百年を記念して限定出版されたもので、佐藤隆房のご子息佐藤進氏の編集によるものである。
この私家版を見ていて(冨山房版には見当たらないのだが)見つかって嬉しくなったのが次の章である。
84 師とその弟子
大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事(注*)を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
はじめての所なので、距離も一層遠いように感じられ、曲がりや、岐れの数も大変多いなと思いながら、ようやくその家らしい道に着きました。一群の松の木立は冬の晴れた天に伸び上がり、その傍らの、木々にかこまれた隔絶の家が、柾葺きの素朴な中に何かしら清浄さを感じさせています。
北側の入り口に立って訪ねますと、すぐに声がしてその家の主が現れました。初めてお目にかかった宮澤賢治先生です。短く刈った頭、カーキ色の農民服、足袋ははかないで。
請じられて二階に上がりました。冬の寂光が玻璃の窓を透して静かに入り、北上川の流れは清澄、玻璃の外に見えます。いたって粗末な火鉢に、火の少しあるのを真ん中にして、座につきました。松田君は、ただなんとなしに、春風のような愉快さと、泉のような慈しみとを感じさせられました。
お茶は出ないで、主人の御馳走は、オルガンの奏曲と、ロシアのレコードと、うず高く積まれた自作の詩稿の朗読とです。
「こんな山の中におっても、ありがたいことには世界の名曲を聴かれます」と言いながら、宮沢先生はレコードをかけて客をもてなしました。
その訪問の時には農耕にふれての話しはありませんでしたが、数々朗読してくれた詩の中で
草 刈
つめたいというのに刈れというのか
ねむいというのに刈れというのか
は、その中に表現されているすさまじい努力の息づかいが、農人となろうとしている松田君の心を揺り動かしました。また
善 鬼 呪 禁
なんぼあしたは木炭を荷馬車に山に積み
くらいうちから町へ出かけて行くたって
こんな月夜の夜なかすぎ
稲をがさがさ高いところにかけたりなんかしてゐると
あんなに遠くのうす墨いろの野原まで
葉擦れの音も聞こえてゐたし
どこからどんな苦情が来ないもんでもない
…
どうせみんなの穫れない歳を
逆に旱魃でみのった稲だ
もういゝ加減区割りをつけてはねおりて
鳥が渡りはじめるまで
ぐっすりと睡るとしたらどうだ
この詩は、世の中に対してむずかしい心遣いがいるのだということで松田君の胸を驚かせました。冬なのだが暖かい霧に、寒い時なのだが柔らかいもやにつつまれたような思いで、松田君はうやうやしく辞して帰路につきました。
美しく、そして優しいその慈愛を、忘れ去る日がない松田君は、次の年、昭和二年、高等農林卒業の春、三月十八日再び桜の住居の宮沢先生を訪ねました。
…
三月十八日の訪問で感奮した松田君は、その年の八月十八日、三度目の訪問をしました。
…
昭和六年には松田君へなつかしの師宮沢先生から手紙を添えて、先生の著『春と修羅』が贈られた来ました。
<注*:この記事とはこのブログの先頭の岩手日報の記事のことではなかろうか>
というのは、以前”ベストセラー『土に叫ぶ』と宮澤賢治』”に於いて述べたことだが、松田甚次郎は昭和2年以前に『何度か何回か下根子桜の賢治宅を訪れていたことになると私は考えている』と推理していたのだが、この私家版に依れば
松田甚次郎が賢治宅を最初に訪ねたのは大正15年の12月25日だ
ということが分かったからである。なお、大正15年の12月25日といえば大正天皇が亡くなった日でもある。
そしてこの頃といえば、赤石村などを始めとする紫波郡一帯は大干魃に見舞われて殆どの農家は生活に困窮していた頃である。
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