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3133 八重樫賢師の生家訪問(続き)

2013-03-08 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
…承前…
確認できたこと
 今回の八重樫賢師生家訪問でほぼ確認できたこと等は次の2つである。
 その一つは、
(1) 八重樫賢師が函館に奔ったのは小舘長右ェ門が小樽に奔った理由と同じであり、時期も同じで、それは昭和3年8月であったであろうこと。
 この時期に平井直衛は盛中の教員を首になり、小舘が小樽に奔り、八重樫賢師が函館に奔ったのも皆同じ昭和3年8月頃であり、これらのことは同年10月陸軍特別大演習を前にして、官憲による徹底した取り締まりや凄惨な弾圧が為されたということを証左していると言えよう。奇しくも、この前月、7月には特高が新設されたということだったから、岩手の場合に限って言えばあたかもこの弾圧のために新設されたの観さえある。
 したがってこうしてみると、賢治が伊藤儀一郎から事情聴取を受けた時期はまさしくこの時期昭和3年8月頃であったと考えることはそれほど的を外れていないかもしれない。それ故、先に触れたあのインタビューで境忠一の質問に対して堀尾が
 これは左翼的な思想や、社会主義の立場からではない――いわゆる危険思想での取り調べではなかったようです。
と答えていたのであったが、これが果たして何を典拠にしているのかは私にはわからないが、賢治はこの時期昭和3年8月頃にまさしく〝左翼的な思想や、社会主義の立場から〟から伊藤儀一郎に事情聴取されたという見方も捨て去る訳にはいかないと思うが如何であろうか。
 それからもう一つは
(2) たしかに名須川溢男は八重樫賢師の生家を実際訪ねて聞き取りをしていたことを確認出来たこと。なおかつ、名須川が論文に書いているような証言を先の〝義母〟が実際していたであろうこと。
である。
 これも私とすれば嬉しかったことである。というのは、以前から
 名須川の論には聞き書きのあり方をめぐって批判が投げかけれれたことがあった………①
             <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)255pより>
という栗原氏の指摘が私は気になっていて、何故そのような批判があったのかと訝しく思っていたが、今回の八重樫賢師生家訪問を通じて私なりにはその一つの可能性が少し垣間見えてきたからである。
名須川の聞き書きに対する批判について
 それではそのことについて以下に述べてみたい。
☆まず確認しておきたいことは、その〝名須川の論〟とは、前掲書に所収されている名須川溢男の論文「宮沢賢治とその時代」等のことであろうが、この論考「宮沢賢治とその時代」で名須川はまず
 このように宮沢賢治は、労農党稗和支部の運動におもてにはでなかったが、土台となって支援していることがわかるのである。
             <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)115pより>
と述べ、これを受けて
 この点についてなぜ、今まであきらかにされてこなかったのか、その点こそが賢治観の変遷を示すものである。賢治がそのような無産運動に関係しているということは、第二次大戦前そして大戦後もいぜんとして残っている賢治神格化に不都合なことであり…(略)…。
             <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)122pより>
と嘆いていること等である。
☆その具体的な一つの例がこの八重樫賢師のことであろう。そして同論考で名須川は
   賢治の分身のように労農党稗和支部で活動した八重樫賢師
という八重樫賢師のことがなぜそれまでに明らかにされてこなかったのかと、世に問うた。そしてさらには、
   その八重樫賢師が不本意なままに故郷を離れて函館で客死したこと
もなぜ同様だったのかと。そしてこのような須川の問いは、名須川が先達を詰っているとも受け取られかねない。
 それゆえに逆に、そのような先達の中の一部から名須川に対して批判〝①〟が投げかけられたのであろうと私には推察される。したがって、もしそうだとすればそのような名須川への批判は当たらないと私は現時点では思っている。
☆実際当時のことを考えてみれば、賢治の無産運動に関する取材を仮にしようとしても、殆どの地元の人々は口が堅かったであろうことは想像に難くない。
 もちろんそれは宮澤一族が花巻の〝財閥〟であり、極め付きの有力者だったせいでもあろうが、それとともに宮澤一族は大地主揃い、当時かなり数の小作人を抱えていたからである。小作をしている人達にすればいくら取材を受けたとしても
  『あそご(宮澤家)の土地を小作(しつけ)でられていて…
             <飛田三郎著「肥料設計と羅須地人協會」より>
ということで、宮澤一族に対しはどうしても遠慮せざるを得ず、おいそれとは口を開く訳にはいかなかったであろうことは容易に察しがつく。
☆ちなみに、森嘉兵衛の「明治百年序説」の中の〝岩手県大地主調査表(昭和12年)〟によれば花巻関係は以下のとおりであり、
◇50町歩以上7名(54人中)
稗貫花巻 瀬川弥右衛門 金融業 田 107.0 畑27.5 計134.5 小作人 158人
稗貫花巻 梅津健吉    金融業    75.7   18.9   94.6       115
稗貫花巻 宮沢直治    商 業    62.9   23.7   86.6       102
稗貫花巻 佐藤秀六郎  商 業    49.1   26.4   75.5        92
稗貫花巻 松田忠太郎  商 業    52.9    9.6   62.5        60
稗貫湯口 宮沢善治    旅館業    46.9   13.2   60.1       100
稗貫花巻 宮沢商店    商 業    24.6   26.8   51.4         57

             <『岩手史学研究No.50』16p~より>
 なんと、昭和12年当時、宮沢直治の小作人102名、宮善同100名、宮沢商店同57名にも及ぶ。この3人だけで計134町歩の田圃、畑も加えれば計198町歩もの小作地を有していたことになるし、小作人の総数は259名に及ぶ。
 また、宮澤政次郎にしても当時10町歩ほどの小作地があったという。それは大正4年の「岩手紳士録」に
   宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
               <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)272pより>
載っていると川原が紹介しているから知ることが出来る。
☆したがって、賢治没後も長きにわたって多くの地元の人達は賢治について不利益と思われるようなこと、とりわけ賢治と無産運動・社会主義等について証言することはタブーであったであろうし、公に語ることも、したがって知られることもまたなかったのであろう。
 だからこそ、名須川が賢治周辺の人達から関連する証言を引き出したことは画期的な出来事だったのであり、謂わばそれまでのタブーを名須川は破った訳だからしかるべき評価は受けて当然だったと思う。が、中には苦々しく思った人がいて、そのような人が名須川に対してあの聞き取りは〝まゆつば〟だとかというようなクレームをつけた。そのことが①に中ると私は自分なりには解釈出来た。
 なお、最初にお断りをしたように、これはあくまでも一つの可能性を述べただけのことであり、これが事の真相だと言いたい訳では勿論ない。 

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