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みちのくの山野草

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1923 南城共働村塾補足

2010-12-29 09:00:00 | 賢治関連
          《1↑『水五則』》
                 <新庄市立図書館「松田甚次郎コーナー資料」より>
 以前”南城振興共働村塾”や”写真で見る南城振興共働村塾”で投稿した短期の南城振興共働村塾であるが、その中味についてもう少し詳しく知りたいと思って『「宮澤賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)の頁を捲っていたならば、その紹介をしている南城組合長の照井又左ヱ衛門の一文がそこにあった。

 その中で照井は次のように説明している。
 昭和14年3月22日から3日間松田甚次郎を迎えて短期の共働村塾が開塾されるという各紙の報道により、遠くは二戸郡軽米町、南は江刺郡愛宕、近くは紫波郡和賀郡稗貫郡内各町村から入塾者119名を迎えて開塾された。
 初日の午前は、県の係から産業組合の振興論の講義。午後は小学校の庭続きの山林を松田を先頭にして塾生一同一鍬一鍬を打ちち込み、耕地に変えていった。
 夜の座談会には一部民も参加して、「戦時下農民の覚悟」と題して活発な議論が交わされ、一つ一つ松田の批評指導で最も有意義に終了する。夜の終わりの行事修道夜会、一同静かに瞑目し一切の邪念を去り、今日一日深く反省すること暫し、松田によって宮沢賢治作詞「稲作挿話」<*>が朗読された。

 因みに、この短期村塾の記事を載せている
《2 昭和14年3月23日付 岩手日報》

である。そして、照井の文は次のように続く。
 二日目、朝の静寂を破る太鼓の起床の合図、一同数丁東の北上川を指して駆足。松田から禊ぎの注意指導を受けて、霧のたなびく北上川に入り沐浴。終わって清々しい気持ちのまゝ宮沢賢治の詩碑前に詣でて記念撮影、
 ということは、前回投稿した中の次の一葉
《3 無タイトルの賢治詩碑の前での集合記念写真》

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
は、このときの2日目の朝の記念写真であることはほぼ間違いないということになろう。
 そして照井の文はさらに次のように続く。
詩の朗読、予定の行事が順調に進行されて、塾生待望の「農村振興について」という松田の講演がなされた。
 その要旨は、村芝居による農民の啓蒙運動、隣保館建設、農産加工、託児所、敬老会、母の会、裁縫塾等の設置、精神鍛錬の実修、農業経営主義と実績、最上共働の設立、日本共働奉仕団の結成、農村啓蒙行脚等々、四時間半にわたり、「私共の今までの協働事業は、実に苦闘の業績であった。加えて当局の厳重な取り締まりや注意をうけながら、赤貧と過労と闘いつゝ、あるいは悪口され、圧迫されながらも弱きを助け自己のために図らず、全体のために身を献じて来たのである」と最後を結んだのであった。
 満場沸き返るような拍手がしばし鳴り止まなかった。村塾退場式は感激のうちに終了証(水五則を裏面に印刷)を交付し塾生一同更生を誓って有意義に第一回を終了した。
 塾の開設は春秋二回、松田を招き起居を共にして、ある時はサイロの建設作業の指導を受け、ある時は県下若き農民の農村振興体験発表会を開催して、松田の指導、批評を求め、またある時は農民劇を催し、あるいは水稲分肥指導を受けて水稲新栽培技術に先鞭をつけるなど、回を重ねること七回ひたすら地についた農民魂の昂揚に重点をおいたのであった。

 これで少し霧が晴れた。というのは照井の説明文の中に”終了証(水五則を裏面に印刷)”という一語があったからである。前回次の写真
《4 『南城振興共働村塾(昭和14年)』》

     <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>
の中の賢治の写真の額縁の右隣の額縁に納められているのは『水五則』ではなかろうかと推測していたのだが、この一語が照井の説明文の中にあったのだから、やはりこれは間違いなく『水五則』(このブログの先頭にある)であったと結論出来そうだからである。

 また照井のこの文からは、甚次郎はこの短期の南城振興共働村塾に招かれて毎年春と秋の2回、計7回来花したといううことだから、昭和18年に甚次郎が亡くなる直前までほぼ毎年継続してわざわざ来花、村塾の塾生を指導したりしていたということになろう。なかなか出来ることではないと思う。

 ところが、高村光太郎に師事した真壁仁や斉藤茂吉に師事した結城哀草果は同県人の甚次郎を後年かなりくさしているようだ。しかし私は甚次郎一人を責めるのは酷な気がする。

 同じく同県人の藤沢周平が『ふさとへ廻る六部』(新潮社)で光太郎と茂吉に関して次のようなことを語っているという。
 ともに戦争礼賛の詩や歌を詠んだ2人だが、光太郎は戦争協力した自己点検の詩集『暗愚小伝』を出し「千の非難も素直にきき、極刑とても甘受しよう」というが、一方の茂吉は歌集『白き山』を出し、注意深く読めば低音の懺悔の響きがあるものの、「軍閥ということさえも知らざりしわれを思えば涙しながる」という歌を戦犯をのがれるために詠み、光太郎の自己点検には遠くおよばない。それは2人の戦争協力の認識の有無の違いにあると思われる。

 ひるがえって、真壁や哀草果が甚次郎をもし誹りたいのならばそれぞれの師の戦争責任をどのように評価し総括していたのだろうか。戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表したことを悔いて太田村山口に「自己流謫」した光太郎はまだしも、茂吉などは全く責任に心を痛めていなかったのではなかろうか。
 
 また真壁や哀草果は、賢治の作品が戦争昂揚に利用されたことに関してはどのように思っていたのだろか。
 
******************************************<註*>****************************************
     稲作挿話(未定稿)
   あすこの田はねえ
   あの種類では
   窒素が余り多過ぎるから
   もうきつぱりと灌水を切つてね
   三番除草はしないんだ
      ……一しんに畔を走つて来て
        青田のなかに汗拭くその子……
   燐酸がまだ残つてゐない?
   みんな使つた?
   それではもしもこの天候が
   これから五日続いたら
   あの枝垂れ葉をねえ
   斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ
   むしつて除つてしまふんだ
      ……せわしくうなづき汗拭くその子
        冬講習に来たときは
        一年はたらいたあとゝは云へ
        まだかゞやかなりんごのわらひを持つてゐた
        今日はもう日と汗にやけ
        幾夜の不眠にやつれてゐる……
   それからいゝかい
   今月末にあの稲が
   君の胸より延びたらねえ
   ちようどシヤツの上のぼたんを定規にしてねえ
   葉尖をとつてしまふんだ
        ……汗だけでない
          涙も拭いてゐるんだな……
   君が自分で設計した
   あの田もすつかり見て来たよ
   陸羽百三十二号のはうね
   あれはずゐぶん上手に行つた
   肥えも少しもむらがないし
   いかにも強く育つてゐる
   硫安だつてきみが自分で播いたらう
   みんながいろいろ云ふだらうが
   あつちは少しも心配ない
    反当三石二斗なら
    もう決まつたと云つていゝ
   しつかりやるんだよ
   これからの本統の勉強はねえ
   テニスをしながら商売の先生から
   義理で教はることでないんだ
   きみのやうにさ
   吹雪やわづかの仕事のひまで
   泣きながら
   からだに刻んで行く勉強が
   まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
   どこまでのびるかわからない
   それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
   ぢやさようなら
     ……雲からも風からも
       透明なエネルギーが
       そのこどもにそゝぎくだれ……

   <『校本 宮澤賢治全集 第六巻』(筑摩書房)より>

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