みちのくの山野草

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「東北砕石工場時代」の賢治の苦渋と憔悴

2016-09-18 08:30:00 | 本当の賢治を知りたい
【『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)口絵より】
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて前回私は
 そしてそもそも、昭和6年といえば時代は農業恐慌のせいで金肥など買う余裕は小作はもちろんのこと、自小作だって無理、中農だって零落していって田圃を手放さざるを得なかったという流れの時代だったはずだから、化学肥料の三要素窒素、燐酸、加里であったならばまだしも、そのいずれでもない金肥を購入することに殆どの農家は難色を示したであろうことは容易に想像がつく。だから、炭酸石灰の需要がそのよう逼迫していた農村にそれほどあるとはあまり考えられない、と実は賢治はすぐさま覚ったはずだ。
 そしてその上に、この「肥料用炭酸石灰」においても結局相変わらず賢治の石灰施用指導において懸念される欠陥は解消されていなかったので、炭酸石灰施用のリスクには一切触れずに、いいことずくめのことばかり羅列したこの「肥料用炭酸石灰」を用いて営業に飛び廻る賢治の葛藤は、私からすれば察するにあまりある。
と主張した。
 換言すれば、いわば私塾であった「羅須地人協会」で「植物ノ生育ニ直接必要ナ因子」等を用いて講義していた頃の綺麗事が言えた時代とは違い、嘱託となってセールスの仕事をやっていく上では綺麗事ばかり言ってばかりもいられないという「現実の壁」にぶち当たって苦渋を味わわざるを得ないことを体験し、そしてそんなことは多くの人がぶつかるそれであってしかも誰しもがそれと格闘し続けるのだが、賢治の場合にはこの嘱託の仕事もかつての場合と同様に早晩蹉跌しそうだということをすぐ覚らざるを得なかったはずだ、と。

 そのことは、当時の賢治の写真をみればその表情から私は容易に窺えると私は直感した。ちなみにこの投稿のトップの写真は、賢治が「東北砕石工場」の技師となった年である昭和6年の春に撮った写真ということだが、写っている賢治の顔の表情や身体全体から受ける印象がかつての賢治とは全く違って見える。とりわけ目に力がないのである。ただし集合写真なのでその表情とかがあまり鮮明でないしサイズも小さいから、昭和5年の10月頃に撮ったという次の右側の写真とも見比べてみたい。
【宮澤賢治 (左:大正13年、右:昭和5年10月頃)】

             <左:『人と文学シリーズ 宮澤賢治』(桜田満編、学研)158pより抜粋、
                右:『作家読本 宮澤賢治』(山内修編、河出書房新社172pより)>
先ほどの集合写真と同じような服装をして、やはりレーニン帽をかぶっている賢治ではあるが、こちらの写真の方が顔の表情も読み取りやすい。そこでさらにかつての賢治の写真(上掲の左側の大正13年の写真)とこれらを比べてみよう。
 すると、昭和5年のものと昭和6年のものとはほとんど変わりはないことがわかるが、これらの二枚から受ける賢治の印象と大正13年のものとではかなり異なっていることは誰の目にも明らかであろう。両手をしっかりと組んでいる方の写真からは賢治の意志の強さが伝わってくるし、しっかりと見据えた視線などから、自信に満ちた賢治が浮かんでくる。ところが一方、ほとんど同じような印象を受ける残りの2枚の写真からは、頬もこけ、目も虚ろ、不安で自信なさげで憔悴した賢治しか私には見えてこない。どうやら、それが何時頃からなのかはしかとわからぬが、下根子桜撤退後の賢治には劇的な変化が起こっていたということがこれらの写真から読み取れるのではなかろうか。

 はたまた、当時のことを詠んだであろう「王冠印手帳」所収の詩〔隅にはセキセイインコいろの白き女〕では、
ぐたぐれの外套を着て考ふることは
心よりも物よりも
わがおちぶれしかぎりならずや
             <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)281p~> 
とか、同様に「孔雀印手帳」所収の〔雲影滑れる山のこなた〕では、
また炭酸紙にて記したる
価格表などたづさえて
わが訪ひしこそはづかしけれ
             <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)395p> 
と詠んでいることを知れば、この当時の賢治は「わがおちぶれしかぎりならずや」「わが訪ひしこそはづかしけれ」というように、我が身の不遇をかこっていることは読み取れても、もはやかつての「羅須地人協会時代」の賢治の矜恃は見えてこない。やはり賢治の中では確実に何かが音を立てて崩れていったような気がしてならない。

 そしてそのようなことは、森荘已池が昭和6年7月7日に賢治と会った際の、賢治との次のようなやりとりからも窺える。二人の間には、
禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻転ではない。天と地がひっくりかえると同じことじゃないか。
何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。
 そういってから、しばらくして又いった。
昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといったそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな偽善に過ぎませんよ。
 私はその激しい言い方に呆れる。
草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。
という。
「いいでしょうね。」
と私は答えた。
いい材料はたくさんありますよ。
と宮沢さんいう。
 石川善助が何か雑誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送ったそうである。その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、
私も随分かわったでしょう、変節したでしょう――。」
という。
              <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)177pより>
というやり取りがあったと森は自分の日記に記しているということだから、これらの写真の変化と森がかくのごとく証言している賢治の「変化」とがまさに呼応しているということになる。
 こうなると、先ほどの写真や賢治の詩そして森のこの証言から、
 「東北砕石工場技師時代」の賢治はかつての賢治とは外見のみならず内面もすっかり様変わりしていたということがほぼ間違いなさそうだ。
ということが導びかれる。 

 話が少し横道にそれたので元に戻そう。さて、御存じですか新肥料 炭酸石灰 他の及ばぬ甚大なる効力」と銘打った資料「肥料用炭酸石灰」では定性的なことは微に入り細に入り述べているものの、肝心の定量的なことは殆ど述べていないことを知った。しかも、当時は既に土壌のpHを測定できた時代なのだからそれができたはずなのに、稲のそれはもちろんのこと各農作物の適正なpHをこの中では相変わらず提示していない。またそれ以前に、炭酸石灰施用のリスクには一切触れずに、いいことずくめのことばかり羅列している。
 もちろん、最後の項目炭酸石灰の特に有効な施用法」の中で初めて定量的なことが述べられていて流石と思ったのだがそれもつかの間、冷静になって少しく考えてみれば、その際の施用量はもちろん土壌のpHによって決まることなので、そのような一律な施用では上手くいく場合もあればそうでない場合も生ずるという不安が伴っていることはほぼ自明なこと。そのことは、この「肥料用炭酸石灰」そのものの、いみじくも、「安全のようであります」という心許ない表現が暗示していると私には感じられた。当然当事者の賢治であれば、これらのことは疾うに解りきったことだったであろから、羊頭狗肉ともいえるこの炭酸石灰の営業は賢治にとっては耐え難いものであったであろう。
 そしてもう一つ言っておきたいことは、もし資料「肥料用炭酸石灰」が述べているような「甚大なる効力」がたしかに「炭酸石灰」にあったのだとすれば、それ以降はこの施用の仕方が重用されてきたはずだがそのような話は聞かないし、そもそもこの「炭酸石灰」を用いた稲作法が望ましい成果を挙げていたのであれば、そのことの証言や資料があるはずだが、残念ながらそのようなものに私はまだ出会っていない。だから言えることは、この金肥としては「炭酸石灰」だけを用いる稲作法は所詮急場しのぎの方法<*1>であり、恒常的なものとはなり得なかったのではなかろうかということである。

 たしかによくいわれているように、賢治は「羅須地人協会」でできなかったことを今度は「東北砕石工場嘱託」を通じてやろうと思ったのかもしれないが、賢治はこの営業マンとしての幾多の苦渋を味わい、たちまち憔悴仕切ってしまうことは私からすればほぼ明らか。それはとても残念なことだが、それまでの賢治と、その頃の賢治を知れば、常識的には当然の帰結であろう。
 だからせめて、賢治は水稲が酸性に対して耐性があると言っているくらいだから、賢治は水稲の場合も土壌は中性が最適であると思い込んでいたということもあながち否定できないとしても、それは賢治が水稲の適正なpHが〝pH5.5~6.5〟であったということを知らなかったからだったというわけではなく、時代がまだそのことをわかっていなかったからだったのだろうと私はひたすら願っている。
 そして、先に引用した阿部繁の、
 科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです。
という発言をやはり重く受け止めねばならなぬのかと。

 以上、かつての満蒙開拓青少年義勇軍のお一人である、滝沢市在住のKT氏から、
    米は酸性には耐性がある。
ということを過日教えてもらったことが切っ掛けとなってスタートしたこのシリーズだったが、これで終了です。

<*1:投稿者註> 昭和6年3月31日付鈴木東藏あて書簡(314)には、
水沢農学校に参り候処校長及名須川教頭より大に激励され申候。校長は数日前「胆農」誌上に「本年は石灰だけ使って農業せよ」と書いたりとのこと当方の所説と全く一致したる次第に御座候
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
と書いてあり、賢治は「当方の所説と全く一致したる」と判断してはいるがそれは少し間違っていて、この「「胆農」誌上に「本年は石灰だけ使って農業せよ」と書いた」という校長の真意は、本年だけは(つまり昭和6年はいまのところ農業恐慌で農家には金銭的余裕がないから)応急的に「石灰だけ使って農業せよ」という意味だったと私は解釈するのだが……。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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