みちのくの山野草

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DVD「その4 イギリス海岸」(梅野健造)

2016年10月12日 | 真実の賢治を知りたい
 では今回は、『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作 鳥山敏子 小泉修吉 NPO法人東京賢治の学校)の中の巻の一つ「その4 イギリス海岸」についてだ。その中では教え子に対してのみならず梅野健造等へのインタビューもあったのでまず梅野のそれに関して投稿したい。

 同巻によれば、この梅野とはどんな人かというと、大正15年18歳の時羅須地人協会を訪ね、主宰していた雑誌「聖燈」「無名作家」に寄稿してもらい、それ以降賢治とは深い交流が続いたという人だということである。
 さて、昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取り調べを受けたのかという鳥山敏子の質問に対して、梅野は次のように答えていた。
    『2回ほど花巻の警察にね
そして以下、如何にも思慮深そうな梅野は言葉を選びながら鳥山の質問に対して答えていた。
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にねいたわりの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。

 さて、梅野と鳥山のインタビューにおける一連のやりとりを観て私は、今までは「賢治と労農党」に関する「事実」の記述は基本的には名須川の著作によるものしか私は知らなかったのでその信憑性に一抹の不安があったのだが、その「事実」の信憑性が極めて高いということをこれで確信した。その一方で、逆に梅野の証言も同様にだ。それはこの二人名(須川と梅野)の証言の間には矛盾がないし、補完し合うからだ。
 そうなると、賢治はこの件に関して計3回警察に呼ばれていたということの蓋然性が高い。では、その3回とはどんなものか。常識的に判断すれば、
   ・昭和3年3月15日前後(3・15事件)(昭和3年2月頃も含めて)
   ・昭和3年4月10日前後(労農党解散命令)
   ・昭和3年8月前後(陸軍大演習前の凄まじい「アカ狩り」)
の3回となるだろ。特に3回目については、梅野が45日もの長期間花巻警察署の留置所にしかも何も取り調べも受けずに置かれたということは、その期間警察は梅野の身柄を拘束しておきたかったからだということを意味し、賢治が昭和3年8月10日に警察から「陸軍大演習が終わるまでは自宅にて謹慎せよ」と命じられ実家に戻ったということの蓋然性が高い<*1>ことと、まさにピッタリと符合しているからである。言い換えれば、梅野の45日間にも亘る拘束は「陸軍大演習」に関わってであったのであろうことが導かれるだろう。一方賢治は、当時「病気療養中」だったのだが、その大演習も終わり、なおかつ賢治は病状もひとまず小康を得た12月半ば頃に梅野を慰問して労(ねぎら)ったのだと、そう考えればかなりの程度辻褄が合うことがわかる。

 そこで私は、
 昭和三年四月、労農党の主張は危険思想であるとする政府・取締当局の弾圧により本部・全国支部は解散された。これと前後して羅須地人協会は農民を思想的に指導しているとして賢治は花巻署に召喚・取調べを受け、やむなく協会を解散するに至った。
という、「賢治との出会い」における梅野の証言の信憑性が高いということと、
ということを改めて確信した。

<*1:註> このことに関しては、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』において、次のような仮説
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。
を立てみたところ、検証できたのでご覧いただきたい。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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