みちのくの山野草

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DVD「その4 イギリス海岸」(高橋謙一)

2016年10月13日 | 真実の賢治を知りたい
 では今回も、『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作 鳥山敏子 小泉修吉 NPO法人東京賢治の学校)の中の巻の一つ「その4 イギリス海岸」からだ。ただし、花巻農学校の教え子ではなく、当時賢治は農事講演のために寶閑小学校にしばしば訪れていたが、その際に賢治から童話を賢治から話してもらったことがあるという高橋謙一に対するインタビューからである。

《高橋謙一》(寶閑小学校、昭和3年3月卒)
 1時から農事講演会をやるかって、この人が先に立ってやっても、田舎のことだからほれ、1時だってぱっとみんな集まらなかったんだもの。
 そこで小学校の教師だった高瀬露さんが時間がもったいないからと、宮澤先生にお願いして子どもたちにお話しを語ってもらうことにしました。
 花巻から来て、したらね、高瀬露先生、ほれ宮澤賢治先生と同じ豊沢町で、若い時から知っていたでしょう。露先生がもったいないって、ほれ学校で先生たちで話して。1時からだって、1時半から2時にならなければ農家の人たちは集まらなかったんだもの。それで宮澤先生は童話やってるからみんな集まる前に30分ぐらい子どもたちさ童話聞かせてもらったものな。
 私は、1年生から5年生か6年生まで、毎年農事講話でたのんだもんだから、それで宮澤先生のことを尋常小学校終わるまで、ほれ農事講演で来た時に、みんな集まるまで30分かそこら、1年生から6年生まで講堂に150~160人集まって。1年に3回~4回も来たっけ。
 まずみんな講堂に集まれば、右から左までニコッと笑って、子どもたちの顔を見て、今日は何の話をしようかなって、右から左まで子どもたちの顔を見て、ニッコリ笑って、自分が寶閑小学校へ行ったとか、この何月に行ったとか、こげな話したとか手帳さ書いてあったんだものな。
 今日は何の話をしようかなって、ニッコリ笑ってみんなの子ども見てて。ああいうような先生もねぇもんだなす。

 さてこの高橋謙一は同校第18回の卒業生で、昭和3年3月に卒業している。ということは、大正11年4月に同校に入学していることになる。一方、高瀬露の寶閑小学校勤務期間は大正12年10月~昭和7年3月だから、おそらく謙一は露にも教わっていることになるだろう。なぜならば、露の同校での教え子である鎌田豊佐(鍋倉荒屋敷)は、寶閑小学校に1年生~4年生までの4年間(大正12年~15年頃)通っていてその後転校したのだそうだが、その4年の間露先生に教わったという。しかも、当時同校は小規模校だったので複式学級であり、学校全体で3クラスしかなかったという。したがって、鎌田と謙一は同じ学級で教わったとい可能性も高い。それから、当時の同校の先生方の勤務期間は
  高瀬 露:大正12年10月~昭和7年3月(8年6ヶ月)
  熊谷良雄:大正15年4月~昭和5年3月(4年間)
  櫻羽場秀三:大正15年9月~昭和8年3月(6年7ヶ月)
であり、その他の先生方は皆1年間以下の勤務である(『寶閑小学校館九十一年』より)。当時同校職員で勤務期間が一番長いのは露である。だから、仮に謙一は露が担任でなくとも、露のことはある程度知っていたであろう。ちなみに、謙一の言うとおり、当時の児童在籍数は昭和3年なら164名、昭和2年なら166名(『寶閑小学校館九十一年』より)だから、このインタビューの映像を観ていると謙一はかなり高齢ではあるものの、記憶は確りされていることが判るから、謙一の証言内容は信憑性が高かろう。
 となれば、どういうことが言えるのかというと、
 賢治は寶閑小学校に、少なくとも大正11年4月~昭和2年3月の5年間、年に3回~4回も農事講演にやって来ていた。……①
 しかも、同校の勤務期間が長かったせいもあろうし、露と賢治は共に豊沢町出身だったから、露が間に入って賢治に童話の話を依頼していた。
ということなどの蓋然性が極めて高いと言える。
 それは一方で、佐藤隆房が、
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
 内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが縁となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利で有難がつて、
「この頃美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
 と、集つてくる男の人達にいひました。
「ほんとに協會も何となしに潤ひが出來て、殺風景でなくなつて來た。」
 と皆もいひ合ひ、
「その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に頼めばいゝと思ふ。どうだね。」
 と賢治さんも期待を持つてをりました。
             <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)175p~より>
と『宮澤賢治』で述べているが、内田康子、すなわち高瀬露は「村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが縁となつて、だんだん出入りするやうになつたのです」ということと〝〟が符合するからなおさらにである。

 巷間、露を羅須地人協会に初めて連れて行ったのは大正15年、高橋慶吾だと言われているようだが、実は賢治と露はそれ以前より寶閑小学校等でかなり話を交わしていた機会が多かったということがこれでほぼ確かだろう。どうやら、私はこの高橋謙一のインタビューでのやり取りを観ることができて、露と賢治二人の間の関係性を多少修整する必要がありそうだということを覚った。そして同時に、賢治が農事講演に行った学校の名は殆ど寶閑小学校ばかりであるということにもっと注意しておく必要があるということも覚った。

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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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