みちのくの山野草

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「伊藤ちゑから見た賢治」

2024-03-07 08:00:00 | 常識でこそ見えてくる賢治



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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
『宮沢記念館通信第112号』掲載
  伊藤ちゑから見た賢治
鈴木 守
 意外なことに、『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)の中には次のようなことが述べられている。
 それは、伊藤ちゑと宮澤賢治とを結びつけようとする記事を書こうとする著者森荘已池に対してちゑは、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
とか、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
という哀願や批難を森宛書簡の中に書いてあるということが、である。
 しかもそれだけではなく、まだあまり広く世に知られてはいないのだが、同時代の「ある年」の10月29日付藤原嘉藤治宛のちゑ書簡中においても、
 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋(〈註一〉)花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
というように、ちゑは嘉藤治に対しても似た様な懇願をしている。
 したがってこれらのことから、ちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたということがもはや否定できない。巷間、賢治が結婚したかった〈聖女〉ちゑと云われているというのに何故だったのだろうか。
 実は、当時、四谷鮫河橋には野口幽香と森島美根が設立した『二葉保育園』が、新宿旭町には徳永恕が活躍した『同分園』がそれぞれあり、同園は寄附金を募ったりしながらそれらを基にしてスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動、セツルメントをしていた。ところが大正12年、あの関東大震災によって旭町の『分園』は焼失、鮫河橋の『本園』は火災を免れたものの大破損の被害を蒙ったという。
 そのような大変な状況下にあった再建未だしの『二葉保育園』に、大正13年9月から勤務し始めた一人の岩手出身の女性がいた。他ならぬ伊藤ちゑその人である。ちなみに『同園八十五年史』によれば、ちゑは少なくとも大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めていたことが判る。おそらく、この在職期間の空白は兄七雄の看病の為に伊豆大島に行っていた期間と考えられる。
 そして、萩原昌好氏の『宮沢賢治「修羅」への旅』によれば、同島の新聞『島之新聞』の昭和5年9月26日付記事の中には、
 あはれな老人へ毎月五円づつ恵む若き女性――伊藤千枝子
という見出しの記事があり、兄の看病のために同島に滞在していたちゑは、隣家の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職してからもその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたという内容の報道があるという。
 ところで、昭和3年6月の大島訪問以前に花巻で賢治とちゑの「見合い」があったわけだが、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知なかったことによる誤解だった。
 なぜなら、このような『二葉保育園』でスラム街の子女のためのセツルメント活動に我が身をなげうち、あるいはまた何の繋がりもない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたという心優しい〈聖女〉の如きちゑからは、当時の賢治がどのように見えたかということを推考してみれば、その一つの可能性が浮かび上がってくるからである。
 すなわち、佐藤竜一氏も主張するように、昭和3年6月の賢治の上京は「逃避行」であったと見ることができるから、そう捉えるとあくまでも理屈の上での話ではあるが、前述した事柄に対する次のような解釈がそれぞれ可能となる。
 例えば、そのような心身の状態にあった賢治と大島で再会したちゑは賢治の「今」を見抜いてしまい、自分の価値観とは相容れない人であると受け止めたと。ちなみに、そのようなちゑの認識の一つの現れが、先に述べたきつい一言であったと考えられる。
 またそれゆえに、先の森宛書簡に、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」とちゑは書き記したと解釈できるし、その後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶したのはちゑの矜恃だったのだ、とも。
 そして、もしこのような解釈の仕方が実はその真相であったと仮にしても、それは《創られた賢治から愛すべき真実の賢治》により近づくことであり、何ら悲しむべきことではないと私は思う。
〈註一〉伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が最近一人歩きしつつあるが、この書簡による限り、「昭和3年」でもないし「春」でもない。
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 小論は、平成27年3月31日発行『宮沢賢治記念館通信第112号』に載ったものである(一部変更あり)。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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