みちのくの山野草

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3018 人のつながり等

2012年11月29日 | 賢治関連
 たまたま『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)の「受信人索引」を見てみたならば、当たり前のことだが人と人は思わぬところでつながっているのだなと思った。

<阿部芳太郎(あべ よしたろう)>
 明25・12・5~昭和21・2・5
 画家を志して出京し、小川芋銭に師事したが、これは生計の資とはならないためい帰郷し…動植物を愛し、賢治との交際を持った。
 この阿部がまさか小川芋銭につながっているとは思ってもみなかった。ついつい犬田卯と賢治のつながりは、
  賢治―宮澤安太郎―佐伯郁郎―犬田卯
かなと思っていたが、もしかすると
  賢治―阿部芳太郎―小川芋銭―犬田卯
ルートもあったのかもしれない。

<伊藤忠一(いとう ちゅういち)>
 明43・11・23~昭和39・6・18
 農業を主としていたが、土木関係の仕事もし、冬は宮沢安太郎の経営する十字屋楽器店に勤務。
 いままで、伊藤忠一が十字屋に勤めていたなどとは知らなかった。もしかすると、千葉恭が賢治の蓄音器を十字屋に売りに行った際に伊藤忠一もそこに居合わせたのだろうか。

<高橋忠治(たかはし ちゅうじ)>
 明39・7・5~昭和60・4・8
 大12稗貫農学校第二回卒業生。昭4・12から昭7・3まで花巻温泉照井写真館に勤務ののち独立。
 ああそうか、この高橋が次の賢治の写真を撮ったという高橋か
【東北採石工場技師時代賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】

            <『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
ということ確認しながら、頁を捲っていたならば澤里武治宛昭和5年8月20日付書簡「272」の中に賢治が
 …六月柳原君にも会ひました。
 お兄さんにもお会ひの節はよろしく。まづは。
としたためていた。そして、
《備考》
 * お兄さん……高橋忠治
とあった。なんだ、高橋忠治は高橋武治(澤里武治)の兄だったんだ、と初めて気が付いた次第だった。

<柳原昌悦(やなぎはら しょうえつ)>
  明42・8・10~平元・2・12
 大正14花巻農学校に入学。昭4岩手師範学校に入学。卒業後亀ヶ森・煙山・手白森小学校教員を経て、昭和15茨城県の内原満蒙開拓訓練所入る。
とあった。たしかに柳原が渡満したということは聞いていたが、その前、30歳頃に教員を辞めてあの内原の訓練所に行ってから満州に渡ったということを初めて知った。そして、そもそも満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所であれば、その入所年齢は15歳~19歳の青少年だったはずだから、そのとき30歳位であった柳原が入ったのはおそらく〝満蒙開拓幹部訓練所(昭和14年開設)〟であったのだろう。ちなみにその応募者の前歴は、『写真集満蒙開拓青少年義勇軍』(全国拓友協議会編、家の光協会)によれば、学校教員、官公吏、農業団体職員、在郷軍人等とあり、その第一に「学校職員」を挙げている。

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