みちのくの山野草

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3341 伊藤氏の裏付け方

2013-06-16 09:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛される賢治に》
伊藤氏の裏付け方
 では伊藤氏はどうやって前掲書においてそのことを裏付けようとしているのかというと、まず一つは賢治の詩を用いて裏付けようとしている。
 具体的には、詩「ダリヤ品評会席上」(昭和2年8月詠)の中の次の連
   西暦一千九百二十七年に於る
   当イーハトーボ地方の夏は
   この世紀に入ってから曾って見ないほどの
   恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました
   為に当地方での主作物 oryza sativa
   稲、あの青い槍の穂は
   常年に比し既に四割も徒長を来し
   そのあるものは既に倒れてまた起きず

は昭和2年(1927年)の冷害のことや稲の倒伏状況を描いているのだということを挙げ、さらに同年7月詠の〔あすこの田はねえ〕や同年8月に詠まれた〔和風は河谷いっぱいに吹く〕には、賢治の勧めに従って肥料設計を行った田では稲の倒伏が少なかったことなどが詠み込まれているからだということを挙げて(ともに前掲書18p)裏付けようとしている。
 私なりに言い換えれば、伊藤氏は前掲書において次のように
  菊池信一の回想記における気象条件及び水稲の生育状況
  =昭和2年に詠まれた2つの詩の気象条件及び水稲の生育状況
が成り立つから、回想記に書かれている内容は実は昭和2年のことであるゆえ、
  「石鳥谷肥料相談所」の開設時期は実は昭和2年であったと判断できる。……①
と推論している(と私には読み取れる)。
 となれば心配なことは、はたして賢治の詠んだこれらの詩の中の気象条件や水稲の生育状況が「還元」出来るのか否かである。
『阿部晁日記』により
 そこで次に、当時の花巻の天気の様子を見てみよう。昭和2年と3年の6月~8月の花巻の天気は下表のようになっている。



              <『阿部晁日記 昭和2年、同3年』より>
 したがってこの表に基づく限りでは、「その年は恐ろしく天候不順」であり「当イーハトーボ地方の夏は/…(略)…/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました」という夏としては、昭和3年よりは昭和2年の方がはるかに相応しいことが読み取れる。なぜならば昭和2年については、梅雨時の6月に晴れの日が多く、一方7月には雨の日が多い(それも大雨を含む)からたしかに昭和2年はかなり天候が不順だし、その7月は「湿潤」であったであろう。
 それに対して、阿部晁は昭和3年9月18日の日記に
 七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ 稲作モ畑作モ大弱リ
と記載しているからである。少し説明を付け加えれば、この『阿部晁日記』に従うならば、賢治が
   この世紀に入ってから曾って見ないほどの
   恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました

と詠んだようなほどの「湿潤さ」を示す年としては、昭和3年はほぼその候補から外れそうだからである。
 それゆえ、伊藤氏の指摘するとおり、昭和2年「は恐ろしく天候不順であった」ということは当時の花巻の天気の様子からも裏付けられそうだ。つまり、賢治がこれらの詩に詠み込んでいる気象条件は素直にそのまま「還元」出来そうだということが言える。さすれば、水稲の生育状況に関しても同様に「還元」出来るであろうとも判断できる。
 つまり、先の伊藤氏の推論の仕方〝〟は『阿部晁日記』によってもその妥当性がかなりあるということが言えそうだ。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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