みちのくの山野草

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今年最後のぼやきと来年への期待

2016-12-28 12:00:00 | 本当の賢治を知りたい
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 現在、『検証「羅須地人協会時代」』を出版すべく原稿を推敲中だが、改めて石井洋二郎氏の
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう
という警鐘の重さと実態の深刻さに身が染みる。
 今回のそれは、下表《昭和2年 稻作期間豊凶氣溫》を作っていて改めて思ったことだ。

 特に、
    繁殖期間(つゞき)の偏差期間平均=1.6 ℃
    出穂開花期間      〃      =1.1℃
についてである。昭和2年の繁殖期間も出穂開花期間もともに平年と比べてこれだけ気温が高いのである。
 もちろんこのことに関しては以前次のようにグラフ化

しているから、納得していただけた方も少なくないと思う。

 がしかし実態は、例えば
(1) 
 これまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。
            <『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)、152p>
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏…(略)…で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
            <同、173p>
(2) 
 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
           <『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)、79p>
(3) 
    一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
           <『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)、78p >
(4)
    五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
           <『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の年譜より>
(5)
    田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
           <『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)、77p>
(6)
 昭和二年(1927 年)は未曽有((ママ))の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は/この世紀に入ってから曽つて見ないほどの/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました/為に当地方での主作物oryza sativa /稲、あの青い槍の穂は/常念に比し既に四割も徒長を来たし/そのあるものは既に倒れまた起きず/あるものは花なく白き空穂を得ました」とある。
           <帝京平成大学薬学部准教授石井竹夫の論文〝宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する光り輝くススキと絵画的風景(前編)〟>
(7)
 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動だったが、その後彼に思いがけない障害が次々と彼を襲った。
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。
           <『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)、89p>
(8) 
   昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
           <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)、317p>

 つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」というような断定にしばしば遭遇するのだが、賢治研究家の誰一人としてこれらの記述は問題があるということを指摘していないし、一方で私が調べれば調べるほどこれらの断定的な記述を否定するものが見つかるだけだ。
 そしてそれもこれも、(このような断定に限ってその典拠を明らかにしていないから私はその典拠を推測するしかないのだが、その蓋然性が高いのは)『新校本年譜』が、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、たしかに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた
          <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)、317p>
と記述しているから、これがその典拠と言えるだろう(私が調べた限り、これ以外に前掲の断定の拠り所になるようなものは見当たらないからだ)。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、このいわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 しかし、この《昭和2年 稻作期間豊凶氣溫》が『岩手日報』発表された時期というのは、まさに福井規矩三が盛岡測候所の所長をしている時のものだ。もちろんこの表だけでなく、福井自身が発行した『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所)を調べてみても判るのだが、福井のこの証言
    昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
は全くの事実誤認だ。しかしこのことを事実誤認だと主張するのは、管見故か、おそらく私しかいない。だから私はぼやくしかない。

 そこでそろそろ、来年辺りからは、数多おられる賢治研究家の誰かがこのことを再検証してくれることを期待したい。そしてそれをしないことには、前掲の断定表現の引用文を孫引きして、石井氏が懸念しているように、
    最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。
だろう。はたしてこれで賢治のことや賢治の作品を正しく、あるいは深く味わうことができるのだろうか。 

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 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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