goo

313 下根子桜への道そして渡舟場

        《1↑「雪の羅須地人協会」
              <『教師宮沢賢治のしごと』(畑山博著、小学館)>より 》

 以前から気になっていたものの一つに、「下ノ畑」の近くにあったという「渡舟場」がある。
 
 森荘已池の「すすき野を開墾し畑」の中に次のようなことが書かれている。
 北上川の岸の砂質壌土の畑は、渡船場の河原近く、みちばたにあった。教え子たちに助けてもらい、すすき野を開墾したようだった。
 そこは、杉林のと比べたら天地ほど違う、よい畑だった。私も連れられて見にいった。あんまりにいいできのハクサイだったし、珍しいものだった。
 この畑のそばを、矢沢から下根子、下根子から矢沢へ行ったり来たり、渡し舟に乗る人たちがたいへんケナリがって(羨望にたえないで)無断で、持ち去った。
 そのぬすまれたハクサイのあとに、白いススキの穂がいっぽんずつ立てて刺してあった<*1>。そのススキが、だんだんふえて、ほんものの生えたススキといっしょに、風になびいているのを、私は見た。
 この畑でできたトマト、野菜、花などを、売るために作ったものだが、たいてい町の人たちに、ただでくばった。黙って持ち去った人たちも、もらったつもりだったのだろうか。

     <『ふれあいの人々 宮澤賢治』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)より>

 そこで今回は、頭の中に80年ぐらい前の花巻の町をイメージしながら、豊沢町から下根子桜への道を辿り、さらに渡舟場がどの辺りにあったのか探してみることにしたい。

1.豊沢町
 聞くところによると、かつての花巻町と花巻川口町は犬猿の仲だったということだが、昭和4年(1929年)にこの両町がなんと合併して新たに”花巻町”として発足したのだという。因みに、下図が
《2 大正4年の花巻町と花巻川口町の街並の略図》

     <『花巻両町略図』より>
である。
 上図の下方部分に賢治の実家のあった豊沢町が見出せると思う。少し時代を遡るが次が明治40年、宮澤賢治11歳の頃の
《3 豊沢町の街並》

     <『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷)より>
である。自転車に乗っている人が少なからず居ることにちょっと感動する。
 次は大正14年当時の
《4 「豊沢町→豊沢橋→向小路→旧国道」の近傍》

     <『岩手縣花巻両町案内俯瞰図』(フタバ印刷)より>
の概念図である。
 豊沢町の通りを南下すると豊沢川が流れており、その川には豊沢橋が架かっていた。下の写真が大正末の
《5 豊沢川と豊沢橋》

     <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房)より>
である。

2.向小路
 この豊沢橋を渡ればそこからは向小路となり、それは
《6 桜町の通路(旧国道)》

     <『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷)より>
のことでもある。賢治が下根子桜に農耕自活していた頃、賢治は何度もこの通りをリヤカーを牽いて往き来したことになる。 
 当時向小路は同心町とも呼ばれており
《7 同心屋敷》

     <『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(天沢退二郎編、新潮社)より>
がまだ残っていた。また大正15年なら、
《8 向小路の雪景》

     <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房)より>
はかくの如くだった。なお写真の左下に見えるのは馬橇である。この当時馬橇はまだまだ有力な運搬手段だったということになろう。

3.宮澤家別荘の位置
 さて、佐藤成は『宮澤賢治 地人への道』で次のようにこの辺りの地理を解説している。
 『賢治詩碑』の建つ下根子桜のは、以前は稗貫郡根子村に含まれており、大正12年(1923年)に花巻川口町に編入されたという。
 その後、昭和4年に花巻川口町と花巻町が合併して花巻町になってからは、旧根子村は南城と称するようになった。
 その南城は、下根子、西十二丁目、外台の3つからなり、下根子は更に松原、向小路、桜、諏訪、大谷地の5つから成る。
 この下根子桜の、桜の最南端で崖上の開けた平らな場所に

《9 柾葺二階建ての宮澤家別荘

     <『宮沢賢治 地人への道』(佐藤成編著、川島印刷)より>
が建っていた。
 この崖上の5アールほどの台地には、その昔数株の桜の樹があり花時遊楽の場所であったことから桜の名が生まれ、四方の眺望が見事なことから八景と名付けられ、この台地から展望する景色は雄大である。

     <『宮澤賢治 地人への道』(佐藤成編著、川島印刷)より> 
と。
 では、この場所を当時の地形図上で見てみよう。大正2年測図、同14年鉄道補入の5万分の1の地形図を見てみる。佐藤成の同著によれば、この別荘は賢治の祖父喜助が明治45年頃に建てたものだいうことだから当然記載されているはずだ。…おそらく下図のような場所であろう。
《10 下根子桜の宮澤家別荘の位置》

     <五万分の一地形図『花巻』(昭和22年地理調査所発行)>
4.渡舟場
 この別荘の下(南)側には道路がありそれは北上川の川縁で切れている。そして、向こう岸から再び道路が始まっている。よく見るとその部分、川の中に”小舟”が描かれている。ということは、この場所が探していた渡舟場だったのだ。
 つまり、森が語るところの『この畑のそばを、矢沢から下根子、下根子から矢沢へ行ったり来たり、渡し舟に乗る人たちがたいへんケナリがって無断で、持ち去った』という渡舟場であり、この道の脇にいわゆる『下ノ畑』があったことになる。

 そこで、現在の地形図上にこの渡舟場を書き入れてみると下図のようになると思う。
《11 かつての渡舟場の位置》

     <二万五千分の一地形図『土沢』(国土地理院発行)より>

 ということは、現在『下ノ畑』の標柱が立っている場所は当時のその場所と違っていると聞いたことがあるが、やはりそうなのかも知れない。

**********************************<註:*1>********************************************
 たしかに森の言うとおり、宮澤賢治の詩の中には
 七四三      〔盗まれた白菜の根へ〕
                  一九二六、一〇、一三、
   盗まれた白菜の根へ
   一つに一つ萓穂を挿して
   それが日本主義なのか
   
   水いろをして
   エンタシスある柱の列の
   その残された推古時代の礎に
   一つに一つ萓穂が立てば
   盗人がここを通るたび
   初冬の風になびき日にひかって
   たしかにそれを嘲弄する
   さうしてそれが日本思想
   弥栄主義の勝利なのか

     <『校本 宮澤賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
がありこれは定稿で、この下書稿(二)は以下のとおり。
  七四三    白菜畑
                  一九二六、一〇、一三
   ここの柱のならびから
   膨らみある水いろを
   誰か二っつはづして行った
   つめたい風が吹いて吹いて
   わたくしの耳もとで鳴るけれども
   風は光ってすべって
   はやくも弱いわたくしは
   風が永久の観点から
   ほのかにわらひながら
   わたくしをなぐさめてゐると考へ
   ひたひに接吻して
   気持ちを直せとさう云へば
   きらゝかにわらってさうもすると
   じぶんでじぶんを迎へやうとするけれども
   そんならまっすぐに強く進めと云って
   かういふふうにその人をさせた
   社会の組織や人の不徳を憎んで見ても
   結局やっぱり畑を掘ってゐるより仕方ない
   そこで断じてわたしの風よ
   つめたい接吻をわたしに与へ
   川よあかるいおまへの針で
   おれの不快を運んで行けだ
   ではわたくしは
   はっは 馬鹿野郎
   その残された推古時代の礎に
   萱穂を二つ飾って置かう
   それが当分
   東洋思想の勝利といふやうに
   どろぼうがこゝを通るたびに
   秋の風になびき日にひかって
   それを嘲ろうする
   畑がみんな萱の穂になれば
   ふん
   そのころは
   向ふもおしまひこっちもおしまひだ

     <『校本 宮澤賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
となっている。
 定稿からは皮肉っぽく自棄気味になっている賢治が垣間見られるが、その下書稿からは盗まれたというのに意外にも弱気になっている賢治も透けて見えてくる。
 一方関連した詩
 七四一      白菜畑
   霜がはたけの砂いっぱいで
   エンタシスある柱の列は
   みな水いろの影をひく
   十いくつかのよるとひる
   病んでもだえてゐた間
   こんなつめたい空気のなかで
   千の芝罘白菜は
   はぢけるまでの砲弾になり
   包頭連の七百は
   立派なパンの形になった
   こゝは船場を渡った人が
   みんな通って行くところだし
   川に沿ってどっちへも抜けられ
   崖の方へも出られるので
   どうもこゝへ野菜をつくっては
   盗られるだらうとみんなで云った
   けれども誰も盗まない
   季節にはひとりでにかういふに熟して
   朝はまっ白な霜をかぶってゐるし
   早池峰薬師ももう雪でまっしろ
   川は爆発するやうな
   不定な湯気をときどきあげ
   燃えたり消えたりしつづけながら
   どんどん針をながしてゐる
   病んでゐても
   あるひは死んでしまっても
   残りのみんなに対しては
   やっぱり川はつづけて流れるし
   なんといふいゝことだらう
   あゝひっそりとしたこのはたけ
   けれどもわたくしが
   レアカーをひいて
   この砂つちにはいってから
   まだひとつの音もきいてゐないのは
   それとも聞えないのだらうか、
   巨きな湯気のかたまりが
   いま日の面を通るので
   柱列の青い影も消え
   砂もくらくはなったけれども

     <『校本 宮澤賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
というものもあった。
 おそらく十数日間も病に臥していたのであろう賢治が、やっと癒えて暫くぶりにやって来た下ノ畑。またぞろ盗まれているに違いないと懼れていたあのハクサイが、10月には盗まれることもあったあのハクサイが霜も降るようになった今は、なんと盗まれもせず皆残っていた。誰一人ハクサイを盗みはしていなかった。
 賢治はこれらの違いから自分も地元の人達から次第に理解されて出して来たと安堵し、一方でハクサイは必ずや盗まれているだろうと決め付けてしまっていた己を恥じていたのかも知れない。その心情が賢治をして〝まだひとつの音もきいてゐないのは〟と詠ませたのであろう。「七四三 白菜畑 下書稿(二)」ではわたくしの耳もとで鳴るけれども”と詠んでいたのだから。 


 続き
 ””のTOPへ移る。
 前の
 ””のTOPに戻る
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。
目次”へ移動する。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 312 花巻温泉... 314 「下ノ畑... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
 
この記事のトラックバック Ping-URL
 
 
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。