goo

44 (21) 松倉山

 残念ながら、この松倉山にも未だ登っていない。同定に悩んでいたからでもある。

 松倉山について小倉 豊文氏は『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉 豊文著、東京創元社)で次のように述べている。
 「松倉山」、(a)花巻市志度平温泉のすぐ東北にある約三八〇メートルの山、(b)前記「八方山」の北方七キロ余に聳える九六七.八メートルの山・・・(中略)・・・以上の(a)と(b)の何れかであろう。
 その後、同氏は『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉 豊文著、筑摩書房、昭和58年10月1日初版)においてはこのことに関しては次のように述べている。
 「松倉山」花巻市志度平温泉のすぐ東北にある約三八〇メートルの山(a)か、前述した「八方山」の北方七キロ余に聳える九六七.八メートルの山(b)の何れかであろう。
 これに対して奥田 博氏は『宮澤賢治の山旅』(奥田博著、東京新聞出版局)において迷うことなく「経埋ムベキ山」としては松倉山(384m)としている。つまり小倉氏の云う(a)であるとしている。

 そこで、宮澤賢治の作品を調べてみると、例えば『風景とオルゴール(春と修羅第一集)』では
   爽かなくだもののにほひに充ち
   つめたくされた銀製の薄明穹を
   雲がどんどんかけてゐる
   黒曜ひのきやサイプレスの中を
   一疋の馬がゆつくりやつてくる
   ひとりの農夫が乗つてゐる
   もちろん農夫はからだ半分ぐらゐ
   木だちやそこらの銀のアトムに溶け
   またじぶんでも溶けてもいいとおもひながら
   あたまの大きな曖昧な馬といつしよにゆつくりくる
   首を垂れておとなしくがさがさした南部馬
   黒く巨きな松倉山のこつちに
   一点のダアリア複合体
   その電燈の企画なら
   じつに九月の宝石である
   その電燈の献策者に
   わたくしは青い蕃茄を贈る
   どんなにこれらのぬれたみちや
   クレオソートを塗つたばかりのらんかんや
   電線も二本にせものの虚無のなかから光つてゐるし
   風景が深く透明にされたかわからない
   下では水がごうごう流れて行き
   薄明穹の爽かな銀と苹果とを
   黒白鳥のむな毛の塊が奔り
     《ああ お月さまが出てゐます》
   ほんたうに鋭い秋の粉や
   玻璃末の雲の稜に磨かれて
   紫磨銀彩に尖つて光る六日の月
   橋のらんかんには雨粒がまだいつぱいついてゐる
   なんといふこのなつかしさの湧あがり
   水はおとなしい膠朧体だし
   わたくしはこんな過透明な景色のなかに
   松倉山や五間森荒つぽい石英安山岩の岩頸から
   放たれた剽悍な刺客に
   暗殺されてもいいのです
     (たしかにわたくしがその木をきつたのだから)
   杉のいただきは黒くそらの椀を刺し
   風が口笛をはんぶんちぎつて持つてくれば
     (気の毒な二重感覚の機関)
   わたくしは古い印度の青草をみる
   崖にぶつつかるそのへんの水は
   葱のやうに横に外れてゐる
   そんなに風はうまく吹き
   半月の表面はきれいに吹きはらはれた
   だからわたくしの洋傘は
   しばらくぱたぱた言つてから
   ぬれた橋板に倒れたのだ
   松倉山松倉山尖つてまつ暗な悪魔蒼鉛の空に立ち
   電燈はよほど熟してゐる
   風がもうこれつきり吹けば
   まさしく吹いて来る劫のはじめの風
   ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ
   電線と恐ろしい玉髄の雲のきれ
   そこから見当のつかない大きな青い星がうかぶ
      (何べんの恋の償ひだ)
   そんな恐ろしいがまいろの雲と
   わたくしの上着はひるがへり
      (オルゴールをかけろかけろ)
   月はいきなり二つになり
   盲ひた黒い暈をつくつて光面を過ぎる雲の一群
      (しづまれしづまれ五間森
       木をきられてもしづまるのだ)

       <『宮澤賢治全集 二』(筑摩書房)より>
と詠っている。
 したがって、松倉山と五間森は指呼の距離にあると解釈できるから、ここで詠われているのは五間森(568.5m、<注>国土地理院院の地図では”五間ヵ森”となっている)の隣の松倉山(384m)であることはほぼ間違いないだろう。
 また、同じく”春と修羅 第一集”の中に上の詩に続いて次の詩『風の偏倚』で
   風が偏倚して過ぎたあとでは
   クレオソートを塗つたばかりの電柱や
   逞しくも起伏する暗黒山稜や
     (虚空は古めかしい月汞にみち)
   研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
   すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
   すきとほつて巨大な過去になる
   五日の月はさらに小さく副生し
   意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲
   月の尖端をかすめて過ぎれば
   そのまん中の厚いところは黒いのです
   (風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
   きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と
   星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲
     (それはつめたい虹をあげ)
   いま硅酸の雲の大部が行き過ぎやうとするために
   みちはなんべんもくらくなり
      (月あかりがこんなにみちにふると
       まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが
       いまはその小さな硫黄の粒も
       風や酸素に溶かされてしまつた)
   じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
   月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる
      (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)
   どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
   ひるまのはげしくすさまじい雨が
   微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ
   月の彎曲の内側から
   白いあやしい気体が噴かれ
   そのために却つて一きれの雲がとかされて
     (杉の列はみんな黒真珠の保護色)
   そらそら、B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと
   苹果の未熟なハロウとが
   あやしく天を覆ひだす
   杉の列には山鳥がいつぱいに潜み
   ペガススのあたりに立つてゐた
   いま雲は一せいに散兵をしき
   極めて堅実にすすんで行く
   おゝ私のうしろの松倉山には
   用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
   川尻断層のときから息を殺してまつてゐて
   私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる
   空気の透明度は水よりも強く
   松倉山から生えた木は
   敬虔に天に祈つてゐる
   辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ
     (どうしてどうして松倉山の木は
      ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
      あのごとごといふのがみんなそれだ)
   呼吸のやうに月光はまた明るくなり
   雲の遷色とダムを超える水の音
   わたしの帽子の静寂と風の塊
   いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび
    レールとみちの粘土の可塑性
   月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる

    <『宮澤賢治全集 二』(筑摩書房)より>
と詠われている。

 ということは、『風景とオルゴール』からはこのとき賢治は松倉山と五間ヶ森を通っていることが分かるから、豊沢川沿いを通っていることが分かるし、『風の偏倚』はこの詩の次の詩であることと、『硫黄のにほひがのぼつたのだが』『ダムを超える水の音』『電車の単線ばかりまつすぐにのび』などからおそらく志戸平温泉付近を通っているときのスケッチであろうことが分かる。

 さらに、タイトルの『風の偏倚』そのもの、そして詩の中に『わたしの帽子の静寂と風の塊  いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび  レールとみちの粘土の可塑性』とあるところから、花巻電鉄鉛線の電車に乗って、窓から風を受けながら花巻に帰る際スケッチではなかろうか。
 というわけで、この詩の中の松倉山は小倉氏の言うところの(a)『松倉山(384m)』にほぼ違いないであろう。

 なお、『目で見る花巻・北上・和賀・稗貫の100年』(鎌田雅夫監修、郷土出版社)によれば、次の写真が大正時代の花巻電鉄鉛線”松原停留所”の風景である。
【松原停留所】

当時の花巻電鉄鉛(なまり)線は、この辺りでは”志度平停留場”→”松倉停留所”→”松原停留所”の順に電車が停まったようである。
 また同著によれば、この”松原”には大正元年に既に発電所ができており、花巻川口町等へ送電していたとのことである。
 現在の松原には残念ながらその発電所はない。昭和7年にその役目を終え廃止になったからだ。ただしその跡地には『花巻の電気発祥地』という看板が立っている。
《1 花巻電気株社松原発電所跡地》(平成20年11月5日撮影)

《2『花巻の電気発祥地』案内板》(平成20年11月5日撮影)

には
 明治四十五年一月十日、花巻電気株式会社、梅津東四郎ら八人が発起人となり岩手県下二番目の電気会社として設立された。
 大正元年十一月二十日、豊沢川の水を利用した、松原発電所は出力五十キロワットの発電で、稗貫郡花巻川口町外一町二ヶ村を供給区域とし、電灯と動力の供給を始めた。

 大正三年八月十三日、花巻電気株式会社は、東北地方初の電気鉄道事業の許可を受け、松原発電所を五十キロワットから百キロワットへ出力を増加し、大正四年九月六日には、花巻川口町より湯口村に至る五、一哩の営業を開始した。
 その後電気の普及に務め地元産業の発展と電鉄業により交通運輸事業の業績も良好であったが、大正十年十二月に、盛岡電気工業(株)との合併が成立し花巻電気(株)は解散、その後東北配電(株)、東北電力株式会社と統合、合併があり今日に至っている。
 松原発電所は、昭和七年役割を終え廃止となしその幕を閉じた。

などが書かれているが、その他に、花巻電気株式会社の社長は梅津友蔵、取締役の一人に(賢治の祖父の)宮沢善治がいたことも記されている。
 もしかすると、賢治の『発電所』
   鈍った雪をあちこち載せる
   鉄やギャブロの峯の脚
   二十日の月の錫のあかりを
   わづかに赤い落水管と
   ガラスづくりの発電室と
     ……また余水吐の青じろい滝……
   くろい蝸牛水車(スネールタービン)で
   早くも春の雷気を鳴らし
   鞘翅発電機(ダイナモコレオプテラ)をもって
   愴たる夜中のねむけをふるはせ
   むら気な十の電圧計や
   もっと多情な電流計で
   鉛直フズリナ配電盤に
   交通地図の模型をつくり
   大トランスの六つから
   三万ボルトのけいれんを
   塔の初号に連結すれば
   幾列の清冽な電燈は
   青じろい風や川をわたり
   まっ黒な工場の夜の屋根から
   赤い傘、火花の雲を噴きあげる

    <『校本 宮澤賢治全集 第三巻』(筑摩書房)より>
は松原発電所を詠んだものなのだろうか。

 そして、この説明板に書かれている電気鉄道が”花巻電鉄”であり
《3 その当時に使われた電車》(平成20年8月29日撮影)

がJR花巻駅裏の材木町公園に保存されている。
《4 花巻電鉄説明板》(平成20年8月29日撮影)

《5 〃の沿革》(平成20年8月29日撮影)

《6 〃の沿線風景》(平成20年8月29日撮影)

花巻電鉄に乗っている高村光太郎の写真もある。
 説明板にもあるように、花巻電鉄には花巻温泉線と併用軌道鉛(なまり)線の2線があり、特に後者の線は県道12号線の道の端っこを借用する形で敷設された。そのため、電車の幅は1.6mという狭い構造ゆえ
《7 馬づら電車》(平成20年8月29日撮影)

という愛称がついていた。

 さて、この説明板の立っているところから県道12号線を北上して志度平温泉方向に進んでゆくと右手(東側)には
《8 小高い山々》(平成20年11月5日撮影)

が連なっている。
 地元の人たちはこの山々を総称して松倉山といっているとのことである。
《9 松倉山》(平成20年11月5日撮影)

《10 〃 》(平成20年11月5日撮影)

《11 〃 》(平成20年11月5日撮影)

この写真には三つの山が見られるが、真ん中の山が三角点のある標高367.3mの山である。そして、左端に僅かに見えている山が松倉山(384m)である。
《12 松倉山(384m)》(平成20年11月5日撮影)

《13 〃 》(平成20年11月5日撮影)

《14 〃 》(平成20年11月5日撮影)

《15 西面には岩場を有している》(平成20年11月5日撮影)

松倉山というだけに、確かに松の木が多い山であった。

 この岩場を有する山が「経埋ムベキ山」の松倉山であろうと思われる『松倉山(384m)』である。なお、地元の人に聞いてみても残念ながら登山路はないとのことである。

 よって今後の課題は、『大森山(543.6m)』同様この『松倉山(384m)』にできるだけ早くルート‐ファインディングをしながら登ってみることである。見通しの利く来春の残雪期にでも登ってみたい。それが叶ったときにはまた報告したい

 続きの
 ”(22) 黒森”のTOPへ移る。
 前の
 ”(20) 八方山(その2)”のTOPに戻る。
 「経埋ムベキ山」32座のリストのある
 ”「経埋ムベキ山」のまとめ”のTOPに移る。
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次”へ移動する。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 43 (20) 八方... 45 (22) 黒森山 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
 
この記事のトラックバック Ping-URL
 
 
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。