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312 花巻温泉の花壇はどこに

         《1↑堂ヶ沢山の登山道》(『花巻温泉遊園図絵』より抜粋)

 かつて、「経埋ムベキ山」のうちの一つ『堂ヶ沢山』に登りたくて、荒れ放題の林道を無理矢理藪こぎしながらなんとか登ったものだった。

1.堂ヶ沢山のかつての登山道
 ところがその後、昔、堂ヶ沢山に立派な登山道があったということを聞き知った。一体どこにどんな道路がついていたのだろうかと想像していたが、今回このブログの先頭にあるような図絵を手に入れることが出来たので、その大体のイメージが掴めた。
 それは、無理矢理登ったコースとはまったく異なっていて、ほとんど山の逆サイドに造られていた道といってよい。

 もちろん上図、中央の山が堂ヶ沢山である。たしかに頂上まで立派な道路が、それも道路脇には所々に外灯さえも敷設してある立派な登山道があったであろうとことがこれで容易に解る。
 せめて夢でもいいから、紅葉に彩られたの秋の夜、外灯の灯っているこの立派な堂ヶ沢山の登山道を登ってみい。

2.当時の花巻温泉鳥瞰
 さてこの絵図は『花巻温泉遊園図絵』から抜粋しものであり、この絵図は大正15年に「株式會社花巻温泉」が発行したもののようだ。 
 なお、この絵図は横幅が80㎝弱もあるので一枚の写真に納めるのは私の力量では無理なので、ここでは堂ヶ沢山の両脇の部分を切り取って載せてみる。 
《2 堂ヶ沢山より東側の温泉施設》

中央やや左寄りに見える白い部分は第二スキー場である。以前”花巻温泉スキー場”で『創業当時にスキー場があったか否かは定かでないが』と書いたが、これで花巻温泉にはほぼ開設当初からスキー場(それも二つの第一、第二の)があったことが判った。なぜなら、花巻温泉が開かれ始めたのは大正12年で、この絵図が発行されたのその直後の15年だからである。
《3 堂ヶ沢山より西側の温泉施設》

今はないようだが、当時はここにグラウンドや梅林があったのだ。もしかすると、その当時の方が今よりも敷地を広く使っていた…ということなのだろうか。

3.賢治設計の花壇
 ところで、宮澤賢治はこの当時花壇を設計したということだが、花巻温泉のどの辺りに日時計花壇などを造ったのだろうか。次回はその辺りを調べてみたい。

 下図は昭和6年に発行されたと思われる『花巻温泉案内』パンフレットの
《4 絵図(一部)》

である。このパンフレットの裏の「花巻温泉御案内」には次のように案内されている。
 【登山遊歩道】堂ヶ澤山絶頂四百六十餘米突を登る十數町の登山道あり。中腹及び頂上に展望臺の設けあって温泉地一帯と北上川の平原を一眸の間に眺むる雄大な風光は多く其の比を見ません。
 あ~あ、やはりこの当時に堂ヶ沢山頂上から雄大な風光を見てみたかったナ。今は頂上からは何も見霽かすことはできない

 ここで気になるのが大正15年発行の
《5 『花巻温泉遊園地図絵』(一部抜粋)》

にはあった堂ヶ沢山の斜面の第二スキー場(図の楕円形状の白い部分)が、昭和6年に発行したと思われる
《6『花巻温泉案内』の絵図》

の方には見えないことである。こちらにはその場所に植物園が描かれている。
 そこで、パンフレット裏の「花巻温泉御案内」を見てみると次のように案内されている。
 【花 壇】千三百餘坪より成る南斜花壇及びダリヤ花壇と別荘地に點々數ケの花壇あり春夏秋の観賞盡きず。
とある。

 ということは、昭和6年当時には第二スキー場は植物園に変わっており、そこに南斜花壇とダリヤ花壇があったということか。いままで南斜花壇が花巻温泉にあったということは聞いていたが、「ダリヤ花壇」があったなんて知らなかった。なおおそらく次の設計図
《7 花壇設計[1]》

     <『校本 宮澤賢治全集 第十二(下)巻』(筑摩書房)より>
がこの南斜花壇の設計図だと思う。

 ならば、同じく花巻温泉に賢治が設計したと聞くあの「日時計花壇」等はどこにあったのだろうか。

 そこで、かつてイーハトーブ館で行われた企画展『宮沢賢治と温泉展』(2006年6月~7年2月)のパンフレットを見直してみた。
 するとその中には「花巻温泉の土壌改良・植樹指導」及び「ランドスケープデザインとしての花壇設計」という節があり、それぞれ次のようなことが書かれていた。
 1924年(大正13)4月、花巻農学校寄宿生を率いて花巻温泉大通りに桜の並木を植樹したのを皮切りに、推定1926年(大正15)春の対称花壇・日時計花壇設計、推定同年土壌改良・植樹指導、1927年(昭和2)春の南斜花壇設計等、賢治は花巻温泉の「装景」に参加した。それまでの受動的な温泉体験からの飛躍。賢治は、地質土性調査の知見や農村改革の構想に基づきながら、自ら新たな〈リゾート〉を設計する行動に出たのだ。いいかえれば、イーハトーブ像の展開や武者小路やトルストイなどのユートピア思想ばかりでなく、大正から昭和初期にかけての全国的な観光ブームや、観光地・温泉地・遊園地の開発ないし整備が存していたということである。
 賢治は造園を高度な芸術と考えていたが、賢治花壇の意義を、開発地から切り離して論じるべきではない。羅須地人協会、花巻共立病院、花巻温泉――、彼が大規模な花壇を実現した場所は、新設されたばかりの公共福祉施設であり、癒しの場である。…(略)…
 しかも、賢治は周辺環境の潜在力を読み取り、それとの相関において花壇を設計することで、風景全体を再設計していたといえる。…(略)…
 貸別荘間の矩形の平地「小遊園」につくられたこれらの花壇のデザインが幾何学的・対称的なのに対し、1927年(昭和2)春に山裾の緩斜面(第二スキー場)につくられた南斜花壇のデザインは、蛇行する遊歩道を主要要素とし、非幾何学的・非対称的・有機的である。…(略)…

       <『宮沢賢治と温泉展』(2006年6月~7年2月)より>
 ということは、日時計花壇や対称花壇は貸別荘の間に造成されたということになる。たしかに、『花巻温泉案内』パンフレットには
《8 貸別荘》

間には、花壇らしきものがあるようにも見えるが、はっきりしない。

 そこで、『目で見る花巻・北上・和賀・稗貫の100年』を捲ってみたならば「花巻温泉全景」の写真があったので、その写真から
《9 貸別荘間の花壇らしき場所》

     <『目で見る花巻・北上・和賀・稗貫の100年』(鎌田雅夫監修、郷土出版)より抜粋>
を抜き出してみた。

 一方、たしか『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房)の中に賢治の設計図があったはずなので探してみたならばありましたありました
《10 花壇設計図》

     <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房)より>
写真と設計図を見比べてみると、日時計花壇は写真の中央にあるものであったに違いない。
 またこちらの
《11 花壇設計図》

     <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房)より>
と絵図そして写真を見比べてみるとこちらは対称花壇の方で、おそらくそれらの場所はそれぞれ下図のように推定できる。
《12 花壇のあった場所(推定)》


 なお、現在の花壇がどうなっているかは花巻温泉花壇(YAHOO!JAPAN地図)にて鳥瞰してください。それも、できれば「写真」のタイプで。

 最後に吃驚したことを一つ。それは『花巻温泉案内』の
《13 「花巻温泉」絵図の右端》

には次のように書かれている。
 大阪毎日、東京日日両新聞社主催日本八景投票最高点
 國民新聞社全國温泉十佳選投票最優位

いわば、昭和初期の花巻温泉はいまのディズニーランドのような人気レジャーランドだった…に違いない。

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