道端鈴成

エッセイと書評など

異端審問官

2005年05月21日 | 人権擁護法案
  ローチ(1993)「表現の自由を脅かすもの」角川書店("Kindly Inquisitors:The New Attack on Free Thought. ")は数年前に本を買って読んだのだが、見あたらないので、なさけない事に、図書館で借りてきた。そのまま訳せば、「親切そうな異端審問官達:自由思想への新たな攻撃」とでもなるだろうか。Kindだと親切な心根のという意味だが、Kindlyだといかにも親切そうなという感じになる。多くの実例をまじえて、思想的背景の解説もふくめて、非常に明解に書かれているので、一読を勧めたい。以下、私なりの観点から、同著の主張の要点を示してみる。
(1)自由な科学と言論が自由社会の基盤である。自由な科学と言論の要となるのはロックからヒューム、ポパーにいたる可謬主義の認識論に基づく自由主義の原則である。自由主義の原則では、全ての人間は誤りうる存在であり、誤りから自由な人間は存在せず、自由な批判と検証を通じた誤りの除去を通じてのみ、我々の社会は真理に近づくことができると考える。自由主義の原則は、公共的な知識の向上をはかり、誤った不適切な考えの悪影響を防ぐ上で、大きな成功を収めてきた。
(2)自由主義の原則に対立して、自由な科学と言論の敵となってきたのは、教会や全体主義的国家等における原理主義である。これらの原理主義においては、何を真理とみなすかは様々だが、特定の人間の判断やテキストに誤らない最終的な真理が示されていると考え、それへに背くことを、社会的、法的に断罪し、根絶をはかろうとするという点では共通している。イスラムや新興宗教、政治運動などに見られる、種々のファンダメンタリズムも、これらの現代版である。
(3)近年、自由主義の原則に対立して、自由な科学と言論の敵として新たに現れたてきのが、急進平等主義や人道主義の立場からの主張である。急進平等主義の立場では、歴史のなかで特に抑圧されてきた階級や集団に属する人々の信念に特別の配慮を払うべきだと要求する。人道主義の立場では、人の気持ちを傷つける言論の自由は許容されるべきではないと要求する。この二つの要求は、誰でもが自由に意見を述べ、批判、検証することによって真理に近づこうとする自由主義の原則を決定的に損なってしまうという点では、原理主義と同じく、自由社会の敵である。
  ローマ・カトリックの異端裁判から3世紀半の後において、「科学は抑圧であり、批判が暴力であるといった考え方が力を得、討論や調査を中央から取り締まる事が、まともなやり方だという考えに戻りつつある。----ただし今回は、人道主義的仮面を付けて。アメリカ、フランス、オーストリア、オーストラリア、その他のところで、人に害を与えるような誤った意見を持つ人々は社会の利益のために罰せられるべきだという「異端裁判」の古い原則が返り咲きしつつある。そうして、そうした人々を監獄にぶち込むことができないならば。職を失わせる、組織的な非難中傷の矢面に立たせる、謝らせる、意見の撤回をさせるようにすべきである。政府で罰せられないなら、私的機関や圧力団体、つまり思想監視の自警団がそれをやるべきであるという。」(同著p14)
  自由主義の原則の元で、人に害を与えるような誤った意見、人の心を傷つけるような差別的発言をどう扱うかについては、また次に述べる事にしたい。
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オーストラリア オーストリア 言論の自由 表現の自由
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