みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

初めはどこから

2017年11月11日 | エゼキエル書

エゼキエル書 45章

 久しぶりに子ども集会。讃美歌を歌い、聖書を暗唱し、お話を聞いた後は、クラフトの時間。きのうは松ぼっくりに色を塗ったり、飾り物をつけたりしました。大人も子どもも夢中で取り組み、たくさんの松ぼっくり飾りができました。一足お先のクリスマスマルクトのようです。

 本章からは新しいイスラエルに割り当てられる相続地についての定めが書いてあります。初めはどこからでしょう。まずは聖なる奉納地、つまり、主にささげられる土地の区分が定められます。初めに新しい神殿に仕えるツァドクの子孫の祭司たちへの割り当て地が、次にその他のレビ人たちへの割り当て地が、それから、イスラエル全部族が共有する土地が定められます。ツァドクの子孫の祭司たちの割り当て地の中央には聖所があります。聖所についての記述が40—43章にありましたね。

 前章の終わり頃に、「わたしが彼らのゆずりである」とのことばがありました。そして、主に仕える者たちに所有地を与えてはならないとの戒めも出されました。けれども、ここでは聖なる奉納地の一部が祭司たちのためのものだとあります。これは祭司が相続地、所有地として持つ土地ではなくて、主にささげられた奉納地を祭司やレビ人たちのものとして割り当てられるということで説明ができます。彼らは、民のささげ物の一部を食べる権利を主によって与えられていましたが、このことについて「みことばの光」は「食糧の不足を補うための神の配慮」であり、「生活を支える民に媚(こ)びることなく、独立性を保って主の働きを遂行するため」だったと説明しています。

 さらに、聖なる奉納地の西と東には、広大な君主のための土地が割り当てられます。ずいぶんと広い地域が割り当てられているのですが、それは、君主が不正を行なって民から搾り取るようなことをしないようにとの配慮に基づくものだと考えられています。それゆえ、君主は正しい測りや物差を用いて、民から搾取してはならないのです。

 ここから得られるのは、初めに神のものを取り分ける(献げる)ということです。お金も時間も、神にささげ、神のために用いることを最優先にとのメッセージが響いてきます。「あまったらしよう」では、神のために取り分けることができないのです。


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